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岡山城「月見櫓特別公開」訪問記

 私のnoteを読んでくださっている方は、城の「特別公開」に関する記事が非常に多いことに気づくと思います。
 これまで、姫路城大坂城明石城備中松山城の特別公開の記事を公開してきました。江戸城の一般参観の記事もこのカテゴリに入るかもしれません。各地の城の特別公開に行ってみるのが私のマイブームなのです。

 昨年11月には、岡山城で重要文化財の「月見櫓」が公開されたため、訪問してきました。


奇跡的に残った櫓

 岡山城は第二次世界大戦中の空襲により、天守をはじめとする多くの建築物が焼失しました。しかし、本丸内の月見櫓と、西丸にあった西手櫓の2つの櫓が奇跡的に残り、重要文化財になっています。

 西手櫓は、岡山城の城址公園(烏城公園)の西方300メートルほどにポツンと残っています。

 裏手の駐車場からはこう見えています。烏城公園は祝日でにぎわっていましたが、こちらはほとんど人がいませんでした。

一階の両脇に「石落とし」が見える

月見櫓の内部に入る

 烏城公園に入ると、さっそく目当ての月見櫓に向かいます。貴重な機会なので、それなりに列ができていました。

 月見櫓は、江戸初期の岡山藩主・池田忠雄が建てた櫓です。戦闘施設ですが、二階には廻廊と欄干がある優美な姿をしています。
 内部も開放的で、居住性が高い建築と評されています。元和元(1615)年に豊臣氏が滅亡し、平和な時代が訪れていたことを反映しています。

 一方、兵を潜ませる「武者隠し」があるなど、しっかりと軍事施設としての顔もあります。

宇喜多時代の石垣

 壮大な近世城郭である岡山城を築いたのは宇喜多秀家です。秀家は関ヶ原の合戦で敗れて改易され、その後は小早川秀秋が入封。小早川氏が無嗣断絶した後は池田氏が入りました。その過程で岡山城にも手が入りましたが、宇喜多時代の痕跡も残っています。

自然石を用いた荒々しいつくり

 本段南東部の高石垣は、宇喜多秀家が慶長2(1597)年までに築いた石垣です。3メートルほど土に埋もれており、本来は15.6メートルもの高さを誇ります。関ヶ原以前に築かれた石垣としては、全国屈指の高さです。

 本段東側には、面白い石垣も見られます。上の写真の中央部に、斜めに線が入っているのがわかるでしょうか。宇喜多秀家が積んだ左の石垣に、後から城主となった小早川秀秋が石を積み足した痕跡です。よく見ると、右側の石の方が小さく丸っこいのがわかります。

 また、中の段には地中に埋もれていた石垣も見られます。宇喜多時代の石垣を発掘・公開したものです。

特徴的な天守の形

 太平洋戦争で焼失した岡山城の天守。現在は鉄筋コンクリートで再建されています。

 この岡山城天守、平面図が「不等辺五角形」をしているという個性的な特徴があります。天守の築造は16世紀末の宇喜多時代で、かなり古い時期の天守です。石垣の構築技術が未発達で、綺麗な方形の天守にするのは困難でした。地形の制約でいびつな形の天守になったのです。

 天守の内部も博物館になっていて面白いですが、是非天守台の周囲も歩いてみましょう。個性的な五角形が観察できます。

 国宝であった天守が失われたのは痛恨ですが、現在も見どころの尽きない名城です。

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