見出し画像

戦争まで引き起こした「イエロー・ジャーナリズム」②~ペニー・プレスの登場

前回はこちら。

 近代の新聞史を扱うなら、まずイギリスの動向に触れることになるだろう。「デイリー・アドバタイザー」が創刊され、広告収入に基づいた新聞経営モデルが登場したのが1730年のことである。1785年に創刊された「デイリー・ユニバーサル・レジスター」は88年に「タイムズ」と改称され、市民の世論を動かし続けることになる。


 もっとも、これらの新聞で情報を得ていたのは知的エリート層に限られた。イギリスでは1712年~1855年まで、新聞を中心とする印刷物に課税する印紙法(Stamp Act)が施行されていた。そのため、大衆向けの廉価な新聞の登場は遅れ、アメリカやフランスの後塵を拝した。

大衆向けの「ペニー・プレス」

 アメリカでの大衆向けメディアの画期と言えるのが「ペニー・プレス(ペニー新聞)」の登場である。1833年にベンジャミン・デイが創刊した「ニューヨーク・サン」がその先駆けだ。当時の一般的な新聞価格だった6セントから1セントに引き下げ(1セント銅貨の愛称が「ペニー」)、街頭で都市住民向けに販売したのである。


 「サン」は、刑事裁判に取材した詳細かつセンセーショナルな事件報道で人気を博した。面白いのは、こうした記事を書く新聞側が、自らの報道姿勢を道徳的に正当化していたことだ。同紙の記者ジョージ・ウィスナーは、すべての犯罪者の実名を報道していたが、これによって人々が犯罪に走るのを抑止できると考えていたのである。

画像1

「ニューヨーク・ヘラルド」の成功

 デイの成功を目にしたジェームズ・ベネットは、1835年に「ニューヨーク・ヘラルド」を創刊。ヘラルド紙は、翌年に起きた「ロビンソン・ジュエット事件」の報道でジャーナリズム史に名を刻むことになった。

 この事件は、無名の売春婦ヘレン・ジュエットが殺害された容疑でリチャード・ロビンソンという男が起訴されるも、最終的に無罪になったというものである。歴史の中に埋もれていくはずの小さな事件だが、ヘラルド紙が詳細に報道したことでニューヨーク市民の注目を浴びた。

 ベネットは、自ら記者として殺害現場に赴いて取材し、ベッドに横たわっていた遺体を描写している。

「表情は穏やかで、激情のあとはなかった。片腕は胸の上にあった……数秒の間記者は、この異常な光景―古代のもっともすぐれた彫刻にも勝る美しい女性の死体―に見惚れていた。彼女を即死させたに違いない右のこめかみの血だらけの恐ろしい切り傷を見て、彼女の忌まわしい運命に呼び返されたのである」(大井愼二「センセーショナリズムを考える―アメリカ・ジャーナリズム史の文脈から―」)


 臨場感のある描写によって、事件報道の頃のヘラルド紙の発行部数は普段の3倍にまで伸びたという。

 こうした大衆紙の報道姿勢は同時代人からも批判を受けた。確かに、ペニー・プレスの記事は大衆の知性よりも情緒に訴える要素が強い。一方、一般庶民に対して社会の矛盾を暴露するなど、社会改良につながる一面もあった。中流階級や労働者階級が民主主義の担い手として自覚し始める時期に、大衆向け報道は受け入れられたのである。

(続きはこちら)


この記事が参加している募集

世界史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?