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ショスタコーヴィチは「交響曲第五番」で二枚舌を用いたのか《3》

前回はこちら。


西側の感情次第で変わる「ショスタコーヴィチ像」

 ショスタコーヴィチが、単にソ連共産党に媚びていただけの作曲家ではなかったことは確かです。しかし、「二枚舌を駆使して権力に抵抗した」作曲者という単純なイメージも、それまでの揺れ戻しに過ぎないと見ることもできます。
 ソ連がアフガニスタンに侵攻し、米ソが「新冷戦」と呼ばれる緊張状態に入ったのは一九七九年のことです。『証言』が論争を巻き起こした頃、西側諸国で共産主義に対する反感が強まっていたことも考慮に入れなければなりません。ショスタコーヴィチが作品にどのような意図を込めていたかについては、いまだ未解明なことが多いのです。

芸術家に課せられた「社会主義リアリズム」

 交響曲第五番の作曲経緯について、もう少し詳しく見てみましょう。
《ムツェンスク郡のマクベス夫人》の作曲が進んでいた一九三二年四月、ソ連共産党中央委員会は、「文学芸術団体の改革」を決議。一九三四年には、第一回ソヴィエト作家大会において、次に掲げる「社会主義リアリズム」の基本的な定義が採択されました。

①現実を、その革命的発展のもとで、正しくかつ歴史的な具体性をもって描写すること。
②その描写は、社会主義の精神に則った思想的改造と教育という課題と結びついていること。

 社会主義リアリズムは、今日ではソ連の文化面での抑圧の象徴とみなされています。意外なことですが、発表すぐの段階では、ショスタコーヴィチをふくむ芸術家・知識人たちに歓迎されました。一九二九年にRAPM(ロシア・プロレタリア音楽家同盟)が結成され、党中央委員会の保護のもとで、イデオロギーに沿わない音楽家を攻撃していました。しかし三二年の決議の結果、RAPMが解散させられるという経緯があったためです。

「マクベス夫人」からの時系列

 一九三四年一月、《マクベス夫人》の初演は大成功をおさめ、二八歳のショスタコーヴィチの名声は頂点に達しました。しかし、同年の一二月にスターリン派の有力政治家キーロフの暗殺事件が発生。スターリンは、この事件を反対派の追い落としのために最大限に利用し、大粛清が幕を開けることになります。
 一九三六年一月、前述した「プラウダ批判」がショスタコーヴィチに衝撃を与えます。それでも、彼はスターリンに釈明の手紙を書き、一縷の望みを抱いて交響曲第四番の作曲を続けていました。同年五月に交響曲第四番は完成し、秋から初演に向けた準備が始まります。しかし一九三六年八月、大量処刑の最初の局面である第一次モスクワ裁判が開かれ、ジノヴィエフやカーメネフらの党幹部らが処刑されました。
 極度の恐怖政治が表面化したことにより、ショスタコーヴィチは交響曲第四番の初演撤回を余儀なくされ、生命を維持するための作品に着手せざるを得なくなったと思われます。「プラウダ批判」から交響曲第五番の作曲は、直結しているわけではなかったのです。

(続く)


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