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奈良時代に"世界"を見た日本人

 交通の便が悪かった古代にも、人々は現代人の想像以上に地域を越えて交流していました。しかし、今回紹介する人物ほど、古代で最も広い範囲を旅した日本人はいないでしょう。

 遣唐使として唐に渡った人物としては、最澄・空海や阿倍仲麻呂などが有名です。平群広成(へぐりのひろなり)という名前はほぼ無名といっていいでしょう。彼こそは、「最も広い世界を見た古代の日本人」でした。

 広成は奈良時代の天平5(733)年、遣唐使に随行して唐に渡りました。広成の席次は、正使・副使に次ぐ三等官です。
 使節の役目を果たした一行は、翌年に唐の蘇州を出航。しかし、4隻の船は嵐に見舞われました。第1船は唐に吹き戻されるも、翌年に種子島に辛うじて漂着。第2船は唐の広州で座礁しますが、新たな船に乗って帰国しました。第4船はそのまま消息を絶ちました。

 広成の乗る第3船は、風に吹き流されてなんと崑崙国(現在のベトナム)に漂着。疫病や盗賊に襲われた結果、一行の大半が死亡しました。生き延びたのは広成を含む4人だけ。彼らは崑崙に抑留されたものの何とか脱出。唐の領域に入り、官の支援で長安に送還されました。

 長安に戻った広成を援助したのは、遣唐使として唐に渡り、玄宗に仕えた阿倍仲麻呂でした。当時、日本と新羅の関係が悪化していたため、中国の北東に位置する渤海国(現在だとロシアのあたり)を経由して帰国することになります。

 玄宗の許しを得た広成は渤海に渡り、渤海の使節団とともに日本海を渡りました。2隻の船のうち一隻が沈むという困難な旅でしたが、広成は運よく日本にたどり着きます。

 広成が帰国したのは天平11(739)年。実に六年ぶりに祖国の土を踏んだことになります。

 彼はその後、異国の長い旅で得た幅広い識見を生かして官界で活躍。天平勝宝5(753)年に死去しました。

 中国、東南アジア、北東アジアを自らの目で見るという、8世紀の日本人としては稀有な経験をした人物です。


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