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8月15日「以降」の戦争

 1945年(昭和20年)8月14日、大日本帝国はポツダム宣言の受諾を決定し、翌日に昭和天皇による「玉音放送」が流されました。我が国では、この日を終戦記念日としています。

 しかし、8月15日をもってすべての日本兵が戦闘を終えられたわけではありません。

ソ連との戦闘

 1945年8月9日、ソ連は日ソ中立条約を破棄して対日参戦し、まず満州に侵攻しました。日本政府がポツダム宣言を受諾し、停戦を指示した後もソ連の攻撃は続きました。

 千島列島の北端にあたる占守島で戦いが起きたのは8月18日。北方四島も9月4日までに占領されました。ちなみに、日本の降伏文書調印は9月2日です。また、約60万人の日本兵や民間人がソ連に抑留され、シベリアや中央アジアなどで強制労働に従事させられました(シベリア抑留)。

東南アジアの残留日本兵

 南方では、日本の敗戦を認められなかったり、正確な情報が届かなかったりして抵抗を続ける日本兵が見られました。密林の多い地勢が、日本兵の潜伏を容易にした面もあります。

 ベトナムやインドネシアでは、日本人があえて残留し、現地の独立運動に協力したケースもあります。一方、密林に潜伏した日本兵が、現地人に対して略奪や殺人などの被害を与えたことも忘れるべきではありません。

 横井庄一は1972年にグアムで、小野田寛郎は1974年にフィリピンで発見されました。1974年、インドネシアで発見された中村輝夫は、台湾出身の日本兵でした。

国共内戦に巻き込まれた日本兵

 これまで書いた内容は知っている人も多いでしょうが、中国の残留日本軍問題についてはあまり知られていません。
 
 20世紀前半の中国では、国民党と共産党の激しい内戦が繰り広げられていました。しかし、日本の侵攻に対して両党は協力し(国共合作)、抗日民族統一戦線が成立します。しかし、日本が降伏すると共通の敵は失われ、内戦が再燃しました。

 中国・山西省の軍閥(軍事力を背景とした有力者)で、国民党の司令官だった閻錫山えんしゃくざんは、共産党との戦いに備えて兵力を増強しようとしました。そこで、戦いを終えた日本軍の一部を吸収しようとしたのです。

 その結果、軍人約2600人、民間人約900人の計3500人の日本人が山西省に残留し、国民党に協力しました(※1)。これを「山西省残留日本軍問題」と言います。

 その後、1949年の内戦終結まで、日本兵たちは人民解放軍との戦いに従事しました。運よく帰国できた者もいましたが、550名が戦死し、700人以上が人民解放軍の捕虜となりました(※2)。

 公式には、彼らは志願兵として国民党に協力したことになっています。しかし、実態としては軍の上層部の命令であり、拒否できる状況ではなかったとする証言もあります(※3)。

※1~3……下記のオーラル・ヒストリーを参照。

 また、国民党ではなく共産党に協力した日本軍関係者もいました。陸軍少佐であった林弥一郎は、部下の生活保障を交換条件として、共産党軍のパイロット養成に協力しています。

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 このように見ていくと、決して少なくない数の日本人が、1945年8月15日以降も長い「戦争」を戦わなくてはならなかったことがわかります。
 多くの人の運命を狂わせた先の大戦の悲劇を、風化させずに伝えていく必要があります。

 



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