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外側から見る?(『清少納言を求めて、フィンランドから京都へ Asioita jotka saavat sydämen lyömään nopeammin』)

姉から本の推薦を受けた。今まで本の話はたくさんしてきたが、姉が”私に読んでほしい”と薦めることは初めてだったため興味が沸いた。姉にそこまで言わせた何かがこの本にあるのだろうと思い、その「何か」を知りたくて読み始めた。

<あらすじ>
フィンランドの広告会社のコピーライターとして働くミア・カンキマキは、代わりばえのする気配のない自分の人生に心底うんざりし、一念発起、長期休暇制度を利用し、1年間会社を休むことに決めた。休暇中、フィンランドから日本に渡り、かつて大学の文学講座で惹かれた清少納言『枕草子』について調べ、書くことを決意する。1年間の間、清少納言について向き合い、考え、そこで彼女はどう思ったのか。その旅程をまとめた1冊。

https://bunshun.jp/articles/-/48807
に加筆

著者のミア・カンキマキ(以下ミア)は清少納言のことを「セイ」とよび、彼女と交流を試みる。清少納言が残した言葉を文中あちこちに差し込んだり(下の言葉は私が文中で一番好きな清少納言の言葉)

[清少納言の言葉]
桜の美しく咲いている長い枝を一本折って、大きな瓶に挿してあるのを見るのは楽しい。そばにおしゃべりする人が座っているなら、ことさら喜ばしい。

『清少納言を求めて、フィンランドから京都へ Asioita jotka saavat sydämen lyömään nopeammin』p380,l12-13

生活の中でたびたびセイに話しかけたりする。

「あなたと私が住んでいる場所は、まるで夜と昼のように違うのは、もちろん何となくわかる。時間的にも、地理的にも、文化的にだって、お互いとことん離れている。」

『清少納言を求めて、フィンランドから京都へ Asioita jotka saavat sydämen lyömään nopeammin』

そんな気の遠くなるほどお互いが違うのに、ミアは清少納言とポットにお茶を沸かしてティーパーティーを2人でしているような近さで話しているようだ。ミアが清少納言に話しかけてみたように、私もミア・カンキマキに声をかけてみたくなった。なので本文の文章形態に乗っ取って、この本の感想を書くことにした。

To ミア

ミア、あなたの本を読んでいてこの言葉が浮かんだ。

「巨人の肩に乗る」

12世紀フランスの哲学者、ベルナールの言葉だ。
歴史の中で人類がやってきたことの積み重ねは巨人のようなもので、私たちはその巨人の肩の上から見渡さない限り進化は望めないという意味だ。

ミア、あなたは「枕草子」を日本語の情報ではなく英語(またはフィンランド語)の情報を整理し構築する。日本で義務教育を受ける過程で無理やり暗記させられたものではなく(私はそれも大して覚えてない。大抵「春はあけぼの、やうやう白くなりゆく」まで)、英語(またはフィンランド語)をもとに自分の枕草子像を構築している。アヴィン・モリスが英語に翻訳した枕草子に、英語(又はフィンランド語)で書かれた研究書で。私は枕草子を誰がいつ英語に訳したかなんて知らなかった。平安時代、清少納言が活躍した時代、その当時ヨーロッパがどのような状況かなんて気にも留めた事がなかった。ヴァージニア・ウルフと平安時代の文学を繋げて考えたこともなかったし(それにしてもウルフがVogueに紫式部のことを書いていた事実を知った時は感動した)枕草子のことを英語で”PillowBook"というなんて知らなかった。

ミア、この本からあなたとの共通点を見つけることができて嬉しかった。それは、あなたが母国のフィンランドではない国の文化に関心を持ち、考察をしているということ。私も母国の日本ではない韓国のカルチャーに興味がある。日々本を読んで、考えて、時々文章を書いてを繰り返している。幸いなことに日本語と韓国語は語学的距離が近くて習得がしやすかったため韓国語で情報収集をしているけれど、いつも不安になる。私の母国語は韓国語ではないから私の考察は「正解」から外れたものではないかと。
けれど、ミア。あなたの文章を読んで勇気を得た。

日本語で書かれた枕草子を日本語ではない言語、あなたの場合は英語(フィンランド語)での情報へのアクセスは日本語より格段に悪いのは事実。市立図書館に行ったら英語の史料は書庫に保管されていて別に予約しないといけなかった。その時の苦労については書いているけれど、日本語が理解してないと100%理解出来ないかもしれないとは書いていない。私はいつも間違っていないか、自分が韓国人じゃないからどこか重大なミスをしているのではないかとヤキモキしているのにあなたはそうじゃない。

あなたの文章を8割ぐらい読んだ時に私は「枕草子」を”外”の世界から見て新鮮だったという感想を抱いた。今思えば”外”っていう表現はすごく差別的だった。あなたとセイの2人の対話を勝手に私が辺境に追いやってしまった。ただあなたと私が生きてきた環境が大きく違うから、あなたの視点が私にとって新鮮だったといえばよかったのに。そう、視点が違うだけで別に”外”ではない。

ミア、私が犯した間違いは日常茶飯事で発生している。2022年末に日本でヒットしたドラマ「Silent」の脚本家生江美久さんがテレビ番組でドラマの海外配信について、「もし海外で翻訳されて出たら、この(セリフの)意味って海外の人には伝わらないんだっていう悲しさがちょっとある」「私は日本のドラマとして日本語の良さとか、日本語の面白さ、ある意味、残酷さみたいなものを書きたいから、ぶっちゃけ海外って興味ない」「日本人に見てほしい。日本人っていうか、日本語がわかる人に見てほしい」と発言して話題になった(悪い意味でであってほしい)。日本語で書かれたからといってその作品の所有権を日本語の母語話者、もしくはその日本語を理解している人にあるという考えは傲慢だ。

母語は選択するものではない。国籍も選択するものでもない。
「理解したいことが自分の国籍や母語と異なるからといって、どうして後ろめたさを感じなければいけないの?」
とでも言うようにあなたはセイを知ることに全力を注いだ。京都中を直接歩いて回ってセイを理解することに努めた。あなたが1000年前の、それもあなたの国籍フィンランドから遠く離れた日本のセイに感銘を受けて理解しようと持てる力を全て使って取り組んだように、私も自分の国籍とは違う国の文化を私の持てる力を最大限に使って取り組みたい。

P.S あなたの本を読み終わったのは夜の2時だった。読み終わった後に夜が明けたら図書館で「枕草子」を借りようと決意した。
この文章を書き終わって、ご飯を食べたら図書館にいってくる。


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