見出し画像

じぶんのクセをすきになる【1-6】ひとりで生きていけると勘違いしていく僕たち



 じぶんのクセって、どうやったら好きになれるんでしょう?僕は嫌いなクセだらけです。朝起きられない自分、仕事で毎回失敗をしてしまう自分、大切な人の期待に応えられない自分…。「こんな自分になりたい」なんて思うんだけど、いつもそれを邪魔してくるようなクセばっかり。嫌になっちゃいます。

 でも、実はそのあなたのクセ、唯一無二の才能に紐付いています。あなたの身体の声を、心の声を、きいてみませんか。そこにきっと、答えはあります。この本を読み終えたらきっと、読む前よりも自分のことがもっと好きになっているはずです。

ーー内容は、クセを受け入れて生きること、じぶんの才能の知り方、個性の感じ方、自然体な生き方、深層心理学、そんな感じ。

 何とか書籍にできるまで、無料で公開し続けます。いや、本当は無料じゃありません。お金を払う前に内容を読めるようにしておきます。

 この原稿を読んで下さった方は、書籍代がわりに下記の僕がやってる個人会社の銀行口座へ1,650円(1,500円+税)を振込、またはこの記事下部のnoteのサポートから払っていってください。でも、読んでも払わなくてもいいです。そうしたら、後から気が向いたときに払ってください。1ヶ月後でも、1年後でも、10年後でもいいです。料理をぱくっと食べてもらえただけで作った側は嬉しかったりします。その代わり、後から払うかもしれません的な暗号として、そっとスキを付けていってやってください。

-----------------------------
▽ 書籍代振込先
PayPay銀行
005 ビジネス営業部
3025641
普通預金
カ)シアル
-----------------------------

 お金をもらえると僕のやる気が出ます。誰かが読んで、何かを感じてくれたことが伝わります。返ってきて、循環します。お金を支払った人と、それを受け取った人の二人の環に、新しい流れが巡ります。そして僕がまた書きます。いや、本当は払ってくれなくてもたぶん僕は書き続けます。でも、やる気が出るのは嬉しいです。


じぶんのクセをすきになる

▽ 目次(原稿が進むほど詳細になっていきます)
1. クセと才能って、何のために生まれたんだ?
 ・みんな違ってみんないい。の裏返し
 ・クセの正体は『自然体の偏り』
 ・お金を受け取るクセ、受け取らないクセ
 ・クセとダーウィン
 ・クセの東洋医学。あとちょっと体癖について
 ・一人で生きていけると勘違いしていく僕たち
 ・クセと才能は「ある・ない」の世界にはいない
 ・才能と技術の違い
 ・一人で生きることを追求する社会で、なぜ人は、人と共に生きるのか
2. クセを通して才能を聴きとる
 ・痛みを思い出す
 ・無意識の信念を自覚する
 ・処世術の発動を気付いてあげる
 ・反射神経で行動するのを辞めてみる
3. 偏見をたくさん持ったら、自分のことを好きになれる
 ・偏見は、偏見でしか壊せない
 ・ユング心理学
 ・メンタルモデル
 ・MBTI
 ・体癖



ひとりで生きていけると勘違いしていく僕たち


 今日は、前回の続きとして「クセを持つ僕たちが他者と生きる理由」について書いていこうと思います。
 今日こそ書けたらいいな。前回はその前段で終わっちゃいました。でも、それでもいいんです。もっとそのときに大事だと感じることがあったら、それを書く。その方が僕はすごくいい文章が書けるからです。それも僕のクセなんですね。治せないので、受け入れて一緒に生きていきましょう。

 さて、「他者と共に生きる」ことを考えるにあたってまず先に考えておきたいことがあります。それは「人は一人で生きられるのか?」ということについてです。
 最近、日本では結婚せずに一生を終える人も増えているらしいですね。未婚率も上がっています。生活を共にする人と結婚している必要なんて別にないと思いますが、一人で生きている人が増えているということの一つの指標として捉えてみてもいいかもしれません。
 実感としても、都市生活では特に共同で誰かと生活をするということのハードルがどんどんと上がっているような気がします。みんな一人でも不便なく生活できてしまいますし、恋人がいなければ、あとは友人とのシェアハウスや、実家に住んでいるとか、共同生活をする場面って、それくらいでしょうか?そう考えてみると、共同生活者のバリエーションってものすごく少ないんですね。もっと色々あっていいような気もします。みんなの色々な共同生活者の在り方、きいてみたいですね。面白い共同生活してる人がいたらおしえてほしいなぁ。
 そして一人で生きていても、誰とも瞬時に自由に繋がることができるようになりました。常にSNSでは誰かが活動していますし、友人にLINEすればすぐに返ってきますし、オンラインゲームだってチャットしながらできちゃいます。外が真っ暗な時間になっても、そんなふうにしてどんな友人とも話ができちゃうなんて、江戸時代から考えたらびっくり仰天ですね。寂しい人なんていなくなっちゃうんじゃないの、って思っちゃうかもしれません。
 でも僕たちは今、とっても寂しさを感じているような気がします。寂しさを感じている人は減っていない(むしろ増えている?)ように思えてしまいます。SNSでどれだけ友人とつながっても、結局は一人です。いや、それって本当は当たり前のことなんです。人間生まれた時と、死ぬときは必ず一人です。そもそもが一人として独立した存在なんです。でもそのことが怖いんですね。一人であることに対して怖さを感じる仕組み自体は昔から変わっていないんじゃないかと思っているんですが、今の時代との違いは、その恐怖を瞬時に解決して抑え込むことができてしまう、ということなんじゃないでしょうか。
 一人で寂しさを感じそうになったとき。その瞬間に誰かとつながるアクションを即座にとれてしまう、ということです。一人で布団に入ったとき、寂しさを感じる前に、音楽をきいたり、YouTubeを見たり、SNSを見ながら寝るってことができるわけです。寝るときにスマホをベッドの横に置いている人は、ぜひ一度スマホを寝室に持っていかずに、部屋を真っ暗にして何もせずにベッドに入ってみてください。とっても静かで、とっても一人です。すっごく寂しくなってくる人もいるかもしれません。もしかしたら、その日にとんでもなく美味しいものを食べた人は、思い出して嬉しくなっちゃう人もいるかもしれません。でも、現代ではそんなふうにして、一人の寂しさを(悲しさ、嬉しさ、喜び、何でもいいんですが)感じるようなタイミングってすごく少なくなっているような気がします。
 みんな、一人になるのが怖いんですね。それはみんな一緒です。人間みんな、つながりがなくなっていくことに恐怖を持つように本能的になっているんじゃないかなと思います。それは、人間が一人で生きていけないからですね。人間は群れをつくって生存するタイプの動物ですから。一人になることは、ずっと遥か昔から死を意味していたわけです。だから、一人になることの恐怖はDNAレベルで刻まれているわけです。恐怖とは、それを避けよという感情から脳への命令です。警告です。恐怖を覚えるから、僕たちはSNSを咄嗟に見るわけです。SNSを見ることによって、一人ではなくつながりがある、ということを実感せよと生存本能がアラートを出しているわけです。脅しているわけです。だから怖いんです。だから寂しくなるんです。

 最初の問いに戻りましょう。「人は一人で生きられるのか?」という問いの答えは、先ほどの人間の本能からすれば、答えはNOということになります。
 でも、僕たち実際一人で生きていけてるじゃん、って思ったりもしませんか?別に一人暮らしで、親にも頼らず、実質的に友人に頼っているわけでもなく、生きています。もう僕も30歳ですから、それくらいの年齢になったらさすがに「自立していますよ」と言えるような人も増えているんじゃないですか?誰かに依存しなくても生きていけるんです、って言えない人っていますか?どうなんでしょうか。どれくらいいるんでしょうか。
 ですが、それって本当に「一人で生きている」って言えるんでしょうか?都市生活は、経済性を大きくしていくことが得意な仕組みで動いていると思います。どういうことかというと、「お金さえ払えば一人で生きていくことができる仕組み」が整っている、ということです。別に料理がつくれなくたって、外食すればご飯を食べられます。外に出なくたってUberEatsを頼めばご飯が食べられます。掃除だって、たまに業者を呼んだら部屋をピカピカにしてくれます。実際にスタジアムに見に行かなくても、家でサッカーだって見られます。
 ですが、お金を払うことは実は「自立度」の指標ではなく「依存度」の指標なんじゃないか、と思ったことがありました。
 どういうことかというと、人間が行なっている「お金を払う」という行為の大体が、自分の生活の一部を切り出して、他者に託すということになってしまっているからです。吉野家に行けば、料理をするという生活の動作を、お金を払って他者に託せるわけです。もっと言うと、牛を育てることと、お米を育てるということを、僕はせずに済むわけです。あぁ、お金を持っていてよかったですね。明日の朝早くに起きて牧場に出て、牛の糞をとってあげなくても済みそうです。
 そして都市生活での経済の強みは、そこに「匿名性」を出すことができるという点にあるのではないかと思っています。
 匿名性というのは、お金を払う相手のことを全然知らなくても済んでしまう、ということです。レストランに行って、料理をつくってもらう人の生い立ちとか、家族関係とか、最近の悩みとか、今日の気分はどうとか、そういうことを全く知らないままに、自分の生活の一部を預けられるということです。すごいことですね。これがお金の、ある一つの面における力なんですね。
 何が言いたいかというと、東京でたくさん稼げるようになって経済的に自立して豊かになっている人は、より多くの匿名的な存在への生活の依存度を増やしている、ということなんです。託す相手が匿名で、どれだけでも代えがきくような仕組みを構築しているので、もはや他者に依存しているというようなことさえ忘れられるようにできているんですね。すっごく巧妙なお金と経済の仕組みですね。面白いです。

 そして依存している相手は、人間だけではないんですね。命は、他の全ての命に依存して生きています。それは当たり前のことなんです。自然環境の中で、僕たちはその流れのひとつとして生きているということです。
 僕たちが生きている環境において、小麦が絶滅してしまったら、大変なことになるかもしれません。それでも人間はまだ、死なないかもしれませんね。でも、植物自体が絶滅したら、きっと人間も一緒に絶滅します。というか地球の大半の生命が死んでしまうかもしれません。このように、僕たちは常に、全ての命に依存して生きているわけです。色々なものを受け取りまくって、なんとか生存して自分の命が今ここにひとつあるわけです。
 じゃあ、お金関係ないじゃん。みんな依存してんじゃん。という話になるわけですが、お金の怖さは、その「依存していることを忘れさせる」というところにあるということです。僕の命は他の命に依存していないです、自立しています、と錯覚させてしまうんですね。
 だから、一人になっていくんです。都市生活でお金を稼ぐほどに、他者(自分以外の自然にある全ての命)に依存していることを忘れていくから、一人で生きているような気がしてくるんです。だから寂しくなる。そして一人でないことを確認しようとしてしまう。
 でも、本当はそんなことなかったんですね。一人じゃないことを実感したいのであれば、すでに自分の命が今も受け取りまくっているさまざまな他者の命に思いを馳せるだけでよかったんです。思い出してあげるだけでよかったんです。
 僕は今原稿を書きながらコーヒーを飲んでいるので、コーヒーの一粒一粒の命に思いを馳せられるわけです。農家さんとか運んできてくれた人とか焙煎してくれた人とか、そのルートにいる人間だけじゃないですよ。コーヒーの実には、二つの大きな種子が入っているわけで、その二つの種子を焼いて砕いて飲ませてもらっているわけですから、この一杯で本当にいくつもの命を踏みにじって僕は優雅にこの香りを楽しんでいるわけです。いや、踏みにじっているわけではないです。本当に愛を持って受け取っているんです。命が他の命を奪うことなんて、自然の中で当たり前です。当たり前の上で、生きたいと思っているということです。他の命を受け取りながら、生きているということを実感するわけです。このコーヒーを僕に受け取らせてくれた人に、コーヒーの果実と樹木に、そしてその樹木を育てた土の中にいる無数の命とのつながりを感じるわけです。
 そういうことができていたら、一人だなぁ、なんて感じて寂しくなるようなことはないわけです。だってすでに、もう感じても感じきれないほど他者から何かを受け取って生きているわけですから。それを忘れさせてくるような存在、一人で生きていると錯覚させてくるような存在であるお金と、うまく付き合いたいわけですね。付き合える方法はないかなって、みんなのクセを通して一緒に考えていきたいですわけです。

 さて今日は、「人は一人でも生きられるのか?」ということについて書いてきました。今日はちょっと、クセ成分少なめでしたね。でも大丈夫です。必ずクセの話として回収されてしまいます。少なくともこの本はそういうふうにできています。すごいですね。
 今いくつかの節を通して「クセを持つ僕たちが、他者と共に生きること」について書こうとしているわけですが、また今日も結論までは辿り着けませんでしたね。ということは、これは多分、すっごく大きなトピックなんだと思います。大事な考え事なんだと思います。
 ということで、次回も引き続き「他者と共に生きる」ことについて書いていけたらなと思っています。では。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?