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50歳の50曲+2 セルフライナーノーツ編 1990-99

自分の人生50年を振り返るプレイリストを公開したので、さらにそのライナーノーツまで書いてみたの「続き」です。

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(たわし)を応援したいと思う方へ
これまた人生はじめて amazonほしいものリストも作ってみました。
調子に乗ってすみません。
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1990年 「希望の轍」 サザンオールスターズ

今でこそおよそ体重150kgの巨体で地球に迷惑をかけ続けるecoと程遠い生き物になってしまった(たわし)。鏡を見れば、本当に生きててすみませんという気持ちになるが、最初からこんなに大きかったわけではなく、生まれたときは2100gの未熟児で、このくらいの時期はすでにデブではあったもののまだ可愛げがあるレベル。何を勘違いしていたのか、このあたりからしばらくいわゆる青い春に突入する。

今やサザンの代表的な一曲に数えられるこの曲だが、もともとはこの年公開された桑田佳祐さんが監督した映画「稲村ジェーン」のサントラ盤に収められていた一曲で、実は厳密にはサザンオールスターズの曲ではない。

この映画、当時大ヒットして、もちろん(たわし)も女の子を誘って、今の渋谷TSUTAYAのあるQ FRONTビルの場所にあった「渋谷宝塚」に見に行った記憶はあるのだが、礼ちゃんを前にした黒板純のごとく、「ドキドキしていた」ためか映画の内容は断片的にしか覚えていない。

当時、ドラマというより全編がPVのようだと一部評論家などから酷評されたせいなのか、長い間DVD/BDなどの円盤化や配信などされず、近年になってようやく解禁された。改めてちゃんと見直してみたいと思う。

1991年 「ラブストーリーは突然に」 小田和正

15歳上の兄のレコードを勝手に聞き漁ったことからはじまった(たわし)の音楽人生であるが、そもそもその兄のセンスはそんなに悪くなかったのだなと今更ながら感謝している。だって家にあるレコードが「左とん平のヘイユーブルース」とか「円楽のプレイボーイ講座」とかばかりだったら、きっと今のような人間性や仕事にはならなかったはずだから・・(兄は平凡な公務員として先日、定年を迎えました。)

中でもオフコースとの出会いには本当に感謝している。家にあった一枚の中に「ワインの匂い」(1975)があったのだ。まだ小田さんの歌詞の内容まではわからなかったが、その美しい声、ヤスさんとのハーモニー、メロディーに引き込まれてしまった。

以来、オフコースは(たわし)の人生と共にあった。そして、平成になったと同時に解散し、小田さんは一人になった。

その一人になった小田さんがソングライターの時代、J-POPの時代を切り開くビックヒットを放ったのがドラマ「東京ラブストーリー」の主題歌として作られたこの曲である。

「東京ラブストーリー」はトレンディドラマブームを巻き起こし、再放送やレンタルビデオなどで拡散して社会現象ともなったが、このドラマ成功の一因にこの曲の秀逸さと、また劇中での使われ方があったと思う。それまでの主題歌というのは、オープニングなりエンディングなりの決まった位置で、クレジットとともに流れる「だけ」の存在だったのが、「東京ラブストーリー」以降は、話の途中、劇中のハイライトなど自由な位置で流れることも増えた。特に天才ギタリスト 佐橋佳幸さんによるイントロが印象的であのイントロもまた90年代を切り開く音だったように思う。

ちなみに織田裕二演じた永尾完治が住んでいるマンションがある場所として設定されていたのが、品川区戸越だったのだが、そのことが誇らしかったのか、東急大井町線の戸越公園駅の商店街では、毎日夕方になるとこの曲を流し続けている。今、どれだけの人がそんな由来を覚えてるのか謎だけど

1992年 「もう恋なんてしない」 槇原敬之

この頃からJ-POPという言葉が浸透し、CDがバカスカと売れるようになった。100万枚単位のヒット曲=ミリオンヒットも珍しくない時代がやってきたのだ。実は世間的にはバブル経済が弾け、その後、30年も「失われた時代」と呼ばれる不況低迷期へと突入していたのだが、当時はいま言われるほどにはその実感がなく、むしろレコード会社にとってはバブルは今はじまったばかりだ!!という感じだったと思う。

そして、前年に「どんなときも。」でブレイクしたマッキーが、満を持してリリースしたのがこの曲と、この曲を収めたアルバム「君は僕の宝物」である。歌詞の物語性や彼の紡ぐメロディーのどれもが好きで、CDなのに擦り切れるほど聞いた一枚。おかげでいまだに全曲歌詞カードをみずに歌える自信がある。

1993年 「ぼくらが旅に出る理由」 小沢健二

(たわし)は高校生の頃から通学ルートに、渋谷が入っていたこともあり、時間さえあれば渋谷で降りて、本屋とレコード屋巡りをするのが日課となっていた。タワーレコードに加えて、今のドン・キホーテ渋谷店の位置に新しく外資系の「HMV」という大型ショップが出来て、試聴機が置かれたり、それまでにない音楽体験ができるようになったからだ。

そんな中で後に「渋谷系」と呼ばれるようなアーティストや音楽とも出会っていた。フリッパーズギター、ピチカートファイヴ、オリジナルラブ他

ブリッジに至ってはまだカジくんが某レコード屋でバイト店員をしていた姿を覚えている。

「渋谷系」をふりかえって、やはり決定的な名作だと今も感じるのが、小沢健二のセカンドアルバム「LIFE」である。正確には翌年1994年リリースなのだが、93年からちょいちょいシングルでリリースされたものがまとめられており、ある意味のベスト的な作品でもあった。

スカパラやスチャダラパーなどのお友達の力を借りながら、シニカルな歌詞と世界をポップな表現で包んだバランス感覚は素晴らしく、これまた擦り切れるほど聞いた。そして今もよく思い出すのがこの曲である。

1994年 「空も飛べるはず」  スピッツ

今も根強い人気を保つスピッツだが、バンドブーム期にデビューした頃は、あまり注目されておらず、この曲を収録したアルバム「空の飛び方」あたりからやっと認知されてきたという印象がある。(翌年のシングル「ロビンソン」でブレイク)

この曲自体もリリース一年半後にフジテレビのドラマ「白線流し」の主題歌として使われたことで、むしろそちらで知ったという人の方が多いだろう。

(たわし)はドラマは人並に観ているが、いわゆるロケ地探訪などまでするようなハマり方をすることは滅多にない。が、「白線流し」は素直に感動してしまって、舞台となった長野県松本市、登場人物たちの通う松本北高校としてロケ地となった松商学園高校、白線を流した薄川の河原、さらには長瀬智也演じる大河内 渉の父親がかつて勤務していたという天文台という設定の小川天文台まで廻ってしまった。まだデジカメではなく、フィルムの一眼レフで収めたロケ地巡り写真はどこかに残っているはずだ。

1995年 「Hello,Again 昔からある場所」  MY LITTLE LOVER

この年は本当にいろいろあった一年だった。

年初に #阪神淡路大震災  が発生し、行方不明の友人を訪ねて神戸まで出向き、結果ボランティアをしながら過ごしたり、3月には #地下鉄サリン事件 。友人たちと朝まで過ごして、地下鉄経由で帰宅したら、ついさっき乗っていた地下鉄にサリンがまかれ、たくさんの傷病者が出ているというニュースを見てゾっとしたり

景気も含めて、世の中がどんどん壊れていっていることを少しずつ感じるようになってきたのを覚えている。しかし、まだ学生で、若者だった(たわし)らはカラオケだったり、ディスコだったり、クラブだったりで遊んでいたし、CDバブルも続いていた。いま思えば、すぐそこに迫っていた冬の時代を「見ないように」して、時間稼ぎしていたのかもしれない。

1996年  「田園」  玉置浩二

(たわし)が本格的に働き始めたのがこの年

その数年前からライターとして原稿をかかせてもらったり、ADや作家見習いとしていくつかのラジオ・テレビの現場でお仕事をさせてもらってはいたが、所詮は学生バイトの領域であった。が、前年に書いた企画書がたまたま偉い人の目に止まり、予算も、規模もかなり大きなそのプロジェクトを任されることになり、流されるように制作会社に入社した。

いきなりチーフディレクターという肩書きを与えられたものの、きちんとした教育もなく、いきなり社会に放り出されて、すべて現場で見様見真似で覚えろという感じだった。ま、(たわし)に関わらず、当時はそんなもんだったのだと思う。

毎日これでいいのか? 自問自答しながら、毎週毎日やってくる放送に向けて番組に取り組む日々と「生きていくんだ それでいいんだ」というこの曲の歌詞がシンクロしてくる。

1997年  「魂のルフラン」  高橋洋子

1990年からインターネットのご先祖、パソコン通信をはじめた(たわし)

今ではアニメや漫画,サブカルチャーを得意とする放送作家などとみられているが、この頃はまだそれほどたいしたヲタクでもなかった。が、当時のネットは今の何十倍も「濃い」人たちがいっぱいだったので、彼らの話題についていこうとするだけで自然と鍛え上げられてしまったのである。

エヴァもそんな中で知った一本。始まる前からやたらと盛り上がっていたので、タイトルだけは覚えていたが、放送は平日の夕方だったので、リアタイ視聴はできなかった。

が、たまたま風邪で寝込んで休んだ日に初めてみることができた。

それがよりにもよって、第弐拾話「心のかたち、ひとのかたち」であった。

あまりに難解で、テレビで放送していいのかこれ?というシーンの連続に、風邪で弱っていた頭はやられてしまい、治ったあと速攻でビデオで追っかけ視聴した頃にはすっかりハマっていたのは言うまでもない。

なので完結編となる劇場版の制作・公開にはおおいに期待し、なんと劇場に5回も見に行ったのだが、いまだに正解が何かはわからない。

1998年 「夜空のムコウ」   川村結花

ご存知、全盛期だったSMAPのミリオンヒット曲。
SMAP版をご紹介したいのだが、旧ジャニーズ事務所は「嵐」と「キスマイ」の一部楽曲以外はサブスクに配信しておらず、SMAPは対象外のため断念せざるを得なく、作詞を担当された川村 結花さんによるセルフカバー版を紹介する。作曲のスガシカオさんのセルフカバーは有名だが、(たわし)はこちらの方が気にいっている。

SMAPは、イチローなどと並んで(たわし)の世代の最大のスーパースタァだ。彼らに共通しているのは決して(上の世代に比べて)恵まれているとはいえない環境から努力や試行錯誤を重ねた末にその地位を手に入れたこと。そして、けっして偉ぶらないことだと思う。SMAPとは何度かお仕事もさせていただいたが、本当に気配りの人たち。それでいてメンバーが揃い、カメラが回っているときには神々しいまでのオーラを放っている。尊敬しているし、彼らと同じ時代を生きてこれたことを誇りに思う。

ただひとつ残念なのは、上の世代がたくさんいたせいで、その実績を正当に評価されてこなかったこと

とはいえ、(たわし)らもこれからその上の世代になり、やがては老害になりかねないわけで・・その過ちを繰り返さないようにだけはしたい。

1999年  「First Love」  宇多田ヒカル

この頃、とあるFMラジオ局で日曜の朝のワイド番組のディレクターをやらせてもらっていた。元々は当時50手前の経験豊富な先輩のKさんがディレクターをやっていた番組なのだが、お前は面白い!!と、とても可愛がってくださり、会えばご馳走になる仲になっていた。そんな中でそろそろ朝の現場が辛いから後継者にバトンを渡したいと(たわし)を指名してくださったのだ。

パーソナリティは、のちにTOKYOFM で活躍する小山ジャネット愛子さん、日曜の朝をエンタメ情報を交えながら、GoodMusicを届けよう!! という趣向の3時間生放送だった。

KさんはいくつものFM局で選曲や構成も引き受ける作家でもあり、自宅とは別に数万枚のレコード・CDを保存し、選曲作業を行うための部屋を借りているほどの「大家」

(たわし)もそれなりに詳しいつもりはありつつ、演歌やジャズなど全然知らない・弱いジャンルも多々あり、音楽をメインにした番組をやっていくにはまだまだ勉強不足と感じていたので、むしろKさんの知識やセンスに学びたいと、まずはADからとつかせてもらった。そしてKさんからは実際に多くのことを学ばせてもらい、またたくさんの人に紹介してもらった。そのことは今も財産になっている。

そんなある日のこと、突然言われたのが「お前は藤圭子を知っているか?」
「たしか、夢は夜ひらく の人ですよね?」と返すと、「実はまだ中学生の娘がいるんだけど、凄いんだよ。ちょっと聞いてみろ」と言われて、ある曲を再生された。

それはお父様でプロデューサーだった宇多田照實氏がデビュー前に作って一部に配ったデモ音源だった。

「え?これが中学生!? ウソでしょ。」
程なく、その驚きは日本中に伝播することになった。

ちなみにKさんは、この年の秋、渋谷の109のトイレで脳溢血で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。数日前、生放送の朝に会ったときも寝ずに3時間分の選曲を持ってきては「寝不足だ」、「頭が痛い」と言っていたが、いつもの口癖みたいな感じで気に留めなかった。

あのとき真剣に止めていたら、「今日はあと全部やるから帰って寝てください」とどうして言えなかったのか?今も悔やんでいる。

なにより、もっともっと教えてほしいことがあった。

働き盛り、まだまだと思うような年齢でも、健康に気を付けないと、こんなことになってしまうこともある。

それから何人もの仲間、同僚が若くして戦死していく姿を見送ることになるのだが、なによりも健康の大事さを意識した最初だったと思う。そして奇しくも今年、あのときのKさんの年を追い越そうとしている。

改めてこれがKさんの最大にして,最後の教えだったとかみしめている。

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