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50歳の50曲+2 セルフライナーノーツ編 2000-2005

自分の人生50年を振り返るプレイリストを公開したので、さらにそのライナーノーツまで書いてみたの「続き」です。

1973-99年までは10年単位で書いていましたが、文量がどんどん増えていくので、少しペースを落とします。ご容赦ください。

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(たわし)を応援したいと思う方へ
これまた人生はじめて amazonほしいものリストも作ってみました。
調子に乗ってすみません。
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2000年 「さよならバス」 ゆず

1996年に制作会社に入り、「放送」の仕事に関わることになった(たわし)

その原点は幼い頃、家に一人でいる中で15才年上の兄の部屋に忍び込んで、勝手にステレオをいじり、レコードやラジオを聴く「ひとり遊び」だったと思う。徳永英明さんの「壊れかけのRadio」が流行ったのは、中学生の頃だったが、思春期どころか幼少期から僕にいろんなことを教えてくれたのは間違いなくラジオと音楽だった。

やがて小学生になると、ラジオというのは音楽やいろんなお話を電波に乗せて届けてくれるだけでなく、こちらからもアクセスできるものだということを知った。当時はメールがないからハガキを書くのだが、それが読まれたり、ラジオで名前が呼ばれることが嬉しくて、どうしたらもっと読んでもらえるようになるのか?を研究するようになった。いわゆる「ハガキ職人」への第一歩である。

加えて当時は「電話リクエスト」や「こども電話相談室」など電話で参加できる番組、電話を生で受け付けてくれる番組もあり、それらにも電話しまくった。「こども電話相談室」に至っては、小学校3年から6年生の間に22回出演し、お姉さんに名前を憶えられていた。制作側にまわってみると、少々やっかいなガキでしかないのだが(苦笑)

さらに中学生になると、自分の自宅から微弱なFM電波を発信して、ミニFMラジオ局まではじめてしまう。これについてはたくさんのエピソードがあるが、長くなるので今回は割愛する。

そんなわけで(たわし)の場合は、子供がよく聞かれる「将来は何になりたいのか?」という質問に対して「ラジオやテレビ、放送に携わる仕事をしたい」とはっきり言っていた。と、いうより、それ以外を考えたことがなかった。

ある意味、悩みのない人生というか、最初から一本道があったのか、そこしか見ていないのでブルドーザーのように道を作っていったのか・・

で、仕事をはじめて5年目

この頃になると、それなりに経験も積んできて、少し自信もついてきていた。生放送、録音あわせて、週11本のラジオ番組を担当するようになっていた。土日もイベントなどはいるので休みなどほとんどなく、また地方での番組やイベントもあって、出張も多かったが、それも含めて毎日が楽しかった。

絶好調に感じた一方で、少し独りよがりになっていたのも事実。自分が見ているのと同じ景色を、周りの人も決して同じように見ているわけではないのだということを学んだ年でもあった。仕事のアシスタントをしてもらっていた学生時代からの仲間が仕事の進め方や考え方の違いから去っていったり、長年付き合った彼女との別れがあったり・・

ちょうどその頃によく番組でもかけていたこの曲を聴くと、あのときに袂を分かった人たちの顔を思い出す。

(SNS時代なので、今もそれぞれ元気にやっているのはわかっているのだけれども・・)

2001年  「メッセージ・ソング」 ピチカートファイヴ

21世紀のはじまりというだけでなく、2000年代のスタートということで「ミレニアム」なんて言われ、やたらと浮かれた雰囲気ではじまったことが記憶に残るこの年

一方で(たわし)にとっては大きく環境が変わった年でもあった。

1996年から拠点としていた東京・二子玉川のテーマパーク「ナムコ・ワンダーエッグ」が前年の大みそかを持ってクローズしたのだ。

それと同じタイミングで解散したのが、「渋谷系」を代表するバンドのひとつ、ピチカートファイヴであった。

ラストアルバムとなった「さえらジャポン」はそれまでの総決算のような超傑作で、この頃もう毎日ぐるぐると聞いていたのを思い出す。「メッセージ・ソング」はそれよりも前にリリースされたシングル曲だが、「さよならバス」で別れた人たちへ、それでも何か伝えたいような気持ちで選んでしまったような気がする。いや、女々しいですな(たわし)

2002年  「ばらの花」  くるり

2001年の春、当時在籍していた制作会社の本社勤務に異動した(たわし)

それまでは20代の若造ながらも「ワンダーエッグ」内にあった支社の責任者という立場で部下もいたのだが、本社に戻されると一番若手のペーペーになってしまった。それよりも深刻だったのは本社の経営状況の悪化であった。

(たわし)のいた会社は、広告代理店も兼ねており、いくつかの大手スポンサー企業と太いパイプがあって、実質的にそのハウスエージェンシーの役割を果たしていた。スポンサー企業の調子がよいときは安泰なのだが、ひとたび景気が悪くなれば広告宣伝費は真っ先に削られるわけで、それはすぐさま経営に直結する。

で、バブルが弾けてもあまり影響を受けなかったそのスポンサー企業にとってもそろそろ厳しい時期がやってきたというわけだ。一番若手のぺーぺーとしては、なんとか落ち込んだ売り上げを少しでも埋めなければ・・、自分の食い扶持は稼がなければと、今までのスポンサー以外の新規開拓をせねばならないと立ち上がり、番組仕事をこなしながら、その合間に企画書を書いたり、新規事業を考えたりということを自主的にはじめた。

名刺にも「新規事業・企画担当」という肩書を入れてもらった。

今までとは違う新たなスポンサー・取引先を・・とあれこれ試行錯誤する中、目を付けたひとつが台頭してきつつあったインターネット企業であった。特にこれからは既存のメディアに頼らず、ネットが三大メディアにとって代わる日が遠からず来るだろうと予想した。

とはいえ、今までの自分や、会社のノウハウも生かしたい。そこでまず考えたのはネットラジオやポッドキャストのビジネス化である。実はネットラジオについては、すでに1997年頃から取り組んでいた。

最初にやったのは、KBS京都という地方のAM局で声優の日髙のり子さんをパーソナリティにしたラジオ番組の中で、時々、特番やイベントの様子を生配信したり、生放送後にアフタートークをしてもらい、その内容を今でいうポッドキャストとして配信したのだ。番組スポンサーの一社にパソコンの専門学校があり、何か新しい取り組みをしたいといことで提案して実現させたものだ。

当時はダイヤルアップでモデムで繋いでいるユーザーが圧倒的で、まだパソコンを持っている人も少なかったので「実験」的な取り組みだったが、遠く北海道などのリスナーからも「きれいに聞こえる」という報告を受けて手ごたえを感じていた。もっとも当時、これをやるためにはRealAudioという仕組みを使う必要があり,そのサーバーを立てるのに数百万かかった。

しかしその先行投資をしたこともあり、やがては既存のラジオ局に頼らず、ネット上だけのラジオ局も立ち上がり、聞かれる時代が来る!と口説き歩いて、当時人気のあったパソコン週刊誌「週刊アスキー」と組んで、「ラジ@」というインターネットラジオ局を共同運営したり、NTTドコモと組んで、ガラケー向けのポッドキャストのようなコンテンツを作ってみたり、はたまた当時流行しつつあったテキストサイトに目を付けてイベントや書籍化などを仕掛けてみたり・・

毎日不安を感じつつも、いろんな新しいトライをする中で、なんとかなんとかなるかも?? やっていけるかも?? みたいな日々を繰り返していたあの頃、自分を支えてくれていた曲、ひたすら繰り返し聞いていたのが「ばらの花」である。

岸田 繁氏の歌い方同様に無理に力を入れたり、肩ひじ張って頑張らなくてもいいんだ。でもやってみりゃいいんだ・・要するにこれは LET IT BE なのだ。

2003年 「さくら(独唱)」   森山直太朗

2002年が種まきの年だとしたら、2003年は花が咲き始めた年といえるかもしれない。

企画を書いては持ち込み、先方といっしょに様々なトライを続けた結果、まだ時期尚早だったのか単発で終わってしまった案件も多く、売り上げ的には穴を埋め切れるものにまではならなかった。

が、一から飛び込んで様々な仕事を生み出していくことへの挑戦させてもらえたことで、それまで自分は楽しい番組、良い番組を作ることに頑張ればいいというディレクター・作家としての視点だけでなく、もっと広い視点を持つことができるようになったし、自信にも繋がった。

また新たにそれまでの音楽の仕事とはまた違った人脈を得て、そうした人たちからいろんなお仕事の誘いもいただくようになった。

そして、その結果気づいてしまったのだ。このまま会社にいても仕方がないのでは?ということに

気が付けば30になろうかというタイミングでもあり、この年いっぱいで退社し、フリーとなることにした。

ただし、会社からの要望でフリーにはなるものの、それまで担当していた大手スポンサー企業案件の仕事は引き続き担当するということになった。なので対外的にはこのあと会社が清算されるまでの数年間、社員のように仕事をする面もあったし、引き続き名刺も持たされていた。

この会社はもともと(たわし)が小学生の頃、大好きで聞いていたラジオ番組を制作していた会社でもあり、特に社長にはその頃から目をかけていただきとてもかわいがっていただいた。会社を辞めたとはいっても師弟関係は続き、高齢で隠居された後も電話でよく話をしていたが、昨年亡くなってしまった。

そんな別れの年、そしてイラク戦争が起きてきな臭い時代へと向かっていこうとしていたこの頃、なぜか「さくら」をタイトルにした曲がいくつも登場し、同時にヒットしていた。

会社のオフィスは千鳥ヶ淵のすぐそばにあり、通勤の道すがら、毎日のように満開の桜を見ていたこともあり、毎年かならずラジオから流れる「さくら」ソングを聞くと、そんな光景やその頃のことを思い出す。

2004年 「ハナミズキ」  一青窈

ライナーノーツなのにほとんど自分語りになってしまい申し訳ないので、少し音楽の話をば

2000年代に入ったあたりから、J-POP界隈では、ディーヴァとか、歌姫とかいう単語が飛び交うようになった。宇多田ヒカルさんの登場以来、倉木麻衣さん、浜崎あゆみさん、MISIAさん、UAさんなど次々に歌がうまく、R&B調のオリジナル曲を歌う女性ボーカリストが出てきて、チャートを賑わしていた。そんな中で、台湾からアジアンテイストを纏ってやってきた一風変わった歌姫が彼女であった。

なんというか、ハンバーガーばかり出されてどれも美味しいけどそろそろ「飽きてきた」というところに美味しい中華粥を出されたような・・・。とにかくインパクトがあったことを覚えている。

そんな彼女がデビュー曲「もらい泣き」に続いて放った大ヒットがこの曲だ。自分語りのラブソングではなく、「君と好きな人が100年続きますように」という一歩引いた視点からの応援歌という点も受け入れられやすかったと思う。のちにガッキーと生田斗真くん主演で映画化もされた。ひとつの歌の世界を元に映画まで作られたのって、かぐや姫の「神田川」とか数えるほどしかないわけで、いかにこの曲が広い世代に受け入れられたかという証だったとも思う。

2005年 若者のすべて  フジファブリック

フリーになってみたものの、さて、どうしよう?というこの頃。会社員のときは、仕事は会社が与えてくれたものをやってさえいれば、最低限お給料はもらえるが、自営業なので、自分で仕事をとってきて働かなければ収入が得られない。働けば働くだけお金になるメリットはあるが、一方で働く自分はひとりしかいないので、お仕事をいただけるスケジュールが重ならないことが重要である。

ところが番組も仕事というのは案外スケジュールがバッティングしてしまい、AもBもやりたくてもどちらかしか受けられないみたいなこともある。自分のペースで働けるのはメリットでもあるが、その分、収入に波があるわけだ。そしてフリーになってみてわかったことは、お仕事をいただけるうちが華であるということ。

頼んでくる相手方は何か急ぎであったり、手が足りなかったりするから社員ではない(たわし)のようなフリーに仕事を振ってくださるのであって、そういうときに相手の信頼に応えられてなんぼという面が大きい。

「今はちょっと・・」とかを繰り返していたら、代わりはいくらでもいるとばかりによそへ流れてしまう。

最初の1-2年はそのへんがうまくできなくて、実は結構暇な時間が多かった。会社時代からの仕事もあったので、いっそ長期で旅にでも出よう・・というほどの時間ではないが、フリーになったと意気込んだ割にはいきなり開店休業状態。

なのでそんな時間を利用して音楽を聴いたり、本を見たり、映画を見たり、ライブに行ったりしていた。収入が不安定なのに、何を遊び惚けているんだ
?と思われたらアレだが、(たわし)の仕事にとってはこうしたお客さんの立場になってコンテンツを楽しむという作業はとても大事なこと。市場調査でもあり、アイデアの源泉をインプットする作業でもある。

そんな中で出会ったのがフジ・ファブリックというバンド

たぶんROCK IN JAPANフェスで見たのが最初だったと思う。

「若者」という年代から外れようとしていた(たわし)には、中でもこの歌がとても印象に残っている。

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