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アントニオ猪木に捧げる詩

アントニオ猪木はリングに立つ時、戦う男の眼差しになる。そして、栄光を渇望し敗北に足を取られまいと精神を鼓舞する。猪木は強靭な肉体の勇ましい戦士だ。しかし、猪木はリング上で対峙するプロレスラーと戦う訳では無い。猪木の対戦相手はプロレスを貶んだ目で見る世間の偏見である。猪木は八百長と云う言葉に人一倍敏感で、八百長と云う言葉を人一倍憎んで来た。俺のプロレスを見ろ、これが八百長に見えるか、俺のプロレスは男の生き様だ、誰にも俺のプロレスを八百長とは言わせない。猪木は選手コールに合わせてガウンを脱ぎ赤いタオルを首から外す。猪木はプロレスに全身全霊で取り組んで来た。だが世間は猪木のプロレスを「八百長だ、茶番だ」と嘲る。そんな声を聞く度に猪木の闘争本能は駆り立てられる。しかし何故、世間は猪木のプロレスを八百長と呼ぶのか、答えは簡単である。それは猪木のプロレスが正真正銘の八百長だからに他ならない。八百長をやるから世間から八百長と蔑まれる。当然の話だ。それに対し猪木は自分のプロレスは八百長ではなく、それを証明する為に戦うと云う。猪木は延髄斬りに依って試合を終わらせ、八百長を見抜けなかったファンたちから声援と羨望を集める。そして、厳しい表情のままリングを降り花道を退場する。猪木の生涯に渡る大敵は自分の八百長を八百長と指摘して来る世間の無遠慮な眼差しであった。「あいつ等は見せる為の稽古をする。うち等は真剣勝負の為の稽古をする」これは猪木の言葉だが、ここで言うあいつ等とはジャイアント馬場さんが率いていた全日本プロレスの事である。猪木はこんな発言をしておきながら生涯に渡り4800試合もの八百長をやりまくった男だ。そんな猪木と云う男を一言で表すなら破綻者と云う言葉が最も相応しいだろう。しかし、猪木は偉大である。偉大である男にはいくつもの呼び名があっても良い。燃える闘魂、北朝鮮の良き理解者、八百長の神様、ゴメスやヒクソンとは戦わなかった男、ヤオンチュ、虚構の人、インチキオジサン、八百長の家元、スーパーストロング八百長マシーン。令和4年10月1日、動乱の生涯を生きたアントニオ猪木は他界した。猪木よ、来世もプロレスラーに生まれ変わり、格闘技コンプレックスの業火に悶え苦しみながら、リングの上で咲き誇るが良い。元気があれば八百長も出来る。時代を駆け抜けた偉大なる粉飾の闘魂に万世の栄光あれ。


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