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【エッセイ】邪馬台国は九州・熊本にあったとしか考えられない件


 もうだいぶ前、十五年か二十年くらい前のことである。当時、都内でアパート暮らしをしていた私は、とある大型書店の中をうろうろとしていた。そしてふと目についた平積みの本を手にした。詳しい書名も著者名も忘れてしまったが「邪馬台国の謎を解く」とかなんとかいうタイトルだったのは確かだ。ぱらぱらとページをめくってみると歴史書でも解説書でもなく、フィクションだった。ミステリィ仕立ての内容で、主人公の探偵が邪馬台国の所在地を言い当てる、そんな趣向だった。

 短編だったこともあり、私はそのまま読み進めた。主人公は魏志倭人伝の内容をつぶさに読み下し、掘り下げ、今までにない解釈を披露する。詳しくは忘れた。ただあまりにも斬新な結論だったので、その部分は忘れようにも忘れられない。邪馬台国があったのは東北の岩手県だった、というのである。そして探偵は宣言する。「岩手には 八幡平 はちまんたい という地名がある。 邪馬台 やまたいとそっくりではないか。邪馬台国があったのは岩手県だ!」

 あまりにもびっくりたまげたのを今でも覚えている。結局、その本は買わなかったのだから驚きすぎて購入するのを忘れてしまったのだろう。斬新だったから、というより「こんな素人の思いつきみたいな内容が文芸書の一冊として印刷され、流通して堂々と書店に並んでしまうのか・・・・」ともいうべき、暗澹たる気分になってしまったのである。あえて言うが、まったくチラシの裏にでも書いておけ、と言いたくなる内容である。

 いや、その著者を非難する資格は私にはない。これから、まったく同じような素人の珍説を披露して、開陳してやろうというのだからそれこそ「お前こそチラシの裏にでも書いてろ!」と罵声を浴びてもしかたがない類のものだ。しかしここはインターネットの世界だ。森林資源を浪費することはないし、ネットの文筆家が威勢よく自説を披露したところで誰も傷つくわけはない、いわば言ったもん勝ちである。

 つまり私もこの問題には長年、興味を持っていたのだ。とはいえ、この十年でその手の本を四、五十冊は読んだかなあ、というぐらいなので素人の憶測の域を出るものではない。専門家でもないし(遺跡発掘のアルバイトを三カ月ほどやったことはあるけど)、ただの素人作家の妄想なのだ。しかし興味のある人にとってはそれなりに新しい情報もあるので、退屈はさせないだろう。

 そもそも邪馬台国論争とはなにか? であるが、中国の古い歴史書である魏志倭人伝に記されていた邪馬台国が、日本国内のどこにあったのか、近畿地方か九州かという江戸時代から続いている日本古代史最大の謎のことだ。もちろんその二つでなく、四国だったり岡山だったりと候補地は国内に数限りなくある。有力なのが近畿地方(主に奈良盆地)と九州(北部九州)なのである。

 もし邪馬台国がここにあったとはっきり解るには何が必要なのか? 考古学的言うなら、それなりの遺跡が発掘されることであろう。特に邪馬台国の女王である 卑弥呼 ひみこには魏から金印が贈られているので、どこぞの古墳からそれが出てくれば「この墓は卑弥呼のものだ。つまりこの地が邪馬台国だ」となる。いやしかし、金印は簡単に持ち運べるものだ。別の人物が譲り受けたり、奪い取った可能性だってある。金印だけで特定は無理だ。卑弥呼は百人の生贄とともに埋葬されたと魏志倭人伝にあるが、そんな遺跡が見つかったとしても、別人の可能性もある。偶然見つかった未盗掘の古墳に「卑弥呼、ここに眠る」とでも墓標があれば別だが、その可能性はまずない。つまり、考古学的に邪馬台国の地を特定する手段はほとんどない、と言っていいのかもしれない。結局、魏志倭人伝の記述を深読みし、あれこれ推測して安楽椅子探偵よろしく名推理を発揮するしかない。だからこそ邪馬台国を扱った書籍が毎年何十冊も書店に並ぶのだろう。

 その魏志倭人伝だが、魏という国が滅びた後にその歴史を総括する意味で編纂された正史が魏志であり、その中にほんの一部、当時の日本だった倭国について記述されているのが倭人伝だ。書いたのは西晋の陳寿という人で、この人は直接日本に来たりしていない。それ以前に書かれていた歴史書を参考にしたり、日本に行ったことのある人に話を聞いたりして著したものであるという。となると、どこまでが真実なのか、と疑ってかかる必要がある。単純に勘違いによって間違っているかもしれないし、わざと事実を曲げた部分もあるかもしれない。それでも当時の日本の様子を描いたものであるのは間違いないわけで、日本の歴史書である「日本書紀」や「古事記」が書かれた四百年以上前に成立しているので、古代の日本の様子を知るのに他に文字資料はないのである。

 魏志倭人伝は「倭人は帯方の東南大海の中に住む」という書き出しではじまる。帯方とは現在の韓国ソウル付近のことで、当時魏はこのあたりに 帯方郡 たいほうぐん という地方の役所を置いていた。一行はそこから出発して倭に向かうのだが、朝鮮半島を船で南下し、対馬、壱岐と島々を渡り、九州に上陸する。上陸地点は 末廬国 まつろこく だが、現在では佐賀県の唐津市あたりだという。そして東南に陸行五百里進むと 伊都国 いとこく に着く。さらに東南に百里で 奴国 なこく 、東に百里で 不弥国 ふみこく 、南に水行二十日で 投馬国 とうまこくまでくる。さらに邪馬台国に到着するには南に向かって水行十日、陸行一月かかるという。しかしこのとおりに進んでいったら、九州のはるか南の海上に出てしまう。なので、これまで多くの研究者は〔南に水行十日、陸行一月〕の部分が間違いなのだろうとしてきた。この部分を当時の人が写本をする際の写しミス等で少し変わってしまった、というわけだ。

 邪馬台国が奈良盆地にあったとする畿内説では〔 に水行十日、陸行一月〕の間違いではないか、としてきた。確かにそれなら、九州に上陸してちょうど関西に着くくらいの距離かもしれない。一方、九州北部にあったとする九州説の支持者は〔南に水行十日、陸行一 〕の間違いだろう、と主張する。なるほど、それなら陸上を長距離歩くことにはならないので、九州の中で落ち着くのかもしれない。

 以上が畿内説、九州説それぞれの言い分なのだが、早い話〔南に水行十日、陸行一月〕の一文をどう解釈するかが謎の核心部分なのである。この部分をどのように読み解くか、邪馬台国論争とはただをこの一箇所を皆で言い争っているだけなのだ。しかし、どちらにしても間違っている、というのが私はどうも納得できなかった。どちらかは正しいのではないか? いやしかし、記述そのままなら遥か南、沖縄あたりに達してしまう。何か変だ。それにどこかもやもやと引っかかることだらけだ。以前、私が支持していたのはこんな説だった。「魏はその南に位置する呉と対立していた。なので、邪馬台国が沖縄あたりにあるとすると、ちょうど東シナ海を挟んだ呉の対岸となる。つまり敵対国である呉を牽制するために強大な邪馬台国がこちらの味方だ、とわざと嘘の情報を流布していたのだ」というものだ。しかし魏志倭人伝が書かれたのが魏と呉が対立している最中ならその説も説得力があるが、残念ながら違う。西晋の陳寿は魏も呉も滅びた後に書き始めているので、そんな情報操作をする必要はまったくないのである。

 そんな中で私は画期的な解釈に遭遇する。私がその説に触れた際にはそれこそ「そうか、そう考えればいいのか」と膝を叩くような思いだった。次のようなものだ。「畿内説にしろ北部九州説にしろ〔南に水行十日、陸行一月〕のスタート地点を九州北部にしているが、そこが間違っている。〔南に水行十日、陸行一月〕のスタート地点を帯方郡にすればすっきりと解決できる」というものだ。

 どういうことかといえば、簡単だ。目的地にたどり着く直前に行程のすべてを振り返って記してある、ただそれだけなのだ。これで私が感じていたもやもや、特に畿内説に対して抱いていたもやもやはスッキリ解消した。まず邪馬台国が奈良盆地にあったとして帯方郡から船で出発したのなら、そのまままっすぐ船で目的地の近くまで進むのが普通だろう。関門海峡を抜けて瀬戸内海を航海し、大阪あたりに上陸するのが早いし危険もない。「いや、倭国内を視察する目的もあったから九州に上陸したのだ」と反論されるかもしれない。しかしそれなら陸行一月はおかしい。山陽道を歩いて一ヶ月もかかったのに陸行一月だけで済ますなんて手を抜きすぎてないか? そこが人跡未踏の無人の地であるはずがない。縄文遺跡も弥生遺跡もたっぷり見つかっているのだから、多くの国があり倭人がたくさん住んでいたはずだ。倭国内の内情視察なら陸行一月で済ましてしまうのはいくらなんでも端折りすぎだし、前半部の詳しい記述との整合性がとれない。つまり邪馬台国の所在地とは、朝鮮半島の帯方郡から見て〔南に水行十日、陸行一月〕へ行ったところにあると解釈するのならすべてがさっぱりと解決するのである。邪馬台国の直前にある投馬国も水行二十日とあるが、このスタート地点も帯方郡だろう。つまり魏の人々から見て倭国とは九州島のことなのだ。

 現代に例えるならこういうことだろうか。私が友人からこんな相談を受けたとしよう。「今度、スキーをしに山形の蔵王まで行こうと思うんだけど、どういう風に行けばいいんだっけ?」と。すると私はこう答えるだろう。
「車で行くのか、お前が住んでるのは豊島区だっけ? ならまず首都高に乗るだろ。それで東北道を目指すんだ。浦和料金所から東北道に乗ったらひたすら北を目指して車を飛ばせばいいんだ。仙台方面を目指して進んでいけ。仙台の手前に村田ジャンクションてとこがあるんだけど、そこで左折して山形道にルートを変える。するとしばらく行けば山形蔵王インターだからそこで高速を降りればいい。あとはスキー場まですぐだ。休憩を入れて車で五、六時間てとこだな」
 とこんな説明を聞いて「え? インターを降りてからスキー場までさらに五時間もかかるのか?」なんて返す人はいないだろう。私のこの説明では最後で「車で東京から五、六時間てとこだな」と言うべきなのに「東京から」を抜かしている。なので説明が足らない部分があるのは確かだ。しかしほとんどの日本人なら山形と蔵王の位置関係や、大抵のスキー場がインターからどの程度か、などの知識があらかじめあるので間違えることはない。しかし日本に着いたばかりの外国人なら「え?」と驚いてしまうかもしれない。そう、土地勘がなければ混乱するだろう。魏志倭人伝も似たような構造なのかもしれない。

 私はこの説には、森浩一著『倭人伝を読みなおす』ちくま新書、という本で初めて触れた。この中で古代史研究者の奥野正男氏が提唱された説として紹介してある。その後、いろいろと本を読み漁ってみると作家で古代史をテーマにした小説もたくさん発表している故黒岩重吾氏もこの説を支持しているのがわかった。ただお二人とも邪馬台国の想定を熊本ではなく北部九州と見ているようである。余談だが、私が二〇代の頃、とある出版社でアルバイトをしていた時に黒岩先生の生原稿をワープロに起こす仕事をしていたことがある。他の作家先生の原稿はFAXから吐き出された用紙だったのだが、黒岩先生のみ、手書きの原稿用紙を郵便で送ってこられたので直接手にしていたのだ。当時はまだ手書きで小説を書く作家先生が多かったのである。ただ黒岩先生は脳溢血で倒れられた後だったため身体には麻痺が残っていたらしく、その手書き文字はとてつもなくくねくねとのたくった難解な筆跡で、まるで暗号を解読するかのような大変な作業だったのである。と、そんな思い出話はさておき、私の中では「南に水行十日、陸行一月のスタート地点は帯方郡説」はもう揺るがない。そう考えると他の問題も納得できるのだ。

 帯方郡から水行十日で九州に上陸する。そしてそのまま南に一ヶ月ばかり進むと熊本あたりに着く。そう、邪馬台国があったのは熊本としか考えられない、このエッセイのタイトルの通りである。現代での移動なら遅すぎるが、古代ならそのくらいだろう。グーグルマップで唐津市の唐津城と熊本市の熊本城を経路で結んでみる。移動手段を徒歩にすると、距離は約一二〇キロ、移動時間は二十五時間とでる。しかし当然ながらこれは道路が整備されている現代だからだ。古代ローマの軍団や江戸時代のお伊勢参りなども一日に二十キロほど歩いたようだが、それも街道が整備されていたからだろう。古代、唐津から熊本までの道など獣道と大差なかっただろうし、峠越えや橋のない川を渡らなければならない箇所も多かったはずだ。直線でまっすぐ向かったわけでもなくあちこち寄り道していたら百二十キロを一ヶ月かかっても不思議ではない。いやまさにこんなものだろう。そしてさらに 狗奴国  くなこくの問題もある。

 狗奴国は邪馬台国の南にあり、邪馬台国と対立していた、と魏志倭人伝にはある。三十カ国以上の連合国の代表のような書かれ方をしている邪馬台国と対立していたのだから、狗奴国もそれなりの大国でなければ釣り合わない。しかし畿内説ではそれが難しい。なぜなら奈良盆地の南にはそんな大国が存在できるスペースがそもそもない。奈良盆地に邪馬台国があったとするなら、西日本一帯を手中にしていたのだろう。九州や山陽や四国あたりに存在した三十数カ国を従える超大国、それが邪馬台国となる。それに匹敵する超強力な狗奴国が奈良盆地の南に存在したのだろうか? 南北朝時代、後醍醐天皇が奈良盆地の南にある吉野に南朝を開いて、北朝勢力の足利氏と対立しながら六十年近く存続する。そのような形で狗奴国も邪馬台国と渡り合ったのだろうか? いや、それはさすがに無理がある。足利氏が南朝を攻め滅ぼせなかったのは、日本各地にも反足利の南朝勢力がいたことも大きいし、さすがに帝そのものに弓を引くわけにはいかなかった、という思いもあるだろう。しかし魏志倭人伝の記述は倭国、というか西日本全体が二分されて戦っていた、というような内容ではない。なので狗奴国があったのは奈良盆地から鈴鹿山脈を挟んだ名古屋あたりの勢力ではないか、とする説もある。しかし魏志倭人伝にははっきりと「邪馬台国の南にある狗奴国」とあるのだ。ここでも東を南と書き間違えたのだろうか? それとも古代中国人は太陽が登る方角を南と言っていたのだろうか? いや、それはないだろう。

 私は狗奴国があったのは現在の鹿児島県のあたりだろう、と想定する。それなら熊本の南で方角もあっている。そして何よりそこは薩摩隼人、戦国最強とうたわれた島津氏の本拠地なのである。戦闘能力の高さは古代から変わらなかったとするのなら、九州北部を統一していた邪馬台国連合とたった一国で渡り合っていても違和感はない。地形的にも海を背にしているので挟み撃ちされる危険もなかっただろう。そのあたりを図にしてみると下のようになる。

邪馬台国へのルート

 すでに書いたが、魏の人々から見て倭国とは九州島のみの範囲である。畿内に邪馬台国があったとするならすでに西日本は統一されたいたことになるが、それだと、その後の歴史との整合性が合わなくなる。魏志倭人伝から四百年後に書かれた日本書紀の記述と食い違ってくるのだ。神武天皇は東征を行って大和地方を平定するわけだが、すでに西日本が統一されていたのなら、そんなことをする必要はなかったのではないか?

 日本書紀はよく知られているように、奈良時代の西暦七二〇年に成立しているが、最初の第一巻と第二巻は神代を扱っている。日本の成り立ちを神話として語っているのだが、当然、科学的にはありえない記述が目立つ。神話とはそういうもの、荒唐無稽なフィクションで当然、で済むだろうか? いや、違う。過去にあった何らかの事実を下敷きにして、誇張も含みつつ真実を空想たくましく描かれているのではないか、そう考えてもいい。戦前の歴史学者である津田左右吉などは神代記を「合理性のないお伽噺」であると切り捨てているが、それも極端に思える。民族が文字を持たない中で記憶していた歴史、口伝えに伝えていくうちに変化してしまった過去の事実、そう考えてもいいだろう。そして魏志倭人伝と日本書紀の神代記が似ている、との指摘は以前からあるのだ。

 邪馬台国の女王である卑弥呼はその南にある狗奴国と対立していた。というより、いつ戦争が始まってもおかしくない緊張状態にあった。魏はそんな邪馬台国に肩入れして支援し、役人を派遣したりして狗奴国を屈服させるのを手伝う。しかしそれはうまくいかず、卑弥呼は死ぬ。自然死なのか、自殺なのか、それとも処刑されたのかわからないが、とにかく死んでしまう。そのため邪馬台国は混乱状態になり、男の王が王位に着くのだが混乱は収まらない。卑弥呼の親族だった少女である 台与 とよ を女王の地位につけると、やっと混乱は収まった。結局、邪馬台国と狗奴国の対立はどうなったのか、戦争になったのか平和になったのか、魏志倭人伝には書かれていないのである。そして日本書紀の神代記はこんなストーリーだ。

 天照大神と弟のスサノオは仲が悪い。天照大神はスサノオを恐れてさえいる。スサノオはかなりわがままで、天照大神と張り合う。どちらが男の神を多く生み出せるか、という占いのような勝負を天照大神に仕掛けたうえ、勝手に「俺が勝った」と宣言し、傍若無人に暴れまわる。それに嫌気が差した天照大神は天の岩戸に隠れてしまう。太陽神である天照大神が隠れてしまったので天上界は真っ暗になり、他の神々は皆で集まってなんとかしようとする。神々は天の岩戸の外で宴会を開いたりして大いに騒ぎ、様子を伺おうとした天照大神が岩戸を開けた瞬間、その手を掴んで外に引っ張り出す。それでようやく天上界に光が戻りました、とさ。

 日本書紀の天照大神の様子を読んで私が思うのは「天照大神ってあまりリーダーっぽくないな」ということだ。神々の中心にいる太陽神としてリーダーシップを発揮することはないし、カリスマ性もあるのだかないのだかよくわからない。ただ周りに振り回されておろおろしているだけ、のような印象も受ける。そして私が魏志倭人伝と日本書紀の類似性にハタと気付かされたのはこの漫画を読んでいた瞬間だった。

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 幸村誠著の現在も「アフタヌーン」誌で連載中の漫画『ヴィンランド・サガ』である。この漫画は一〇世紀頃のイングランドを舞台にバイキングの世界を描いている。上のコマは、デンマークの王子であったクヌートが、父親であるスヴェン王を目の前で暗殺された直後に皆に向けて叫んでいる、そんな場面だ。そう「隠れる」とは王位にあるものが死んだのを慮って言う言葉だ。果たして一〇世紀のバイキングの世界にそんな湾曲表現があったのか、それは不明だし、日本書紀にも「天照大神が隠れた」とはっきりあるわけではない。しかし卑弥呼が死んで国中が混乱した様子を、天照大神が天の岩戸に篭ったので世界が真っ暗になったと表現されていても、そう違いはないように思える。そしてわがまま放題の弟のスサノオは狗奴国に当てはまる。あるいは狗奴国の男の王のことではないか? 対立していたはずの二カ国が大きな戦争をすることなく統一されたとするなら、数百年後の書記官はその様子を仲の悪かった姉と弟のように表現することもあるのではないか、と素人のSF作家は想像を逞しくしてしまうのである。

 卑弥呼が死んで、その地位を台与が継ぐ。それを日本書紀では天照大神が隠れて再び出てくるとする。しかし実は死んで別人になっていたとすると天照大神は二人いたことになる。つまり卑弥呼も当然、二人いたことになる。というより卑弥呼とは個人名ではなく、役職名だったのではという推測もできるだろう。魏志倭人伝では対馬国、一大国、奴国、不弥国の副官の名が 卑奴母離 ひなもり と紹介されている。これも同一人物ではなく、そういう役職名だったと考えるのが自然だ。卑弥呼もそれと同じように役職、というかそういう名前の地位だったのだろう。 姫巫女 ひめみこ だったのでは、という仮説もあるが私は単にヒメだったのでは、と思う。現代語で姫とは王様や殿様の未婚の女児のことを主にいうが、古代では女性の第一人者に与えられた称号だったのだろう。民族集団の中の女性たちのトップにいた人物に与えられていた尊称、それがヒメだったと考えられる。男性の場合は彦だ。彦=ヒコ=日子だろうから、ヒメ=日女なのだろう。となると太陽神である天照大神のイメージにも重なるのだ。邪馬台国の役人たちが自分たちのリーダーの女性を呼ぶ声を聞いて魏の役人は卑弥呼と漢字を当てた、そう推測できる。ただ漢文的に「ヒメと呼ばれていた」なら「呼卑弥」となるのでそのあたりは違っている。いやもしかしたら邪馬台国の高官たちは「ひめっこ」と呼びかけていたのかもしれないwww なんだか東北弁的な響きだが、弥生時代のイントネーションなんて誰もわからないからその可能性もゼロではない。

 現在では邪馬台国をヤマタイ国と読んでいるが、これも正しくはヤマト国でいいはずだ。ヤマは山だが、トは戸だろう。当時の日本人は漢字を使っていなかったので山戸国なんて表記はどこにもないが、戸はdoorというよりgeteの意味があったと考えられる。つまり「山への出入り口」となる。(海への出入り口なら江戸だ)。それなら九州説の有力な邪馬台国候補である現在の福岡県柳川市あたりの 山門 やまと 郡がそれにあたる。熊本県とそれほど離れていないので有力な説であるし、邪馬台国の一部だった可能性はあるだろう。しかし山への出入り口なら山の麓にある国や、山地と平地が隣り合った地形なら日本国中、どこにもある。熊本じゃなくても奈良盆地だってヤマト国にふさわしい地形だろう。しかし、それでも私が熊本を邪馬台国に推すのは、日本書紀の記述との整合性からだ。

 日本書紀は当時の大和朝廷が自分たちの歴史を正式なものとして伝えるために編纂したものだ。多少の誇張や盛った部分があるにしても、嘘やでたらめはない。その中で神武天皇は九州の日向で生まれ、その後、東征に行き畿内の勢力を倒して覇権を唱え、初代天皇となるのである。以上の内容から邪馬台国は九州から畿内に移ったとされる「邪馬台国東遷説」も以前から唱えられてきた。しかし私に言わせれば、邪馬台国が東に移ったかどうかはともかく、九州の勢力が奈良盆地にあった国を攻め滅ぼし攻略したというのは、仮説や伝説と言うよりほとんど歴史的な事実なのだろう。なにより当時、日本書紀が成立した頃の大和朝廷の人々は「自分たちのルーツは九州にある」という認識でいたのであり、そうでなかったらこんな歴史書を認めることはなかったはずだ。邪馬台国が九州にあったのなら畿内勢力を倒す側だが、畿内に邪馬台国があったのなら九州勢力に倒され、露と消えてしまったことになる。どちらなのだろう?

 日本書紀の記述で、というより日本の神話で私が子供の頃からずっと謎だったことがある。それは「神々はなぜ高千穂の峰に降臨したのだろう?」ということだ。なぜ九州の高千穂でなければならなかったのか? もっと別の地でも良かったのではないか? 例えば琵琶湖だ。日本書紀を作った大和朝廷にも近いし、巨大で静謐な水面は神々が天下ってもよさそうな雰囲気である。インカ帝国の神もチチカカ湖に降臨しているので、悪くない場所だろう。神代記では天上界の神々は出雲の大国主に対して「国を譲れ」と迫った挙げ句、大国主はしぶしぶそれを認める。しかし出雲に神々は降臨しない。出雲からも、大和朝廷があった奈良からも遠く離れた九州の高千穂に神々は天下ったのである。なぜだろう?

 何かの本で読んだのか、それともテレビで邪馬台国を取り上げた番組で見たのか忘れてしまったが、ある時、私はこのような情報を得たのである。「古代においては阿蘇山も高千穂と呼ばれていた」と。現在、神々が降臨した高千穂として有力なのは宮崎県の高千穂峡と霧島連山の高千穂峰である。しかし熊本の阿蘇山も高千穂として勘定に入れてもいいのだとして地図を見てみると、阿蘇山の外輪山の南側の峰に高千穂野の文字を見つけた。ただし「たかじょうや」と読むのだそうだが。あるいは、昔は九州山地の山々全体を高千穂と呼んでいたとも考えられる。もし古代においては阿蘇山が高千穂だったとするとどうなるのか? 熊本平野は阿蘇山の西にある。熊本の広い平野から見て東に阿蘇山がそびえている。つまり、熊本平野に暮らしていた人々は毎日、阿蘇山から登る朝日を見ていたことになる。なら「朝日が登るあの神々しい山に神々が降り立ったのでは」という考えが浮かぶのも、ごく普通のことではないだろうか?

 日本人はなぜか太陽が地平線、あるいは水平線の彼方から登るさまを見るのが大好きである。お正月の初日の出もそうだが、富士山の山頂からご来光を見ようと毎年たくさんの登山者が押しかけたりする。古代の太陽信仰がDNAレベルで民族に刻み込まれている、と言ってもあながち間違ってないだろう。そしてどこの神社にもご神体として祀られている鏡も、太陽のミニチュアでありレプリカと考えて良い。太陽の光を反射してキラリと輝く鏡の美しさになぜか当時の日本人は魅了されてしまった。だから魏の皇帝も「倭人はなぜか鏡を欲しがるぞ」ということで鏡をたくさん送ったのだろう。とにかく太陽が登らないことには一日が始まらないのだし、女性の身体から生まれ出ないことには人の一生も始まらない。そのような考えで邪馬台国の人々が太陽と同じように女性のリーダーを崇め奉っていてもおかしくはない。そして朝日が登る阿蘇山のことを「神々が降臨した山」と認識することもごく自然なことだろう。

 阿蘇山は他にない山だ。巨大なカルデラ火山の噴火口の中に人が暮らしている。それどころか鉄道が敷かれ、人口六万人の街が築かれているのだ。こんな所は世界にもない。普通、平野から見上げた山に人が登って行っても、そこは頂上まで斜面になっているだけだ。人が暮らしたり、作物を育てるには適さない。しかし阿蘇山は違う。標高千メートルほどの外輪山がぐるっと取り囲む中に広い草原が広がっている。現在、カルデラの中の平地はほとんど耕作されているが、古代は草千里のような草地がどこまでも広がっていたに違いない。高い天の原っぱ、そう私の脳裏には 高天原 たかまがはらのイメージが浮かぶのだが、これは想像力を働かせすぎているだろうか?  そして阿蘇山の外輪山は西側の立野の部分で切れ目が入り、そこから川が流れ出ている。数万年前までは阿蘇山の巨大なカルデラは湖だったのだそうだ。つまり阿蘇山は現代でこそ峠越えの道路や鉄道が東西南北に通じているが、古代において阿蘇カルデラへの出入り口は西側の熊本平野側にしか開いてなかったのである。

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 私の考えをまとめるとこうなる。邪馬台国は熊本平野にあった。そして南にあり対立していた狗奴国とどうにか全面戦争を回避し、九州島の統一を果たす。その際のゴタゴタで卑弥呼は死んでしまったが、卑弥呼の後継者である台与と狗奴国の王子が政略的に結婚したのかもしれない。しかしそれから数世代後には統一もガタが来る。そのため、国内の不満をごまかすために外部に敵を求める、という現代の国家もよくやるようなことをしたのだろう。あるいは、長男が親の土地を相続して、支配する領地のない豪族の次男三男などが新たな支配地を求めて東の地へ戦の旅に出たのかも。神武天皇でさえ、兄たちと東征に出た弟の一人なのだ。彼は台与の子供か孫だったのかもしれない。

 最近では奈良盆地にある 纒向 まきむく遺跡の発掘が進み、出土物などから日本各地と交流を持ったかなり大きなネットワークの存在が確認されている。それに卑弥呼と同時代に出来たとされる 箸墓 はしはか 古墳も、その規模の大きさから「造成にはたくさんの人民を動員したのだから、戦争においても強力な軍隊を組織できたのだろう」と考える人は多い。熊本にも古墳はあるのだが箸墓古墳の規模には及ばない。つまり九州勢と畿内勢力が戦えば、畿内が負けることはない、というわけだ。しかしそれは話を単純にしすぎている。これは勝手な想像だが、箸墓古墳を造る際には、労働者を鞭打って無理矢理に働かせたとしたら、民心は離れていくだろう。そんな地に他所から攻め込む軍隊があったら民は「あれは俺たちの解放軍だ」と迎え入れたこともあったかもしれない。人口の多さだけでは戦争の強さは測れないのである。神武天皇率いる九州勢力によって畿内勢力が滅ぼされることも、推測に過ぎないとはいえなきにしもあらずなのだ。

 それなら畿内勢力とは何なのだろう。実は魏志倭人伝にもちゃんと記載されている。「女王国の東、海を渡ること千余里、復、国があり、みな倭種である」の下りがそうだろう。九州の東にもまだ島があり、倭人と同じような人々が住んでいる、とあるがこれは畿内勢力のことなのかもしれない。魏とは直接には使節のやり取りをしていないが、伝え聞くところによれば邪馬台国と似たような人々が暮らし、国を作っていることを報告しているのだ。あるいは日本の別名説もある 扶桑国 ふそうこく も、実は畿内の大きな勢力のことを伝えていたのかもしれない。畿内勢力は魏と敵対関係にあった呉に朝貢したりして関係を築いていたが、呉も畿内も攻め滅ぼされたことにより記録としては何も残らなかった、そう考えることもできる。当時の九州と畿内を比べたら、畿内勢力のほうがはるかに大きく、広く各地と交流を持っていたのではないか。あるいは九州以外はすでに畿内によって統一されていたのかもしれない。結局のところ、邪馬台国とは魏の歴史書にたまたま記載された地方の小さな勢力に過ぎなかった、その可能性も否定できないだろう。

 以上が私が提唱する「邪馬台国は九州・熊本にあったとしか考えられない」説のすべてである。改めて言うまでもないが、このようなエッセイは「邪馬台と八幡平が似ているから邪馬台国があったのは岩手県だ」と言っているのと大差のない、素人のざれごとである。ただし途中で紹介した「南に水行十日、陸行一月のスタート地点は帯方郡説」はもっと世間に知られるべきだと強く思っている。私は邪馬台国や日本の古代を扱った歴史書、解説書などに多く目を通してきたが、それだけでなくネットの掲示板などに立てられている邪馬台国スレッドもよく読んでいる。匿名のネットユーザーが繰り広げる邪馬台国論争もチェックしているが、そこでこの「スタート地点は帯方郡説」を見かけたことはない。それはもったいない。もっとこの説がひと目に触れて論争を巻き起こすべきだ、と強く願っている。いや、だって「南は東の書き間違いだ」とか「一月は一日の書き間違いだ」とか低レベルの言い争いを大学教授や高名な学者先生がしているのに比べたら、ずっと健全だし、検討に値する仮説だ、と思うのですが、皆さんはどう思います?

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