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【恋愛小説】「傾いでます」第七話


第七話

 夢を見ていた。のどが痛い。たぶん叫んでいた。激しい風が吹き、耳元で唸り、自分の声も聞こえなかった。崖の上。ネットで検索し拾った屏風ヶ浦の画像1024×768ピクセルのディスプレイ上のその風景だった。意識は間違いなく崖の上にあるのに、視点は写真が撮られたであろう崖の下の海岸にある。赤茶けた地肌をむき出しにしたそそり立つ崖と、残りの半分は真っ青な空、残りの半分は鈍色海とわずかな海岸線。その視点でしか見ることができない。見上げたそこに二つの黒い影。飛び立ち、青い空を舞うのは鳥だろうか。違う、とわかる。意識が浮く。顔のない女がゴウに何かを囁いている。ゴウを見ているのに、女の言葉を聴くのに、何もできない。ゴウをつかみ引き離そうとするが、手が伸ばせない。からだが硬直している。違う。自分の肉体がそこにないのだ。自分が実在しない。顔のない女に多佳子は叫ぶ。しかし女には何も聞こえない。多佳子の姿が見えていない。女が笑う。笑いながらゴウを突き飛ばした。そして女も巨大な黒い鳥のように、飛び立つ。青く、深い、空だけがそこに残る。
「大丈夫?」
 目を覚ますと夫がいた。べったりとした汗が額から首にかけてにじみ、髪を貼りつかせていた。
「うなされてたよ」
 夫の大きな掌が額に乗せられる。冷たい手だ。心地良い。深く息を吐く。目を閉じる。泣きそうになる。
「あのね……」
 ゆっくりと目を開け、口を開いた。
「何も言わなくていいよ。何か飲み物を持ってくるよ」
 夫が微笑んだ。
 ううん、聴いて。お願いだから、行かないで。わたしの話を聴いてよ。
 夫は部屋を出て行った。
 ゴウがいなくなって、通帳とカードがなくなっていることに気づいたとき、多佳子はそこに一縷の望みを託していたのだった。おそらくついこの間までその希望を抱き続けていたのだ。いま、もし、ゴウが幸福でいてくれるとしたら、そのほんの一部を自分が、自分のお金が、わずかなりにでも助けになっているだろう、と。
 しかし、それは手つかずで返ってきた。凛という女の手でつき返された。
――彼らはいったい何を求めていたのでしょうね。
 上村さん、それはわたしたちにはわからないと思います、永遠に。顔のない女が笑う。多佳子はふたたび重く、深い、眠りに沈んでいった。

   *

 ギターを弾くゴウをひさしぶりに見ることができる。それが嬉しかった。
 初めて行ったライブハウスにはうまくなじめなかった。薄暗くて店内の様子もよく分からなかったし、けれどもそこにいる人々はみんななんのためらいもなく自分の居場所を決め、カウンターから受け取ったドリンクを飲んで誰かと大声で叫び合ったり、音楽に身を揺らしていたりして、自分ひとりだけが場違いなところに迷い込んでしまったように思った。ゴウに促されるままに壁際のスツールに腰かけた。
「はい」
 紙コップ入りのコーラを渡される。
「じゃ俺行くね」
 ゴウが楽屋へ行ってしまうと余計に心細くなった。しかしゴウのギターを見ることができる期待感がそれを紛らわせてくれた。大音量の重低音がまるで自分自身の胸の鼓動の高まりのように鳩尾に響く。
 出番は最後だった。人気のあるバンドらしかった。壁際にいた人たちがステージの前に集まっていった。
 しばらく気づかなかった。重なり並ぶ人々の黒い頭の影の向こうにゴウはいた。ギターを弾いていた。ステージの隅、スポットライトの濃い陰影のなかで淡々と弾いていた。路上でのように愛撫するような親密さはそこにはなく、冷たく硬いよそよそしさだけがあった。つまらなそうだった。そんなふうにギターを弾くゴウは見たことがない。まるで別人だ。
 多佳子は失望した。
 来なければよかったのかもしれない、と思った。
「来なくていいよ」とゴウも言ったのだ。
「どうして。絶対行くよ」
 多佳子は意気込んで言った。ゴウは無感情に「たいしておもしろくないよ、助っ人だし」とつぶやいた。
「ううん。行く行く」
 力を込める多佳子に半ばあきれるように微笑んですぐに表情を消したゴウは、多佳子の失望を予想していたのだ。
 多佳子は失望していた。こんなゴウは見たくなかった。
 最後の曲だとボーカルが叫んだ。いたたまれなくてライブハウスの片隅にいる自分をもてあましていた多佳子はその言葉にほっとした。
 曲の終盤になって、しかし、唐突に変わった。ギターソロだった。深刻な喧嘩をしていた恋人へその感情を思い切りぶつけるように、急に激しく弾き始めた。他の音が聴こえなくなった。すべてをのみ込んでいた。顔を横にそむけ、張ったゴウの首筋を、多佳子は呆然と見つめた。それは見たことのないゴウの激情で、そしてあのとき強烈に惹かれたゴウのあのかたち以上に美しかった。ときに顔をしかめ、肩をいからせて弦を掻き鳴らし、ひずんだ音に陶酔するように目を閉じて、唇を噛み、首を振った。ギターの音はゴウに巻きつき、締め上げ、抱擁した。多佳子は興奮した。
 ライブが終わり、明るくなったフロアにゴウが現れ「行こう」と声をかけられるまで、多佳子は呆然としていた。
 すごいね、という言葉も出てこなかった。
 ライブハウスの重いドアを開けかけたときに、誰かがゴウを呼んだ。
 ゴウのいたバンドのボーカリストだった。
「あのさ、あんた小節とか数えられないの?」
 首を斜めに傾げ、挑発するような鋭い視線を向けている。誰かが彼の調子を和らげるようにその肩を抱きぽんぽんと叩いた。ボーカリストはその誰かの手を払いのけて一歩前に進み出る。払いのけられた人はしょうがないなあと言うように浮かべていた微笑をこわばらせる。
「ラストのギターソロ、十六小節って言わなかった?」
 ゴウは肩のギターを担ぎなおし、もう一度「行こう」と多佳子に言ってドアに手をかけた。
「待てよ」
 ボーカリストはゴウのギターケースを引っ張った。ゴウがずり落ちたギターを振り回すように担ぎ上げると、その先がボーカリストの頬をかすった。
「ってぇ!」
 客がほぼ帰り、せわしなく機材などを片付けていたバンドマンやスタッフたちがその大声に一瞬手を止め、振り返った。
「サービスしてやったんだ」
 ゴウが言った。
「あまりにもつまんなかったから」
 そして無表情のまままっずぐにボーカリストの顔を見た。
 ゴウが曲の構成を無視して倍の長さのソロを弾いていたことを多佳子は知らなかった。ゴウのストラップを引っ張り演奏をさえぎったベーシストを憎みさえしていたのだ。
「なんだおまえ」
 誰かが間に入るまもなくボーカリストはゴウにつかみかかった。ゴウはその手首をつかみ、引き離して、突き飛ばした。後ろに集まり始めていたバンドマンのひとりがそのからだを受け止め、それをはずみにして彼はまたゴウに向かってきた。ふたりともやめろって、とか、いいかげんにしろよ、とか怒鳴りながら止めに入る周囲の人間とがひと固まりになっていた。
 多佳子は何もできずにただ立ち尽くしていた。
 たぶん、ゴウの方が悪い。多佳子にもそれは分かった。けれども、さっきのあのギターソロはゴウにとって正当だ、そう思った。ゴウがゴウとして正当で、なのにそれが間違ったことになるのが悲しかった。乱闘の中心で痛めつけられているゴウが悲しかった。
「あんたさ」
 誰かが言った。
「こいつの彼女でしょ?」
 ゴウを正面から抱え込んでいるその人がすがるように多佳子に言った。うん、とあわててうなずくと「連れてってよ」と言いながらゴウをドアの方へと押しやった。
「待てよ!」
 ボーカリストが声を張り上げる。
「いいからもう連れて帰って」
 そう言ってその人はゴウをドアの外へと突き飛ばした。床に落とされていたギターケースを拾って抱え多佳子も後を追った。多佳子に背を向け肩で息をしていたゴウは、しばらくすると街灯りの漏れる出口に向かって落ちるように階段を降りた。多佳子は何も言わずに付いていった。
 何を言っていいのかわからなかった。
 最後の最後に見せてくれたあの姿は本当に美しかった。あれはゴウとしての本来だと思う。それを見られたことがとてつもなくうれしい。ねえだから、だから、あなたは間違ってない。
 そう言えばよかったのかもしれない。
 しかし多佳子は頑なに向けられたゴウの背中をただ追いかけることしかできなかった。
 駅前の遊歩道で立ち止まった。
「ねえ」
 多佳子はゴウに呼びかけた。ゴウはぼんやりとその場所を見つめる。多佳子はゴウがいつもギターを弾いている向きでしゃがみこんだ。
「またギター弾いて。ここで」
 多佳子はゴウを見上げ言った。ロータリーを煌々と照らす照明は上方からゴウをシルエットに覆い、その表情を隠していた。多佳子はゴウの肩越しの光に目を細めた。
「今は」
 影のゴウからそういうつぶやきが聞こえた。
「弾けない」
 ふたりの傍らを何人もの人たちが通り過ぎていく。ゴウは駅ビルの外壁に背をもたれかけた。斜め下から見上げるゴウの、頬からあごにかけてのラインが白く浮き上がって見えた。とてもきれいな線だった。どうしてみんなこんなに完璧なかたちに目を留めないんだろうと多佳子は思った。苛立ちにも近かった。足りないのはオレンジ色の夕陽だけだ。
 もしかしたらこの美しさはわたしにしか認識されないものなのだろうか。
 多佳子は向けられた背に精一杯訴えた。
「ここでギターを弾くゴウがわたしは好き」
「やめてくれよ」
 硬い声だった。
「ボランティア精神とか?」
「何それ?」
 多佳子はゴウが何を言っているのかわからなかった。
「もういい。多佳子にはわからないんだ」
 なせだろう、日本語を話しているのに言葉が通じない。
「夢のない人間にはわからない」
 境界線だった。
 どうしても越えることのできない線だった。
 近づきすぎたら見えなくなってしまう、ということだったのかもしれない。たとえ第三者になってゴウと一緒にいる自分を見ることができたとしても、何も満たされないのだ。むしろゴウと一緒にいる自分から目をそらしてしまうかもしれない。わたしはただ一番好きなかたちのゴウを見つめていたいんだ。ときに発見し、ときに確認し、少しはなれたところからゴウを見つめる。たとえお互いが孤独なままでしかいられないとしても、ゴウの本来を守るためならその孤独を、わたしは引き受ける。そう思った。
 しかし、しばらくしてゴウは消えた。

   *
 
 すこし休憩しましょうか。
 薄い緑茶を入れた湯呑を両手で包むように持ったまま、しばらく目を閉じたまま黙り込んだ目撃者に、ダークスーツの警察官は言った。
 寝不足が続いていた。家人との以前からの終わりのないいさかいが目撃者を消耗させていた。すぐ近くにいるのに分からない。近すぎるから分からないのだろうか。だとしたら愛することなど不毛だ、目撃者は朦朧とした頭で考える。昨夜、家人と言いあいをする目撃者の膝元にくぅんくぅんと小犬が鼻を寄せてきた。うるせぇと家人は小犬を蹴った。きゃんと鳴き、尻尾を股にはさみ、チョビは部屋を出て行った。殺意が芽生えたのはそのときだった。
 頭が、痛い。
「……突き落としたのかも……」
 目撃者はすっかり冷めた湯呑をテーブルに置き、ひとりごとのようにつぶやく。
 

(あらすじ~第一話~第六話)

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(第八話~)

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