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【恋愛小説】「傾いでます」第九話


第九話

「先にシャワー浴びる?」
 ことの後、夫が言った。多佳子は首を振る。もう少しこのままでいたい、と言ったらなんて言うだろう。
「じゃあ、先に入るよ」
 ベッドから出て行く夫を、しかし多佳子は引き止めない。夫は「おやすみ」と多佳子の額にキスをして離れていく。シャワーを浴びた後はそのまま自分の部屋へ戻るのだ。夫の後にシャワーを済ませる多佳子もまたそのまま自分の部屋に戻る。いつものことだ。
「ねえ」
 ドアを開けようとする夫の背に多佳子は問いかける。夫がふりむく。
「子ども欲しい?」
 多佳子の言葉に顔だけを向けていた夫がからだごと向き直り、「ああ」と言った。
「わたしも」
「そうか」
「入籍のことも考えなきゃ」
 夫がベッドへ戻ってくる。多佳子の傍らに座り、スプリングが沈む。
「どうしたの、急に」
 多佳子の目を見つめそういう夫に、多佳子はふっと笑う。
「急にってことないよ。もう三年も事実婚のままなんだし」
 結婚を決めたのと同じころ、多佳子は司法書士登録をし新しい事務所で仕事を始めた。登録名の変更手続きや、作ったばかりの名刺やようやく名を覚えてもらい始めていた取引先への連絡などが億劫で、落ち着くまでは籍を入れないままとりあえず結婚生活を始めようということになったのだった。不自由はなかった。子どもができたら入れればいいとも話し合っていた。
「まぁ確かにね。多佳子の仕事の方は?」
「うん。もう、なんとかなると思う」
「そっか。じゃあさ、今夜はもう遅いから、今度の休みの日、改めてちゃんと話そう。具体的なことも含めてさ」
「そうだね」
 多佳子は夫の奥二重の柔和な目を見つめ、微笑む。

 結婚をかんがえなくもないと藤木が言って多佳子は驚く。
「いや、別に相手はいないよ」
 と、のけぞった多佳子を見て弁解するように藤木は言った。相手がいるいないの問題ではなく、藤木が受験以外のことを考えていることにひたすら驚く。
「今回みたいなことって、結婚すればなくなるのかなって思う」
「そんなことはないでしょう、それとこれとは別よ」
 今回みたいなことと言って互いにすぐ了承できるほど、恋する予備校生問題はいまの藤木にとって重要課題であることが共通認識されてはいる。いま、藤木とは学生時代の友人の誰よりもひんぱんに会っている。県外に出てしまった友人とはそうもいかないが、地元にいる他の友人たちとなら約束をして会おうと思えば会えなくはない。ただ、それぞれ出産を控えていたり、仕事で責任あるポストに就任したり、あるいは親の介護が始まったという友人もいて、それぞれの自由になる時間が予想しがたくなっている。そう気軽に誘えないのだ。藤木とも東京から地元へ転職していなければ、こうひんぱんに会うこともなかっただろう。しばらくしたらそう会うこともなくなるのかもしれない。
「狭間の年齢なのかな」
 多佳子はスターバックスのカップをかじりながら言った。
「はざま?」
「あんたの口から結婚の言葉が聞かれるなんてさ」
「悪い?」
 カプチーノの泡を唇の上に乗せて藤木が睨みつける。
「いいえ。隔世の感」
「ふん。でも多佳子は別になんの狭間でもないでしょう。結婚もしてて、仕事も安定、マンションまで買って、親は元気で畑耕してる。あ、こないだもらったじゃがいもおいしかったよ、とうちの親が言ってたよ」
 郊外の実家では両親が結婚した姉夫婦の家族と二世帯六人で暮らし、そう広くはない畑で、自分達家族が食べる分と近所のひとに分ける分くらいの野菜を作っている。ときどき実家暮らしの藤木にもおすそわけする。
「親が元気なのはとりあえずありがたいね、お互い」
 うんうんと、相変わらず上唇に泡を乗せたまま藤木は言いながら自分の言葉にうなずく。たしかにどちらかに介護の事情が加わればこうして暢気にランチをする機会もほぼなくなるだろう。
「でもわたし傾いでるらしい」
「かしいでる?」
「うん、若い子に言われた」
「若い子とか言うな」
「ごめん」
 しずしずとふたり冷めたコーヒーを飲む。
「……夢、か」
「何突然」
 藤木が怪訝な顔で見る。自分でも突然何を口走っているのだろうと狼狽する。これも傾いでいるせいだろうか。
「いや。いまどきの予備校生とかもやっぱり夢はあるんだろうね?」
 とりあえず話をつなぐ。
「夢?」
「うん。もちろん、目の前の大学受験という現実的な目標はあるだろうけど、大学進学のそのまた先に叶えたい夢なり目標なりがあるんだろうなと思ってさ」
「そんなの知らない。夢とか言ってる暇があったら手足動かせ、だよ」
「知らないってことはないんじゃない」
 多佳子はむっとする。勉強教えるだけじゃなくてさそういう夢とかを理解してあげることだって予備校の先生として必要なんじゃないの、そりゃ景気もあれだしそんな甘いこと言ってられないっていうのもあるだろうけど、でも、勉強とか学歴とかだけじゃはかれないそれぞれの持つ才能みたいなものだってあるだろうし、それを生かして仕事にするっていう目的を持っている子だってぜんぜんいるだろうと思うし、それはそれで素敵なことじゃないかな、などと言っていて気恥ずかしくなるようなことをしかし多佳子はよどむことなくまくしたてていた。どうしようもなく自分の言葉の軽さを感じていたが、止めることができなかった。
「そういうこと言う人間に限って手足を動かさない」
 藤木は冷めた表情で言った。
 夢のない人にはわからないんだよ、と言いそうになる。
 が、違う。藤木は夢のない人間ではない。夢そのものを生きている。手足を動かし続け、努力し、いつかどこかで叶える夢じゃなく、いまここで夢を実現し持続させている。
「あんたって強いよね」
 多佳子はつぶやいた。

 同じ日の夜、駅中のマクドナルドでお茶しようと切羽詰まった声で藤木から電話が来た。十一時を過ぎていた。不穏なものを感じ、多佳子は夫と一緒に駅中のマックへ向かった。思った通り、人の少ないがらんとした店内で、店の中央付近の周りからよく目につく席に座っている藤木が、見知らぬ若者に手首をつかまれていた。
「離しなさい!」
 店内に藤木の声が響く。さすが職業柄声がよくとおる。若者は狼狽する。カウンターのなかから接客中の店員が何事かと視線を移した。メニューを見ていた客も振り返る。藤木が力いっぱい手を振りほどいた。若者がよろめく。そして体勢を立て直すと唐突に甲高い声を上げた。
「なんだよ、その態度!おまえは雇われてるんだろ! 俺は客だよ! 俺に雇われてるんだ! 俺の言うことを聞くべきなんだ! 俺の言うとおりにしなきゃいけないんだよ! いいから従えよ!」
 ほぼ悲鳴のようだった。多佳子は藤木に駆け寄った。夫がからだを折り曲げるようにして叫ぶその若者をつかみ上げた。大丈夫と覗き込んだ藤木の顔は蒼白だった。肩も震えている。
「ここはいいから」
 夫が言った。
「なんだよ! おまえ! 関係ないだろ、入ってくんなよ! 先生、先生! 待てよ、逃げるなよ! 行くなよ!」
「いい加減にしな」
 夫の太い声が若者を制す。
 うあー! という叫び声を背に、多佳子は藤木を抱えるように連れ、店を出た。
 仕事の帰り、予備校を出たところから後をつけているのに気付いたのだという。そのまま電車に乗って家まで帰ったら自宅を突き止められてしまうと考えた藤木は駅中のマックに入り、一番人目に付く席についてこれみよがしに多佳子を電話で呼び出した。誰かと会うということを知らしめれば尾行などやめるだろうと考えたのだった。が、予想に反し、予備校生は藤木のところにやってきてテキストを開き、教えてもらいたいところがあると示したのだという。勤務外だからと言い、早く家に帰って勉強しなさいと忠告した。そんなこと言わないでここだけでいいんです、いま教えてください、気になってほかが手に付かないんです、お願いですと予備校生は食い下がった。それでもなお冷たく突き放し、彼の懇願を黙殺し続ける藤木の手首を彼がつかんだところに多佳子夫婦がやってきたのだという。
 なんだろう、なんなんだろう、わたしにはぜんぜん理解できない、藤木は多佳子の運転する車の助手席で繰り返した。そうだろう、と多佳子は思う。藤木にはあの予備校生を理解することはできない。
 思ったよりも普通の男の子だった。勉強ばかりしてきて女の子に免疫がないという印象ではなかった。スポーツもそこそこできそうだし、女の子と付き合ったこともなくはないような、こざっぱりとしたいまどきのおしゃれもそれなりにこなしていた。ただ彼は、見失っていた。欲しくて、手に入らなくて、我慢しようと頑張るのだけど、でも我慢しきれなくて、見失ってしまっている、そんな感じだった。そんなみっともない情熱を、藤木だけではない、多佳子ももうよくわからない。しかし、それでも、藤木ほど拒絶することも嫌悪することもできない。望むような関係性を築けない不器用さをただ悲しく思う。藤木にしたって詭弁でもいい、もうすこしやわらかく、遠回しに、適切な距離をはかることはできないのだろうか。藤木は藤木の正当性を守り、彼は彼の望みを押し付ける、どこまでも相容れない。実は強くなどないのかもしれない、と助手席にぐったりと身を預けている藤木を盗み見て、多佳子は思う。
 藤木を自宅へ送り届け、マンションへ戻ると夫も帰っていた。泣き叫ぶ予備校生をなだめ、話を聞き、そのうえで彼の言っていることはめちゃくちゃで、どんな相手であってもそれではけっして心を開くことはないということを言って聞かせたという。どこまで理解したかはわからないが、ひとまず落ち着きを取り戻し、帰っていったという。
 あのくらいの年齢の男ってさ、と夫は言った。年上の女性に惹かれがちなんだよね。
 

(あらすじ~第一話~第八話)

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(第十話~)


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