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【恋愛小説】「傾いでます」最終話(11)


最終話(11)

 結局人はかたちのないものなど愛せない、そう思い、だから多佳子は出向いた。
 火葬場の中へは入らず、駐車場の隅に停めた自分の車の傍らに立ち、近代的な建物のその上空の青い晴れ渡った空を見つめていた。建物の向こうの深緑の森からけたたましく鳴く蝉の声が聞こえてくる。駐車場に塗り込められたやけに黒々としたアスファルトが直射日光に炙られている。風のない景色が熱で揺らぐ。あまりの暑さに現実感を失う。
 煙になって空に溶けていくところを見届けようと思ってきたのだが、想像していたような高くつき出る煙突などはどこにも見当たらなかった。といって近親者しかいないだろうその会場の中へ入っていく勇気もなかった。ただ「片桐家」という案内の文字だけを確認するのが精いっぱいだった。どれだけの時間いたのだろうか、これ以上いてもきりがないと見切りをつけ、車に乗りこもうとしたとき、声をかけられた。上村透だった。礼服を着ていた。
「やはりいらしていたのですね」
 上村透はそう言って晴れ晴れと微笑んだ。
 晴れ晴れと、たしかに多佳子にはそう見えた。七月の青い空のせいだろうか。
 停めてある数台の車の何台目か車の助手席に青ざめた女の横顔が見えた。長い髪がうつむき加減の顔の半分を隠している。白い光がメタリックなボディの縁を象り、窓の奥を陰らせる。
 よくわからない。
 その顔が、見えない。
 多佳子は求めるようにふらふらとそこへ歩み寄る。
 ゴウは死んだ、突然そう理解する。
 顔が見えない。
 車の中のそのひとが、ふいにこちらを見た。髪をかきあげ、窓越しに、真正面からまっすぐに多佳子へ視線を向けた。青白い、誰にも似ていない顔だった。少し吊り上り気味の二重瞼の大きな目がまっすぐに多佳子を見る。
 訊きたかった。駆け寄ろうとする。なんでゴウは死んだの? なんであれを返してきたの? 足を速めようとしたそのとき、強い力で腕を取られた。上村透の手だった。長い指の大きな手だった。
 見開かれた上村のふたつの目は、力のある強い光を宿し、唐突に走り出そうとした多佳子の行動を阻むようにまっすぐに向けられる。表情はない。狼狽もしていないし、攻撃しようという激情もない。かすかに首を傾げ、じっと多佳子を見つめる。
「妻はまだ完全とは言えません」
 静かに上村は言った。
「ただ、ひとことだけ、口をきいてくれました」
 その目を多佳子は見つめ上げる。その黒い球体の中には奥行きがない。
「彼を殺したのはあなただと」
 そして上村の視線はゆっくりと車の方に向けられ、瞳の中の多佳子の顔も放り出された。つられるように多佳子も見る。
 車の中のそのひとは、眩しそうに目を細め、多佳子の顔をじっと見つめた。薄い唇がかすかに動いたように見えた。
 そしてしかしすぐに目をそらし、長い髪に顔をかくした。
 ざわりと建物の向こうの森が揺れ、駐車場に熱風が流れた。一瞬蝉の声が途切れる。そしてまた、一斉に鳴きはじめる。多佳子の腕をつかんでいた手を離し、上村は何も言わずに車へと乗りこんだ。
 多佳子は暑さを忘れ、その場に呆然と立ち続けていた。

 そうか、えんぴつおばさんの家はここだったのか、と多佳子はその窓を見つめ思う。林さんもうちょい左、と調査士が測量機を覗きながらスケールの位置を指示する。そうだよね、彼女にだって家はある。ただ子どもの自分には突き止めることができなかっただけだ。こうして突き止めたときにはもう、傾いで、朽ちるのを見届けることしかできない。はーい、と紅白の長いスケールをじりじり動かす。はい、そこ。停止する。気がつくと涙が流れていた。慌てて顔をそらし、借り物の作業服の裾で拭く。
「あー、ちょっと動かないで」
「すみませーん」
 無駄に明るい声をあげる。
 ひととおりの調査を終え、機器を仕舞い込んだ後、調査士は長屋を見やり、呆れたように言った。
「しかしこの傾き具合絶妙だよな。このバランス逆にすごいぜ。いっそ重機でぐしゃっとやりたくなるね」
「ほら、行きましょう。ボスが待ってますよ」
 感心する調査士を置いて、多佳子は長屋を振り返ることなく車に乗りこんだ。
 上村を通して投げつけられた凛の言葉に激しく動揺したのだった。冗談じゃない、ありえない、なんでわたしがと思った。が、しかし「ああそうか」とも思った。そうかもしれないとぼんやりと納得していった。時間がたつにつれ、その納得は少しずつ確かなものになっていった。ああそうか、そういうことだったのかと深く、沁みるように、わかっていく。そして、わたしたちは確かにかつてそこまで深くつながりあえていたのだと、不謹慎ながら嬉しくさえ思った。殺しあえるほど深く、だ。しかし、どんなに深く納得しても、最終的には決してわかりきることはできないだろうとも思う。自覚することから始めるしかない。わたしがゴウを殺したのだ。罪悪感など甘えだ。謝罪は不遜だ。そして、もしそうならむしろ、「ばっかじゃないの」と吐き捨ててやる。その権利がある。ただ、みっともなく、傾いで、ふんばって、立ってるんだよみんな。それでいいじゃないのさ、と、何もわからないふりして怒鳴りつけてやる。いや、実際何もわかってはいないのだ。
 ただ、更地にするのは簡単すぎる。

   *

 ゆっくりと傾いていくのを、目撃者は見ていた。
 朝日が東の空を染めはじめ、海を白くきらめかせていた。逆光はそれを象る。鳶のようにも見えた。しかし人だと、目撃者は最初からわかっていた。それをただ美しいと思っていた。魅入っていた。
 両手を広げ、十字にまっすぐ立っていた。
 そして、ゆっくりと傾いていく。
 飛べ! 
 思わず心の中で叫んだその時、そのひとつは飛んだ。思わず微笑んだ目撃者を、足元の小犬が黒い瞳でじっと見つめていた。

 〈了〉
 

(あらすじ~第一話~第十話)

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