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【恋愛小説】「傾いでます」第二話


(あらすじ~第一話)

第二話


 高崎の街を歩く。
 駅の西側も区画整理が大方済み、広がった相互通行の車道と、きれいなモザイクタイルの貼られた歩道がまっすぐに街を貫いている。老朽化した建物や、採算の取れない商業施設や、新しい区画に合わない場所に立つ建物がのきなみ排除され、こざっぱりとしたインテリジェンスビルと駐車場とが整然と配置された。新しいビルのひとつにある建築事務所で打ち合わせを済ませた多佳子は、まっすぐな広い路を歩いていた。ところどころ取り壊された古いビルの隣に壊され損ねた小さな民家のずっと日の当たらなかった側面が晒されて立ちすくんでいる。青白い空とじりじりと地面を灼く太陽だけは変わりなく、張り巡らされる電線の向こう、ただはるか上空にすかんとある。おもに不動産登記を請け負う多佳子は、こうした街の塗り替えを記録してきた。所有者の変更、合筆、分筆、担保設定、そして閉鎖登記。この数年、多くの土地の線を引きなおし、名札を変えた。最近その数も減り、街の様相も定着しつつある。古い街が脱皮を重ねながら身悶えているような数年だった。代わりに近隣トラブルによる簡易訴訟や、消費者金融への過払い請求の仕事が増えている。
 多佳子の勤める事務所は法務局に近い駅の東口側にあった。駅の自由通路が東西をつないでいるが、多佳子はたいてい線路をくぐる立体交差道路を使う。この八年間、無意識に駅西口の遊歩道を避けていた。
 駅構内も東口周辺も大きく変わったが、西口の遊歩道だけはほとんど変わっていないのだ。八年前と同じだ。薄汚れた白いタイル。申し訳程度の小さな植栽と並ぶベンチ。ロータリーの上を取り囲むがらんとした広い遊歩道。ときどき何人かのストリートミュージシャンがギターを抱えて座っていた。
 多佳子は歩く。信号で止まる。初夏の日差しが白いガードレールを照らしている。ストリートミュージシャンはいない。額や首元にじっとりと汗がにじむ。プラットフォームに鳴り響く発車の合図が高架線からかすかに聞こえた。横断歩道のメロディが頭上で鳴りだし多佳子の背を押す。渡る。立体交差道路の歩道を歩き、線路をくぐる。携帯電話が鳴った。ひんやりした暗闇でディスプレイを覗く。取引先の不動産会社の営業マンだ。行き交う車の騒音を片耳を手でふさぎ遮る。排気ガスですすけた擁壁に向かって大声で応対する。相手の声が思ったよりもクリアに聞こえ、こちらの声の大きさも普通に戻す。書類をこれから届けるという。訊けば、いま多佳子がいるすぐ近くの分譲マンションのモデルルームにいるという。だったら今から自分が受け取りに行くと言って電話を切った。
「先生、わざわざすみません」
 テレビドラマのセットのようなモデルルームで多佳子を出迎えたその若い営業マンは、わざわざすみませんのすが「すぅぃ」になりアクセントをおいた独特な発音でやたらと大きな声で言った。以前から若手落語家の誰かに似てるなと思うのだが、誰だか特定できない。今日は一段と若手落語家度が高い、と思って気づけば、客が一緒にいた。だから張り切っているのだ。人のよさそうな小柄な初老の男性だ。営業マンの隣でふわふわと笑っている。とりあえず紹介してくれないかなと思いながら黙礼した。
「先生、先生、まず、とりあえず、座りましょうか」
 リビングルームを模した折衝スペースのソファセットへ促される。まだ駆け出しの司法書士の身では、「先生」は何度呼ばれても慣れない、「林さん」でかまわないと事務所でも取引先でも公言していて、この落語家営業マンにも言っておいたはずで、実際ふだんそう「先生」とわざとらしく呼ぶこともないのに、やはり客がいるために敬称を使わねばならないと思ったのか、声の大きさともあいまって、その張り切り具合がなんとも暑苦しい、と、多佳子は引く。
「あ、こちら今回タナカ様の登記をお願いする司法書士の林先生でぇ。先生、こちら今回の物件のお施主さんでタナカ様でぇ。ちょうどよかったご紹介できてぇ。え。登記っていろいろと揃えていただく書類もあるし、大切なご印鑑を使っていただくこともあるし、お互いこうしてお顔をお知りになられるのは信頼関係のうえではほんとうにプラスなことですからねぇ、え。よかったでぇす」
 ようやく紹介されたが、ソファを前にいまだ三人そろって立ったままで、しかたなしに愛想笑いしながらそのままで、それになんだか日本語変だぞと思ったが口にはしない。顔にも出さない。背筋を伸ばし、腹に少しだけ力を入れ、低めの声で「司法書士の林です、よろしくお願いいたします」と言って腰から三十度折り曲げお辞儀をした。タナカという名の初老の男性はやたらふわふわとからだを上下にゆらしていたのだが、多佳子の落ち着きにようやく身の置き所を見つけたかのようにふっと静止し、「よろしくお願いします」と微笑みながら同じように丁寧なお辞儀を返してくれた。多佳子が掌をソファへ差出し、ようやくタナカ氏を座らせる。多佳子も座る。一呼吸遅れ、のりおくれまいとするかのように落語家営業マンも上下に体をはずませながら、多佳子の隣に座りこんだ。せっかくなので、と多佳子はタナカ氏に揃えてもらった書類がこれからどう使われどう手続きされていくのかの流れをざっと説明し、隣でテンションの高いままタナカ氏のかわりに大きな声であいづちを打ち続ける営業マンが本当にうっとうしいなと思いながら、そうそうに切り上げ、モデルルームを出た。出てすぐ大きなため息をついた。
「林さん、なんか疲れてます?」
 事務所に帰ると事務員の女の子に言われた。同じような薄っぺらな笑い顔を自分も上村透に見せていたのかもしれないと思うと余計に疲れが出た。

「どうしてああ若手落語家みたいなの?」
 多佳子は夫に言った。若手落語家の誰に似ているのか特定できないのは、ある個人ではなく、最近の若手落語家にかぎらず若手芸人や若いアイドルタレント含め若い人全般的によくみかける特徴だからかもしれないと思う。やたら丁寧で、やたら腰が低くて、やたら敬語がおかしい。謙譲しすぎて自分だけじゃなく相手まで貶めたり、泥つき野菜がどこの要人かというくらいに奉られたりする。「だからこのトマト栄養豊富であられるんですねェ」などと。今日の人だけではない、若手営業マンはだいたい同じようなテンションで接客している。
 六歳年上の夫は若手落語家営業マンと同じ不動産会社に勤めていて、所属は営業ではなく人事部だが、勤続十五年、営業マン全員それぞれのひととなりは把握している。
「研修で叩き込まれるっていうのもあるけどさ、たぶん、シールドだよ」
 夫は武骨な太い指で器用にピスタチオの殻をむきながら言った。
「なに?」
 ネットフリックスの映画を観終わって、地上波に切替たら音量のバランスが悪くて聞こえなかった。慌ててリモコンで音量を下げる。
「シー、ル、ド」
「遮断壁?」
「そう。つくりこんだ営業キャラで防御してる」
「へえ」
 モニターには地上波放送の深夜番組が映し出される。まさしくちょうど名前はよく知らないでも最近よく見る若手芸人が先輩芸人にやはりよく分からない敬語をつかいながらハイテンションでしゃべっている。
「客からきついこと言われたり、無視されたり、避けられたり。営業ならよくあることだけど、それって自分そのままじゃしんどいでしょ。だから営業キャラでシールド作って守る。防衛手段だね」
「じゃあ、プライベートじゃぜんぜん違うキャラだってこと」
「あたりまえだよ」
 だろうね、と思う。恋人や家族がいつもあんなテンションだったら疲れてしようがない。
「器用なのね」
「いや、不器用なんだろ」
「そう?」
「すこぶるナイーブだよ、今どきの若いのって」
「今どきの、とか言う」
 多佳子は笑う。
「年寄りくさいってか」
 夫も笑う。
「そうよ」
「もう四十だから」
「まだ四十でしょう」
 今年妻と同じ三十代から一区切り上の四十代という齢を迎えた夫は、冗談半分に、やや自虐的に、ことさら自らが老け込んだことを主張する。六歳という歳の差を気にしているわけではないのはわかっているし、それほど深刻に思い込んでいるわけではないとわかっているので、多佳子も軽く受け流す。
 みなさんには心の底から癒されていただきたいと思って僕がご紹介するのはこちらっ、とテレビの中の若手芸人が甲高い声を張り上げて、夫はチャンネルを変える。スポーツニュースのエンディングの音楽が流れる。チャンネルを変える。CM。チャンネルを変える。CM。チャンネルを替える。CM。寝るか、とピスタチオの殻を片付け、空になったビールの缶を二本、器用に片手で持ち、夫は立ち上がった。
「おやすみ」
 まだビールが残っている多佳子は、そう言って見送った。
 夫とは別寝だ。
 けっして夫婦仲が悪いわけではない。
 マンションを買ったときそれぞれの書斎を決め、仮眠用のベッドを置いたら、そのまま別々に眠るようになった。もちろん、どちらかのベッドへもぐりこむことはままある。それでもことが終わればまたそれぞれのベッドへ戻り、ひとり手足を伸ばし、ゆっくりと安眠する。生活の場を共有し、日々の他愛ない感想を共有し、性生活を共有し、そしてひとりひとりの時間と空間を尊重する。それがちょうど良い距離なのだ。
 消費者金融のコマーシャルソングがぶしつけに繰り返される。テレビの電源を切った。
 静寂。マンション八階のリビングルームが、ふと、海の底に沈められたように思う。ソファに身を預け、残ったビールを飲み干す。目を閉じる。上村透の長く細い指が浮かんだ。差し出された白い封筒、青いインクで書かれた宛名。一字一字丁寧に、神経質に角ばった文字、それを書いたのはその男の妻だという。知らない女。ゴウと崖から落ちたという。なんだそれ、なんの冗談? はじめての……、と、消費者金融のコマーシャルソングが頭の中を流れる。いやだと思えば思うほど繰り返す。もう寝ようと立ち上がる。

(第三話)

https://note.com/toshimakei/n/n242a2fa322fb?from=notice

(第四話~)


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