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【恋愛小説】「傾いでます」第六話


第六話

「お風呂好き?」
 夫に訊く。夫は不思議そうな顔をして新聞から顔を上げ、「普通」と答えた。
「何、突然」
「ううん。特に意味はない。特に意味のないことを訊くのもたまにはいいじゃない」
「いいさ。では、多佳子は? お風呂は好き?」
「普通」
「そうか。普通。いいね」
 夫は多佳子に笑いかけ、満足そうにうなずく。「いいよね」多佳子も言い、同じように微笑んだ。
 手足を動かせ、藤木の言葉がふいに浮かぶ。
「お見舞いに行ってこようと思う」
「行っておいで」
 夫はまぶしいものでも見るように多佳子を見つめ、目を細めた。
 ところでそれは誰なの、男なの、なら行くなよ。
 そうは言わない。
 信頼されている、と思えば思う。現在と切り離された過去だと、多佳子自身が確固として思っていればその信頼に容易に応えられることでもあるのだ。多佳子は夫の隣に座りこみ、新聞をそっと取り上げる。がさりと音を立て、新聞は床に落ちる。夫の少し厚めの唇を長い間見つめ、ゆっくりと自分の唇を寄せた。温かい。首に両腕を回し、強く抱く。夫もまた多佳子の背に両腕を回してやわらかく抱きしめた。

 眠っていた。
 八年前と変わらない寝顔だった。今にも起き出して「バイトの時間」と言うのではないかと思った。消毒液と糊のきいたシーツの匂いと顔の半分を覆う透明の呼吸器が、それを否定する。
「声をかけてやってください」
 病室のベッドの傍らに立ちそう言ったのはゴウの母親だった。初めて会うそのひとは、目元がゴウにそっくりで紹介がなくてもすぐにそうだと分かった。化粧気はないが、品の良い、整った顔立ちの人だった。ゴウとは家族の話をしたことは一度もないと気づき、ゴウに母親がいるという当たり前のことに、気が遠くなる。
 むしろ、そこに眠るのはゴウではないと思う方がずっと正常のような気がした。遠い昔の知り合い、記憶のなかの面影すらおぼろげな懐かしい誰か。
 会釈をしたまま黙り込む多佳子に、ゴウの母親は気を利かせたのか、手渡した花束と空の花瓶を手に病室を出て行く。
 取り残される。
 ゴウとふたりでいるのだ、ということがしかし多佳子には信じられなかった。ただひとり寒々とした虚空に取り残されたように思う。白いカーテン、白いシーツ、白いパーテーション、ゴウの頭から首に巻かれた白い包帯、窓からの陽光があらゆる白い色に乱反射する。青ざめたその顔が影に沈む。何が現実で何が過去で何が感情なのか分からなくなる。これは片桐豪本人だ、とあえて心の中で唱えてみる。それでもここに横たわるのはどうしようもなくゴウという人間から最も遠くにいる存在だった。触れることも、声をかけることもできない。切り離されている。これ以上ないほど他人だ。
 多佳子は逃げるように病室を出た。
 ロビーで呼び止められた。
 日の光にあふれた病室で見たときよりも、雑多な人にあふれ人の声や院内アナウンスなどが反響する空気の粒子がざらつくような総合病院のロビー独特の空間でのその人は、肌の色がくすみ、ひどく疲れているように見えた。スーツ姿の若い男がよりそうように後ろに立っている。どことなくゴウに似ていた。そしてゴウの母親にも似ていた。
「お名前を教えていただけますか」
 ゴウの母親はそう言った。多佳子は戸惑う。名乗れるような存在ではない。
「あの子が目を覚ましたら伝えなければなりませんから」
 そう言って多佳子の目をまっすぐに見つめた。穏やかに微笑む。
 名乗らずにいれば、彼女の口にした目を覚ますという言葉を否定してしまうような気がした。多佳子は一呼吸おいて「林多佳子です」と名乗った。声がかすれた。
「ありがとう。またいらしてくださいね」
 その人はそう言って深々と頭を下げた。つられるように多佳子も頭を下げる。伏せた顔をふたたび上げることがどうしようもなく億劫に感じる。その人が去って、後ろで無言のまま立っていた若い男もやはり黙ったまま会釈し立ち去り、再び頭を下げるとしばらく頭を上げられなくなった。
 喉元に大きな石の塊がつまったようだった。息苦しかった。ゆっくりと圧迫されるように胸が痛む。目を閉じ、深呼吸をした。痛みは消えない。両手で鳩尾を抑える。
 早足で歩いてきた看護師が肩をかすめ、「しつれい」と早口で言って去って行った。その勢いを借りどうにか自分の足を動かし、近くのソファへと崩れるように座りこむ。携帯を手にし、手帳に挟んだ上村透のメモを指で追う。ためらいはなかった。考えることよりも、手が動く。そうすることのほかにすべきことは何もないと思う。
――はい。
 再び聞く上村透の声。あいかわらず現実味のない声。
「教えてください」
 沈黙する上村に焦れ、やみくもにまくしたてそうになる。大きく息を吸い、吐く。吐息が震える。
――今どちらにいらっしゃいますか。
「病院です」
――片桐君の病院ですね。

 通話を切った携帯電話が手のなかで鳴りだしたのはそれから三十分ほど経ってからだった。電話を切ってからずっと、携帯を握り締めたまま病院のロビーのソファに座っていたのだった。
――今、どこにいるのですか?
 上村透の声だ。早口のその声に少々の焦りがにじんでいる。
 そう言えば、あと二、三十分で行けるから病院近くのファミリーレストランで待っているようにと言われていたのだ。指定したレストランに多佳子の姿を見つけられない上村が電話をかけてきたのだろう。
「すみません、病院です」
――分かりました。そのまま待っててください。
 数分で上村透は病院のロビーに現れた。多佳子の傍らに立つと、「大丈夫ですか?」と案じるように囁く。多佳子は無言で立ち上がる。上村は確認するようにうなずき、先だって病院を出、大通りの数十メートル先に見えるファミリーレストランに向かって歩き出した。多佳子は上村の後ろを歩く。その痩せた背中を挑むように睨みつけて歩いた。熱せられたアスファルトの遠くに逃げ水が張っている。地表の空気が揺らめいている。一瞬、真冬の高崎の夜の街を、ゴウの背中を見つめながら雑踏に紛れて歩いている気がした。季節も、時間も、場所も違うのに。そしてその背はゴウよりも頭一つ分も高いのに。帰りたい。なぜ自分はこんなところにいるのだろう。気が遠くなる。排気ガスを巻きちらしトラックが走り抜ける。砂塵が舞う。逃げ水が消える。

 どこにでもあるファミリーレストランであったことが、多佳子にはなぜか心強く感じられた。土曜日の午後、店内は比較的すいていた。かさかさと乾いた冷房の人工的な空気にまばらな客たちの会話や食器のぶつかる音。パステルカラーの設え。デミグラスソースとコーヒーの匂い。俗物的な現実。「何名様ですか」と機械的に訊くにこりともしないウエイトレスが上村と多佳子を窓際の奥の席へと連れて行く。
 ビニールシートのソファに座ると、多佳子はマンゴーフェアとあるメニューの中で一番大きく、一番派手なパフェを頼んだ。頼んでからそんなもの全く食べたくなかったことに気づく。上村はコーヒーを頼んだ。
 多佳子の前に運ばれてきたガラスの器の中で、生クリームはゆるやかに角を失い、完成されたかたちを徐々に崩していく。多佳子はどうしても手を出す気になれないままただそれを見つめた。
「お見舞いに来られたんですね」
 コーヒーを一口飲み、カップをソーサーに戻し、上村透が言う。ミルクも砂糖も入れず、義務で飲む薬のように一口だけ飲んで、置く。
 多佳子は上村の言葉に答えるかわりにその目をじっと見つめた。
 上村は多佳子の視線をやわらかく受け止め、静かに目をそらす。
「林さんの知りたいと思うことを話せるかどうかは分かりませんが、とりあえず、妻と片桐君のことを話します」
 ゴウと凛は共に高崎出身で同じ高校の同級生だという。そして、そのころ始めたバンドの仲間だった。凛がボーカルでゴウがギター、友達どうしが遊び半分で始めたバンドだったから卒業と同時に解散したが、凛は上京し、ゴウは地元で、それぞれ歌とギターを続けていた。
 凛は働きながらボイストレーニングを受け、ジャズシンガーをめざした。ライブハウスに何度か出演しているうちにいくつかのバンドのライブに呼ばれるようになり、少しずつ音楽の仕事が増えていった。やがてライブハウスの客としてきていた上村透と結婚し、上村の住む千葉へ移り住んだ。しかしその頃から歌の仕事は減り、子ども相手の音楽教室の講師のアルバイトを始めるようになった。そこでの教育熱心な母親たちの子どもに対する過干渉な接し方や、講師である凛に対する威圧的なふるまいに繊細な精神は次第に摩耗し、長く続けることはできなかったという。おそらく彼女の幼少期の愉快ではない記憶を呼び起こすのだろうと上村は推測した。ボイストレーニングだけは続けていたが、それ以外ほとんど外出することのない生活を送っていた凛は、比較的穏やかなときは上村のために手の込んだ料理を作ったり、アパートの部屋の模様替えなどをてがけたりしたが、時折わけもなく上村に当たり、見せつけるように手首を切りつけた。上村は浅い切り傷を手当てし、抱きしめ、涙をぬぐい、凛が好んで選び揃えた青色の寝具のベッドに寝かしつけた。上村は、凛とふたりで暮らす海辺のアパートで、波の音と松林を渡る海風の音を聴きながら、眠る凛の顔をスケッチしたのだという。
「わたしは凛の、どこか冷たい、凍りついたような翳に惹かれていました。青い翳です。それをどうにか自分の絵として描き出したかった」
 上村透は多佳子を見、ふっと力なく微笑んだ。
「良い夫ではないですね。妻を幸福にしたいと思う一方で、幸福になることで彼女から失われるその翳を惜しいと思っていた。彼女を追いつめていたのはわたしかもしれない」
 溶けた生クリームのなかにオレンジ色のマンゴーの塊が沈んでいく。多佳子はラジオの天気予報を聴くように、次の情報を、本当に欲しい情報を待っていた。上村の話はまだ、知らぬ他人の無関係な領域にある。
 上村は自分のカップの黒い液体の表面に視線を落とし、薄く浮かべていた微笑を消し、再び話し始めた。
「一年程前です。ひさしぶりに偶然会ったのだと片桐君を紹介されました。ふたりは本当に幼馴染みのようにざっくばらんで、男女の仲などみじんも感じさせないふうに見えました。あんなに屈託のない笑顔を見たのは本当に久しぶりだったな」
 凛の精神的な不安定さはそのころから見られなくなっていったという。同じころ上村自身は絵画制作に行き詰る一方で臨時雇用だった高校に正規に採用され副担任としてクラスも任されることになり忙しくなっていった。夫婦のすれ違いがあったのだろうと上村は言った。ゴウと凛がどのような関係に発展していったのかまったく考えもしなかったし、ましてふたりが失踪してしまうなど予想もしていなかったのだ。
「結局、わたしは自分のことしか考えていなかったのですね。わたしは画家の目で彼女を見ていた。彼女を素材としてとらえ、観察し、その不幸を面白がって見つめていた。それなのに自分は画家としても中途半端だった。教師という安定した職業にしがみつき、安定した生活を望んだ。つくづく平凡な人間なんです。彼女といるとそれを思い知らされる」
 上村は両手でコーヒーカップを包むように握り締め、視線を落とす。
「彼女にはかなわないと、ずっと思ってきました。自分は本質的に表現者にはなれないのだと」
 そしてふと顔をあげ、力なく微笑んだ。
「そのかわり彼女ほど傷つきやすくもないし、世事との折り合いも付けられる」
 暑いなぁ、と多佳子は思う。首の周りにじっとりとにじむ汗がうっとうしい。冷房ちゃんときいてんのかな。苛つく。
「彼女と片桐君はたぶん、似ているんじゃないかな」
 多佳子の記憶の中にあるゴウのその姿を探すように、じっと多佳子の目を見、そんな気がしますと言った。
「この五か月、ふたりの生活はかなり困窮していたようです。もともと痩せていた方でしたが、妻はさらにやつれ痩せてしまってました。ふたりとも音楽はやっていなかったようです。日雇いや派遣でしのいでいたらしい」
 そしてまた視線を落とし、コーヒーカップに向かって独り言のようにつぶやいた。
「……彼らはいったい何を求めていたのでしょうね」
 多佳子は目をそらす。テーブルの片隅にある「お客様の声を聞かせてください」のカードの束を見つめる。料理が出てくるのが遅いと殴り書かれた文字が見える。上村が顔を上げ多佳子に言った。
「僕にも教えていただけますか」
「何を、ですか」
「妻の手紙の意味です」
 上村は常に持ち歩いているのか、多佳子と会うから持ってきたのか、前回会ったときに多佳子に見せた凛の手紙をまたテーブルの上に置いた。手に取る気にはなれない。一度読めば十分だった。呪縛とあった。カタギリはこれに呪縛されて苦しんできた、だから持ち主に返してほしい、そう書いてあった。
 多佳子にとってもそれは大金だった。ただ、漠然と自分の将来のためにと思って貯めていたものだったから、ゴウの夢につぎ込んでもいいと思った。しかしゴウは拒絶したのだ。そうしようとした多佳子を軽蔑の目で見下しさえした。それでも最終的には受け入れてくれたのだ。それでよかった。だから忘れることにした。そして穴を埋めるように必死に勉強し、資格を取り、再出発をした。むしろそのおかげで頑張れたとさえ言える。だから、ゴウが苦しむことなどない。苦しむはずもない。ありえない。
「何か思い違いをしているんじゃないでしょうか」
 多佳子は崩壊したマンゴーパフェを見つめながら言った。ガラスの器の縁から粘性の高い白い雫がいくつも落ちる。
「彼の方から出て行ったんです。結局わたしは彼を理解してあげられませんでした。だから、苦しむ必要などないはずです。呪縛とか意味が分かりません」
「そうなのですか。妻の思い違いですか。では、今回のことにそれは全く関係ないと、林さんはそう思われるのですか」
 上村は首をかしげ、多佳子を見つめ、問う。のどが渇いた。水を飲む。氷はすっかり溶けている。ため息をつき、言った。
「関係ないと思います。わたしのことなんて忘れてると思います。わたしだって忘れていました。もう終わったんです」
「でも、あなたはここに来た」
「終わったから来たんです。かつて付き合った人が瀕死の重体だときいて見舞いに来た、それだけです」
「でもわたしに電話をしましたよね。教えてほしい、とあなたは言いました」
 わたしはいったい何を知りたいと思ったのだろう。
「……もういいです。すみません、手間を取らせてしまって。ありがとうございました。帰ります」
 結局多佳子はマンゴーパフェに一度も手を付けないまま席を立った。溶けたクリームがテーブルを汚していた。伝票を手にレジへと向かう。「待ってください」という言葉を背に聞く。構わず歩いた。後ろから手首を取られた。
「これはわたしが」
 上村が伝票を奪う。奪い返そうとする隙を与えず、手早く支払いを済ませる。多佳子は礼も言わずに店を出た。
「駅まで送りますよ」
 上村が後ろで叫ぶ。構わず歩いた。上村はそれ以上追ってはこなかった。
 頭の芯がずきずきと痛む。
 本当に何しに来たのだろう。
 帰りの電車で多佳子は後悔していた。わざわざ時間をかけ、お金をかけ、終わったことを確認しただけだ。無意味な消耗に苛立った。頭が重い、顔がほてる。ひどく気分が悪かった。電車の規則正しい振動に気が遠くなる。今すぐマンションに帰り、自分のベッドにもぐりこみたい。鉄の箱に揺られ、地を這うことしかできない肉体に焦れた。
 

(あらすじ~第一話~第五話)

https://note.com/toshimakei/n/nbe20ad9a3f38

https://note.com/toshimakei/n/nb85fe45b64d3

https://note.com/toshimakei/n/n242a2fa322fb

https://note.com/toshimakei/n/n8c3cd6fa9e2

https://note.com/toshimakei/n/n44d6358778f4

(第七話~)


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