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【恋愛小説】「傾いでます」第三話


第三話

 豪と初めて会ったのは、冬の日の午後だった。
 駅ビル前の片隅にいた。
 人の波は冷たい風を避けるように駅ビルのなかの通路へとほとんど流れ、まばらに行き過ぎる人たちも首をすくめて足早に歩き、立ち止った多佳子は、何人かの通行人の歩調を乱れさせた。
 そこは北風の吹きこまないエアポケットのような陽だまりだった。
 ギターを弾いていた。
 黒いギターケースを背後のビルに立てかけ、タイル敷きの路上に座り込んで、背中を丸めてひたすら弾いていた。気を留める人は他に誰もいず、人々は足元を見つめながら、遠くの目的を見ながら、通り過ぎて行く。当時西口の法律事務所でまだ事務員として働いていた多佳子は、法務局の帰り、いつもなら彼らと同じように足元を見つめたりボスの待つ事務所を見据えたりしながら通り過ぎていたのだが、そのときは違った。ふと目をやったそこから目をそらすことができなくなり、立ち尽くしていた。
 ひたすらギターを弾いていた。歌さえ歌っていなかった。膝とあごを動かしながらフレットの上で複雑な指の形を繰り返し、六本の弦を弾いたり、叩いたり、ゆらしたりしていた。何かの曲を奏でるというより、ギターと話をしているみたいだった。包み込むように抱きかかえ、すべてを理解しようとしているかのように真剣に話しかけ、返ってくるその声を目を閉じて聴き入っていた。
 多佳子は、六本の弦が静止したのにすらしばらく気づかずにいた。ゴウは突っ立っている多佳子を不思議そうに見上げていた。視線をまっすぐに受け止めてしまい、多佳子はぎこちなく目をそらす。対してゴウは相好を崩して、やわらかく、自然な笑顔を見せた。片頬にえくぼが浮かんだ。
「どうも」
 と、頭を下げた。
 多佳子も小さくうなずき返した。
 そのまま立ち去ればよかった。しかし歩き出せなかった。立ち続けている多佳子の意思がそうであると理解したかのように、ゴウは、うん、とうなずくと、長い指でぴんと張りつめた弦を弾きはじめた。まるくてクリアな音が流れ始める。やわらかく囁いたり、リズムに乗ってはしゃいだり、少し濁った音でシャウトしたり、本当に気の合った人間同士でおしゃべりをしているように、それは軽快で躍動的で安定した音楽だった。ビルのすき間から射す西日が狂ったようなオレンジ色になって、ゴウとギターを照らした。つやつや光るギターとそれを抱きかかえ愛撫する光のなかのその姿に見入った。多佳子はコートの裾を膝の後ろに折り込んで、しゃがみこんだ。
「すごい」
 と、思わずつぶやく。
 最後の弦のふるえを掌で抑えると、ゴウはふいに噴き出す。頬骨のあたりが熱くなる。「うれしいよ、すごく」とゴウは言い訳するように言った。両頬に自分の冷たい指先を押し付け、そっとそのストリートミュージシャンを見る。嬉しそうに微笑んでいる片頬にはやはりえくぼがうかんでいて、その小さなくぼみがとても特別なしるしのように見えた。多佳子も少しぎこちなく、それでも少しは自然に、微笑み返した。
「仕事?」
 多佳子の抱えた書類を見ながらゴウは言った。うん、とうなずく。
「このへん?」
 勤め先が、という意味だろうと、もう一度うなずく。自分からも何か言わなければと思うが思いつかない。
「あの」ととりあえず口を開く。ゴウがまっすぐに見る。
 何を言おうかと、その顔を見ながら考える。
 ゴウはほどけるように微笑み、明るいコードをぽろんと弾いた。
 片頬のえくぼを見つめ、多佳子は「いつもここにいるの?」と訊いた。初対面の人間にそんなふうに気安く質問したのは初めてのことだった。
「うん。たいがいね」
「そう」
 出会う前からずっと知っていたようなそんな気がした。

   *

 繁華街で数少なく残っていた民家の独居老人が死に、相続登記のための現地調査に出向いた。
 多佳子は街を歩く。
 かつて、街には襞のような路地がいくつもあった。一方通行の車道が複雑に交差し不案内の人間を混乱させた。歩行者は狭い歩道に波を作り、横断歩道があってもなくても無尽蔵に道を横断した。車道はつねに渋滞し、かつ一方向にしか流れないので、人々は車の隙間を縫って造作なく向こう側へ渡ることができた。男や、女や、若い人や、年老いた人や、急いでいる人や、おしゃべりする人や、電話をする人や、ヘッドフォンで音楽を聴く人や、振り返る人や、時計を見る人や、笑っている人や、怒っている人や、無表情の人や、表情のよく分からない人や、様々な人間が歩いていた。
 えんぴつおばさんという人がいた。髪をまとめ上げたそこにまるでかんざしのように何本もの鉛筆をさしているのだ。木工職人の耳に挟んだ鉛筆のようなものだと思えばめずらしくはないのだろうが、えんぴつおばさんはつねにドレッシーな(しかし色あせよれた生地の)ロングスカートを穿き、フルメイクで、鹿鳴館を歩くかのように優雅に路地を歩いていたので、決して頭をペン立て代わりに使うほど慌ただしい勤労者のようには見えなかった。そしていつも小さな赤いビーズのバッグを手にしていた。小学生の頃、郊外からバスに乗って遊びに来た多佳子はえんぴつおばさんを見つけると友達と一緒に後をつけた。結構頻繁に見かけ、尾行したが、住まいを突き止めることはなかった。えんぴつおばさんはどこにも行きつかない。常に歩き続ける。
 当該物件の土地と建物を公図と謄本と照らし合わせながらざっと調べ、何カ所かデジカメで撮影し、引き上げる。
 市民が望んだのだ。車の通行がしやすく、清潔で、簡潔な街並み。無駄なものを澱ませる細かな襞を伸ばし、見通しをよくすること。風景の塗り替え。それはおそらく多佳子自身も望んでいたのだろう。少なくとも生活の糧になっていた。
 立体交差道路を歩き、線路の東側へ出る。片側三車線に広げられた大通りの交差点にガラス張りの自動車のショールーム。磨き上げられたスカイブルーの新車に真白な内装。強い外光が反射し奥まで見とおせない。ひとの姿はない。
 東口側にはえんぴつおじさんが歩いていた。たくさんいた。競馬場があったのだ。女子小学生たちはえんぴつおじさんを追いかけることはなかった。そろってすすけた色のジャンパーやだぶついたズボン姿の彼らは親や先生がいう不審者のイメージに近しいと勝手に思っていたし、だいいち数が多すぎた。えんぴつおじさんの群れの中にときどき調教師に連れられた競走馬が歩いていた。狭い、車どおりも激しい駅前の道だ。えんぴつおじさんの群れに混じり、うつむき歩く馬の黒い巨体。混沌だった。競馬場と駅のちょうど中間地点には中央体育館があり、全日本プロレス(または新日本プロレス)の興行が重なると、無彩色の群れに、やや鮮やかさと興奮と活気が加わる。年齢層も広がる。さらなる混沌。あの群れに紛れたら、きっといつのまにか絡め捕られ小さな網の窓のついたトラックに馬と一緒に乗せられ二度と家には帰れなくなってしまうのではないかと少女たちは怯えた。東口側にはデパートもファンシーショップも路線バスの停留所すらもなく小学生の多佳子にはほとんど用がなかったから、ただ、自由通路の階段の上から遠目で眺め、漠然と未知のものに怯えていたのだった。
 今はもう何も怯えない。事務所へと戻る。積み上げられた書類を分類していく。すぐにファイルするもの、すぐに提出するもの、すぐに作り上げなければならないもの。連絡しなければならないもの、調べなければならないもの、保留にするもの、揃えなければならない資料。電話をする。電話を受ける。メールをチェックする。返信すべきところへ返信する。近隣とのトラブルで登記手続きの滞っている物件について上司に相談する。

「多佳子」
 ふいに呼ばれた。
「どうした、ぼんやりして」
「ううん、なんでも」
 夫がじっと多佳子の目を見る。多佳子は目をそらす。
 夫はいたわるように多佳子の肩に手を乗せた。その手の上に自分の手を乗せ、微笑んでみせる。夫が唇を寄せる。そうすべきではないと思いながら、しかし顔を伏せてしまう。
「ごめん、今日忙しくて疲れちゃった」
 多佳子の手の下から、夫はするりと手を抜く。
「そっか、じゃあ俺が皿洗うから、先に風呂入って早めに寝るといいよ」
 夫はことさら明るい声でそう言って、食事を終えた二人分の皿を持ってキッチンへ立った。
 今、自分が愛しているのはこの男なのだ、と思う。
 ゴウと別れ、司法書士の資格を取るために資格専門学校へ通い、二度失敗し、三度目でようやく合格した。そのすぐあとに夫と知り合った。仕事上の付き合いから自然と交際が始まり、穏やかな、落ち着いた付き合いを重ねた。夫の自分への愛情は確かに感じることができる。この人は何があっても自分を大切にしてくれるだろうと信じることができたし、自分もまたこの人を何よりも大切にしたいと心から思うことができる。一生を寄り添うとはこういうことだと、この人とであれば知ることができるだろうと思う。最期の時まで一緒にいることを至極自然に想像できる。
 シンクの前に立つ夫を見る。広い背を少しまるめ、黙々と食器を洗っている。
「一緒にやる」
 多佳子は夫の隣に立った。
 夫が多佳子の鼻に泡を乗せ、笑った。「こら」と言って、指で拭い、笑いながら水で流した。

 上村透が置いていった通帳は数日前の日付で記帳してあった。
「なんでよ」
 デジタルに印字されたその数字を見て、多佳子は思わずつぶやく。
 上村透という人間と会ったときの記憶はきわめてあいまいで、すでに実際にあったことのようには思えなくなっている。しかし、これがあるということは少なくとも現実の出来事ではあったのだ。通帳に挟まっていたメモには、はゴウの入院先の千葉の病院の名と、上村透の名と、十桁の数字が書かれていた。封筒の宛名とはまた違う筆跡で、活字のような整った文字だ。上村が書いたのだろう。
 なんで今さら。こんなの返してこないで好き勝手に生きればよかったのに。どっかの人妻と死にたきゃ勝手に死ねばいいし。わたしには関係ないし。
 書斎のドアがノックされ、コーヒーを持った夫がドアを開ける。
 多佳子はとっさに通帳をデスクの引き出しにしまった。一瞬目を向けた夫は、しかし何も言わない。
「難しい仕事抱えてるの?」
 かわりにそう言う。
「ううん。そういうわけじゃないんだけど」
「最近、なにか考え込んでいるみたいだから」
 夫はけっして踏み込まない。
 何を隠したの、何を悩んでいるの、俺に話してよ、俺に話せないような何かがあるの。
 そんなふうに入り込んでは来ない。
「あまり無理しないでね」
 そういうひとだから、できるだけ隠し事はしたくないと思う。
「昔の……」
 嘘もつきたくない。
「知り合いが、けがをしたらしくて」
「そうなの」
 夫が驚いたように目を見開く。
「容態は?」
「意識不明の重体だって」
「大変じゃないか」
「……うん、まぁ」
「お見舞いに行きたいんだろ?」
 多佳子の言葉にかぶせるように夫が言った。見舞いになど行くつもりはない。やはりこんなこと言い出すべきではなかったと後悔する。多佳子はすかさず首を振る。
「県外だし」
「そういう問題じゃないでしょう。行ってあげた方がいいよ。考えることじゃない」
「でも」
「今度の週末に行っておいでよ」
 これ以上躊躇し続ける方がかえって不自然だろうか。
「……そうね。藤木を誘ってみる」
 夫は満足したように微笑み、うなずいた。

(あらすじ~第一話・第二話)

(第四話~)

https://note.com/toshimakei/n/n8c3cd6fa9e22



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