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【恋愛小説】「傾いでます」第四話


第四話

「人間、人間、人間」と藤木が連呼した。
 多佳子は面食らったが、話の流れから言いたいことはわかったので、「つまりは人間関係ってことよね」と代弁してやった。
「そう」
 藤木はさっきからフォークにベビーリーフをいくつも刺し重ねいっこうに口元に運ばないその手を止め、多佳子を見て大きくうなずいた。
「そもそもわたしは人間嫌いなんだよ」
 そもそもわたしは野菜嫌いなんだよ、とでも言うように、持っていたフォークを皿に投げ出す。
「予備校の教師なんてもろに人間相手じゃない」
「予想外よ」
 そして威張る。
「予想範囲内よ、普通に」
 多佳子は呆れて言い返した。
 藤木は受験ノスタルジーにからめとられた女である。結局自分は大学に進学する学力だけはあっても学ぶ知性はないってことなのだと、大学に入りたてで知り合って間もない多佳子に藤木はため息交じりにこぼした。もう十六年も前のことになる。受験勉強に明け暮れた生活から解放され、さてこれから大学生活を楽しもうと浮かれていた多佳子は、いったいこの人は何を言っているのだ、と引いた。藤木は受験期が懐かしいのだと言った。できればもどりたいのだ、と言った。ふうん、とてきとうにあいづちを打って引きの姿勢のまま遠ざかろうと思ったが、学籍番号が前後していたため何かと顔を合わせるうち、ああようするに受験ノスタルジーに陥ってるわけね、と了解したのだった。たしかにそういう学生はほかにいなくはなかった。共通センター試験の獲得点数や、過去問からの出題傾向の研究成果や、予備校自習室の有効な活用法や、そんなことを嬉々として披露しあってまさしくそのときを懐かしんでいる光景によく出くわしたのだ。が、それも五月の連休までのことで、時がすぎれば自然消滅していった。藤木だけは違っていた。受験するために大学を辞めるとまで言い出して、さすがに止めた。藤木もまた、成功はそれ自体の終焉でしかないという虚しさに気づき、その場にい続けるためには成功を目指しつつ失敗し続けなければならないという受験期というもののそもそものジレンマに気づき、大学中退は断念し、かわりに予備校講師のアルバイトを始めた。予備校講師が本業で大学生が副業のような勢いで打ち込んでいた。大学の勉強をする数倍の楽しさとやりがいを持って取り組んでいた。受験勉強なんてほんとの勉強じゃない、と藤木はよく言う。ゲームだよ、と。しかも仮想じゃない、人生上最も純粋に構築された聖なるゲームだ、とここまでくると多佳子にはついていけない。そして、当然のように大学卒業後、予備校講師となった(ノートを貸したり、レポートを手伝ったり、卒論さえ手を貸し、彼女の卒業には多佳子も少なからず貢献したのだった)。藤木は人気講師になった。当初勤めていたのは地元の塾に毛の生えた程度の予備校だったが、何度かの引き抜きを経て、昨年まで都内の大手予備校の講師を務め、当該校が出版する受験対策マニュアル本の執筆を手掛けたり、関東ローカルのテレビCMにまで出演し、今年の春、地元に進出したやはり別の大手予備校に引き抜かれ、Uターンしたのだった。新しく勤めることになったのは駅前にある予備校で、同じ駅近くに勤める多佳子は、こうしてときどきランチを共にする。
「なんだかんだ、一番難しいのが人間関係よ」
 藤木は、転職の理由をそう述べた。「嫉妬とかさ」前任校では講師同士の人間関係がこじれていたらしい。人気講師の藤木はほかの講師から妬まれる。
「だってさ、受験勉強に人間関係なんてないじゃない。受験するのは自分。ひとりで、自分だけの力で立ち向かう。そこに人間関係なんて出る幕ない。まして、講師はテクニックを伝授する、トレーニングを手助けする、それだけ。そういう世界にわたしは入ったんだよ。人間関係なんて生ぬるいところから一番遠いところに入ったつもりだったんだよ」
 藤木はそう言って、「あーあ」と大きなため息をついた。
「また講師同士でもめてるの?」
 多佳子は訊く。
 藤木は首を横に振った。
「え、じゃあ予備校生と?」
 多佳子は重ねて訊く。藤木はうなずいたまま頭をうなだれている。よほど参っているらしい。人気講師だから教え方にクレームつけられるというのは考えにくいし、まさかいじめ? いまどき教師もいじめられるというから。
「相手はしょせん未成年でしょ。そんな深刻に受け止めないで、さらりと流せばいいじゃない。いまはまだ夏前だからそんなつまんないことやってても、そのうち勉強に専念するようになれば自然とおさまっていくんじゃないかな」
 落ち込む藤木に多佳子は言う。
「そうかな」
「そうだよ。そんなの気にするのらしくない」
 中高といじめられっこだったと以前に言っていたことがあった。でもそんなの気にならなかった、ひとりでいるのは苦にならなかったから、相手にしなきゃ自然におさまってくものだ、と言ってたのは、そうだ藤木じゃなかったか。多佳子は藤木の落ち込み方に違和を感じる。
「え? いじめじゃない?」と多佳子は訊く。
「誰が?」
 黙る多佳子に、目を丸くして、いやいやいやいやと藤木は首を振った。
「まさか。くだらない。そんなのだったらほっとけばいいよ」
「え、じゃ何」
 はぁとまた、藤木はため息をつく。そしてこそこそと何か言った。
「は?」と聞き返すと、開き直って「告白された」と声を張って言った。
「は?」
 とまた聞き返したのは、聞き取れなかったからではない。藤木は食べかけのランチプレートをテーブルの隅に押しやり、とうとう、額をそこへごつんと打ち付け伏せてしまった。ショートヘアの後頭部に向けて「ほほう」と多佳子は老紳士のようなあいづちをうつ。
「つまり禁断の恋ってわけか」
「ばか」
 顔を上げたしなめて、また額をごつんとぶつけて寝る。
「へー、どんな子? かわいい? 予備校生ってことは一回り以上年下になるの? すごいじゃない。で、どうなの、あんたも好きなの? 付き合うの?」
 だからこんなに悩んでいるのか?
「速攻で拒絶したよ」
「そうなの。つまんない」
「つまんなくないよ。何言ってんの。聖なる受験期にそんなこと言う方がよっぽどつまらない。いい加減にしてほしい」
「聖なる受験期は、悶々たる青春期とも重なるのよ」
「重ならない」
「そりゃあんたはね。でも普通は重なってるの。で、拒絶したんでしょ。カリスマ講師らしくきちんと節度もって説教して、あとはそれこそほっとけばいいんじゃないの」
「そうしたよ。結構厳しめに説教もした」
「でもあきらめないの?」
「ううん。二度とそういうばかなこと言うなって言ったから、二度とそういうこと言ってこない」
「じゃ、いいじゃない」
「でも、うっとうしいのものすごく」
 恋する予備校生は藤木の講座を毎回最前列ど真ん中の席を陣取るのだそうだ。食い入るように講義を聞き、終わると熱心に質問を持ち込んでくる、藤木に言われた通りの攻略法をマスターし、これまで出版した藤木の著作やDVDもすべてとりそろえ熟読熟観している、それをアピールする。尊敬している、心酔してる、崇拝している、絶対化している、と言う。成績もあがってきたという。
「よかったじゃない」
「よくない。不純すぎる。ありえない、受験勉強を貶めてる」
「いいじゃない、きっかけがどうあれ頑張ってるなら」
 よくないよくないよくないよくない、と藤木は連呼する。連呼するのは予備校講師としての癖なのだろうか。
「うっとうしい、何よりうっとうしいのよ。近寄らないでって言いたいけど、勉強にかこつけられたら言えないじゃない。足元見てんのよ。こざかしいでしょ」
「そんなに邪険にしなくてもさ、優しく教えてあげなよ。別に襲われるわけじゃないんだし」
 そう言いながら、ふと、そんなふうに冷たくする態度が逆にその若者を燃え上がらせているのかもと思ってみたりする。化粧気のない白い頬にほんのり赤みがさしている。
「まぁ、分かるよ」
「分かってくれるよね?」
「あんたって意外とかわいいとこあるもん」
 ぎょっとした顔で藤木は多佳子を見る。
 偏ってはいるけれど、藤木のその受験に対するひたむきな情熱は見ていておもしろい。自意識や自覚や媚から自由すぎるのもまた魅力的だ。なんだかほっとけなくなる。ついかまいたくなる。大好きよ、などと言ってみたくもなる。しかもときどきけっこう本気で。
 あきらめたように肩をすくめた。
 ため息をひとつついてから気持ちを切り替えるように言った。
「多佳子の話ってなに?」
 フォークを持ち直し、再び食べ始めた藤木が多佳子に訊いた。夫に言ったことは嘘にしたくない。藤木を誘わなければいけないのだ。おもいきって切り出す。
「今度の土曜日空いてる?」
「土曜? 模試」
「だよね」
「何、だんなに内緒の悪事でも?」
「ばか」
「じゃ、何」
「別れた男が死にそうなんだって」
「何それ」
 藤木は目を丸め、多佳子を見る。
「見舞いに行けばとだんなが言うから、あんたを誘うって言ったの」
「友達と一緒なら死にそうな昔の男に会ってもいいよ、と?」
「ううん、そういうわけじゃない」
 今度は多佳子がさっきまでの藤木のように野菜を刺したフォークをもてあそぶ。そして言った。
「単なる知り合いとしか言ってない」
「へぇ」
「何?」
「いや。夫婦のことなんてわたしには分からないけど、そういうもんなのかなって」
「そういうもん、て?」
「踏み込み過ぎない、っていうか」
「さぁ。いろいろだろうけど」
「まぁね、よく相手の携帯勝手にチェックするとかいうのも聞くし。それよりはぜんぜんまったくましだけど」
 ふたりはしばらく黙り込み、ひたすら本日のランチ車海老のクリームソースプレートを食べた。
「多佳子」
 残ったソースを海老の身ですくい、自分の皿をすっかりきれいにした藤木が、多佳子の目をまっすぐに見た。
「何」
「迷ったときは手足を動かせ」
 そして藤木は、フォークに刺した海老を食べた。ゆっくりと咀嚼し、言う。
「受験勉強の鉄則」
「あたし受験生じゃないんですけど」
「じゃあ言い換える。聖なる人生ゲームの鉄則」
 多佳子はソースのついた藤木の口角を見つめた。
「がんばれ」
「何をよ」
「知らないよ」
 藤木がにやりと笑った。
 

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