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【恋愛小説】「傾いでます」第五話


第五話

 そのかたちに惹かれたのだった。
 体がリズムに揺れる。指がギターに語りかける。弦がふるえてそれに応える。目を閉じ、それに聴き入る。フレットの弦の上を砂漠の蜘蛛のように左手が動き回る。ストローク。乾いた、それでいて情緒的な音色が、細い肢体から生み出され、その姿に絡み付き、包み込む。音楽のことなどよく知らなかった。ギターが上手なのかどうかも分からなかった。ただ周囲の空気をふるわせる彼の音楽を含めて、そのかたちのすべてに惹きつけられた。
 ギターとのリズムが高まってゴウが嬉しそうに笑った。笑いながらギターを弾くゴウを見て、多佳子も笑う。本当にギターが好きなんだ、と思った。
 路上のゴウを少し離れたところから眺めることもあった。行き交う人波の向こうからギターの音が聞こえ、座りこんでギターを抱えている姿が見え隠れした。男や、女や、若い人や、年老いた人や、急いでいる人や、おしゃべりする人や、電話をする人や、ヘッドフォンで音楽を聴く人や、振り返る人や、時計を見る人や、笑っている人や、怒っている人や、無表情の人や、表情のよく分からない人や、いろんな人たちがゴウと多佳子の間を行き過ぎていった。ふたりだけが止まっていた。ふたりをへだてるランダムな絶え間ない人の流れが、ここにいる自分とゴウを繋げてくれるように思った。だから多佳子はときどきゴウを離れて見つめた。
 しばらくしてから吸い込まれるようにゴウのもとへ歩き、しゃがむ。ゴウはギターを弾きながら多佳子を見て微笑む。せわしなく通り過ぎていく背後の足音を感じながら、少なくとも自分はここに繋ぎとめられている、と思えた。
「おつとめごくろうさま」
「行ってきました」
 まるでスイートホームなのだった。ゴウは仕事の疲れを癒すようにひとしきりギターを弾いてくれた。
 休日の遊歩道はさらに混雑していた。
 ゴウのほかにもギターを弾いたり歌を歌ったりする人が何人かいたが、多佳子にはゴウのギターの音を聴き分けることができた。少し奥まった壁沿いのいつもの場所にいるゴウが人波に埋もれてしまっていても、そこから奏でられる音でゴウがいることがわかった。
 ゴウは目を閉じてゆっくりとしたリズムでギターを弾いていた。
 人の流れは進もうとする多佳子の歩みをことごとくさえぎった。何度となく立ち止り、迂回しなければならなかった。多佳子の気持ちは落ち着いていた。活気やけだるさのまじった喧噪のなかで、ただ一点ゴウに向かう多佳子の気持ちは熱っぽく静謐としていた。
 ようやくゴウの前にたどりつき、しゃがみこむ。ゴウは多佳子の気配を感じて目を開ける。にっこりと微笑む。そしてまた目を閉じギターを弾き続ける。多佳子は膝を抱えた腕の中に顔を半分埋めて、同じように目を閉じ、その音を聴いた。背中に西に傾き始めた太陽の熱を感じた。
 やがてギターの音が止まった。街のざわめきが耳によみがえってくる。多佳子は目を開ける。ギターを抱えたゴウが微笑んでいる。ふたりはギター越しにキスをした。それは人々の目の高さに届かないところでの、誰にも気づかれないほど軽い、短い、ささやかなキスだった。

 かたちあるものしか愛せないってほんとかな?
 路上に座ってギターをかき鳴らしたり、自分で作った歌を歌ったりしているゴウは、ときおりこんな観念的な問いを多佳子に投げかけた。年下の男の青さだとくすぐったさを感じながら、少しずつゴウのそうした問いかけに慣れつつあったが、たいていはすぐに上手い答えを返すことができなかった。
 このときも「かたちあるものしか愛せない」ということのイメージがうまく掴めず、しばらく黙り込んでしまった。
 ゴウもしばらく黙っていた。別に多佳子の答えを待っていたわけではない。ふたり頭を並べて寝ころんだ窓際から、空をまっすぐに見上げていた。空に何かを見出そうとするように、じっと薄青い外を見つめていた。夕方の風にくるくる回る洗濯物を観察していたのかもしれない。多佳子は立ち上がり、冷たくなりかけた洗濯物を取り込んだ。ふたりの靴下や下着をたたみながら、寝ころぶゴウを見下ろす。瞳に窓の光が映っていた。
「誰が言ったの?」
 ゴウは窓の外を見上げ続ける。そこにはもう暮れ始めた空と風に震える電線しか見えていないはずだった。
「前に付き合ってた子とか?」
 頬の隆起となだらかな首へと続くあごのラインを見つめながら多佳子は訊ねる。
「違うよ」
 ゴウはゆっくりとまばたきをした。
「高校の先生。英語の」
「高校の先生と付き合ってったの?」
 ゴウは不思議そうな顔をして多佳子を見た。
「おっさんだよ、定年間近の」
「そうなの?」
「そうだよ」
 ゴウは手を伸ばし多佳子の額を人差し指で小突いた。多佳子は急に恥ずかしくなる。
「あのね、古今東西人はかたちあるものしか愛せないんだってさ。その先生が言ったの」
「ふうん」
「アメリカ人は何を持ってアメリカ人とするのかと言えば、もちろん人種でも文化でも国籍でもなく、ただひとつ星条旗に忠誠を誓えるかどうかなんだって。国家なんて目に見えないものは誰にも愛せない。彼らはただ星条旗を愛しているんだって」
「ふうん」と多佳子は一対の靴下のかかとを揃えながら(それはゴウの靴下だった)あいづちを打った。
「諸君らもかたちあるものを求めなさい」
 ゴウが唐突におかしな口調で話し始める。ものまねをしているらしい。
「無党派はけしからん。支持政党を持って生きろ、搾取されるな、責任もって社会を生きるんだ」
 空を見ていたゴウが多佳子に目を向けおどけるように笑った。
「別にその先生のこと好きでもなんでもなかったし、くだらねえなとも思ったんだけどさ、なんかさ、それなのにやけに印象に残ってるんだよね。六時間目の午後三時ごろの死んだみたいな教室でさ、しかも体育の後の超かったるい空気で、ほとんど誰も授業なんて聞いてなくて、俺自身も意識なんてほとんどとんでたと思うんだけど、それでも、その話は妙に覚えているんだ。教室の窓からの西日の角度とか、てかてか光る先生の背広とか、空中のちりとか、教科書やノートの紙の匂いとか、そういうのと一緒に。あと」
 ゴウが言葉を切る。
「あと?」
「そのとき思ったことも」
「なんて?」
「なんかこいつかわいそうって」
 ゴウが再び黙り込んで、多佳子も沈黙した。
 外は静かだった。
 床に座った多佳子は、寝ころんだままのゴウよりも少し視線が高い。隣家の青い瓦屋根と、境界のブロック塀と、ゆらゆら揺れる庭木の葉々を見ることができた。ガラスの向こうに無音の風が吹いた。ふと、そのとき、そこが、六時間目の高校の教室になったような気がした。チョークの匂い、リノリウムの床にこすりつける上履きの感触。校庭のホイッスル。
「でもさ」
 高校生ではない、二二歳のゴウが言った。
「ほんとは嘘なんだよね。先生がかわいそうなんかじゃない。そう思ってる自分に幻滅してたんだ。くだらないって簡単に思っている自分にさ。自分って結局致命的につまらない人間なんじゃないかって。よく分かんないけど、よく分かんないから、結局そこで思考停止しちゃったんだけど。でも、今でもあのときの先生の言葉が自分の中でくすぶってる。人はかたちあるものしか愛せないって、ほんとにそうなのか、否定も肯定もできず、ずっとくすぶってる」
 人はかたちのないものだって愛せるよ、とたとえばこのとき言えていたら、と多佳子は思ってみる。しかし、わからない。同じ場面がまたあっても、やはり何も言えないかもしれない。ゴウがすぐそばにいて、かたちがあって、この手で触れることができたのだ、何が言えただろう。
 寝ころんだゴウの顔の横に手をつき、ゴウを真上から見下ろした。ふたつの瞳に自分がいた。じっと自分を見る自分。ゴウの指が多佳子の頬に伸び、ゆっくりと口元へ移動した。
 ふたりは吸着する水滴同士のようにくちづけた。

 ギターとアンプ、エフェクターバッグ、それから何枚かの衣服、CDラジカセと段ボールひとつ分のCD、ノートパソコンとアイポッド、それだけ揃うとゴウの生活は一人暮らしの多佳子のアパートにすっかり定着した。
 ゴウは風呂が嫌いだった。多佳子はシャワーより湯船につかるのが好きで、ぬるめの湯なら何時間でも入っていられた。
「まったりするのが嫌いだ」と言うゴウを多佳子はへんなのと思った。いろいろなところで少しずつ違っているところを発見した。それが楽しかった。ゴウのことを知るたびに、すべてを知りたいと強く思った。
 多佳子が仕事から帰り、ゴウが深夜のバイトに出かけるまでの時間、ベッドの上に座ってふたりはいろんなことをこそこそと言いあった。全然意味のないような、どうでもいいことだ。何を話すというよりも、言葉のリズムをつなげたり、絶妙なニュアンスを探り合ったり、会話全体の流れを保たせたりする。話をしながらキスをしたりセックスをした。冷たいゴウの肌が徐々に自分の体温となじみ熱を帯びていく。多佳子はじっと目を閉じてそれを感じた。ゴウの呼吸を聴く。県道を走るトラックの荷台のきしむ音が聞こえた。同じ間隔で二回ずつ、夜の街並みを縫ってソファの上のふたりのところまでその音は届いた。カーテンを透かして、切れかかった街灯が部屋の暗闇を不安定にうごめかした。
 ときどきふたりはベッドの中でどうしようもなく的中したつぼにはまりこんで腹筋が痛くなるくらいに笑いあった。ゴウのバイトの時間を恨めしく思った。しかしゴウは律儀に出かけていく。ゴウが出かけてもまだ多佳子のなかには笑いがくつくつと残っていて、それなのになにをそんなに笑っていたのか全く思い出せなかったりした。
 ゴウが出かけてから食器を洗い、風呂に入った。ゴウがいるときはいつもシャワーだったが(ゴウを部屋に置き去りにしたままゆっくりと湯船に入るなどもったいなくてできなかった)、いないときにはバスタブに湯を張り入った。そして眠った。
 ふと明け方近くに目が覚めてひとりきりで寝ていることに気づくと、ゴウという人間はどこにも存在しないんじゃないかと思えた。それは悪い夢の続きのようにある程度真実味を帯びた錯覚だった。壁に立てかけてあるゴウの黒いギターケースを見る。床にはラジカセと積み上げたCDがあった。毛布をにぎりしめ、散らばるゴウの持ち物をじっと見つめ、多佳子はそうした錯覚を追い払った。ゴウと自分が一緒にいることは全く当然のことで、そうではなかった今までは異常なことだったのだと思った。目を閉じ、ゴウのかすかな残り香を吸い込み、再び眠った。頬に何かが触れる。目を覚ます。バイトから戻ったゴウがそこにいた。

 たしかに最初に惹かれたのはかたちだった。
 冬の日の午後、駅前の遊歩道、ふと立ち止まり見た西日のなかで一心にギターを弾くゴウの姿だった。そのあとに惹かれたのが声だったり、微笑だったり、痛々しいほどの正直さだったりしたのだ。
「たとえばさ」
 何本かのギターとギターアンプとそれをつなぐシールドと、何枚ものCDが散らばる多佳子の部屋で、一対のソックスのように重なったふたりがキスをして、その唇が数ミリ離れた後、ゴウは言った。
「もし俺がギター弾いてなくて、アフロで眉毛剃ってたりしたら、多佳子は俺を好きになってなかった?」
「そりゃまぁ、ね」
 多佳子は笑った。「ちょっと見てみたいけど」と付け加える。ゴウは笑わない。
「じゃあ、もしもわたしがスキンヘッドで鼻ピアスだったら好きになってた?」
 なってない、と軽く冗談めかして言ってくれると思った。しかしゴウは眉間にかすかなしわを寄せ、少し考えてから言った。
「わかんない。でも、なんていうか、許せない」
「許せないって、スキンヘッドの女が?」
「そうじゃなくて。スキンヘッドかどうかで判断する俺が」
 ゴウは目を伏せた。「そのぶん信用できない自分がいる」
 多佳子はなんだか急にいたたまれない気持ちになってゴウの顔を見る。
「人ってそんなに完璧じゃないんじゃない? 外見に惑わされたり、何かが分かるまで時間がかかったり、本当に大切なものに気づかなかったり」
「オトナだね」
 目を開け、多佳子を見て、ゴウが言った。
「姐さんとお呼び」と言うとゴウがやっと小さく笑う。
「姐さん、コーヒー飲みたい」
「あいよ」多佳子はゴウの頬にキスをして、立ち上がった。

 鼻先に触れるくらい目の前にあるものは、かたちなど分からなくなる。フォークの先で破って裂いた卵の黄身のように、ゴウは気配となって多佳子の生活空間に溶け込んだ。
 ゴウの言葉があふれ、ゴウの日常のものが置かれ、ゴウが歩き、ゴウが食べ、ゴウが眠り、ゴウが息づいていた。
 たとえば第三者になってゴウと一緒にいる自分を眺めることができたらいいのにと多佳子は思った。
 ゴウと一緒にいることの幸福を確かめられる限り確かめ、皮膚に、肉に、骨に刻み込みたかった。
 深夜、深く眠るゴウを見つめる。
 窓からの淡い光に横顔の輪郭が白く縁どられている。それは真夜中の歩道を照らす薄汚い水銀灯の光でしかないのだが、多佳子には何かを啓示する神聖なものに思えた。ついさっきまで自分たちがしていたことを思い出す。ふたりともずっと無言だった。ふたりだけではない、時計さえない部屋はすべてが静まり返っていた。ふたりが動くたびにベッドが鈍くきしんだ。カーテンの隙間から射しこむ三角形の光にゴウの肩や髪の影が揺れるのを見た。右と左の掌を合わせるようにゴウの前半身と多佳子の前半身がぴったりと合わさった。ゆっくりとリズムを刻み、速度を高めていく。ゴウがうなずくように多佳子の胸に額を押し付けてその高まりは静止した。強く、固く、組み合った。脱力し、ゴウの荒い息遣いの合間に自分の呼吸の声を聞いた。
 ゴウを見た。
 規則正しく呼吸をつづけ眠るゴウの、すべらかな頬に触れてみる。
 ゴウがここにいる。そして自分はゴウに触れているのだと言い聞かせる。
 ゴウがかすかにのどを鳴らし首を振った。多佳子の指がゴウの頬から離れた。安らかな子どものような寝顔の正面が多佳子に向けられる。多佳子は静かに微笑する。
 方向性を見失う。
 どこにも行きたくない。
 今ここは完璧な場所だ、そう思った。これ以上は何も望まない。ゴウとふたりでいるこの場所、ゴウと一緒にいる自分。これ以上何を望めばいいのだろう。
 満たされるというのはそれ以上の希望や目標が持てないということにおいて絶望にとても似ていると、多佳子は思った。もしかしたら絶望以上に指向性がないのかもしれない。「わたし」が「ここ」にいる、と強烈に思った。「わたし」と「ここ」はまたたくまにクローズアップされ、フォーカスが限りなく広がり散った。ベッドの上の意識はよりどころを失う。宇宙の彼方ですらないどこかのミクロの塵の一欠片として「わたし」は「ここ」にいるのだ、と思った。その意識は同時に高い密度と圧力で透明になる。肉体だけを残して透きとおる。透きとおった意識はものすごい重力であらゆるすべてを含み、深い、どうしようもない深い暗黒になっていく。自分の存在の意味のなさを思い知る。わたしはわたしじゃなくてももういいんじゃないかと思った。もうこれ以上、この社会との絆を強めることはできないんじゃないかと思い、いますぐ死ねたらいいのにと思った。
 気がつくと多佳子は泣いていた。しずくがこめかみを這い、髪の間を縫っていった。涙を枕で拭く。眠るゴウを間近で見つめ、これはきっと幸福すぎることの涙なのだと思った。そうとしか考えられなかった。
 

(あらすじ~第一話~第四話)

https://note.com/toshimakei/n/nbe20ad9a3f38

https://note.com/toshimakei/n/nb85fe45b64d3

https://note.com/toshimakei/n/n8c3cd6fa9e22

(第六話~)


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