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【恋愛小説】「傾いでます」第八話


第八話

「寝込んでたんだって?」
 鴨せいろをつつきながら藤木が言った。
「夏風邪?」
 ふふんと笑いながら多佳子を覗き見る。
「違うよ、ちょっと疲れが出ただけ」
 遅れて運ばれてきたひやしたぬきの膳を前に、手を合わせながら多佳子は言った。
「それで?」
「何が」
「昔の男はどうだったの」
「……うん」
 ごめん訊くべきことじゃなかったね、と藤木は黙り込んだ多佳子に真面目な顔で言った。
「ううん、いいよ」
 多佳子は小さく微笑んだ。
「なんかね、全然変わってなかった。八年前と同じ顔で眠ってた。まぼろしとか妄想とかじゃなくて、現実に目の前で眠ってて、手を伸ばせばふれることもできる距離なんだけど、でもさ、絶対にふれられない距離なんだよ。同じなのに何かが決定的に違ってた」
 割ろうとした割り箸を手に、多佳子は祈るように目を閉じた。藤木は黙って多佳子の言葉を聴いている。多佳子はゆっくりと目を開ける。
「別れたときさ、けっこうきつかったんだよね。しばらくぼろぼろだった。そのときのこと思い出しちゃったらどうしようって、じつは怯えてたんだけど。……でもそんなこともなかった」
 藤木が鴨を噛みながら多佳子を見る。
「ただ、ああ終わったんだなって思った。けど」
 そんな藤木から目をそらし、多佳子は言った。
 なんかね、と続ける。
「わかんないんだ」
「何が?」
 藤木が訊ねる。
「距離感」
「距離感? 何それ」
「平たく言えば気持ちの整理ってやつ?」
 多佳子は答える。
 ふうんと言って藤木はせいろに視線を落とす。
「まだ、好きだっていうこと?」
「違う、と思う」
「そう?」
「うん。たぶん」
 夫への気持ちが変化したということは少なくともない。
「なんだか難しいね」
 めずらしく神妙な顔で藤木はつぶやいた。そんな藤木の顔を見て、もう考えるのはやめようと思う。終わったものは終わったのだ。
「そう言えば、恋する予備校生はどうした?」
 多佳子は意識して明るい声を出した。
「相変わらずだよ。……こっちもね、なんかちょっと怖くなってる」
「え、ストーカーになってるとか?」
「ややそういう傾向」
「まじで」
「毎日じゃないけど待ち伏せとかする。いないときでも警戒しちゃうし、予備校から離れて家の近くでもなんか後ろつけてるような気がしちゃったりして、ちょっと参る。だんだんね、そんなんだったらいっそ襲って来れば、って思っちゃうの。それもやばいって思うよ、自分が」
「やばいね、それは」
 藤木はうなずき黙り込む。
「気を付けないとだね、冗談抜きに」
 そう言って多佳子も黙り込む。ふたりはただもくもくと昼食の箸を進めた。
「人間て怖い」
 食べ終わった藤木がそうつぶやいた。
「ていうか、感情ってうっとうしい」
 多佳子が言うと藤木はうんうんとうなずいて鼻をかんだ。

   *

 それはたしかですか? 
 ダークスーツの男が身を乗り出してくる。その目の光は獲物を見定める肉食動物のように鋭い。目撃者は我に返る。
 突き落としたのかもしれない、そう言っていた。
 わたしは何を言おうとしたのか。
「すみません、ちょっと頭がぼうっとしてしまって」
 関係ないことを考えていた。見たままを、現実を、しっかりと証言しなければ、と思う。
 こめかみを指で揉む。
「コーヒーをいただけますか、ブラックで」
 ひとつの影が崖の縁に立っていた。少し離れてもうひとつ。
 風が吹いた。
 一瞬の風だ。
 離れて立っていた影があおられるようにふらつき、風が吹き上げる海に背を向ける。両手で顔を覆う。長い髪がばらつき、広がる。
 もうひとつの影の、その足はしっかりと崖の上を踏みしめていた。風にあおられることなくまっすぐに立っている。ただ、ゆっくりと、重力に引きずられるように傾いで、そして、飛んだ。そう見えた。風にふらついていた影は体勢を立て直し、顔を覆っていた両手を伸ばし、それを追う。追って、そして、落ちた。両手は必死にそれをつかもうと長くのばされていた。
 助けようとしていたのか、後を追いかけたのか。それはわからない。
 それが目撃者が見たすべてだった。

   *

 街を歩く人の数はそれほど変わらないのかもしれない。路地もまだいくつか残っている。広い幹線道路に寄生する微生物のように短く完結している。入り口があり、出口がある。まっすぐに見通せる。整然とし、人々を迷わせない。歩行者は礼儀正しく歩道を歩き、横断歩道を渡る。人が少ないような気がするのは道が広がったせいかもしれない。ただ、えんぴつおばさんはもういない。
 多佳子自身近頃は街を歩くことがだいぶ少なくなった。
 電子申請が導入されたこともあるし、設計事務所や建設会社との図面のやり取りもほとんどクラウド化されていることもある。それでも多佳子は自分の受け持つ登記物件はできるだけ現地へ赴き、現場でうちあわせ、周辺情報も自身の目と足とで入手することを心がける。そうすることで、実際の手続き途中で発生する思いもよらないトラブルを回避することもあるのだ。以前いた法律事務所で下働きしていたときもまたそうだった、たとえ事務員であっても現場を知ること、街を知ることは無駄ではない、ディスプレイのなかにリアルな街はけっして存在しないのだ、と、何がきっかけかすでにわからなくなっているが、多佳子は事務の女の子にそのようなことを滔々と説いていた。気がつけばぽかんと口を開け自分を見上げている彼女の顔が、自分の説く仕事流儀とは明らかにぜんぜん違うことを考えているだろうという体に見えたので、多佳子は演説をやめる。
「ていうかさ、外に出れば出会いもあるじゃない」
 と、話を少しやわらかい方向へ向ける。
「そうすねぇ」
 ピンクのチークを乗せた丸い頬の彼女が間の抜けた声で言う。林さぁんどっかにいい男いないっすかぁといつも言っているのだ。だからそっち方向へ話をもっていったにもかかわらず、しかし若い事務員は相変わらずあさっての表情で多佳子の顔を見つめている。
「何、なんかついてる? わたしの顔」
「いえ。そうじゃないんですけど」
「ないけど、何?」
「いえ、林さん、最近なんか傾いでませんか?」
「傾いでる?」
「うん。なんか斜めってますよ」
 何よそれ、と言いかけたら電話が鳴り、受話器を取って営業用の半オクターブ高音の声で彼女がそれに受け答えし始めたので、多佳子もすごすごと自分のデスクへと戻った。座るとき、かすかによろめき、たしかに、と思う。
 最近、どうもバランスがとれない。
 たしかに斜めってる。
 

(あらすじ~第一話~第七話)

https://note.com/toshimakei/n/nbe20ad9a3f38

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(第九話~)

https://note.com/toshimakei/n/n261f0aac5167



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