膨らんだ鳥

アラフィフ、一人っ子、バツイチ、子なし。喪失感に毎日。父が他界した時のことを忘れがちな…

膨らんだ鳥

アラフィフ、一人っ子、バツイチ、子なし。喪失感に毎日。父が他界した時のことを忘れがちなので、母が亡くなった今を書いておきたい。記録のnote。

マガジン

最近の記事

四十九日 何か変わるだろうか

何の根拠もないけれど、この寂しさ、悲しさ、後悔などの複雑な気持ちは、四十九日になったら 少しは変わるだろか? と、淡い期待をしていたけれども、 何も変わらなかった。 それは、私だけかもしれないから、わからないんだけれども、期待していたから、なのかもしれないけれども。 何も変わらなかった。 納骨するまえに、骨壺を開けてみてみた。 骨が入っていた。 カサカサな骨だった。 骨を見たほうが、なんか心が動いた。 気がする。 どうかな。 まだ 私の場合は、時間が必要な

    • 戒名の付け方

      いろんな宗教観があるから、どれが正解とはいえないけれど、我が家の場合は「戒名を私がつけました」。 我が家は宗教をやっていないので、どこかの檀家でもなく、知り合いのお寺も無い。 だから、一度も母に会ったことないお坊さんに戒名は付けてほしくなかった。 どうしようかなぁって検索したら、「戒名アプリ」を見つけた。 戒名の付け方の参考に使わせてもらった。 母の事を思い出し、母が好きだったもの、母の性格、母の暮らした日々を思い出して、私が戒名を付けました。 それでいい。 我

      • 悲しみを分かち合える相手

        父が亡くなったとき、母と二人で悲しみを分かち合い、乗り越えてきた。 今回、母が亡くなって 一人ぼっちになった私は悲しみを分かち合える相手がいなかった。 私の周りには、両親を亡くし、一人ぼっちになった人はいなかった。 友達は、やさしい声をかけてくれたけれども、親を亡くした経験の人は少ない。 それに、友達の誰一人も私と母の介護生活を見ていない。 ここ6年間の出来事を誰も知らない。 けれど、唯一。母の友達が悲しみを分かち合ってくれた。 その方は、母の事を知ってくれてい

        • 遺品整理は死ぬ前にやっておくほうがいい

          死んでからやるのが遺品整理だけど、だけど、死んだら、思い出があふれているから何一つ捨てられないんだよ。 とくに私の母は、なんにでも自分の名前を書く癖があって、認知症になってから、さらにエスカレート。 ティシュの箱にまで名前を書くから、箱を捨てられない。 どーすんだい、これ。 っていうぐらい、名前が書かれているから、何一つ遺品整理が進まない。 生きているうちに、少しでもやっておけばよかったな。 結局、私のカレンダーは9月のまま。

        四十九日 何か変わるだろうか

        マガジン

        • グリーフケア
          14本

        記事

          介護と看取りと葬儀

          ぜーんぶ一人でやりました。 1人でやって良かったことは、自分ですべて決めたことだから。 相談する相手もいなかったけれども、喧嘩する相手もいない。 もめることは無かったけれど、正解かどうかはわからない。 期待することもないけれど、安心することもない。 良い悪いは、わからないけれども、それが一人っ子。お一人様だもの。 あとは自分の後始末をどうするか、模索中。

          介護と看取りと葬儀

          死生観と藤井風

          母が亡くなったとき、家族葬にしました。 病院から、自宅近くの葬儀場へ。 そこで一晩。 お坊さんは呼ばなかったので、通夜はしませんでした。 翌日、納棺式(おくりびと)にやってもらい、告別式をやりました。告別式といっても、司会はいないので棺桶に数人でお花をいれてお別れしました。 その後、火葬場に行きました。 1時間半程度で煙になって空にのぼり、手渡された骨壺はまだ暖かかった。 暖かい骨壺をぎゅっと抱きしめて、家に帰った。 お坊さんを呼ばなかったので、お経は自分で上げま

          死生観と藤井風

          昔のお葬式と今のお葬式

          お葬式のカタチも変わりましたね。 18年前、父が他界した時は、それはもう、お金かかりましたよ、お葬式。 何よりも住職へのお布施と戒名代が高かった。 うちはもともと、宗教をちゃんとやっていなくて、どこかの檀家でもない。 だから、父が急死したとき、病院から紹介してもらったところへお願いした。 何もわからないから。 それが、悲劇。 死別の悲しさ、判断力低下のまま、住職の言われるがままに、大金はらった。 けどさ、 父は 一度もあったことない、お坊さんに大金でお経あげ

          昔のお葬式と今のお葬式

          趣味は、お一人様の終活

          思えば、母中心の介護生活。 母のために、自分が体を壊さないように、頑張ってきた。 けれど、もう、その母はいない。 私は一人っ子だし、バツイチ、子無し、好きな相手もいない。 別に、私が居なくても、だーれも困らない。 母が生きていた時は、私が居なくなったら母が困るって思って頑張ってきたけれども、もう、頑張らなくていいんだよね。 なんか、もう、いいっかなぁって。 とはいえ、まだ四十九日も終わってないし、納骨も終わってないから、まずはそれまでは生きていよう。 そうだ、終

          趣味は、お一人様の終活

          当事者と、そうではない人

          「少しは落ち着いた?」と優しく声をかけてくれる人は、死別を経験していない人が多い印象。 たった数日では落ち着くはずもなく、日々複雑な感情が入り乱れて、まったく落ち着かない。かえって気が狂いそうになる。 「まだまだかかるよ」と言ってくれるのは、死別経験者が多い。 そう、まだまだかかる。 父が他界したとき、やっと落ち着いたかなと思えたのは一周忌の頃だった。だから、母を亡くした今、きっと1年はかかると思っている。 だから、焦らない。 今は、どっぷり悲しむ。泣く、わめく、

          当事者と、そうではない人

          天国へ旅立つ際の準備

          医療看護系の方なら知っているだろう旅立ちのサイン。 私の母の場合、1日の間で眠っている時間が多くなった。ご飯を食べたり、トイレに行ったり、それらの時間をすべて足しても1日2時間もない。あとはほとんど眠っている。よくそんなに眠れるものだと思っていたが、それは旅立ちの準備だったと今さらながらに知る。 生きがいや生きる目的も失っていた。以前は「あと10年は生きたい」や「おまえのために頑張る」、「寿司食べたい」とか言っていたが、そういうことも言わなくなっていた。 今思えば、「死

          天国へ旅立つ際の準備

          ステージ3

          感染者数が日々増えている。 またリモートの仕事が増えそうだ。 もし、母が生きていたら自宅で一緒に居られる時間が増えただろうに。 でも、あの時に亡くなったから、しっかり病院で看取りができたのかもしれない。 色々な思いがこみ上げてくる。

          母が亡くなってから知る 愛情

          母が亡くなって、母の友人たちに連絡をした。 返ってくる言葉はすべて 「娘を一人残していくのが心配だって言ってたわよ、」だ。 嬉しさと後悔がまた こみあげてくる。 今日もまた眠れない。

          母が亡くなってから知る 愛情

          両親を亡くして、天涯孤独

          父が42歳、母が33歳の時に私が生まれた。 だから、小さいころはよく「お孫さんですか?」と言われた。 一人っ子だし、 父は身体障碍者で癌だし、 母も体は丈夫ではないから、 子どもの頃から、 天涯孤独になることはなんとなく予想していた。 結婚もしてみたけど、私には向かないし、 子どもも作らなかったから、 選んだのは私自身なんだけれど。 両親を亡くし、 想像していた以上に、 1人になってみると、 つらいな。 これ、立ち直れるんだろうか? わたしと同じ境遇の人は、どうやっ

          両親を亡くして、天涯孤独

          多発性骨髄腫という病②

          血液系の癌です。 どういう症状がでるのか、私の母の場合は とにかく「倦怠感」でした。 起きているのがつらい、横になっていてもつらい。 身の置き場がなくて「どうしたらいいの? 助けて」と何度も言われました。 あとは、骨がもろくなるので「圧迫骨折」を2回。そのせいで、背骨がぎゅってなって、まるくなって、背が縮みました。 私と同じ158㎝だったのに、143㎝になってしまい、二人並んで鏡に映ったとき、母が自分の姿を見てビックリ( ゚Д゚)していました。 抗がん剤治療をしている

          多発性骨髄腫という病②

          多発性骨髄腫という病①

          血液系の癌です。 訪問看護士さんに聞いたところ、症状は様々だそうです。 ネットで検索しても、末期症状については、あまり書かれていないので、私の母について書いておきます。 一番最初の異変は「圧迫骨折」でした。 母、77歳の時に圧迫骨折になりました。とはいえ、年齢的なものだろうと思っていたんですよね。普通に整形外科で治療していました。コルセットをして寝たきりです。 その後、たまたま、内科の主治医が「血液系」の先生に変わってから多発性骨髄腫だとわかりました。これまでの血液

          多発性骨髄腫という病①

          コロナ禍の看取り

          その日は 朝から なんだか落ち着かなかった。 仕事中、ケータイが鳴ったのはお昼過ぎ、 「朝からお熱が下がりません、早めに病院に来れますか?」と看護師さんからの電話。 仕事を早退して、すぐに駆け付けると、まだ会話ができる状態だけれど、明らかに昨日とは違う。 「やばい」。 私は一瞬で理解した。 その後、だんだんと症状が悪化し、 「今日が山場です。病院に泊まれますか? 会わせたい人が居たら連絡してください」、と。 昨日まで、一緒にアイスクリーム食べてたのに、 昨日まで、一緒

          コロナ禍の看取り