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映画感想 バードマン あるいは無知がもたらす予期せぬ奇跡

バードマン 予告

 今回の映画感想は『バードマン あるいは無知がもたらす予期せぬ奇跡』を取り上げるのですが、最初に告白しておきましょう。

 よくわかりませんでした。

 うん、よくわからなかったんだ。この映画、どう見るべきだったのかな……。物語がわかりづらいとかそういうのではなく、作り手側の狙いや意図がどこにあるのか。私個人的に舞台の裏の話についての感心や知識がなさすぎる、というものあって、一番肝心な「主旋律」を掴み損ねたという感じがしてしまっている。
 そういうわけで、今回は作品の意図をよく理解できなかった……という人の感想文です。

!!今回もネタバレあり!!

映画の感想

 冒頭。かつて有名コミック映画『バードマン』の主演を演じたおじさん俳優リーガン・トムンソンが、パンツ一丁、空中浮遊しているシーンから始まる。
 リーガン・トムンソンには超能力が備わっている。しかしこの超能力は「妄想」とも取れるシーンもあり、どっちなのか判別しづらく作ってある。それに、この超能力が劇中、何かしらの実のある効果を発揮しているか……といえばそういうシーンはない。それではどうして超能力設定が与えられたのか……。
 またリーガンはかつて主演し大ヒットしたバードマンの幻覚を見る(言うまでもなく『バードマン』とは『バットマン』のことだ)。こちらはわかりやすくリーガン自身の自意識の象徴。またあるいは“かつての栄光”に捕らわれていることを示唆している。バードマンがリーガンの心に囁きかけてくるのは支配関係がいまだにバードマンが上の方にあり、リーガンはそのバードマンへ反発し、乗り越えようとあがいている。

 ちょっと面白いのは劇中に上がる俳優がことごとくスーパーヒーローを演じていること。「あいつもヒーローか!」と台詞にもある。確かに今、売れている俳優はみんなスーパーヒーローを演じているし、逆にスーパーヒーローを演じたから有名になった……という俳優もいる。そして主人公リーガン自身、かつてスーパーヒーローを演じて大成功した……ということへの自虐にもなっている。

 映画は全編が1カットに見えるように撮影されている。
 しかしよくよく見ているとカメラを振った瞬間、時間移動していて登場人物や着ている服が替わっていたり、廊下をくぐり抜けると時間が経過していたり、と「1カットのよう見えて実は1カットではない」作りになっている。カメラが廊下をくぐり抜けている間にカットが切り替わっているのだけど、それとはまったく気付かない……これはいったいどういった技術によるものなのかさっぱりわからない。
 考えられるのはカメラの動きをモーションコントロールで制御し、前後のシーンが入れ替わる瞬間のところでカットを入れ替えている。編集時に入れ替わった瞬間のカットを繋げると、まったく気がつかなくなる。
 でもそれでも充分ではないはずだから、私の知らない技術が導入されているのだろう。この仕掛けは本当にミステリーで、この種明かしを確認するためだけにDVDが欲しくなってしまった。

 奇妙なのは劇中度々出てくるバーで、このバーは実在する店なのだが、実際は劇場からもっと遠いのだという。ということは1カット長回しに見えて距離感も圧縮されている。これはいったいどういう技術によるものなのか、全くわからない。

 ではどうして全編1カット(風)で撮影されたのか。それは“舞台”がテーマになっていたから。舞台は映画のように何度もテイクを重ねて一番ベストなものを選び抜くシステムと違っていて、失敗したりトラブルが起きたりといったものも全て作品として見せなくてはならない。いわゆる“生もの”だ。
 実際、映画中での舞台はトラブル続きだ。代役として入ってきたマイクが本番中に酒を飲み始め、さらにセットを壊し、あげくベッドシーンで勃起して女優と本当の“本番”をしようと迫る。さらにマイクは勃起したまま観客の前に出て、観客の笑いを誘う。舞台本番中にあらゆる失敗を犯しても、その失敗も1つの作品として見せなければならない。映画は舞台で起きる可能性のあることをその通りに描いてしまっている。
 音楽はえんえんドラムの音が鳴り響いている。ドラムの音はリーガンが感じている焦燥感を表現しているのだと思うけど、何が起きるかわからない舞台上の“セッション感”のようなものも表現しているんじゃないかと思う。
 要するに、この映画自体が一つの“劇”なのだ……というのが1カット撮影の意図なのだろう。

 カメラワークは見事としかいいようのない秀逸さで、例えば冒頭、4人がテーブルに座って芝居をしているシーン、カメラは俳優達の周りをぐるぐる回るわけだが、俳優が喋るタイミングになるとうまい具合に俳優の正面にカメラが回る。カメラがぐるぐる回っているわけだが、見ているとカメラが来るタイミングで順番に台詞を言っているように感じられる。そういうカメラの動きが非常に自然。
 またどのシーンでも俳優が立ち止まるとタイミングよくカメラも止まり、ばっちりなフレームワークで俳優の顔を捉える。あまりにもばっちりなカメラワークなので、次第にカメラの存在を意識しなくなってくる。

 『バードマン』には“鏡”を使ったカットが多いのが印象的だった。鏡を使うと手前に立った俳優の顔を大きく捉えられ、さらに鏡の向こうの俳優の顔も捉えることができる。俳優の顔を大きく2つ並んでいるかのように見せることができる。俳優の顔を捉えるための一工夫だが、“鏡”というモチーフは舞台上の“虚構”を意味しているものかも知れない。
 リーガンが鏡の隅にマイクと娘サムがいちゃいちゃしている場面を目撃する……というシーンもあり、鏡一つで様々な使い方をしていて興味深い。
 謎なのはカメラが何度か鏡の前を通過しているはずなのに、カメラマンの姿が映らないこと。カメラマンはヴァンパイアなのだろうか? これも私の知らない技術が導入されているのか、もしくは鏡に映らないタイプの怪異がカメラマンを務めていたのか、詳しく知りたいところだ。
 他にもリーガンとマイクが殴り合いをするシーン、カメラがすっとリーガンの後ろに回る。こうすることで距離感が圧縮され、拳が当たってないのに当たっているように見えるという視覚トリックが成立する。マイク役エドワード・ノートンのリアクションもバッチリ。さすが『ファイトクラブ』の主演だ。

 この映画では“虚構”と“本物”が何度も交錯していく。
 代役でやってきたマイクは“本物”にこだわる。本番中に本物の酒を飲み始めるし、さらにベッドシーンで“本番”をやろうとし始める。ただし日常のマイクはインポだ。普段のマイクのほうが虚構で、新聞インタビューでもあることないことデマカセで喋ってしまう。マイクにとって芝居をしている時の自分のほうが本当。虚構と本物が入れ替わっているのがマイクだ。
 一方のリーガンも虚構と本物の区別が曖昧になっている。リーガンは本当かどうかわからない超能力が備わってるという設定だし、しょっちゅうバードマンの幻聴を聞いている。さらには空中浮遊もする。それが本当か虚構かわからない。リーガン自身、起きている現象が本当か虚構であるのか、区別しているのか怪しい。

 リーガンの虚構と本物の区別が曖昧になっているのは、リーガン自身が虚構のほうを“本当であって欲しい”と願っているから。リーガンには欲しいものがたくさんある。かつて得ていた栄光を取り戻したいし、娘との関係を取り戻したいし、今の恋人との関係も元妻との関係も、それを取り戻そうという“賭け”でブロードウェイ劇を企画した。そこで象徴として出てくるバードマンは、バードマンを演じていた頃はいま欲しいと思っている色んなものを持っていたからだ。
 しかし現状では手に入らないから、バードマンの幻覚が現れ、スタッフに過激に当たり散らしたりする。焦燥感があるがゆえに、いろんなものが裏目に裏目に出てしまう。

 舞台を成功させて、復活を宣言したいリーガン。「コミックヒーローの主役」ではなく、「演技ができる俳優」として復活したい。
 しかしやろうとしていることが裏目に出てしまう。初日プレビュー後の新聞記事は、一面を飾ったのはピンチヒッターでやってきたマイクのインタビューで、自分の記事ははるか後ろに小さく。劇中、「マイケル・ジャクソンと同じ日に死んだファラ・フォーセット」についての話題がある。ファラは初代『チャーリーズ・エンジェル』を出演するなど多くの役をこなしてきた女優だが、同日にマイケル・ジャクソンが死亡したことによって誰からも注目されることはなかった。まさに自分が「大スターの日陰」になってしまった。
 続いて、リーガンはトラブルが起こしパンツ一丁で劇場の前を通らなくてはならなくなり、その時に通りがかった多くの人に注目を浴び、撮影され、さらにテレビ番組で取り上げられ、この瞬間を撮影した動画は1晩で100万回再生を記録する。
 やっていることが裏目に出て、しかも不本意な形で注目される切っ掛けとなってしまった。「舞台本番中で勃起したマイク」の動画は50万再生だったが、パンツ一丁のリーガンは100万再生。「大スターと日陰」の関係はここで逆転したが、リーガンはあくまでも「芝居ができる役者」として注目されたかったのに、まったくの不本意な形で注目される切っ掛けを作ってしまった。
 さらには有名評論家であるタビサから直接罵倒され、「劇が始まったら酷評する」という宣言を聞かされる。リーガンは「芝居」で注目されたいのに、評論家からは「芝居」そのものを見てもらえないし、期待もされていない。

 何もかもがうまくいかない。追い詰めららていくリーガンの前に、虚構でしかないはずのバードマンが姿を現す。
 観客が望んでいるのは芝居じゃない。スーパーヒーローが出てきて大袈裟に街が破壊され、銃でドンパチする瞬間だけだ。中学生が大騒ぎする映画が望まれているのであって、役者の芝居そのものじゃない。映画の観客なんてそんなものだ――バードマンはそう囁く。
 リーガンはバードマンの囁きに負けてしまうのか。スーパーヒーローとして復活すれば……『バードマン4』のオファーを受けていればこんなに追い詰められたりしていなかった……という後悔と焦燥感。ヒーローという安易な復活の道もあり得るかも知れない。しかしリーガンが望んでいるのは、あくまで“本物の芝居”のほう。

 色んなものを失って完全に自棄っぱちに陥ったリーガンは、「本物の拳銃」を持って舞台に上がってしまう。“ニセモノ”の舞台じゃない。“本物”を見せてやろうじゃないか――というこのあたり、自棄っぱちになったリーガンが舞台上で死んでやろうと思ったのか、それとも本物の芝居を見せてやろうと覚悟を決めてやったのか、どちらなのかよくわからなかった。
(タイトルに「無知がもたらす予期せぬ奇跡」とあるから、自棄っぱちでやったことが巡り巡って評価を得た……ということだったかも知れない)
 しかし舞台で命がけの芝居を見せたリーガンは、大絶賛を浴びることとなる。あの「酷評してやる」オバサンも大絶賛。かくしてリーガンは得たいものを得て、クソしているバードマンの幻覚ともおさらばすることができた……。

 さて、最後にリーガンの超能力は本物なのか妄想なのか。
 これはおそらくリーガンが自己実現を果たせるかどうか、という話だったのだと思う。自己実現を果たしたリーガンは超能力を本当のものにすることができた。妄想ではなく、本物にすることができた。
 超能力の設定は、かつてスーパーヒーローを演じていたことを示唆するもので、スーパーパワーを持っていたからスーパーヒーローを演じることができた、あるいはスーパーヒーローを演じたからスーパーパワーを持っていた……。あるいは「自分はスーパーパワーを持っているとあの時から思い込んでいた」。超能力設定は「過去の栄光」を未だに抱えている、ということ。
 ……と、書いていても自分でもなんだかわからなくなってくる。
 ともかくもリーガンは「バードマンとして」ではなく、「自分自身」として飛翔してみせる。これはある意味、「自己実現を達成して飛翔した」ということの暗喩なんだろうと思う。

映画を見終えて

 今回の作品は本当によくわからなかった。わからなかったので、わからないなりに「こういうことかな」と感想文を書くことにした。しかし今回ほど「実の入らない」感想文はそうそうあるものではない。全体を通して「こういうこと……かな」「こういうこと……だったと思う」で自分でも何を書いているんだかわからなくなってくる。

 では『バードマン』が難解な作品か……というとそうではなく、単に私が芝居の世界に対する理解が足りない、役者の気持ちを理解し得ていない……というだけの話で、見る人によってはストレートにこの映画に描かれているテーマを受け取れるはずだ……と思う。
 というのも、この映画には無駄なシーンはほとんどないはず。それぞれが一つの意図やテーマ、物語に沿って展開していくので、全体としての意味を読み取るのはさほど難しくなず。難しい映画ではない。
 それなのにどうして私はこの作品のテーマを掴み損ねたのか、というとあまりにも役者の世界に対して門外漢だったから。というかこの映画を見て、「そっか、私はここまで役者の世界に対して関心を持っていなかったのか」と気付いてしまった。
 確かに色んな映画を見てきたけれど、俳優の芝居についてはあまり興味を持って見てなかったものね……。この感想文でも俳優の演技についてほとんど言及してこなかったのは、理解していなかったからだ。

 ついでに記しておくと、もちろん「ダメな映画」でもない。それはこの映画が多くの栄冠を得たことが物語っている。個人的に「よくわからなかったからダメな映画」と判断するつもりもない。「個人的に理解できなかったから」という部分に感情を乗せて拒絶するつもりもない。またその感情を理解して欲しいが為に「つまらないですよ! 見るべきじゃありませんよ!」と喧伝するつもりもない。クオリティの高さを読み取ることはできる。それくらいの勘は備わっている。ただ見ていてもスッと腹に下りてくるものがなかった……というだけの話だ。どうしてそうなったか、は私の理解力の低さによるものだ。


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