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映画感想 ゴーストバスターズ/アフターライフ

 あの『ゴーストバスターズ』のリブートではなく、正統派続編!

 本作は1989年公開映画『ゴーストバスターズ2』の32年ぶりの続編だ。2016年に公開されたリブート映画『ゴーストバスターズ(2016)』は完全になかったことになっている。物語中の時間もおよそ40年が過ぎていて、主人公は最初のシリーズのゴーストバスターズメンバーの1人、イゴン・スペングラー博士の孫娘、フィービー・スペングラーとなっている。かつてニューヨークを襲った大騒動は、都市伝説のような扱いになっていて、フィービー世代はもはや「知らない」か「信じていない」という状態になっていた。
 舞台はニューヨークではなくオクラホマ州の田舎。主人公は12歳の女の子。これまでの『ゴーストバスターズ』とは舞台も違うし、スタイルもまったく別の映画として仕上げられている。シリーズ正統派続編だが、ほぼ別映画と思って観たほうがいい。
 監督はジェイソン・ライトマン。最初の『ゴーストバスターズ』の監督、アイヴァン・ライトマンの息子。芸能の世界では「2代目はいまいち」と言われがちだが、ジェイソン・ライトマンは早い時期から「父親越え」と評される実力者。ただし父親のようなコメディスタイルではなく、もっと社会性やドラマ性を含んだ映画を得意とする。ジェイソン・ライトマンはこれまでインディーズ映画や低予算の映画を中心に制作してきたクリエイターで、『ゴーストバスターズ』のようなメジャーなタイトルを手がけるのは初めてかも知れない。
 ジェイソン・ライトマンと『ゴーストバスターズ』の関係性は深く、第1作目の頃から父親にくっついて撮影現場を見学していて、オリジナルメンバーとその当時から交流があり、撮影の最終日にはマシュマロマンのかけらを記念に持って帰った……なんてエピソードがある。『ゴーストバスターズ2』では子役として出演もしている。ジェイソン・ライトマンにとって『ゴーストバスターズ』は子供時代の一つの体験として接してきた作品だった。そんな彼が、子供時代の思い出と向き合うように本作を制作する。また「オリジナルシリーズの息子が映画を撮る」ということがこの映画にとって重要な意味を持っている。
 主演のフィービー・スペングラーを演じるのはマッケナ・グレイス。幼いし地味な風貌だが、理知的な雰囲気を称えている子役だ。マッケナ・グレイスはすでに子役としてたくさんのテレビドラマ、映画に出演しており、私が知っている作品でいえば『アナベル 死霊博物館』で主演を演じている。撮影当時14歳だったと思われるが、すでに充分なキャリアを積んだベテラン女優であった(彼女の母親役の女優よりも出演本数が多い!)。
 その兄であるトレヴァー・スペングラーにはフィン・ウルフハート。映画を観ている時から「彼によく似ているな……」とは思っていたが、その彼だった。『ストレンジャーシングス』の主演マイケルで知られる有名子役だった。
 本作の評価は、映画批評集積サイトRotten Tomatoesによれば高評価63%で、平均点は6.2。賛否両論となっている。興行収入は全世界で2億400万ドル。
 イマイチ……と評された2016年のリブート映画は高評価73%で平均点6.5。興行収入は全世界で2億2900万ドル。実は3作目より評価が低い。ただし制作費が前作の半分程度しか使っておらず、同じくらいの興行収入でも本作の方が黒字を出している。

 前半のストーリーを見てみよう。


 母子家庭で家賃を滞納気味だったスペングラー一家は、とうとう立ち退きを命じられてしまった。そこで仕方なく、祖父が生前住んでいたというお屋敷を目指すのだった。
 やってきたそこは田舎。どこまでも農場が広がる風景の只中に、オンボロ屋敷がぽつんと一つ……。それがイゴン・スペングラー博士が晩年を過ごしていた屋敷だった。
 屋敷に行けばお爺ちゃんが残してくれた何か……お金になりそうなものがあるんじゃないか、と期待したけれど、屋敷にあったのはなんだかわからないゴミの山。資産と呼べるものはなく、あったのは借金だけ。ただ借金を相続しただけだった。
 スペングラー一家はその日の食事に――とドライブスルーへ行く。兄のトレヴァーはドライブスルーで働いている女の子に一目惚れして、その場でバイトを申し込んでしまう。
 帰宅してフィービーが寝室でゆっくりしていると、チェス盤がひとりでにすーっと動き、テーブルから落ちてしまった。フィービーはチェス盤の上のコマを並べ直し、ベッドの側に置いて、じっと見詰めてその日を終えるのだった。
 翌朝――チェス盤のコマが一つ動いていた。それがどういう現象なのか確かめる間もなく、母に呼ばれて部屋を後にして行く。
 フィービーは母に連れられて、その地元の学校へ行くのだった。夏休みの最中だから、フィービーが行ったのはサマースクール。落第生が補習にやってくる教室だった。そんな教室だったから、担当のグルーバーソン先生もやる気がなく、生徒にテキトーなホラービデオを見せて時間を潰させるのだった。
 ビデオを見ていると、フィービーの隣に座った男の子が話しかけてくる。少年はポッドキャストと名乗る、風変わりな少年だった。
 突然、地震が発生する。揺れを感じて、グルーバーソン先生はすぐに地震計に飛びつく。フィービーがそんな先生の部屋にふらっと入っていった。
「なにこれ? 地震マップ?」
 地図を見てすぐに「地震マップ」と理解したフィービーにグルーバーソン先生は興味を持って、講義を始める。火山性の地震の場合は、波形は次第に大きくなり、またすぼむ。地殻変動による地震は、小さなP波の後に大きなP波が来る。しかしこの街で起きている地震は大きなP波の後に小さなP波が起きている。震源地はわからない。地下に溶岩も流れてなければ構造プレートもなし、断層もなし、ガスも出てないし、爆音演奏もしていないのに、なぜか毎日地面が揺れている。謎だ。
 そんな授業を終えて、フィービーはポッドキャストとともに郊外の鉱山跡へ行く。サマーヴィルの街はもともと鉱山の街だったが、しかし40年ほど前に閉鎖となった。その理由が、働いていた工員が次々と穴に飛び込んで自殺してしまったから。間もなく「呪われている」と囁かれて、人々が去って行ったという。
 坑道をずっと進んで行くと、明らかに人工的なレリーフが出現する。そのレリーフが出現して、それから鉱山に悲劇が起こるようになった……という。
 フィービーが帰宅すると、チェス盤のコマがまた一つ動いていることに気付く。フィービーがさらに1手動かすと、コマがまた1手動き始める。フィービーは何者かの気配を確信する。
 そうしていると、謎の装置――PKEメーターが動き始める。フィービーはそのPKEメーターで幽霊を探知できるとすぐに気付き、その気配を追いかけていくと、リビングの床へと辿り着く。床を改めて見ると、寄せ木細工のパズルになっている。そのパズルを解くと、床下からゴーストトラップが出てくるのだった……。


 ここまでのストーリーで30分。
 「ゴーストバスターズといえばニューヨーク!」……これまで制作された3作の映画はずっと舞台がニューヨークだった。ゴーストバスターズといえばニューヨークの申し子だ、というイメージが強かったが、本作では思い切って舞台は田舎。
 映像のトーンを見てもコメディ映画として作られておらず、とある田舎の、少年少女の夏の物語……というイメージで作られている。画面もシネスコープで田舎の風景を情緒たっぷりに捉えて、どこか文芸映画的な風格すらある。「ゴーストバスターズのシリーズ」というより、ジェイソン・ライトマンの個性のほうが強く表れている。
 というわけで、今までのゴーストバスターズとはまるっきり「別映画」として観たほうがよい。

 その田舎の風景だが、ちょっと変な感じになっている。
 まずスペングラー一家が夕食にとやってくるドライブスルー「Spinnena」。今どきないようなローラースケートを履いた店員がいて、料理を車まで運んでくる方式。案の定、治安は悪く、駐車場は不良達の溜まり場になっている。一昔前のアメリカによくあった風景だ。そういうわけなのかわからないが、スペングラーのところにポテトを運んでくる店員というのがお婆ちゃん。世代的に、アメリカにああいうドライブスルーがあった頃に働いていたであろう女性だ。
 学校に行くと、ブラウン管テレビにVHSビデオテープ。しかも上映される映画が1983年の映画『クジョー』。日本では2週間だけ劇場公開されただけのお宝ホラー映画だ。原作はスティーブン・キング。
 2回目の上映会では『チャイルドプレイ』が流れている。1988年のホラー映画だ。いずれも時代的に、初代『ゴーストバスターズ』(1984)と同じくらいの世代の映画だ。
 スマートフォンなんてものは出てこず、「これ、2021年を舞台にした映画だよな」……と不思議な気分になる。とにかく出てくるものがレトロ。1980年代頃から時間が止まったような街が舞台となっている。
 どうやら監督が志向しているのは、「2021年の映画」ではなく、どこかの時代にあったかも知れない、ノスタルジックな少年少女の物語のようだ。現代文明を象徴するアイテムをほぼ登場させず、時代から取り残されたような街を舞台とした、少しレトロな風合いの物語。そんな街で始まるすこし不思議な物語……。そういう風合いが映像や物語から感じられる。

 主人公達一家がやってくるイゴン・スペングラーが晩年を過ごしていたという泥屋敷には、どうやらゴーストがいるらしい……。
 はじめにチェス盤がひとりでに動いて、テーブルから落ちる……という怪奇現象が起きるのだけど、フィービーはその現象に驚きはするけど怖がったりはしない。チェス盤のコマを並べ直し、ベッド脇に置いてじっと観察しながら眠る……ということをやる。
 その後、幽霊探知機ことPKEメーターの存在に気付き、すぐにそれが幽霊を探知できるアイテムだと理解すると、幽霊の存在に怯えることなく、むしろ進んで探索を始める。
 こういうところで主人公の少女・フィービーがどういう子かわかる。怪奇現象が起きても、怖がったりはせずに、「仕組みがどうなっているのか」その探究心のほうが前に出てしまうタイプだ。
 幽霊映画の登場人物としては非常に珍しい。幽霊映画といえば怖がる女優の顔・絶叫……だけど、そういうお約束をまず外して描いている。
 ゴーストバスターズはもともとコメディ映画で、ゴーストが登場してもぜんぜん怖くない(むしろゴーストが面白かったり可愛かったりする)そのうえに、本作では「怖がる」というリアクションをする女の子もいない。こういうところでもホラー映画をまったく志向していない。もちろんコメディ映画も志向していない。やっぱり今までのゴーストバスターズとはまったくの別モノであるし、よくあるホラー映画とも違う志向を持った作品だ。

 お話しの続きを見ていこう。


 フィービーはゴーストトラップを持って学校へ行くと、すぐにグルーバーソン先生が「信じられない! 本物そっくりだ!」と飛びついてくる。しかしそれがなんなのか知らないフィービーとポッドキャストに、グルーバーソン先生はさらに驚いてしまう。
 グルーバーソン先生はネットに上げられている古い動画を見せる。1980年代頃のニューヨークは幽霊がうようよしていた。そこにプロトンパックを背負った物理学者達がやってきて、マンハッタンの屋上でマシュマロマンを吹っ飛ばした。それを最後に、30年間ゴーストは姿を現さなくなった……。
「まだ信じられない?」
「私が生まれる20年前だし……」
 当時の動画を見せても、子供たちはポカンとしているのだった。
 それはともかくとして、このゴーストトラップは本物だろうか。ゴーストトラップに電流を流し、蓋をこじ開ける。
 すると――中から悪霊が飛び出した。悪霊は叫び声を上げながら、鉱山のほうへ飛び去って行った。
 逃げたほうが良さそうだ……。フィービーたちはその場から離れて、自宅に戻ることにした。
 フィービーとポッドキャストは泥屋敷で祖父が残した書籍をめくっていると、あの悪霊によく似た挿絵の描かれた文献を発見する。
 それによると……シュメール人は死者の世界を信じていた。そこは地面の下に広がる真っ黒な世界だ。死者の魂を支配する神の名をゴーザという。ゴーザを守るのは門の神と鍵の神。ゴーザが復活し地上に戻るためには、門の神と鍵の神が獣の姿となって“合体”しなければならない……。
 その後、フィービーはPKEメーターを使って屋敷の周囲を探索をしていると、納谷の地下に秘密の研究所を発見する。幽霊の気配に導かれて、そこに置かれていたプロトンパックを修理する。ロッカーを開くと、「スペングラー」の名前の入った作業着を発見する。それが祖父が着ていたゴーストバスターズの仕事着だった。
 翌日、修理したプロトンパックを試すために、廃工場前へ行く。そこで試し打ちをやっていると、工場の中から不気味な叫び声が木霊した。
 何かいる……。フィービーとポッドキャストは廃工場の中へと入っていく。すると――ゴーストがいた。ゴーストはフィービー達に気付いて、襲いかかってくる。フィービーはプロトンビームでゴーストを捕縛するが、ゴーストトラップの設置に手間取って逃げられてしまう。
 逃げられてしまった。とりあえずゴーストを追って工場を後にするが……。
 自宅近くの道を歩いていると、突然に変なキャデラックが道に飛び出してきた。乗っていたのは兄のトレヴァーだ。納谷になった廃車を修理して試し運転していたところだった。
 渡りに船だ。フィービーとポッドキャストはキャデラックに乗って街へと繰り出すのだった……。


 ここからゴーストの捕獲シーンへと進み、成功するまでで1時間ちょっと……というところ。

 ここまでの展開を見てわかるように……お話しの進行はだいぶスローペース。ここまでの展開って、普通のエンタメ映画だと40分くらいだ。この展開の遅さが、映画全体の弱点の一つ。フィービーがコスチュームを着てゴースト退治をする場面は観客が一番見たいところであるはずなのに、そこまで50分近くもかかる。ここで変な引っ掛かり方をしてしまう。
 次の引っ掛かりはイゴン・スペングラー幽霊の存在が強すぎなこと。幽霊というのは、「いるのかいないのか、わからない存在」であるはずなのに、あまりにも存在を立たせてしまっている。ゆえに、幽霊としての神秘感に欠ける。幽霊というか、「透明人間」がそこにいるかのように描かれている。
 他にもある。それぞれのプロットが有機的に連なっているように見えない。物語は悪神ゴーザの復活に向けて進んで行くわけだけど、その展開に緊張感がない。
 緊張感がないように感じられるのは、まずはじめに、ゴーストトラップに封じていた門の神を、自ら解いてしまったこと。主人公側の過失……というのはシナリオ制作においてタブー。主人公が失敗を犯して起きた問題であるなら、その後の展開はずっと主人公の尻拭いのお話になってしまうからだ。
 そこから悪霊達が復活に向けて計画を進めていくのだけど、フィービー側がそれに対して何も抵抗をしない。何が起きているのか調査もしない。グルーバーソン先生とキャリーが悪霊に取り憑かれてしまうのだけど、その過程も無抵抗。そこに至る展開としてマシュマロマンが出てくるのだけど、その場面もたいして面白くない。
 悪神ゴーザが復活し、悪霊達が地上にゾロゾロと姿を現すのだけど、その光景に怖さや驚きがない。それで街がパニック……ということもなし。あまりにも淡々としすぎて、盛り上がりに欠ける。
 最後には意外な登場人物が助けにやってくるのだが……それも見えすぎている伏線のせいでさほど驚かない。ついでにエンドロール後のシーンが蛇足に見えてしまう。
 肝心の少年少女の青春物語も中途半端に終わってしまった。せっかくいい雰囲気で少年少女の友情物語がはじまりそうだったのに、最終的にはおじさんがドラマを持って行ってしまった。そこも残念なところだった。

 ……と、とにかくも映画全体に緊張感がない。展開が遅いうえに、個々のプロットの関連が弱い。冷静にお話を見ると、かなり合理的にお話しが進んで、無駄な登場人物もいないのだけど、逆に言えばシナリオの枝葉がなさすぎる。妙に薄っぺらい感じに見えてしまう。

 映像面の弱さもあって、前半の、田舎の風景を写した情緒ある風景はよかったのだけど、そこから活劇に向かって行く画作りに力がない。どの場面を切り取ってみても、格好よかったり強かったり……という感じがしない。どのシーンも薄らぼんやりしている。「画面」でシーンを語っていない。
 とはいえ、全体のトーンそのものはずっと良く、これまでの「ゴーストバスターズといえば……」というコメディ調のイメージをガッと変えて、ちゃんと1作目から連なるドラマにしようとしている。もちろん、出てくるゴーストは相変わらずコミカルで、怖くない……というところもいい。間違いなくジェイソン・ライトマン監督による「新しい作品」になっている。ゴーストバスターズシリーズにとっても新しい展開だ。
 ただ、ジェイソン・ライトマンはこれまで落ち着いた家族ドラマや社会派映画を撮ってきた、ということもあってエンタメ映画としての画作りの経験が浅い。そこが映画全体の弱さになってしまっている。
 ストーリーもイメージも悪くないどころか、すごく良い。予告編で描かれたイメージは、これまでのシリーズになり新しい映画になりそうな予感があった。だがそのイメージをうまく推進させるためのシナリオ、画作りに力がなかったことが残念だ。

 2022年2月12日、シリーズの監督を務めたアイヴァン・ライトマンがこの世を去る。『ゴーストバスターズ/アフターライフ』の日本公開が始まって間もなく……というタイミングだった。
 そうした最後の時代に、その息子であるジェイソン・ライトマンが作品を引き継いだ。これにはどこか運命的なものを感じさせる。
 ジェイソン・ライトマンは子供時代、『ゴーストバスターズ』の撮影現場にいて、映画ができあがっていく過程を間近に見ていた。ジェイソン・ライトマンが『ゴーストバスターズ』の最新作を引き受けたのは、単に「プロデューサーから依頼が来たから」とか「シリーズのファンだから」というだけではなく、もっと自分自身の体験に紐付いている。ジェイソン・ライトマンにとって、『ゴーストバスターズ』は子供時代の貴重な1ページなのだ。
 だから『アフターライフ』の中で自身を投影する主人公は子供。これは自分の子供時代に起きた喜びを、映画の中で再現しようとしたのではあるまいか。幽霊に遭遇しても驚きもせず怖がりもせず、冷静に観察する……ジェイソン・ライトマンはきっとそういう子供だったのだろう。
(それが“少女”というのが一つポイントで……ジェイソン・ライトマンはこれまでの作品で少女や女性の内面というものに心を寄せてきた。それはやはり、女性化願望があるからではないだろうか)
 そこでジェイソン・ライトマンは「ゴーストバスターズといえば……」というニューヨークやギャグ映画のイメージを踏襲せず、ごく田舎の、素朴な少年少女の物語を中心に据えた。そこにはスマートフォンすらなく、出てくるのは80年代映画ばかり。まるで自分の子供時代を再現するかのように。その試みがシリーズを全く新しい局面、新しい魅力を引き出してくれた。2016年のリブート映画よりこっちのほうが間違いなく魅力的だし、リブート映画にありがちな「物真似映画」にも陥っていないのに、こっちのほうがオリジナルの精神性を強く感じる。オリジナルのイメージをほぼ無視しているのにもかかわらず、だ。『アフターライフ』のほうが「30年ぶりに作られた続編」として全ての面において納得ができる。
 それができたのは、オリジナル映画の精神性を引き継いだ子供、ジェイソン・ライトマンだったから。ある意味で、『ゴーストバスターズ』シリーズの子供が本作『アフターライフ』なのだ……という言い方もできる。
 ただし、一つ一つのシーンに緊張感に欠ける……というのが映画の弱点。映画全体の方向性に異議なしだったから、かなり“惜しい作品”だった……という感じか。

 本作の興行収入は前作のリブート映画よりも少し落ちるのだけど、もともと制作費が安かったおかげで大きな黒字を得ることができた。これで制作会社は気を良くしたらしく、すでに続編のGOサインが出て、脚本制作に入っているようだ。
 私はこれにはかなり期待していて、映画自体がどのように成長するのかぜひ観てみたい。『アフターライフ』には引っ掛かりはあったのだけど、しかしそれは反省点として見えているはずだから、次回作でアップデートが図られるはず。『アフターライフ』から始まる『ゴーストバスターズ』シリーズがどのように発展するのか、期待したい。


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