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映画感想 タリーと私の秘密の時間

 今回視聴映画は2018年のアメリカ映画『タリーと私の秘密の時間』。とある母親の出産にまつわるお話である。
 監督はファミリー映画の大ベテラン、ジェイソン・ライトマン。主演は“気合いの女”シャーリーズ・セロン。シャーリーズ・セロンはこの映画のために22キロ増やし、出産後の太りきった女性の体を表現した。“気合いの女”なので特殊メイクなどには頼らない、今作でも気合いの入った役作りを見せてくれる。

 前半のお話を見てみよう。

 主人公のマーロは3人目の出産を間近にしている母親である。40代。家庭はあまり裕福ではない。2人の子供はまだ幼いのだが、問題は下の方の子であるジョナ。ジョナが家庭でも学校でも問題を起こし、マーロはそれでしょっちゅう学校に呼び出されている。
 40代というそこそこ高齢での出産で、しかも家庭環境があまり良くない。ジョナが家庭でも学校でも問題行動を起こすのは、母親が出産を間近にして自分を相手にしてくれないからだろう。
 冒頭のシーンで、母親が部屋から去ろうとしている場面で、ジェナ君はおちんちんを押さえる。なぜおちんちん? ……確か幼児がおちんちんを触るのは「不安を感じているから」……だったと思う(性的なニュアンスではない)。母親が部屋を去ろうとしているのを見て、不安を感じ、その不安を表に出さない代わりにおちんちんを押さえる……という行動で自分の意識を表明しているのだろう。
 マーロは子供たちを学校に送り出した後、とある喫茶店に入る。そこで通りすがりのオバサンに、「その食べ物はカフェインが入ってるわよ」と教えてもらう。出産間近の母胎にカフェインはあまりよくない……。しかしマーロはその助言を無視して、その食べ物を注文する。
 マーロは人の話を聞かない……というか、他人の忠告を聞くほど精神的余裕をなくしてしまっている。この一件にかかわらず、他人のあらゆる忠告を無視し続ける。ここでも忠告を無視して件の食べ物を注文するが、食べない……というヘンな行動を取っている。それくらい気持ちに余裕がない……というところを表現している。
 この喫茶店のシーンで、マーロは偶然にも同郷の幼馴染みと会う。幼馴染みは痩せているし快活な感じで若々しく見える。その幼馴染みがバイクで走り去っていく光景を見て、マーロは何となく気持ちに引っ掛かるものを感じる。
 自分は40歳の貧乏暮らしで3人目の出産を間近にして一杯一杯。それにずいぶん太ってしまった。なのに、幼馴染みのあの人は……。マーロはなんともいえないものを感じる。

 ある晩、マーロは兄のホームパーティに招待される。兄は“成功者”だった。大きな家に住み、美人の妻、聞き分けのいい子供たち、それからベビーシッターのいる家で過ごしている。
 兄はマーロに、出産したら夜専門のベビシッターである「ナイトシッター」を雇え……と薦められる。しかしマーロやその夫の所得ではそんなものは雇えない……。

 間もなくマーロは出産の時を迎える。
 出産も大変だが、母親はその後も大変。特につらいのは夜泣き。寝ている最中も数時間おきに泣き声で起こされ、お乳を与え、あるいはオムツを替え、あるいは特に用事がなくても大声で泣く。40代のマーロには相当堪える育児で、ひたすらに消耗していくのだった。
 こんな時、夫は何をしているのかというと、いつもの仕事と、仕事を終えた後は寝るまでゲーム。消耗している妻を気にもしない。

 息子のジョナの問題行動は日々ひどくなっていき、ある日、学園長に呼び出され、転校を提案される。マーロはブチ切れて帰宅しようとする。そこにはひたすら泣いて、どうしようもない赤ちゃん……。もう対処できない……と件のナイトシッターに電話するのだった……。

 ここまでが25分。マーロが育児に消耗していき、ナイトシッターに電話するまでが描かれる。
 マーロの育児シーンだが、Amazonの感想をザッと見たところ、育児経験者から見てもかなりリアルな描写のようだ。夜泣きで目を醒まし、充分な睡眠が取れないし、それでも朝になると起きて朝食を作り、子供たちを送り出さなくちゃいけないし、夫はゲームばっかりやって協力してくれない……。なかなか厳しい描写が描かれていく。

 前半25分を経て、いよいよナイトシッターであるタリーが登場していく。表題にもなっている「タリー」はこの人のこと(原題はもっとシンプルに『Tully』)。
 このタリーだが、ちょっと不思議な描かれ方をする。タリーがやってきて、まず上着を脱いで、カメラはタリーの細いウエストをクローズアップにする。マーロもタリーのウエストをじっと見詰める。
 別の場面で、マーロはジョギングをしているのだが、目の前を走っている女性のウエストを見詰める。それに対して、育児に疲れで太ってしまった自分……。妬み? いやマーロは細いウエストの女性達を見て、対抗心を燃やしていく。
 マーロはもともとかなり教養のある女性だ。台詞の端々で教養の高さが窺える。きちんと勉強して、キャリアアップしてきたはずなのに、なぜか貧乏暮らしの現在。いまいちパッとしない夫。一方の成功者になった兄……。表に出さないが、マーロはメラメラと対抗心を燃やしている。
 ……という話を、本当はめちゃくちゃな美人女優であるシャーリーズ・セロンが20キロも体重を増やして演技をしているから説得力が出ている。「もともとは美人なんだけど、太っちゃって……」という感じが出ている。いつものことだが、気合いの入りまくった役作りで説得力を出している。

 タリーに関する不思議な描写だが、タリーはマーロ家になれてくると、当たり前のように冷蔵庫を開けて、棚を開けてグラスを取ったりする。まるで自分の家みたいな行動を取り始める。まあこの辺りの行動も、結末に向けた、ある“オチ”が絡んでいるんだけど……。そこは伏せるとして、タリーは妙にマーロ家になれている。
 一方のマーロも、タリーに対して心を許しすぎる。
 あるシーンで、マーロはポルノを見ている。いや、正確にはセックスをテーマにした「リアリティー番組」。リアリティー番組だから、オッパイも出さないし、男も女もパンツを履いたまま、セックスのフリをする……という不思議な番組(本当にあるのだろうか?)。iPadでもマーロが見ている番組はたぶんこれ。
 この番組を、マーロは神妙な顔をして見詰めている。なんでこんな番組を見ているかというと、夫との「夜の営み」がずいぶんご無沙汰だから。「性欲が高まっている」とかそういう話ではなく、夫との関係を希薄に感じている。セックスを通して女としての自意識を達成できていない。マーロは母親だが、母親である以前に1人の女。1人の女としての「実感」をセックスを通して得たいと思っている。
 この辺り、やたらと他の女性のウエストばかり見るところにも引っ掛かっている。自分は女として魅力に欠けるのでは……という不安感。細いウエストをなくしているから、夫は振り向かないのではないか……。当の夫は家にいる間なにをやているかというと、ずっとゲーム。自分と関わらないし、育児にも参加しない。そこでマーロは夫の関係を希薄に感じ、そこで女としての自意識を薄く感じてしまっている。
 この意識は翻って、息子との関係にも絡んでくる。息子のジョナがなにかと問題行動を起こしがちなのは、母親との関係性が希薄だから。夫との関係が薄く、女としての自己実現を達成できていないから、母親の役割も疎かになっていき、息子との関係も希薄になっていく。
 女としての自意識が曖昧になっている→母親の役割を演じきれない→息子との関係が薄くなっていく→息子が問題行動を起こす……と繋がっていく。
 このエロいリアリティー番組を、タリーが来ている時でもマーロは付けっぱなしにする。普通、来客があったら、チャンネルを変えるくらいするよね?
 で、マーロはタリーと性の話題について、驚くほどあけすけに話す。いくら馴染んだ相手とはいえ、他人は他人。そんな話題を開けっぴろげにするものだろうか? この辺りも“あの結末”が絡んでくる描写だけど……。

 ここからわかるのは、タリーという女性が、マーロにとっての“理想モデル(ロールモデル)”になっているから。物語上の位置づけとして、タリーはマーロがそうなりたい女性像を描いている。タリーは若いし痩せているし、家事を完璧にこなし、性の悩みを受け止めてくれる。自分がそうでありたい存在だし、いつでも自分を肯定してくれる存在である。“人格を持った他者”ではなく、“自分が言って欲しいことを言ってくれる存在”として描かれている。
 タリーとマーロの人物像が不思議な重なり方をする場面がある。タリーを夫の前に差し出し、セックスを始める場面だ。マーロはこの時、タリーの真後ろに座り、まるで2人羽織状態でセックスする。
 このシーンが何を意味しているのかは、最終的に“オチ”を見ると明らかになる。この時夫は、タリーではなく、マーロとセックスしたことになっている。

 後半に入り、マーロはタリーの提案で育児をお休みし、古里であるニューヨークへ行くことになる。
 このニューヨーク行きのシーンがなんなのかというと、現実逃避。あの頃の自分に戻りたい、結婚する前、出産する前の、最初の頃に戻りたい。未来に対していろんな希望を思い描いていたあの頃に……。今は「こんなはずじゃなかったのに……」という感じ。もう一回、若い頃に、痩せていた頃に戻って人生をやり直したい……。

 本作の物語紹介はここまで。後は結末に向けてある“オチ”が待っている。それについてはあえてここでは書かない。実際の映画を観てのお楽しみだ。
(オチといっても“驚天動地の……”という感じではなく、“ささやかな驚き”という感じのオチだ。この作品には、それくらいのオチのほうが相応しい)
 ここまでのお話を見てわかるよに、かなりリアルな母親のお話だ。40代の母親がどんな精神的不安を抱えるのか。あまりにもキツい育児の日々にマーロは消耗し、やがて現実と非現実のバランスが崩壊していく。物語の最終局面において、マーロは果たして夫と息子との愛情ある関係性を結べるのか……というテーマに収斂していく。そこに至るまでの、とある平凡な母親の精神の行方を描いた物語である。
 こういう話だから、たぶん男性は見てもピンと来ないかもしれない。女性も若いうちはピンと来ないかもしれない。出産後にこの映画を観ると、そこでようやく納得……という感じだろうか。逆に言えば、男性はこの映画で、母親が育児ノイローゼになっていく過程を知る機会が得られるともいえる。
 こんな話を、男性監督が脚本を書いて撮った……というのが驚き。男性でここまで女性の内面に踏み込んだお話が作れるのか……。ファミリー映画の本当の意味でベテランだからこそ、突き詰められたテーマだ。
 そこで凄まじいのはやはりシャーリーズ・セロンの役作り。本当は美人で、教養もあるのだけど……でも3人の出産に疲れて、太ってしまった……。これを本当に体重を増やして演じているからこその納得感。本当は美人で、自分でも自分が美人という自意識があるからこその抵抗したい気持ち。つまりは、「女の意地」が描かれている。女の意地が達成されないからこそ、精神的なバランスを崩壊させる……というやたらと現実的な作品。
 はっきりいえば、かなり地味。映画的な飛躍はない。ものすごく現実的なお話。真摯に母親の精神的過程と解放を描いた作品。監督の母親に対する、あるいは家族に対する慈しみの視点を感じさせる一作だ。


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