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2月16日 ミニマリストの暮らしをするにもお金が必要だ……。

 『ミニマリズム』を題材にしたドキュメンタリーを見ていた。

 うーん……わからなくもないけれども……。あれもなんだか極端だなぁという気がする。
 確かに自分の生活を見ても、シャツやパンツは4枚くらいで回しているだけなので、それで充分という気がしている。なにしろ引きこもりなので、服なんかは数枚の防寒着しか持ってない。あまり食べないので、食べ物もわずかでいい。自分の身の回りを改めて見て、「本当に必要なもの」を選別すれば、きっとバッグ一つぶんくらいなんでしょう。うん、確かにその通りだと思うんだ。

 今の私の生活は合理的じゃないんだ。例えばロフトスペースには色々物が置かれている。あそこに置かれている物は、買ってきたけれど、「とりあえず」で放り込んでいるものなので、もはや何があるかよくわからない。あの辺りの物、いらないからまるごと捨ててもいいな……とずっと思ってる。
 ただ、ドキュメンタリーで描かれたミニマリストの生活を見ると、さすがに極端という感じがしてね。あれはどちらかといえば、現代の極端な「物質主義」に対するカウンター、社会に対する“主張”のようにも感じられる。カウンターの相手である「物質主義」があるからこそ意味のある価値観であって、「物質主義」がなくなると無力化しそう……という感じがする。
 それにミニマリストの生活は、現代的な物流システムによる「供給」があればこそ成立するものであって、きっちり文明社会の恩恵を受けている。物質主義を否定しながら、現代的な文明に依存して、「ミニマリストという贅沢」を楽しんでいるようにも見えてしまう。
 ミニマリストをやっている人達に、「樽の賢者」みたいな暮らしをやってみろ……といっても、一日で「無理!」って言いそうだし。

 再び“確かに”という言葉を使うが、私たちの生活は不必要なくらい物質に囲まれているというのも事実で……。まずいって、そこまで物を“所有”する必要あるかな……という気がする。
 すでに挙げたけれど、服なんて数日分を着回せるものがあれば充分じゃないだろうか。最近は服のサブスクリプションサービスというものがあって、お金を払えば毎月服が送られてくる。私は引きこもりなので、そういうサービスすら必要ないのだが、もし外出する用事があったとしても、そういうサービスを利用すればいいかな、という気がする。わざわざ自前の服を持つ必要があるようには思えない。
(余談 成人した時に、私はスーツを作っていたのだが、最近着てみるとまったく体に合わなくなっていた。しかも穴が開いてたし……。スーツもレンタルでいいよね)

 音楽もサブスクリプションが出ているし、私の最近の映画視聴もほとんどサブスクリプション。
 ゲームのサブスクリプションはまだそこまで進んでいない。Xboxはだいぶ進んでいるが、PSはまあまあ、任天堂は古いゲームのアーカイブが遊べるだけ……。でもこれも10年20年くらい経てば、ゲームのサブスクリプション化が進んで行くんでしょう。
 あとはデータで購入している。最近買った漫画は全部データで購入。音楽は最近はそもそも買ってないけれど、買うとしたらデータかな。ゲームもデータで購入。映画はメイキングや音声解説を見たいと思ったらまだディスクを買うしかないのだけど……これはそのうちデータで販売してくれるかな。ストーリミング技術がもう少し発展すれば“視聴権”だけもらえれば良いよ。
 つまり、ほぼ“物”を購入しなくなっている。ほとんどデータで。私がいま欲しいものは、新しいネックスピーカーと小型のトラックボール。つまり入力・出力のデバイスであって、“物”が特に必要としていない。

 だからデータを入れて閲覧するためのデバイスは絶対に欲しいけど、それさえあれば、後は必要最低限のものだけで充分。これを合理的に整理すると、ワンルーム1コぶんで充分ということになる。
 またさっきの話をすると、私の生活は合理的ではない。例えば朝起きてトイレに行き、次にご飯を食べて、歯を磨いて……という毎朝のルーチンがあるのだけど、無駄に「歩数」が多い。いくつかの行動をこなすために、別々の場所を行ったり来たり……。これはつまり、私の生活には無駄が多いということを意味している。こういう小さな無駄を積み重ねて、私は結構な時間を消費してしまっている。
 現代は「サブスプリクション」や「データ販売」が進んでいるので、改めて自分の生活に必要なもの……といったらもっともっと少なくてもいい、と言われたら確かにその通りだ。あとほしいものといえば、コンパクトにまとまったワンルームだけだ。

 前から思っていたけれど、「コレクション」って個人で所有する必要はないんじゃないか、という気がしている。
 私はそういうコレクションといえるものはほとんど持ってない(初音ミクさんのフィギュアは持ってる)。昔はなにかの「限定品」とかが出ると、熱心に買ったりしていたんだけど、しかし特に飾る場所もないから、棚に奥にしまっておいて、ある日気がついたらグチャグチャになっていたり、埃を被っていたり、そもそもその時にはすでに愛着をなくしていたりで……。そういうのが何度かあったから、「じゃあコレクションはいらないな」という結論に達した。 (初音ミクさんのフィギュアは欲しいけど)

 例えば個人博物館のようなものを作って、持っているコレクションをそこに全部預けて、あとは見たい人に無料で見てもらう……。
 そんなことを考えたことがあったけれど、この発想にははっきり欠点がある。
「誰がそんなもん見に来るんだ?」問題だ。
 映画グッズやアニメグッズは「アート」じゃないんだ。アートじゃないから、そんなものを展示しても、「ほお~」としげしげ見るほどのものじゃないんだ。アートはそれ自体が鑑賞するに耐えうるものだけど、アニメグッズはそういうものとして作られていない。だいたい、絵だけならネットでモニターを介して見ればいいという話だし……。わざわざ何かしらの日用品に貼り付いた絵を見ても意味がない。ファインアートはそれ自体が“見る価値があるもの”として独立しているものがアートだが、コレクションアイテムがそういう価値を持つことはない。
 コレクションアイテムは“所有”することそのものに意義がある。強いて言えば、コレクションアイテムとは万人が所有しやすいように価値が希釈化されたアートだ……っていうところかな。

 ちょっとなぜコレクションアイテムを所有したいと思うのか、その発想について考えていこう。
 私が考えているのは「推し」という考え方。
 人間、何かしらに「依存」して生きていかねばならない生き物なんだ。ミニマリストも、ミニマリストという生き方に「依存」している。
 普通の人は、普通の生活をしていて、普通の稼ぎをもっていたとしても、それで満足することはできない。誰もが何かしらに葛藤や納得できない物を抱えている(中にはその不満のはけ口としてネット掲示板で暴れ回ったりするんだけど)。
 だから何かしらにお金をつぎ込む。ギャンブルだったり、アイドルやホスト。チャリティーという人もいるだろう。人間は何かしら傍流に没頭する対象を必要としている。それは否定しようもないものなんだ。
 映画グッズにしてもアイドルグッズにしても、そういうところにお金を掛けたがる人は「意思表示」がしたいんだ。私はその作品を、それくらい支持していますよ……という。お金で自分の意思を表明したいんだ。だからそこにお金をつぎ込む。
 コレクションアイテムそれ自体に意義があるのではなく、「推し」に対する信仰を示すために、お金をつぎ込む。ある種の「聖遺物」のようなものだ。
 それで日々の活力が得られるというなら、そういうお金の使い方は否定するようなものではない。それで自分の生活が破綻しないという範囲であれば。そういうものが糧になって「明日も頑張ろう」という意欲に変わるのだし、それで日々の疑問を飲み込めるのであれば、問題はまったくない。

(余談 アニメファンの中には、「キャラクターにお金を出しているのであって、作り手とか知らんわ」……という人が普遍的にいる。10年前、20年前ではこういう人の方がむしろ多数派だった。それが最近ではキャラクターの後ろには描き手がいる……という事実を多くの人が理解するようになり、そういう人達にお金を出さないと供給が途絶える……ということを自覚する人が増えた。「作品」と「描き手」が連なった存在だ、ということに気付く人が増えた。こういう現状を見ると、時代は進んだなぁとしみじみ思う。私の若い頃は、アニメの消費者は作り手をむしろ「見下して」いたくらいだ。私は昔から作り手の存在を認識して見ていたので、作り手を見下すアニメ消費者を見て「お前は何様だよ」と思い続けていた)

 もう一つ考えているのは、「家」という考え方について。
 前にも話したけれど、私が住んでいる街は、家ごとにコミュニティが分断されている。街の中に、家というたくさんの“異文化”が共存し、お互い干渉せず過ごしている……という感じだ。
 もう少し掘り下げよう。
 私が住んでいる街は、歴史が50~60年前後くらいしかない。私が子供の頃は、隣町は道路だけがずーっと伸びていて、周囲360度見回しても視界を遮るものがない更地になっていた。それが数十年の間に、家が建ち、街ができた。それくらい浅い歴史の中で住んでいる。ではその以前、この街の風景はどうなっていたかというと、おそらく山で森だった。
 この街にやって来た人達が具体的に誰であるかというと、団塊世代たち。団塊世代がやってきて、切り拓いてできた街が我が街だ。やってきたのが団塊の核家族思想の人達で、その子供たちは多くが親元を離れている。すると街に残されたのは老人世帯。私の隣の家も老夫婦が住んでいるし、その隣もその隣も老夫婦が住んでいる。
(団塊世代 戦後ベビーブーム世代で生まれた人達。現代では70歳前後になっている世代のこと)

 若者はどこにいった? というとほとんど街の外。なぜなら団塊世代の移住者でほぼ独占されているから、ここから新たな居住区を探そうと思うと、街の外に出なければならない。
 それで、我が町の60%~70%くらいが70代以上。偏ってるでしょう? 若者世代がほとんどおらず、ほぼ老人で占められてしまっている街なんだ。ジャスコ(イオン)なんか行くと、見渡す限り老人だらけ。若い子は働いているほう、という実体が見えてくる。
 おそらくあと数十年もすると、私が住んでいる一帯はまるごとゴーストタウン化するだろう。すでに空き家が多くなっているが、これからさらに空き家が増えていくだろう。空き家が一杯あるけれど、そこに若い人が寄りつかない……みたいな現状になっている。結局のところ、団塊世代によって栄え、滅んでいく街なのだ。
 こういう現状を見ると、果たして戦後の核家族思想って正しかったのだろうか? という疑問にも行き当たる。いたずらに居住エリアを消費し続けて、さらに子供世代が外に新しい居住区を探し求めて……きっとどこかの山を削って更地に変えて、歴史の浅い街を作って……。そんなことをやっていたら、どんどん住む場所が削り取られる。

 今でも核家族思想が私たちの「家」や「家族」を考える上でに基本となっている思想だけど、それも戦後世代によってうまれてきた新しい思想で、この思想は果たして正しかったのか、あるいはこの先も「家族」という思想を考える上で推し進めるべきなのか――という疑問がある。

 どうしてミニマリストの話をしているところに「家」や「家族」の思想の話が出てくるかというと、「家」と「家族」の思想があるから、そこで大量消費が生まれている。まず土地を消費しているし、森林も消費している。核家族思想を推し進めると、どんどん消費を推し進めてしまう。

 どうして家を所有する必要があるんだろうか。核家族思想の子供たちは親元から離れて単身者になるけれど、そこで改めて炊飯器や洗濯機といったアイテムを一通り揃える。とにかくも個人の領域を重要視する。1人1人が必要な家電を一揃え所有する。なんだかずいぶん迂遠なことをやっているな……という気がしている。

 そこで考えているのは、いっそ10人くらいの単位で共有できる住居を作って暮らすのもいいんじゃないか……と。「シェアハウス」とは違う概念で、とりあえず呼び名がないから「コロニー構想」と呼んでいるのだけど。
 前にも書いたけれど、家の中に「共有図書室」と呼ぶ物を作り、そこに映画DVD、音楽、漫画、ゲーム……といったコレクションアイテムを共有する。コレクションアイテムはそれ自体に価値がなく、そんなもの飾っても誰も喜ばない……と話したが、意志の通じ合える「同志」であれば、そこに価値を見出してくれる。
 見なくなったDVDや遊ばなくなったゲームなんてものは、私も山ほど持っている。見なくなったけれど、手放したいとは思わない。そういうものも、共有図書室に置いて、誰かに見てもらう。同志であれば、自分は見なくても、10人もいる誰かが見てくれるだろう。
 そういうお屋敷を作り、集めた映画や漫画や本は共有財産として預けて、自分のプライベートエリアは徹底してシンプルを心がける。

 話はミニマリストの話からだいぶ飛躍したけれども、もしもコロニー構想が実現できるなら、コレクションは図書室に置いて自分はシンプルな暮らしをする……というのができないかなぁ、とか考えている。
 そうすると、まずそういう意識で共鳴できる友人を作らねばならないし、次にお金が必要になる。それは……今からじゃキツいか。

 シンプルな生活を送りたい……とか思っていても、そういう生活をするにも、そこそこの余裕が必要……というのが実体。ミニマリストはそこそこ収入があって、余裕がある人にしかできない。難しい難しい。


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