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ドラマ感想 実写版カウボーイビバップ

 日本で『カウボーイビバップ』が「伝説的なアニメ」という話をすると若いアニメファンは首をかしげる。少し前に、ラジオで若い子が「『カウボーイビバップ』って昔のアニメですよねぇ」と言うのを聞いて、私も「え?」となった。でもその若い子の言うとおりなんだ。なぜならその子が生まれる前の作品だから。「昔の作品」という認識で合っているのだ。それだけ時間が流れてたんだなぁ……と唐突に時間の流れを感じてしまう事件だった……。

 『カウボーイビバップ』が日本でもマニアの間で伝説的なアニメとして語り継がれているのは本当だ。だがその支持は日本だけではない。アメリカで「好きなアニメランキング」で投票させると、いつも1位は『AKIRA』。これに続く2位が『カウボーイビバップ』。日本のアニメファンは常にたくさんのコンテンツに囲まれているから人気の移り変わりも早いが、『カウボーイビバップ』はアメリカでは長年愛され続け、普遍的な支持を受けるエバーグリーンの一本として語られている。
 この作品を最も愛している国であるアメリカで実写映像化する……という話を聞いて、ヘンな話だとはまったく思わなかった。むしろ相応しい映像化ではないか。『カウボーイビバップ』には欧米的な気風がある作品だ。日本人が実写化するよりもうまくハマる映像が作られるのではないか――という期待はした。

 まずアニメ『カウボーイビバップ』の基本情報を確認しよう。
 『カウボーイビバップ』は1998年、テレビ東京とWOWOWOで放送された。テレビ東京での放送は確か夕方5時か6時くらいの放送で、たまたまテレビを付けたら「とんでもねーアニメが放送されている!」と仰天した記憶がある。しかしこのテレビ東京版は1クールで終了してしまい、その後完全版がWOWOWOで放送された。
 制作スタッフは監督に渡辺信一郎、脚本信本敬子、音楽菅野よう子、キャラクターデザイン川元利浩、メカデザイン山根公利。
 音楽の菅野よう子はアニメ界隈から飛び出して今や誰もが知る音楽家に成長した。NHK大河ドラマでこの名前を見た人も多かろう。キャラクターデザインの川元利浩はボンズ取締役を務める一級のアニメーターだ。『ノラガミ』や『血界戦線』で優れたキャラクターデザイン、アクションパートを作り上げた。今でこそ有名なアニメーターだが、注目され始めた切っ掛けが『カウボーイビバップ』だった。メインスタッフはいずれもアニメ界隈では「誰もが知る」というほどの知名度、実力の持ち主たちだが、実は『カウボーイビバップ』までほとんどが知られていない人達だった。まだまだ若かった気鋭の作家たちが集まって制作したのが『カウボーイビバップ』だった。
(信本敬子は先日この世を去られてしまった。2021年12月1日。享年57歳)

 今回を機に、テレビアニメ版を何話か見たのだが、20年の時を感じさせないとんでもないクオリティの作品だった。当時はまだスタンダートサイズだったし、彩色も撮影もアナログ。そこに古さは感じる。しかしアニメーションの質は古さを全く感じさせないし、コンセプトは時代観を完全に無視する。もともと実力のあったクリエイター達が魅力的な企画、優れた脚本に遭遇し、持っていた才能を大爆発させた作品だった。今時代でもあそこまで徹底した精密さ、アクションの大胆さを実現できている作品はほぼ存在していないというくらいない。『カウボーイビバップ』はアニメのアナログ制作時代最後に現れた傑作であったし、いま振り返るとオーパーツクラスのクオリティを放つ化け物じみた作品であった。『カウボーイビバップ』がエバーグリーンとして語られるのは、よくよく考えれば当然……という気もするくらいだ。

 その実写版が本作であるが――。
 まずは作劇の差を見てみよう。

 オープニングのワンシーン。実写版は静止画で見ても間抜けに見えるが、動画として見るともっと間抜けに見える。
 どうしてこんな差異が生まれるのか……? まずアニメだが、人間はあんなふうに膝を上げて走ったりしない。アニメの「走り動画」はアニメ学校で最初に勉強する動きだが、アニメキャラクターは現実にはしない足の動きをする。大きく足を振り上げて、蹴り上げて、短いジャンプを繰り返すように走る。原画から原画まで動画の絵は2枚。1枚たりとも“現実的な絵”はない。
 良いアニメーションは「リアルな絵」を表現することではなく、1コマ1コマ「これだ」という格好いいポーズを連ねて動きを作る。この連続が、「格好いいアニメーション」らしい外連味が生まれる。
 単純に、「ロトスコープを使えばいくらでもリアルな動きを作り出せる」……と思って実践してみても、たしかに生々しい動きはできるが、アニメらしい格好良さ、可愛らしさは表現できない。アニメはコマ単位でウソを描く、理想を描く。この積み重ねが画面に映えるアニメーションになっていく。
(ロトスコープを採用したアニメはよくある。例えば『ユーリーonICE』や『かぐや様は告られたい』のエンディングアニメーションなど。しかしああいったアニメは実写の動きをそのままトレースするのではなく、「決め」となるところでアニメーターが少々の誇張を入れている。それが本物以上に格好いい・可愛い動きになっている)

 アニメ版『カウボーイビバップ』は川元利浩が描いた異様に手足の長いキャラクターがさらにバチッと決まった絵で描いているから、走っている姿をシルエットだけにしても滅茶苦茶に格好いい。
 ところが、実写版はうまくいっていない。そもそも人間はアニメキャラクターのように格好よくポーズを決めて走るなんてできないし、「その場走り」もできない。全力で走っている姿をカメラで追いかけて撮ればもっとうまくいったのではないか……という気もするが、なぜかそのように撮っていない。半端な走りをピョンピョンとやっているところが描かれ、これがやたらと間抜け。もともとの「格好いいイメージ」が一気にダサくなっている。

 なぜオープニングのこのシーンを取り上げたのかというと、実写版『カウボーイビバップ』は全編こんな感じだったから。どのシーンを見ても、絵として「決まって」ない。
 第1話はメキシコ風の背景を舞台としているが、どのカットを見ても絵として決まってない。どこを見てもなんとなく絵になっていない。アクションも精彩さがない。俳優の動きにスピード感が足りないし、一つ一つの決めポーズが見えてこない。頑張って動いているのはわかるが、ダサく見えてしまう。画面のトーンも淡く、絵としての締まりがない。
 背景の作り込みや小道具の作り込み、CGの作り込み自体はよくできているんだ。色んなものを細かく細かく作り込んでいる。あれだけ作り込んでいれば、撮り方次第ではガッチリした絵ができあがるはずだ。ところが仕上がった画はどの瞬間を見ても薄らぼんやりしている。
(背景セットだが、もしかすると作られたセットの数は一つだけじゃないだろうか……? そう感じるのは、建物の高さがどこの惑星も一緒だったこと、通りの幅が一緒だったこと。同じセットの外装を変えて表現していたのではないだろうか)

 例えばリドリー・スコット監督は精密な画面で知られるが、舞台裏はビックリするほどショボかったり、安っぽいものの寄せ集めでしかなかったりする。しかもリドリー・スコット映画はいつもセットを1つしか作らない。小道具や角度を変えて、違うところに見せているだけだ。それがリドリー・スコットのカメラが通ると、見事なアートに変化する。リドリー・スコットの映画に関わらず、映画の舞台裏は案外いい加減だったりショボかったりするものだ。それをゴージャスなイメージに変えるのが監督の務め。どのように撮るか、どのように絵を作るか……で映画の画面は劇的に変わるのだ。
 実写版の『カウボーイビバップ』はそのビジョンを持たない作品だ。絵として画面を構築するという発想を持たないまま、制作に臨んでしまった。だから画面に映っている全ての素材がバラバラに浮き上がって見えてしまう。背景もCGもすべてバラバラ。バラバラだから、アニメキャラクターと同じ衣装を着た俳優達が、舞台から浮き上がって見えてしまう。「コスプレ」っぽく見えてしまう現象だ。アニメを再現した画も少しあるが、これらのシーンはもっと安っぽい。ただ素材を揃えました……というだけで絵になっていない。素人同人ビデオのような作りだ。『カウボーイビバップ』はジャズミュージックというかなり尖った楽曲が使われているが、この楽曲も絵と合っていない。絵と合ってないから違和感があるし、シーンによっては「ただうるさいだけ」に感じられてしまう。
 ストーリーも役者も背景もCGも音楽も、全部がバラバラ。誰1人ジャズとして成立させていない。もはや何が『カウボーイビバップ』だ……という感じの作品だ。

 「実写でアニメ的な絵を表現するのは不可能ではないのか?」――という疑問はあるかもしれないが、その手法は『マトリックス』の時代に完璧に提唱している。以降大量のフォロワーを生んだので、「不可能」な話ではない。1カット1カットを徹底的に作り込む、俳優も自身をアニメキャラクターのようにしてガチガチなポーズを決めまくる。前後のカットが繋がってないとか関係なく、決めまくる。その連続が、まるで実写素材を使ったアニメのような印象を生み出す。
 もとよりアニメキャラクター風の衣装を着た人物を、リアルな背景と馴染まそうなんて、その時点で無理をやっている。しかし絵作りをガチガチに作り込むと、ある瞬間これが成立するようになる。そこを目指して作らなくてはならない。

 では次にストーリーを掘り下げてみよう。アニメ版と実写版でストーリーの解釈について決定的な齟齬がある。

 アニメ版『カウボーイビバップ』では、主人公スパイクはかつてレッドドラゴンと呼ばれる犯罪組織にいた。しかし3年前“なにか”が起きて、スパイクは“死んだ”ことになってレッドドラゴンを抜けた。その詳細については、アニメ版では最後まで語られない。
 語られない理由があるとしたらただ一つ、『カウボーイビバップ』はずっとスパイクが見ている世界を描いていたから。
 3年前、スパイクは“死ぬような何か”を経験した。それ以来、スパイクは自分は死んでいるのではないか、生きていると思い込んでいる夢を見ているだけではないか――と考えるようになった。
 第5話、ビシャスに教会の窓から投げ落とされたスパイクは、落下しながら過去の光景を見る。走馬灯のように。あの瞬間、スパイクの意識は3年前のある事件の最中に戻り、その後の出来事が夢ではないか、本当の自分はあの3年前のあの事件の最中にまだいるんじゃないか……そんな意識に引き戻される瞬間を描いている。
 12話、13話の『ジュピター・ジャズ』にはグレンという印象的なキャラクターが登場するが、グレンもまたスパイクと同じようにずっと「夢を見ているのでは」と感じながら生きている男だった。そのグレンが過去と向き合おうとして、ビシャスと接触し、結果的に死を迎える。スパイクはグレンとはほんの一瞬会ったにすぎないが、どことなく共通するものを感じる。

 スパイクは片目が義眼のため、目の色が少しずつ違っている。実際にクローズアップになると、違う色で塗られている。その片方の目はずっと過去を見続けている……と語られる場面がある。その過去を見続けている方が現実で、今は夢ではないか――。
 アニメ的な文法の話になるのだが、「赤い瞳」をしたキャラクターは多くの場合、なにかしらを背負っている。神秘性だったり、生死にまつわる秘密を抱えていたり……。『エヴァンゲリオン』の綾波レイがそうだか、「赤い瞳のアニメキャラはストーリーのキーキャラ」の法則である。スパイクは赤い瞳で描かれている。赤い瞳と設定されたのは、そういった作り手側のほのめかしがあるからだ。
 ビシャスだが、ビシャスは病的に痩せていて白い肌に白い髪、大型の烏を肩に乗せていて、刀を持っている……というイメージで描かれる。死のイメージが見て取れるのは、ビシャスはスパイクに死の引導を渡しに来ている人物だからだ。あの刀はつまり「死神の大鎌」なのだ。だからビシャスは口数が少なく、容赦のない死をもたらそうとする。ビシャスが登場すると、作品のトーンは一気に重く苦しく、死の予感を漂わせるようになる。あれはビシャスが死神の属性で描かれているからだ。
 レッドドラゴンのボスになると、描写はもっと観念的になっていく。古めかしい衣装を着て、3人並んで座っている姿で描かれている。おそらくあそこは冥界のイメージ。閻魔大王のようなイメージだ。冥界から指令を出している……というイメージだろう。
 つまりスパイクとビシャスの関係は、『ピーターパン』におけるフック船長と時計ワニの関係だ。生と死の中途半端な端境にいるスパイクを、ビシャスが追いかけ死の引導を渡そうとする。

 シリーズの最後、ついにジュリアが姿を現すが、あの出来事も本当かどうか怪しいところがある。ジュリアが生きた姿で現れるあの光景はぜんぶ夢で、ジュリアは最初から死んでたんじゃないか……? まあ、それはさすがにないんだけど。
 ジュリアは本当にスパイクの前に現れた。そして間違いなく死んだ瞬間を目撃し、受け入れたスパイクは、自らの宿命も受け入れるようになる。いや、3年前のあの時、宿命を避けたから、代償としてジュリアは死んだ。3年遅れて審判が下ってしまったのだ。それでスパイクは死ぬべき自分の運命を受け入れるため、ビシャスとの最後の戦いを演じる。果たして死神に打ち勝つことができるのか……?
 ……これがアニメ版『カウボーイビバップ』だ。何もかもがウソか本当かわからない。夢かも知れない。『カウボーイビバップ』はそれで「夢と幻想」をテーマにしたエピソードがいくつかあるし、時にそれを面白おかしく解釈して愉快なエピソードも生まれた。
 3年前の事件が描かれないのは、すべてウソかも知れない、夢かも知れない……スパイクがそう感じていて、そのスパイクの感じているリアリティを表現するためであった。だからあえて語られなかった。

 実写版『カウボーイビバップ』はあのアニメ版とまったく違うアプローチで制作された。シリーズ全体を通して、スパイクとビシャスのエピソードが具体的な形を持って少しずつ掘り下げられるという構成になっていた。そこには「夢だったのかも知れない」という儚さはない。肉体を持った人間のドラマとして描かれている。
 実写版の“顎が猪木”のビシャスは(確かにアニメ版でも顎とがってたけども……)、「年の取った不良少年」あるいは「大人になったジャイアン」だ。知性に欠けて、都合が悪くなれば暴力に訴える。そうやって無理矢理に現在の勢力や地位を獲得していった。組織にとっても半端者で厄介者でしかないが、父親が組織の重要人物であるために、切り捨てることもできない。それがビシャスの助長を生むことになる。スパイクとビシャスは友人の関係だったが、このビシャスの性質ゆえに、とうとうスパイクも切り捨てられることになる……。アニメ版ではスパイクとビシャスの関係も謎めいていたが、ドラマ版ではこんなふうに詳細まで深く掘り下げられる。

 どうしてこのようなイメージでスパイクとビシャスを描いたのか。実写版制作者はアニメ版を理解できなかったのか?
 そうではない。単純にドラマシリーズを作りにあたり、手がかりとなる「縦軸のストーリー」を作るためであった。実写版『カウボーイビバップ』は1回のシリーズで終わるつもりはなく、第2シーズン、第3シーズンとストーリーを続けるつもりで、その全てのストーリーを連ねる縦軸のストーリーが必要だった。
 アニメ版は「全部夢かも知れない」という解釈があったので、そういう前景はほとんど描かれなくても成立していたが、実写版も同じように作るわけにはいかない。「あのキャラクター達は何者でどこから来たのか?」これを解説するためのバックストーリーを掘り下げ、それを「次も見たい」と思わせる手がかりにする必要があった。
 むしろバックストーリーを一切描かず成立しちゃったアニメ版のほうが不思議な作品だった。同じようなアプローチを試みてうまく行くとは思えない。
 これは「解釈の違い」ではなく、「アプローチの違い」だ。何シーズンも続く実写シリーズを作るにあたり、このアプローチはまったく的外れなものではない。むしろ妥当な手法だ。

 だが、問題はここだった。
 単純に、この「SFマフィアの抗争」のストーリーがつまらない。面白くないんだ。後半、かつてあったビシャスとスパイクの過去話が掘り下げられていくが、これがつまらない。倍速で見ようか……と思ったくらいだ。
 各エピソードでもこの縦軸のストーリーが少しずつ語られていくが、これがそれぞれのエピソードのトーンに対してノイズになる。邪魔だった。ビシャスがジュリアと共謀して組織を上り詰めていくストーリーだが、これが本当につまらない。どうでもいい。この「挿話」のおかげで本筋のリズムが断ち切られてしまっている。あの縦軸のストーリーはスキップしてくれたほうが、クオリティは絶対に上がったはずだ。

 どうして面白くないのか……というと設定的な整合性を整えただけにすぎないから。アニメ版の設定をヒントにスパイクとビシャスにかつて何があったかを肉づけしていこうとしたが、掘り下げれば掘り下げるほどに何か無理しているような感じが出てしまう。ただアニメ版で断片的に出てきた絵をどこかでなぞっているだけ。ドラマになっていない。
 その絵もやたらと安っぽいと来ている。スパイクとジュリアのセックスシーンにしても、水たまりにバラが落ちるシーンにしても、安っぽいビデオを見ているような絵面だ。物語を語るような絵として成立していない。
 アニメ版では神秘さのあったジュリアが、ドラマ版ではずっと登場しっぱなしなので、なんだかありがたみがない。「謎のファムファタール」という印象はなくなった。ビシャスはドラマ版ではただの精神的に未熟なDV男としか描かれない。アニメ版にあった「死のイメージ」も消えたし、そのイメージが持っていた怖さも格好良さもない。ドラマ版の“顎が猪木”のビシャスはただの「小男」だった。あんな顎が猪木のDV男と共依存女の出世話に感情移入できるか……というとできない。
 安っぽい絵の連続で過去のシーンが組み立てられていくから、なにひとつ面白くない。面白くないストーリーが、各エピソードにノイズのようにチラチラと混じってくるから余計なものに感じられてくる。

 最後にはよく言われる「意外な結末」というものが描かれるのだが、それすら、もはやどうでもよかった。「どうでもいい」と感じられるのは、そこまでのストーリーに魅力を感じなかったから。すでに作品に対する興味も失っていた。「あ、そう。ふーん」という印象で終わってしまった。
(最後に意外な人物が登場……というのもだいたい予想通りだったし……)

 それでも実写ドラマ版『カウボーイビバップ』はそこまで悲惨な低クオリティというわけではない。細かな小道具やセットはしっかり作り込まれているし、CGも高品質だ。確かに個々の画面の安っぽさはどうにもならないが、あれだけ1エピソードごとに違う世界観を舞台にしている作品なんだから、画面が薄味になるであろうことは予想されていたことだ。むしろ毎エピソードあれだけ濃密な世界観を作り出していたアニメ版がどうかしていた……というくらいだった。ドラマ版はよくよく見ると、その他のドラマ作品と比較してもまあまあ妥当なクオリティであったはずだ。
 だがファンからも批評家からも評価されない作品になった。なぜか?
 答えはシンプルだ。アニメ版『カウボーイビバップ』が伝説的な傑作アニメだからだ。今回、20年前に制作されたアニメシリーズを何本か観たが、アニメ版のほうが圧倒的に優れていた。一つ一つのシーン作りが秀逸で、まだアナログ制作時代のアニメだが、最新技術で作られた今のどんな映像よりも斬新かつ精密な画面で作られている。実写版『カウボーイビバップ』はアニメ版の足元にも及んでいない。
 実写版『カウボーイビバップ』をよくよく見ると、実はそこまで悪い作品ではない。この作品を単体で見ると、「なかなかいいじゃないか」というところは一杯ある。あの世紀の駄作『ドラゴンボール・エボリューション』と引き合いにされることもある『カウボーイビバップ』だが、そこまで酷くはない。一定水準のクオリティには達している。
 だが、なにがマズいのか、というと原作アニメがあの名作『カウボーイビバップ』だったこと。20年前の映像を越えられていないこと。アニメ版を見たユーザーが納得するような水準には達していなかったこと。
 伝説の名作を新たにリメイクしようとした場合、ユーザーは相応のクオリティを求める。評価はどうしたって厳しくなる。そのクオリティには手が届いてなかった……ということが実写版『カウボーイビバップ』の良くないところだった。

 スパイク、ジェット、フェイの3人は意外にアニメのイメージ通り描かれていたと思う。私はほとんど吹き替えで見ていたが、そのおかげで余計うまくハマっているように感じられた。
 この中で完璧だったのがアインだ。
 顎が猪木のビシャスはどう見てもアニメ版の死神的なイメージを見いだすことはできなかったが……。これはそもそも別キャラだから仕方がない。
 実写版のスパイクは年を食いすぎだし、アクションはさほど動けてないし、ジェットは黒人になっているし、フェイはさほど美人でもなければセクシーでもない。でもこの3人が掛け合うと、意外と「それっぽい」雰囲気にはなっていた。ここが実写版『カウボーイビバップ』を見て楽しいと感じられた部分だ。

 ただ、主要キャラクターたちが物語中のステージに立つと、ぜんぜん馴染めていない。ずっと浮いてしまっている。背景に対してスパイク達が油みたいに浮き上がってくる。コスプレっぽさは最後まで消えない。
 どうしてそう見えるかというと、絵として決まってないからだ。絵としての精彩さが欠くから、なんとなくおかしく見えてしまう。同人ビデオを見ているような印象になる。

 この3人の中で一番手が加えられたのはジェットだ。実写版ジェットには別れたが妻がいて、離ればなれになった娘のことを今でも想っている……という設定が付け加えられている。
 この違いも、「アプローチの違い」だ。その後も続けていくつもりだったから、縦軸での連なりを感じさせる設定が必要だった。
 アニメ版ではビバップ号の3人は基本的に根無し草だった。みんな過去に傷を持っている。だから一緒にいて、チームを組んでいるが、なれ合わない。お互いが傷つかないよう、慎重に距離を置いている。フェイは12話で一度ビバップ号を抜けるが、「離れてしまう前に自分から離れよう」とした、というような台詞が語られている。それくらい、繊細な結びつきでどうにか成立しているのがビバップ号の3人だった。
 ジェットには過去の女と会うエピソードがあったが、すでに別の男がいて関係性ができあがっていた。かつて刑事時代にコンビを組んでいた仲間と会いに行くが、その男は汚職に手を染めていた。ジェットは過去を遡ってみても、自分の居場所はそこになく、根無し草だということを確信してビバップ号に戻ってきてしまう。

 フェイはコールドスリープによる記憶喪失で過去がない。もとよりどこにも居場所のない根無し草だった。ストーリーの後半に入って、自分を特定できるかも知れない手がかりを発見し、その場所へ行くが――そこはとっくに廃墟。自分の家族だったかも知れない人は、あるいは一族はとっくの昔のこの世を去っていた。
 それでフェイも結局自分はどこにも居場所がないと気付いてビバップ号に戻ってくる。スパイクが自ら死にに行く……ということを察した時、止めようとしたのがフェイだった。フェイにとって、唯一結びつけるかも知れない相手。恋人とか家族じゃなくて、「自分の存在を知ってくれている」唯一の人。スパイクがいたことがフェイにとって自分がいたことの証となる。だからそのスパイクが去って、フェイは泣いてしまう。
 最終的にエドだけがビバップ号を去るが、エドには帰る場所があったから。ただ1人だけ根無し草じゃなかった。ただ家族のことを忘れていたうっかりさんだった。だからエドはビバップ号を去って行った。
 というのがアニメ版のアプローチだ。実写版はスパイクとフェイは原作通りだが、ジェットにはまだ家族がある。社会から切り離されていない。これもアプローチの差だが、しかしこの方針によって、やはり『カウボーイビバップ』は別モノになってしまっていた。

 アニメ版『カウボーイビバップ』は改めて見ると、相当に無茶を重ねて、しかし成立している奇妙な作品だった。なにしろ、エピソードごとに描かれるものがまったく違う。アメリカ風の背景があれば、香港風の背景も出てくる。地球の荒廃した風景。出てくる人種もバラバラ。エピソードのテーマも毎回まるっきり違う。馬鹿馬鹿しいギャグが描かれたと思ったら、次のエピソードでしっとりとした重いトーンが描かれる。ホラーもあった。改めて俯瞰すると、よくもこんなバラバラのものが一つの作品の中に収まっていたな……というくらいだ。
 問題アリなのはエドの存在だ。まるで猫を人間に置き換えたようなキャラクターで、どう考えても『カウボーイビバップ』というストーリーのトーンに噛み合っていない。しかしものの見事にハマって、作品にゆるーい色添えをしている。エドみたいなヘンテコキャラをうまく噛み合わせていることに、『カウボーイビバップ』の凄みが現れている。
 脚本も演出も滅茶苦茶。でも暴走でしかない感性がぶつかり合わず、見事に一つ一つのエピソードを紡ぎ上げている。
 それが『カウボーイビバップ』の『カウボーイビバップ』たる由縁。すべてジャズなのだ。ぜんぶバラバラだけど、音とタイミングを合わせてセッションすれば音楽になる。時には雑音にしか聞こえないパートもあるが、それも意図したものだ。そういうジャズ的なものを、アニメ版『カウボーイビバップ』は実現していた。

 実写版『カウボーイビバップ』はジャズになってなかった。全ての素材がうまく噛み合わず、安っぽさしか感じさせない。与えられた素材や予算の中で小さく作っただけの安っぽいイミテーション。
 オープニングの絵を見てわかるように、アニメ版で格好よかった絵は、描き方がまずいとダサく見えてしまう。『カウボーイビバップ』のような奇妙奇天烈な構造の作品は、ふとするとぐちゃぐちゃのオバケアニメになりかねないのだ。それがうまくハマっている……というのがアニメ『カウボーイビバップ』だった。実力のあるアニメーターがそれぞれの才能を爆発させていたから、あんなふうにハマったのだ。
 例えば実写版『カウボーイビバップ』でジェットの過去が掘り下げられるシーンは、1950年代アメリカ風の背景が使われて、全員お洒落なスーツ姿で、50年代風デザインの車が登場する。この組み合わせを見て、「お、わかってらっしゃる」と一瞬思ったが、エピソードが始まってみると全ての素材が組み合っておらず、画面がやたらと安っぽい。それぞれの作り込みはしっかりしているのに、絵としてパッと見た時に成立していない。エピソードではジャズについて冗長に語られたが、作品がジャズをしていない。それぞれの才能が爆発せず、沈んでいたのが実写版。
 頭ではわかっているが、理解できていない。テーマの核を見誤っていたことが、実写版の失敗していたところだ。

 Netflixは早々に実写版『カウボーイビバップ』のシリーズ展開を打ち切ってしまった。これは残念だ。実写版『カウボーイビバップ』第1シーズンは引っ掛かりは多くあるが、しかしまったく出来が悪いわけではない。個々の作り込みはしっかりしているのだから、いくらでもやりようがある。焦点をうまく定めて撮影すれば、これはちゃんと面白くなるはずの作品だ……と感じた。
 リベンジのチャンスはあるんじゃないか……と感じたが、現実はシビアに第1シリーズ打ち切り。この早すぎる決断が一番残念に感じたことだった。


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