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映画感想 ドラえもん のび太の月面探査記

 ドラえもん映画4本目は『ドラえもん のび太の月面探査記』。シリーズ通算39本目。監督は八鍬新之介(やくわしんのすけ)。『ドラえもん』映画では『新・のび太の大魔境』『新・のび太の日本誕生』のリメイク2作を手がけ、本作で3作目の監督作となる(監督作としても3本目)。
 脚本は小説家の辻村深月。2004年第31回メフィスト賞受賞、2011年第32回吉川英治文学新人賞受賞、その他様々な受賞歴を持ち、さらに多くのベストセラーを抱える作家である。『ドラえもん』の脚本は2013年に一度オファーがあったが、その時はプレッシャーを感じて辞退。本作で改めて『ドラえもん』の制作に参加し、脚本を書き上げ、後にノベライズ版も担当した。
 本作の興行収入は50.2億円。メガヒットとなった前作の流れを受けて、本作も大ヒットとなった。ドラえもん映画歴代2位の興行成績である。

 それでは前半20分のストーリーを見てみよう。


 その日の朝、のび太が学校へ行くと、クラスのみんなは激論を交わしていた。今朝のニュースで、月面探査記ナヨタケが、奇妙な「影」を撮影して機能停止した。あれはいったいなんだったのか……?
 クラスのみんなは、「宇宙人だ!」「レンズのゴミだね!」「エクトプラズム!」とそれぞれの派閥に分かれて、争っていた。
 そんななか、のび太は「謎の白い影、果たしてその正体は……月のウサギだ!」と自説を発表する。するとクラスのみんなは失笑だった。

 こんなのおかしいよ! 大人だって月にウサギがいるって言ってたのに……。いつからいないことになったんだよ。自分の目で確かめるまで、僕は月のウサギを信じるぞ!
 ……と、のび太は、月にウサギがいるという説を固く信じる。そんなのび太のためにドラえもんが出した道具は【異説クラブメンバーズバッジ】。
 世の中には、いろんな考えを持つ人がいる。このバッジを付けると、同じ考えの仲間になることができる。例えば地球は丸くて、太陽の周りを回っている。ところが中世期の頃は、これは「地動説」といって、間違えだとされていた。その当時は地球は平らで、宇宙の中心にあって、太陽も月も星も、その周りを回っていると信じられていた。これを「天動説」といい、こちらのほうが正しいと信じられていた。
 そこで【異説クラブメンバーズバッジ】を身につけて「天動説が正しい!」と唱えると、異説クラブのメンバーにだけは世界が天動説になるのだ。
 月に生物がいる……というファンタジーは実は古くから信じられていて、特に月の裏面は常に地球の側から見ることができない。だからそこには、宇宙人がいて、秘密基地が作られている……とまことしやかに囁かれていた。
「月の裏には空気があって、生き物が住める!」
 のび太とドラえもんは【異説クラブメンバーズバッジ】の前で唱えて、どこでもドアで月の裏面へ飛び出す。するとそこには空気があって、重力も地球と同じくらいになっていた。でも、太陽の光の届かない場所だから、真っ暗だししかも寒い。
 ドラえもんはまず【ピッカリゴケ】を取り出して振りまいた。ピッカリゴケは月の岩石にまとわりついて明かりを生み出す。次にクレーターへ行き、【どこでも蛇口】で水を作り出し、さらにインスタント植物の種を振りまく。仕上げに【打ち上げドーム】でクレーターを透明の膜で覆い、隕石が落ちても大丈夫なドームにした。
 続いて【動物ねんど】で月の住人を作り出す。作り出した生き物は……ムーンとラビットだから、ムービットだ。ムービットたちは魂を持ち、月世界に住居を作り始める。
 そこまで見届けて、のび太とドラえもんは家へ帰るのだった。  戻ってみると、のび太とドラえもんは、お母さんから「お団子とススキが欲しいの」とお遣いを頼まれる。ドラえもんはお団子を買いに行き、のび太は裏山へススキを取りに行く。
 ススキを取りに行った裏山で、のび太は少年の姿を目撃する。
「ねえ、君もススキを取りに来たの?」
 のび太は少年に声をかけるが、少年はふっと姿を消す。

 翌日、少年は転校生として学校へやってきて、「月野ルカ」と名乗った。
 月野ルカには少し不思議なところがあって、触れてもいないものを動かしたり、しおれたコスモスの花を復活させたりができた。

 その日の放課後、のび太とドラえもんは、月のウサギ王国の様子を見に行く。
 すると鬱蒼とした竹林ができていて、ムービットたちは一杯に繁殖していた。
 ムービット達が洞穴に住んでいる様子を見て、のび太とドラえもんは家の作り方を教え、火の扱い方も教え、餅の作り方を教える。ムービット達は自分たちに知識を授けたドラえもんを崇めるのだった。


 ここまでが前半20分のストーリー。

 始まりは、月で何かを目撃した。現実の世界にまず、ささやかな異変があり、それが冒険の切っ掛けとなる。ここから「ドラえもん」の面白いところで、次の冒険を「待つ」のではなく、切っ掛けそれ自体を作り出してしまう。
 物語のプロローグである「冒険の召命」をこんなふうに表現した作品はそうそうないし、『ドラえもん』特有の表現だ。「現実の異変」があり、次に「ファンタジーとしての異変」を自ら作り出し、そこからシームレスで「本当の冒険」に物語が繋がっていく。この手際は鮮やかだ。

 間もなく月の「ウサギ王国」は文明を作り出していく。この急展開的なところは、『新・のび太の日本誕生』と同じくゲーム的なところ。簡単に結果が提供される。本来なら数千年ほどかかる時間を、一気にスキップして見せていく。実にご都合主義。本来そこにあるべき苦労や苦悩が省略される。
 でも「ドラえもんの道具」だから、そういう展開が問題ではなくなってしまう。
 ウサギ王国は繁栄を極めていき、あっという間に現代文明を通り越した都市社会をあの中に築いていく。その光景だが――。
 まず竹のレールが空間上で立体交差し、モノレールのようなもので労働者達を運搬している。その労働者達が連れて行かれるのは、餅作りの工場だ。一般のムービット達はみんな単純長時間労働に従事している。
 労働の分業化・専門家は進んでおり、一般労働者たちの他にも、建築家や料理人や図書館の管理人もいる。過剰なストレス社会が構築されると、それに対応した過剰な娯楽も文化として築かれていく。カロリーの高そうな料理が作られるようになるし、クラブのようなものも作られている。
 ウサギ王国達はあっという間に現代の人間社会のような世界観を、あのクレーターの中に構築してしまう。描きようによっては、かなり悲惨なディストピアに見えるのだが、あたかも夢一杯の世界のように描き込んでいく。
 なぜこのように描かれていくのか……というと『ドラえもん』が未来世界をユートピアとして描いた作品だからだ。人間の労働が均質化し、人間は複雑なことを考えなくてもいいし、難しい仕事もしなくても良い――人間がある種、工場のロボット化していく、それが『ドラえもん』が描かれた時代ではユートピアだった。
 そうした時代に、いま私たちが直面して、そうした時代ゆえの難しさ、複雑さに葛藤している。かつてユートピアとして夢想された世界観を、今の時代に再現し、それを見て「うーん」と首を捻る……。「ドラえもんとはなんなのか?」としばし考えてしまう光景だ。

 続くストーリーを見ていこう。


 そこは遠い惑星だった。
 ゴダート隊長は支配者・ディアボロから使命を受けていた。それは「エスパル」を見つけ出すこと。しかしその手がかりすら見つけられないまま、すでに1000年の時が経過している。エスパル探索の命を受けた兵士達も、「あれは伝説なのではないか?」と言い合うくらいになっていた。
 しかし使命は使命だ。伝説かも知れない存在でも、ゴダート隊長は探さなければならない……。
 それに、そろそろ「あの予言」の時が近い……。エスパルは発見できるかも知れない。ゴダート隊長は部下を連れて、宇宙に旅立つのだった。

 のび太は空き地にしずかちゃんとジャイアンとスネ夫を呼んでいた。いよいよ月のウサギ王国をみんなに発表するためだった。
 そこに、転校生の月野ルカもやってくる。「僕も仲間に入れてよ」と。もちろんのび太は、新しい友人を歓迎するのだった。
 のび太たちはバッジを付けて月へ。するとムービットたちのコミュニティは、近代都市に発展していた。竹のレールによるモノレールが走り、地上には水路が張り巡らされ、舟が行き交っている。ムービットの労働者たちはお餅のレンガで家を建て、お餅のコンクリートで外壁を作っていた。のび太達はそんな優れた文明を作り出したムービットたちに歓迎され、ごちそうを振る舞われるのだった。
 ムービットの中の1人、メガネをかけた「ノビット」と知り合いになり、そのノビットの案内でウサギ王国を見て回る。のび太達はウサギ王国の娯楽を目一杯堪能するのだった。
 しかし、その王国にウサギ怪獣が出現する。ウサギ王国を作り出す時に、のび太が作った怪獣だ。捨てたものだと思っていたが、ウサギ怪獣も魂を獲得して月世界の住人になっていたのだった。
 その怪獣を【忘れろ草】でどうにか諫めるが、のび太が異説クラブメンバーズバッジを落とし、地底に転落してしまった。
 バッジがなくなったら、この世界で生きていくことはできない……。のび太は死んだ!
 ……と思われていたが、地底からのび太の声がする。タケコプターを付けて地底へ降りていくと、そこは空気のある空間だった。
 のび太は生きていた! 助けたのは月野ルカ。月野ルカは、帽子を取り、自分の正体を明らかにするのだった……。


 ここまでで40分。

 ウサギ王国は夢一杯の文明国家になっていた。
 そのウサギ王国を、舟に乗って見て回る。
 あー……これ、ディズニーランドのアトラクション「ジャングルクルーズ」だ。ノビットを案内人にしてから、歌唱が始まり、王国の文明とその娯楽を目一杯堪能する。ここで歌唱が流れるところも、ディズニーランド的。
 知っての通り、ウォルト・ディズニーもまた「文明が私たちの生活をより良くする」という信念を持っていて、最新のテクノロジーを積極的に取り入れ、そのテクノロジーをディズニーランドの中で夢一杯に表現していた。文明そのものを見せること自体が、ディズニーランドのアトラクションだったのだ。
 よくよく考えれば、『ドラえもん』が理想としていた未来と符合するところがあり、どこか表現がディズニー似てくるのは必然であったかも知れない。

 その「ウサギ王国」というファンタジーをふっと通り抜けていくと、なんとそこには、本当の月の住人であるルカ達と巡り会うことになる。ファンタジーの向こうに、「本当の世界」がある。この不思議な構造が『ドラえもん』特有の物。『ドラえもん』でしかあり得ないようなストーリー構造だ。
 ただ、月野ルカたちのコミュニティには、少し引っ掛かりもあって……。どうやって水と材木を得ているのだろう。鉄を打っている場面があったが、鉄を作り出すためには強い火力が必要(700度以上)で、それだけの火力を生み出すには大量の木炭を必要とする。すると相応の森が必要ということになる。その森の描写がない。
 月野ルカ達は超能力者であるから、その力で月面に空気と森林を生み出したのだろう。と同時に、作物も作り出した。ウサギ王国の世界はファンタジーである。ウサギ王国を構築する原料がどこから来たのか――という話は「ファンタジーだから」、で済む。そもそもウサギ王国は実在せず、「異説」の産物なのだから、条理を越えてしまっても構わない。一方、ルカ達のコミュティは「現実」。現実的な世界観を表現するなら、どうやって「食料」や「原料」を得ているのか……というところまでフォローが欲しかったところだ。

 本作の面白いところは、ウサギ王国、ルカ達のコミュティの向こうに、「第3の世界観」が描かれていること。ディアボロが支配するカグヤ星だ。こちらは荒廃したディストピアとなっている。ウサギ王国の「裏面」のような描き方となっている。
 現実にウサギ王国のような世界観を作ろうとすると、カグヤ星のようになるはずだ。ウサギ王国は未来文明を夢一杯に表現した世界だったが、しかし現実は……。それがカグヤ星の世界だ。

 ただ、カグヤ星の世界観は残念なくらい厚みが薄い。というのも、カグヤ星のSF観が、ありとあらゆる作品の中でもう見た。「もう見た」というか、ずっと昔に見た、昔懐かしのSF観だ。昔のSFの薄く軽くした廉価版を見せられた……という感じだ。
 こういったところで「どんな世界観を見せるのか」が作家の感性が試されるところ。そこで踏ん張りがないのがあまりにも残念。子供だましの世界観で終わってしまっている。

 世界観描写が「子供だまし」の世界なら、そこで展開される活劇も子供だましの世界だ。安っぽい銃撃戦に、安っぽい活劇。ここに来て、「いったい何を見せられているんだ」と茫然となる。
 クライマックスの展開まで、「どこかで見たな……」という印象がつきまとう。どこかで、というか、もう数十年前に見たSFアニメの世界だ。あんな古くさい作劇を、刷新もされず、そのまんまの形で表現されると、茫然を通り越してズッコケてしまう。ちょっと恥ずかしかった。
 「子供だまし」というのは、子供向けアニメの世界において、あまり良いものではない。といういのも、子供というのは勘が鋭い。ただの子供だましにすぎない表現を、子供は敏感に嗅ぎ取る。本当に子供を世界観で騙そうと思ったら、大人が騙せる描写でなければならない。
 『のび太の宇宙探査記』の世界観は残念なくらい厚みが不足している。どこを見ても安っぽい。嘘っぽい。ウサギ王国というファンタジーの向こう側だからこそのリアリティが必要なシーンだったのに、作り込みの甘さが出てしまったのが残念だ。

 カグヤ星は平安文化がその後も文化侵略されず、現代を通り越し、さらに文明世界を作り上げてしまった……。文明世界を作り上げても、意匠に平安スタイルが残っている。そのデザイン観は良かったのだけど、簾に電飾を付けてピカピカ光らせてしまうと、これは三流SFの世界。ああいうところはもっとリアルに、その世界観が持っている生々しさのほうを優先したほうが良かったのではないか。

 カグヤ星は新兵器(スター・キラーか?)を試そうと月を撃ったところ、その破片が流星のごとくカグヤ星に降り注ぎ、さらに晴れることのない噴煙が空を覆い尽くした。これによって天然資源の獲得が難しくなり、カグヤ星の文明は荒廃していった。
 そうした経緯もいいし、これによって生み出された格差社会の表現も良かった。でももうちょっとリアルに表現しても良かったような気もしていて……。作品の中で貧困層の様子もきちんと描かれていたが、ああいったところにこそ厚みや奥行きが欲しかった。ちょっとした描写にも手を抜かず、納得できる描写があれば、格段に良くなったはず。

 本作に限った話ではないが、重要キャラクターに起用された、素人同然の声。この業界の悪しき慣習。クライマックスの決めるべきところで、あまりにも下手な演技でまたズッコケてしまう。稼がなければならない商業作品ゆえの問題である。
(そして日本の俳優業界がいかにレベルが低いか……ということを露呈してしまっている)

 全体を通して見ていくと、かなり面白い作品だった。月面にファンタジーの世界を作り上げ、その向こうに本当に月の住人が現れ、さらにディストピア世界が広がっていく……。『のび太の日本誕生』でも試みられた構造だ。こうした物語の導入は『ドラえもん』でしかあり得ない。現実の世界からスタートして、ドラえもんの秘密道具で一気にファンタジーを展開し、ファンタジーだと思っていたらいつの間にか本当の冒険が始まっている……。ドラえもんの特有の展開方法は、いつの時代でも楽しいワクワクを生み出してくれる。この導入は毎回素晴らしい。
 舞台が秋というのも――十五夜の季節に合わせたものだが――異色な感じが出ていて、本作ならではの個性になっている。
 しかし、ファンタジーの世界がはっきり見えてくる過程で、次第にガッカリ感が高まっていく。「本当のファンタジー」の世界に奥行きがないからだ。奥行きのない世界観に、安っぽい活劇。
 うーん、後半のファンタジーがもっとガッツリ描き込まれていたら、見応えある映画になったはずなんだけど……。またしても後半に入って、何かを踏み間違えたような作品。最後の最後で「惜しい」作品になってしまった。


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