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メイドインアビス第2期 第12話の度し難感想 成れ果て村の終わり~それは愛ゆえに…

 いよいよ最終回。2話分一挙放送ということで、尺も2倍。恨み恨まれの呪われた物語のその先に何があるのか。行く末を見ていきましょう。


 がおー! と登場のジュロイモー。


 胸より取り出したるは熱く燃えあがった業物!
 たぶんジュロイモーは体内で熱をためることができるんでしょう。それで業物もホットにすることもできる……と。ヘンな生き物だなぁ……。


 ファプタ、再び襲われるけど……。


 噛みついた方の歯が欠けちゃった! ……ではなく、ファプタを包むヌメヌメが獣の牙を喰っちゃったそうで……。

 激しく燃えあがるファプタをアバンで描いて、オープニング開けは穏やかなファプタから始まる。激しさと静けさのいい対比だ。 居眠りしているファプタの毛並みの上を風が流れていく。これもいい表現だ。

 この辺りはまるで巨大獣の肋骨のような地形が並んでいる。これは強烈な温度で熱せられた地形がビャッと裂けて、その直後冷やされた……みたいな感じかな。磁力でこういう地形になったのかも知れないけど。
 映画『アバター』でもこういう地形はあったが、あれは磁力によるものだった。

 そんな眺めの一角に、奇妙な穴が一つ。後のファプタの寝床なる場所だ。俯瞰するとこういう形になっていたか……。
 うーん、不自然な形だな。妙にSFっぽい穴の穿ち方だけど……。ロボットもいることだし、元はそういうものに関連する何かだったのかも。これだけだと推測はできない。

 ガブールンとの出会い。この頃のファプタはまだ「言葉」も知らない。振る舞い方もまるっきり獣。
 しかしファプタはガブールンに対しては警戒しない。なぜなら「臭い」。イルブルの近くにいた干渉器には成れ果て住人の臭いがたっぷり染みついていた。それでファプタは本能的に「敵」と判定した。ガブールンからはその臭いもしないし、攻撃もしてこないから、危険はないと判断された。ファプタは匂いを染みつけ、その側で寝てしまう。

ファプタ「もっと教えろ。母の言葉を」
 ガブールンから言葉を教わります。

 シィは最初の価値。
 欲の始まりや、ささやかな願いを意味する。

 クー。価値の重なり。
 欲の先。積み重なる願いを意味する。

 グツ。願いの凝結。
 価値の結晶。純粋さを意味する。

 メン。途方もない価値。
 願いの解放。清濁や混沌も意味する。

 ハク。これがもっとも高い価値。
 願いの顕現。魂の形を意味する。

 『メイドインアビス』オリジナル言語。凄いな……。「価値」の概念を階層化して考えられている。日本語にも英語にもない概念だけど、確かにこの世に存在する概念だ。これがそのまま、イルブルという場所に込められたテーマを繋がってくる。よく考えられている。
 言語というものはその文化がどういう性格を持っているかを明らかにする。かつてあったとされる旧アビス文明は、多様で複雑な価値があって、それが守られている文化圏だったのだろう。

 ファウは「尊い娘」。ファプタは「不滅のもの」。永遠を現す、果てぬ姫君――ファプタ。
 ガブールンは「女王の守護者」の意。

 それから時は流れて……

浮 気 ☆ 現 場

 将来を誓い合った少年が、別のフワフワを抱いて寝ている……。さあどうなる! 修羅場か? 修羅場が始まるのか……!?

「お前、本当にレグなのか?」

 しかし疑心暗鬼になってしまうファプタ。地上に上がって臭いが変わってしまったから、本当にレグか疑ってしまう。ということは、ファプタは視覚だけに頼った生き方をしていない。視覚だけではなく臭覚・嗅覚も優れているから、そういったものも判断に入れている。人類はほとんど視覚だけを頼りにしているからなぁ……。で、その臭いがまるっきり変わってるから「あれ? 本当にレグか?」と疑ってしまっている。
(でもおちんちんの臭いだけは変わってなかった……ということは、他の女の子とエッチしなかったということでしょう)

「何か違う……。こいつは……こいつの魂はどこから来た?」

 うん、やっぱりリコの魂はどこから来たのか? というのが気になるなぁ。なにしろリコは1回死んでいる。蘇生したけれど、本当にリコの中に入っている魂は、リコ自身のものなのか……。

 ナナチに対しては……

「なんと香ばしそす!」

 よほどいい匂いだったんだな……。主な浮気相手なんだけど、匂いがいい、ということで何か許された雰囲気になってしまう。

「そのために連れていたのか……。レグ、私というものがありながら……」

 ファプタは匂いに価値意識を持っているから、「いい匂いがする」というのも価値なのだろう。で、ナナチの匂いには何か敗北感があったようで……。匂いで張り合うって、やっぱり私たちにない価値観だなぁ……。
 それと、ファプタには「一夫一婦制」の価値観はないだろう。お母さんであるイルミューイにしても乱交型の一族の生まれだったから。レグが複数の女を作って連れていても、そこに驚きもなかったんだろう。ただ「私、本妻じゃないそすか?」みたいに思ったかも。

 リコ達が送ろうとした手紙にイタズラ書き。
 あ! 血で描いてる! 私は1話の時に「錆鉄を油で溶かしたもの」という予想を立てていたけれど、違っていた。血で描いていたから、血の味がしたんだ。私の予想は外れてたね。
 それにしても結構な血を出して描いてたんだな……。

 でもファプタ、この状況を見て、リコの方がハクで、ナナチをシィと判断。どうやらリコを「本妻」だと判断したらしく……。これは勘だったのかな……。ナナチは「いい匂いのする情婦」の扱いか……。
 するとこのイタズラ書きはそんなに悪意のあるものじゃなかったんだな……。

 第2話のこの解釈も間違っていたね。あの「ハク」の印を貼ったのはファプタ。あそこに大事なもの、自分の母がいる……ということを示すサインだったんだね。

 石の言葉を聞くことができるファプタ。ということは、あの状態になってもまだ「魂」は残っているわけだ。ある意味、プルシュカは生き続けているんだ。

 ここで「メガネでかっ!」とか思ったけど、そういえばこのサイズだったね。頭のサイズが大きいから、メガネも大きくなる。

「酒入ったときなんか連中、わりとまじに語るさな。途方もない冒険を目指したのにさ、てめぇらは延々となにしてんのかね……って」

 みんな「もう戻らない旅」という覚悟を決めて、第6層以降の「ラストダイブ」してきた人たち。なのに、なんでこんなところで踏みとどまってしまったんだろうね。ここは理不尽しかない第6層唯一のセーフゾーン。イルブルの加護を受ければ、ずっと生きていられるけど……何してんだろうね。「もう帰らない旅」を決意したはずなのにな……。マアアや便器に成れ果てたやつですら、そうだったはず。穏やかな日々を過ごしながら、「何やってんだろう」という気分は抜けないのだろう。

 イルブルの奥底で転がっているワズキャン。
 「中身がからっぽ」と語っていたけど、そのまんまの意味だったのか……。本当に中身スカスカ。内蔵もない。中に詰まっていたものを全部使って、イルブルを支えようとしたんだな。

「我々はね、人以上のものになりたかったのさ。この大穴を穿つには、人を越えなければならない。それは奈落の住人として成れ果てること……。祝福され力を得ること……。呪いに打ち勝つ体を持つこと……。そのいずれでもない。積み重ねだけだ。それらの積み重ねだけが、人を人以上たらしめる。途方もない年月を奈落と寄り添い、培ったしたたかさが、果てを目指す好奇心と純粋さが、導かれた申し子が混ざり、継いでいった積み重ねだけが……。今、その末端にいるのが君たちであり、そして、道を決めようとしているファプタだ。だから僕がしたいことは今や一つ……君らにこう言うだけさ。どうか、あの子を頼むよ。望郷を……望郷を旅の先に持つ奈落の子供たち。叶わない夢よりも恐ろしいものが黄金の先で待つ。せめて夢を叶えて……絶望してくれ」

 人間は自然界最弱の生き物だ。今から10万年前、人類はアフリカでもっとも弱い生き物で、周りの獣に怯えながら、他の獣たちが食い残した残りカスだけを漁って生きていた。人類はどうしようもなく弱く、どんなに鍛えてもある程度以上強くなることはない。メディアの世界では優れたスポーツ選手に対して「人類最強!」なんて言葉を軽く使うが、人類最強であってもライオンにも熊にも勝てない。オオカミ、ワニ、サメ……人類が拳で勝てる野生動物はほぼいない。それくらいに弱い生き物だ。
 人類がどうやって強さを獲得していったのか……それは「積み重ね」。先人が築き上げた様々な足跡の上で、ようやくまともな生き方ができる。知識を積み上げて、文明を築き上げて……それこそ何千年、何万年という時を経て、いま私たちはここでこうしている。
 今や文明人はライオンや熊を恐れない。一撃必殺の銃を発明し、襲われないためのあらゆる知識を身につけているからだ。それで人類は「俺ら最強」なんて勘違いしやすいが、相変わらず肉体は自然界最弱だ。知識の積み重ねも、世代が変わるごとに全て失われる。知識や技術は世代ごとにリセットされてしまう。自分が知っている範囲外の知識・知恵はほとんどの人は訳もわからず「便利だから使っている」……みたいな状態だ。

 『メイドインアビス』という作品の場合、ワズキャン達というのは大穴に挑んだ最初の世代。知識や経験の積み重ねなど何もなしに挑んだ人たち。その結果、何も果たせないままカタストロフを迎えてしまった。ただその代わりに干渉器の助力を得て、「欲望の揺籃」の力によってかろうじて生きのびることができた。
 成れ果て村・イルブルはラストダイブした無謀な者達が集まる場所。ゆえに第6層まで挑んだ人々の知識や技術が集積される場所となった。
 それを引き受けた新世代の子供たち――それがリコたち。リコ達はイルブルに集積された知識や技術を引き受け(たのかなぁ?)、イルブルに引導を渡す。最終的な変化を引き起こすためにやってきた人たちだ。

 しかし大穴を目指す旅は、「感動的な結末」で終わるとはとても思えない。この物語は『闇の奥』だ。大穴の底を目指せば目指すほどに、絶望は深まっていく。そんな場所だとわかっていても、行かずにはいられない。どうにもならない冒険家としての本能が冒険心をかき立ててくる。冒険心そのものが、もはや“呪い”ですらある。
 アビスの底に行き着けば、そこにあるのはきっと絶望。夢を叶えようとすると絶望で返ってくる。それがアビスという場所。

 それから、ふと思いついたんだけど……。こんなふうに大穴の底を目指して行きたくなる……という深層には「アビス信仰」がどこかしら絡んできているかも知れない。リコは赤ちゃんの頃、蘇生した後すぐに大穴の中心を目指して這い始めたという。大穴に惹きつけられるのは、魂がそこに還りたがっているからじゃないだろうか……。

「ふーんだ。あなたの言うとおりになんかならないよ!」
「いいねぇ……」

 リコのこの狂人……いや強靱な精神はどこから来るんだろう。こんな精神性だからこそ、絶望をはねのけられるんだろうけども。

「宿代の残り、いらんよね? だからえっと、代わりを入れてあるよ」

 だってさ。何を鞄に入れてくれたんだろう。それが明らかになるのは第3期。

レグ「うむ。何を言っているのかわからんが、可愛いな……」

 レグ、フワフワに対しては見境ないね。でもメポポホンの頭に乗ってるの、彼女の恋人よ?

 1人、地上を目指すヴエコ……。

 真っ暗な階段をずっとずっと上へ。その向こうに光が見える。
 しかし足元を見ると……。

 150年、忘れられていた“呪い”がやってくる。それは呪いから逃れ続けた“制裁”。アビスに挑んだ者であれば、誰でも平等に課せられる呪い。
 落ちかけた目玉が真っ黒になってヒビが入るのは、壊死して、そのうえに乾燥した……みたいな表現かな。
 ヴエコが不死の存在になっていたのは、一時イルミューイの子供を食べていたからだろう。他にヴエコを不老不死にさせる要因はなかったはず。成れ果て村の人々はイルブルに何かを注入されてあの姿になり、不老不死になっていた。ヴエコはそうじゃない。考えられる要因はイルミューイの子供だろう。

 ヴエコはずっとあの場所に幽閉されて、何も飲まず食わずでも生き続けることができた。てっきり、とっくに成れ果てているのだと思ったが……そんなわけはなかった。この場所で“呪い”から逃げるわけにはいかんのだ。

 そんなヴエコを助けたのがパッコヤン。

 パッコヤンというのはこの子です。いつもヴエコの側にいて、行動を一緒にしていた子だね。
 ただ、パッコヤンとの関係をもうちょっと深めて欲しかったなぁ……。

 ジュロイモー、喰われたね……。

 レグが助けに来て……

「なにしに来たそす」

 この子も素直じゃないな……。

 笛をピューッと吹いて……。

 気を失うリコ。
 1回目、2回目と違う反応を見せた。たぶん、「吹く力」によって効果の大きさと反動の大きさが変わってくるのだろう。1回目の時はすぐにレグのパワーアップは解除された。この3回目はかなり長い時間、レグのパワーアップが続いた。
 でもこれ、なにか危ない「代償」がありそうなので、あまり何度もするべきものじゃないという気がする。いや~な予感がする。この作品の場合、特に。

 レグが壁を蹴った瞬間。
 配信なのでここをコマ送りで見られないのが残念。パッパッと止めて見たのだけど、1コマごとに違う絵が挟まっている。単に「壁が崩れた絵」だけが描かれたんじゃなくて、レグの姿が反転したコマなんかが描かれていた。サブリミナル的な絵を人工的に作って描き入れている。これだけのアニメーションは、本当に実力がないと描けない。コマ送りで解析して見たい一瞬だ。

 猛獣を引っ張り倒し、ズザーってやるレグ。格好いい一コマ。

 イルブルはワズキャンの体の一部で補強されて、どうにか支えられている状態。

 第2話の頃はこんな状態だった。だいぶ様子が変わっている。

 イルブル最後の生き残りを食べてしまうファプタ。もともとイルブル住人は、イルミューイの一部が注入されてあの姿になったのだった。ファプタはイルブル住人を「殺す」のではなく、「喰う」べきだった。喰うことで、母親の子供たちを体内に宿す。

 食べたので、食べた相手の記憶もファプタの中へ移されていく。
 きっとここで過ごしてきた人たちの感情めいたものも流れ込んできただろう。

「母よ……あなたがファプタの生きる意味だった。いま、役目を果たすぞす!」

 ファプタは母の恨みを受けて生まれた存在だった。その目的は終わってしまった。残るは――母の存在そのものを消すこと。ファプタにとってもっとも大事なもの、母親を殺す。

「自分を許さないことで、あなたとの関わりを繋ぎ止めようとした。あなたの中で最初に聞いた声にならない声……。私は……誰にも言えなかった。あなたが本当に欲しかったのは……子供だけじゃ……なかったこと……。すべてが、すべてが望郷に消えた。もはやできることは、あなたを忘れまいとすることだけ。私は……私を許せなかった」

 ファプタはイルミューイの「恨み」を引き継いで生まれてきた。その記憶の中に、ヴエコはなかった。なぜならヴエコの記憶、ヴエコへの想いは、自分の中に大切にしまっておきたかったから……。
 イルミューイは子供を産める体になりたかった。それと同時に、母も欲しかった。もしかしたら父も。家族を築きたかった。子供を産めない者同士の、仮の親子。

「……あなたを先に看取るという、もっとも重い罰を受けることができた」

 ヴエコは崩壊していくイルブルの様子をじっと見詰める。それは「罰」だった。母が、子が死んでいく姿を見るのだから。それがイルミューイの子供を食べた罰。「崩壊」ではなく「死」だから、「看取る」という言い方をする。

 マジカジャが倒れ、そのマジカジャの口から漏れたものがファプタの中へと入っていく……。
 忘れてはいけない。マジカジャの本体は気体。「匂い」のみがマジカジャの本体。普段見えている体は借り物。
 で、借り物の体から出てきて、自らファプタの口の中へ……自ら食べられに行った。でもファプタは昏倒しているので、ちょっとの間、マジカジャの意識がファプタに移ってしまう。

 ここの表現がいい。リコは側にマアアがいるんだと思って手を伸ばすが……。

 そこには誰もいなかった。イルブルが消滅したので、マアアも消滅。気配だけがそこに留まっているのを感じていたが、ふっと目を覚まして振り向いて、いないことに気付いてしまう。いないと気付いた瞬間、気配も感じなくなる。この退場の仕方が良かった。

 あの転落で足を負傷し、立ち上がれなくなったリュウサザイ。無事だった一頭が、立ち上がれなくなった仲間にトドメを刺す。ここでは中途半端に生かしておくほうがつらい。むしろひと思いに殺した方がいい。

 死んだリュウサザイは獣たちの食料になる。おそらく数日分の食料になるだろう。こうして食物連鎖の均衡が保たれていく。第6層の生き物たちは怪物に見えるが、ごく普通の野生の動物なのだ。

 どうにか生き残れたリコ達。ヴエコがファプタの前へ這って進もうとする。すぐに立ち上がって介助するナナチ。ミーティを思い出しているのかも……。

「母は、例えファプタに会っても、お前だけは、お前だけは渡したくなかったんだ」

「黄金郷はよ、クズでも黄金にかえてくれるんだってよ」

 ヴエコはなんの価値もない人だった。クズみたいな男に、クズみたいな扱われ方をしていた。でもこの地の底で、黄金のような価値を持ち得た。誰かにとって大切なものになること……それが「黄金の価値」を持つこと。絶望の中だからこそ、希望の暖かさがわかってくる。

「こいつは母のもの。ファプタのものではないそす。……なのに、どうしてこんな気分になるそすか……」

 自分のものを喪ったわけではないのに、なぜ悲しくなるのか? それはヴエコの人生に触れたから。目の前の人間の壮絶な人生と死に様……それに圧倒されてしまった。
 それにおそらくファプタは「感情移入」するようになったのだろう。たくさんのイルブル住人を喰って、情緒が豊かになっているのかも知れない。

「これで、寂しくないそす」

 作ったのはファプタと母。2人が寄り添っている姿。

「行こう! 僕は君と一緒に冒険に行きたい!」

「ファプタはもう行くそす。見て、触れて、集めるそす」

 それはファプタ自身の価値を集める人生の始まり。ファプタはずっと母の復讐に捕らわれて生きてきた。何も持たず、何も身につけず、仲間も作らず(ガブールンがいたけど)。ファプタにとって母にまつわるものが価値で、それ以外は無価値だった。でもようやくファプタ自身で大切なものを集める人生が始まる。

 でも、だからこそファプタも一緒に来て欲しかったなぁ……。レグを中心とするモフモフハーレムを見たかった。

 終幕。こんな場所にも咲いている不屈の花、あるいはトコシエコウ。ここに生き残った人たちを祝福するように咲いている。

 『メイドインアビス 烈日の黄金』は見事なアニメーション。見事な映像化。間違いなく名作の1本。ただただ素晴らしかった。
 こうして最終話を見てしみじみと感じるのは、ずっと「愛」の物語だったこと。ヴエコによるイルミューイへの愛。ファプタによる母への愛。ガブールンによるファプタへの愛というのもある。誰かが誰かを想いやるお話。『メイドインアビス』はずっとそういう話だ。ミーティを想うナナチの愛。リコと一緒に旅に出たかったプルシュカの愛。ボンドルドのクソみたいな博愛。本編ではあまり語られなかったが、ベラフによるヴエコとイルミューイへの愛もあったかも知れない。イルミューイはベラフを「父親」のように思っていたようだから、ヴエコとベラフとの間にそういう関係性がどこかにあったかも知れない。

 でもどうして『メイドインアビス』はここまで愛の物語に突き進むことができたのだろう。例えば90年代ファンタジー漫画に『魔法陣グルグル』という作品があったが、この作品で愛を語る局面にやってくると、ギップルというキャラクターが「クッサー!」と叫んでその場の空気を一蹴する。最近、アニメで『バスタード』という作品を見ていたが、愛について語る場面に入ると「寒ッ」と突っ込みを入れ始める場面がある。
 90年代漫画やアニメの世界では、愛はどこか避けるべき話題になっていた。というか、感情に熱を持っていること自体を避けていた。感情が熱くなろうとしてると、その直後にギャグを挟んで、場の空気を一蹴し、火が点きかけた作者自身の気持ちをごまかそうとする。
 こういった情熱を避ける傾向というのは、その以前の「熱血」の時代の反動的なものだった。その以前の漫画やアニメというのは、とにかくも熱血・情念の世界だった。スポーツの世界だったら体を壊すまで打ち込む。愛のお話なら、自分も相手も崩壊するまで打ち込む。
 その情念を否定し始めた……というのが80年代90年代。情熱を拒否して、冷めて虚無になる。これが90年代以降の日本人の潮流であり、それがアニメやゲームといったエンタメの世界に流れ込んでいった。物語も主人公もひたすらに虚無。情熱を持たないキャラクター、物語。創作も冷徹で無感情に陥っていた。

 でもいつからだろう……。最近、『リコリス・リコイル』という作品を見たが、ずっと「愛」の物語だった。錦木千束と井ノ上たきなの愛を巡るお話。ミカと吉松シンジの愛のお話もあり、ずっと誰かを誰かが想う……という構図の作品だった。
 こういう作品は今時、すでに珍しくない。2000年代以前、ずっと醒めた意識で、愛なんてないさ、誰かを愛するなんて恥ずかしい、そんなのは現実でもフィクションでも求めないよ……そういう意識が支配的だったが、アニメはいつの間やらこんなにも表立って愛を語るようになっていた。『けいおん!』だってただひたすらにキャラクター達への愛を語ったお話だ。
 といっても、その一方で冷徹な虚無も引きずっている。どんな作品でもそうだが、例えば『ガールズ&パンツァー』でキャラクターが情熱的に叫んで戦いに臨む……なんて場面は描かれない。ことあるごとに叫ぶ『Gガンダム』とは大違いだ。どこか冷ややか、冷ややかでありながらじっとりと熱を持つ。
 わかりやすく表に情念を出す……というのはなく、その背景にじわじわと情念を表明する。それが今時のやり方というわけだろうか。

 最近は「推し」という言葉もあるが、これだって演者とファンの間にできる「愛」だ。新しい愛の形かも知れない。そういう愛を、今時の若い世代は、恥ずかしげもなく語れる。これが私たちにとってはあまりにも不思議だ。愛を表明したら周りにいる誰かに批評されたり揶揄されたり……といった経験はないのだろうか。
 すでに現代人にとって「愛」は避けるべき話題ではなくなり、愛は積極的に語られ、そのことにいくらでも情熱的になれる。時代は愛と情熱を取り戻しかけている。

 『メイドインアビス』を見終えて感じたのは、やはり「愛」は物語に必要だ。テーマとして楽しいから……という単純な理由ではなく、物語は“強い感情”を描かなければならない。物語とは感情の経緯が描かれていなければならず、その経緯さえ描けていれば一定に面白さは担保できるのだけど、読者は現実世界にない“強力な感情”の物語を求めている。読者は現実では経験しえない感情が描かれている物語を求め、そういったものが描かれている物語にこそ人は感動する。
 どうやったらそういう強い感情を描けるのか――それは“愛”を描くことだ。
 「愛」をテーマに置けば、強い感情の物語を描きやすく、そうやって描かれた物語は誰にでも共感されやすい。誰かを想いやる気持ちであれば、どこまでも強くなる。それは恋愛や性愛だけではなく、親子愛や郷土愛や、いろんな形があるはずだ。狂気的な愛の物語にもすることができる。
 愛のテーマはそのキャラクターがなぜそのような行動を取るのか、という根拠にすることができて、しかもやや度を超していても「愛」を根拠にすれば納得ができる。狂気的な愛であっても、やはり愛をテーマに置けば納得ができる。人間の心情や行動規範は社会的な規範に制限をかけられやすいが、愛であればそのタガが少々外れていても、誰も問題視しない。もちろん、なぜそれを愛するようになったのか、その「経緯」だけはきちんと描かれていなければならないが。

 「愛」というテーマを聞くと、ほとんどの人は男女間の愛欲や情欲の物語を連想するだろうが、それが全てではない。『メイドインアビス』ではヴエコとイルミューイの間に親子としての親愛が芽生えていく過程が描かれていった。親を想う気持ち、子を思う気持ち、これも愛の物語だ。その強烈な想いが、登場人物達の行動と心情を繋ぎ止め、行動する根拠にし、最終的には感動的なドラマへと昇華させていった。どうしてそれができたのかというと、「愛」をメインテーマに置いていたからだ。

「愛ですよ、愛」

 物語はやはり「愛」に集約させていったほうがいい……絶対に、とは言わないが。「愛」をテーマに置いた方が、物語はビビッドに輝き出す。「愛」を主軸に置けば、『メイドインアビス』のヴエコとイルミューイの関係のように、どこまでも清らかな「想い合う」物語も描けるし、ボンドルドの狂気的な博愛にも根拠を見いだすことができる。
 すでに書いたように、「愛」を物語の主軸に置けば、日常世界では体験し得ない強烈な感情を描き出すことができて、その感情の高みへと読者を連れて行くことができる。それこそ、物語が本来目指すべきものだったのではないか――。『メイドインアビス』が描いた『愛』の物語を見て、そう考えるのだった。
 愛には多様な形がある。今の時代はキャラクターやアイドルに対する愛というものもあって、それももはや普遍的なものかな……という気がする。余談ながらキャラクターやアイドルへの愛というのは、かつて「主従の忠義心」といったものが日本にはあったのだが、そういったものの変形ではないかな、という気がしている。
 本題に戻るが、現代人はいつの間にここまでおおらかに愛を語るようになったのだろう。いつの間にそういった時代に入っていたのだろう。そういえば漫画もアニメも、よくよく振り返ればどの作品もためらうことなくみんな愛を語っていた。
(長らくひきこもり生活をやっていたから、時代の変化に気付けなかったのかも……)

 そんな時代とはいえ、疑似とはいえ、親子の愛をどこまでも深く、美しく描き込んだ『メイドンアビス 烈日黄金郷』。第6層という闇の底でも輝く人間主義をまざまざと描いた。誰もがやや後ろ向きながらも愛を語る時代――そういう時代にあって、いつの間にか『メイドインアビス』はその最先端を突き進んでいた。

 閑話休題。
 ふと気付いたけど、ファプタは『もののけ姫』のサンに似ているところがある。見た目もどこか似ていて、サンは白い毛皮を身につけていて、赤がワンポイントカラーになっている。
 サンは実の母ではないがモローから戦いの意思を引き継ぎ、人間をどこまでも憎んでいる。太古の森には獣というより「神」と呼ぶべき存在がいて、その神はあまりにも圧倒的な存在なので人間にはどうにもならない。『もののけ姫』の世界では人間はまだ「地上最弱の存在」のままなのだ。そんな世界で、エボシは森の神を殺し、人間世界を地上に広げようと画策する……。
 『メイドインアビス』を見ていたとき、『もののけ姫』と似ているとは考えなかったが、見終わった後しばらくして、ふとそういえばキャラクターもお話の構造も似ている……ということに気付いた。サンとファプタは、似たような動機で人間達に戦いを挑んでいた。
 ただ『もののけ姫』には恐ろしく複雑な構造と、どうにも決着を付けがたい結末があるだけで、そこに「愛」の物語はない。今にして思えば、そこが欠けているから『もののけ姫』という物語に感情移入しづらい……ということに気付く。『メイドインアビス』と『もののけ姫』の一番の違いはそこかも知れない。

 あとはやはりデザインの良さ。本感想でも『メイドインアビス』のデザインの良さについて語ったのだけど、まだ語り切れていないものがあるような気がするので、捕捉しておこう。
 まずヴエコの被っている帽子だ。私はこんな妙な形の帽子なんて見たことがない。ナナチが被っている兜もそうだ。『メイドインアビス』には現実には存在しないスタイルのデザインが次々と登場してくる。そこが良い。
 『メイドインアビス』はファンタジー作品だ。現実とあまりにも似ていたら、それはそれでおかしなことになる。この世界観は、果たして現実世界といかなる繋がりのある世界観なのだろうか……と考えてしまう。ファンタジーであるからには、私たちの知らない感性のデザインがそこに存在していた方がいい。この物語世界にも、もしかしたら「有名デザイナー」に相当する人がいて、その人がその世界におけるスタイルを決めていったんだ……そう感じられる世界観であったほうがいい。『メイドインアビス』はそれを実現している作品だ。

 でも実はなんとなく現実世界のものと似たデザインは存在する。例えばリコの探検服。昔テレビで見た、「秘境探検隊」が身につけていた衣装によく似ている。あえて似たものを持ってきて、「そういうお話ですよ」と知らせようとしてくれているのだろう。
 あまりにも現実から遠ざかりすぎると現実感を得にくいが、現実に近すぎるとファンタジーとしての風合いを喪う……。この感覚が全編において絶妙。よくできている。

 現実にあるもの、ないものをいくつも取り入れて、そのうえで一回1人の人間のフィルターを通してアウトプットされている。そこでなんともいえない驚くべきものが現れてくる。もしもファンタジー世界観が現実にあるものをただ置き換えられただけのものだったら、それはそこまで魅力的な世界観とは言えないだろう。どこか現実世界を再コラージュしただけ……という印象がつきまとい、その世界観に創造性を見出すことはできないだろう((そのコラージュのやり方があまりにも独創的だったら、それはそれで魅力が現れてくるが)。
 ファンタジーを作るためには、何か一つ二つ飛躍させた要素が必要だ。そこで『メイドインアビス』は飛躍したデザインだらけ。具体的に画面を見てみよう。

 アビスの風景、そこに住む恐ろしい原生生物、成れ果ての姿……。似たようなものはどんな作品でも見たことがない。見事な独創。今の時代、ファンタジーは日々色んな人によって大量に生み出されているが、その多くは誰かが作り上げたものを借りただけ。いっそ今の時代、独創的なファンタジーを生み出している作品は『メイドインアビス』ただ一つだけ……と言ってもいいくらいだ。
 この作品にはあらゆる奇妙なものが登場してくるが、やはりつくしあきひと卿という一流デザイナーの感性がフィルターとして通っていること。一つの世界観の物語だから、やはり一貫性が必要だが、そこにつくしあきひと卿のデザイナーとしての感性が強い芯になっている。これが優れた感性だから、どのデザインも美しい。造形物として、側に置いていたくなる出来の良さがある。現実世界にないものであるのに関わらず、デザインとしての圧倒的な強さを持っている。だからこそこの作品は強いと言えてしまう。

 もう一つ、取り上げなければならないのは、表現が徹頭徹尾「漫画」だったこと。
 本感想文では、もしもこの世界観でリアリティのみを追求させたらきっと見ていられない……というふうに書いたが、あれはちょっと書き方を間違えたな……と。訂正ではないけど、ちょっと違う視点から捉え直してみよう。

 漫画的……とはどういうことか、というと対象を「省略」し、「象徴化」し、「凝縮」した表現のことである。対象を省略し、象徴化し、特徴を凝縮することによって、カリカチュアされた風刺漫画風の絵というものが出てくる。漫画の絵というのは、キャラクターも背景も、小道具も、すべて省略され象徴化されたものをいくつも並べて構成したものである。
 こうした漫画的に表現された世界であれば、飛躍したイメージをポンと放り込んでも成立させることができる。ギャグ漫画の世界では、現実ではあり得ないような飛躍がいくつも放り込まれる。現実世界だったら芸人でも演じきれないようなバカみたいな行動を、漫画であれば当たり前のようにやってのけることができる。そういう「飛躍」を取り込めるのも漫画の優位性だ。
 もしも情報量のコントロールが難しい実写でギャグ漫画的な表現をやろうとしても、うまくいかないか、「無理した」ような表現になるか、とにかくも表現として未完成になってしまう。表現として完璧に成立させられるのが漫画の特権だ。
 漫画は情報量も、どの程度象徴化するのか、ということも自在のコントロールできるから、より多様な表現が可能なメディアであるといえる。

 ただし、ここから難しい問題が出てくる。漫画は対象を省略し、象徴化したメディアであるから、生々しい表現とは相性が悪い。生々しい表現をするときは、漫画の省略と象徴化を一旦ゆるめなければならない。しかし漫画の象徴化のレベルを自在にコントロールできる作家……というのは漫画の世界でも少数しかいない。
(現代では、はじめから「漫画家になるため」に絵の修行をしてしまうので、こういった場合の「抽象度」を上げたり下げたり……という表現法を学んでいる人が少ない。いっそ抽象度の高い可愛いキャラクターしか描けない……そんな漫画作家も多い)
 すると何が問題になるのか……というと作家の画力問題。抽象度の違う絵を一つの絵の中で成立させること。これが非常に難しい。

 うまい作家ももちろんたくさんいる。例えば『エヴァンゲリオン』という作品の中で、巨大化した綾波レイの生首が転がっている場面があったのだが、キャラクターのシルエットはアニメらしい抽象化されたラインで描かれていたのだが、ちらと見える歯だけがやたらとリアルに描かれていた。この「歯」という要素だけで、絵が出てきた瞬間、ゾッとするような生々しさが現れてくる。あの表現はうまい。
 『メイドインアビス』のイルブルには成れ果てた人たちが登場してきた。そのデザインの良さに私は驚いた。どのキャラクターたちもよく描けている。デタラメにポンと出した感じがしない。私は「ポケモンみたいだ……」と感想文に書いたのだが、そう感じさせるほど、キャラクター1つ1つのデザインがしっかりしていた。
 昔のアニメだが『幽遊白書』という作品があって、魔界へ行く展開があって、そこに群がり集まる魔界の住人達が描写されたのだが……これが見たまんまデタラメな絵にしか見えなかった。
 そうはいっても、あれでも原画マンが頑張って描いた絵だ。あれだけのキャラクターを、一つの画面に書き込む……これだけでいかに大変な作業か。しかしある一定以上絵が上手い人であっても、あれだけの数の「空想の住人」をポンと描けるか……というと別問題だ。ああいった描写に説得力を持たせる、なんてことは世のほとんどのデザイナーでもできないような話だ。
 『メイドインアビス』はそれをやりきっていたから凄かった。

 それに省略と象徴化されたキャラクターと生々しさの同居。『メイドインアビス』は見た目が非常に可愛らしいキャラクターで表現されているが、しかし一方で生々しさと隣り合わせだ。

 本当言うと、ヴエコの歯が抜け落ちるところ、歯の形をもっとしっかり描写して欲しかった……。歯が歯茎から抜け落ちるとき、あんな形しないでしょ。
 という余談はさておき。
 可愛いキャラクターがある時、ぐちゃっと崩れて生々しさが表れてくる。この時、一つのキャラクターの中で情報量と抽象度のコントロールをしなければならない。これが非常にうまくいっている。
 どうやったらあんな表現が描けるのか……というと抽象度を上げた絵と抽象度の下げた絵の両方が描けて、その両方を一つのキャラクターの中に違和感なくシームレスに繋げる……というテクニックが必要となる。こんなのはもちろん私にもできない。
 どうやったら描けるのか……というと当たり前だがあらかじめ両方の画風が描けること、が必須となる。つくしあきひと卿は単に可愛いキャラクターが描けるだけの人……ではない。可愛いキャラクターを描いている人は、可愛いキャラクターしか描けない……というタイプも多いが、つくしあきひと卿はそのタイプではない。

 もう一つ、本題から離れる話になるが、やはり「実写で再現できない」……ということが「表現の強さ」を推し量る基準になるんじゃないか……という気がしている。
 例えば新海誠監督の『君の名は』はハリウッド映画でのリメイクが決定している。ということは、あの作品で描かれたものは実写で置き換えられる……と判断されたためだ。おそらく、うまく表現すれば実現可能だろう。
 ただ新海誠が描き出す、背景画のあの官能性は実写の世界では現れてこないだろう……というのは今の段階では言える。新海誠が舞台にする風景というのは、言ってしまえばどこにでもある日本の風景だ。だが新海誠のフィルターを通すと、なんともいえない官能が立ち上がってくる。実際の映画と同じ場所へ行って、写真を撮ってきても、アニメ中の風景とはまったく違う風景になってしまう。実際、聖地巡礼に行った人の写真を見たことがあるが、申し訳ないがファンが撮った写真には映画の中で見たような官能は現れていなかった。写真では再現できないものなのだ。新海誠の作品が実写になっても、再現しきれないものはすでにわかっている。あの絵の風合いはどうやっても出てこないだろう。
 それでもストーリーだけなら実写で再現可能と判断されたのはちょっと悔しくもある。
 その一方で、宮崎駿監督作品は世界中であれだけ支持者がいるのにもかかわらず、今のところハリウッドリメイクの話は一本も出ていない。宮崎駿監督作品は、もちろんハリウッド内でも信奉者は山ほどいる。にも関わらず、誰も「宮崎作品をハリウッドリメイクだ!」と言わない。そもそも宮崎駿が実写化を許可しない……というのもあるのだろうけど、許可する・しない以前に、宮崎駿監督がアニメの中で描いた表現は、「実写で再現するのは無理だろう」と誰もが思っているからだ。やろうとしても、きっと無理が生じてしまう。CGを使いまくったところで劣化表現にしかならない。それをやる前からわかっていうから誰もハリウッドリメイクなんて言わない。それは「ストーリーだけなら」という話ではなく、表現もあまりにも魅力的で、あまりにも完成しているから、誰も言わないのだ。
 ということは、宮崎駿監督のアニメ作品は、実写を超えているといえる。なぜそれができたのかというと、漫画だからで、その漫画表現をとことん突き詰めているから。漫画表現は突き詰めれば実写を超える……という証明のようなお話だ。
(荒木飛呂彦の漫画も、実写で再現不能のもの。もしも実写で表現すると……それは実際の実写映画で証明されてしまった。「まあ、ああなるわな」という内容だった)
 そこで『メイドインアビス』という作品について考えると、この作品は永久に実写化されないだろう。どんなに人気が高まってもないだろう。誰が見ても「そりゃ不可能だ」というのが見てわかるからだ。
 まずいって、それくらいに漫画の表現として完成している。それに第5層以降の生々しい描写を実写でやると、ただただグロいだけの画面になってしまう。とてもじゃないが、見ていられない。漫画であるから、あのグロテスクさがマイルドになっている。実写化する・しない以前にできない。できないからこそ、漫画は実写の表現に勝利することができる。

リコが笛を吹いた後、光る波動が周囲に広がる。たぶんこの波動は、劇中の登場キャラクターたちの目には見えていない。実際には見えてないものを表現しよう……という意思で描写されたもの。なにもかもを「リアルに描こう」と考えたら、この表現は出てこない。
異様な形相のファプタ。これも「リアルに」考えるとおかしな描写。いくら怒りで逆上していたところで、瞳がこんなふうになるはずはない。あくまでも「表現」。リアルさを重視してのではなく、漫画的なものを目指したからこそ出てきた表現。
凄まじい怒りの表現から、すっとこの表現へと移り変わる。キャラクターの線や影の量を減らして、すっきりした顔に見せている。これもリアルさを志向すると出てこない表現。リアルさにこだわったら、どのシーンも同じディテールで表現されるはずだからだ。実写にすると抽象度のコントロールができず、全てのものを「リアルに描くこと」しかできなくなるから、こういった表現は生まれることはない。

 『メイドインアビス』は中心になっているキャラクターがあまりにも可愛いから勘違いしやすいが、それを作っているスタッフは滅茶苦茶にスキルが高い。業界随一のメンバーが集まっている。
 そもそも制作会社キネマシトラスはプロダクションIGから派生して2000年に結成された会社だ。プロダクションIGといえば、押井守監督作品で知られるように、徹底した表現主義で知られるアニメ制作会社だ。その系譜を継いでいるし、第1期キャラクターデザインには黄瀬和哉が勤めている。ご存じ『パトレイバー2』『GHOST IN THE SHELL』といった作品で作画監督を務めた、日本を代表するアニメーターだ(さらに第1期第1話の作画監督も務める)。第2期からは黒田結花にバトンタッチされているが、この人選は黄瀬和哉による指名だったとか……。黒田結花について調べても何も出てこないが、黄瀬和哉の指名というから相当の実力者だろう。
 美術監督の増山修は以前にも取り上げたように、スタジオジブリ出身の実力者。デザインリーダーの高倉武史は『宇宙戦艦ヤマト2202』『コードギアス』といった作品ではメカデザイン、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』ではデザインワークスを務めた。プロップデザインの沙倉拓実も『コードギアス』や『ガンダム Gのレコンキスタ』といった作品でメカデザインやコンセプトデザインを提供している。業界的に見ても、とんでもないメンバーが揃って作られた作品が『メイドインアビス』だ。
 このメンバーでプロダクションIG的なリアルな世界観ではなく、本気で「漫画」の世界を作り上げたらどうなるか……。それが『メイドインアビス』だ。日本を代表するレベルの画力の持ち主が、省略され象徴化された漫画の世界を本気で描いたらどうなるか……その実例が『メイドインアビス』だ。これだけの実力者が揃ったから、あの描写が実現できた……といってもいい。実際の作品によって、その凄みを見せつけてもらえたような気分になれる。『メイドインアビス』は漫画表現のある種の到達点ともいえる作品だった。

 リコとレグの冒険はこの後どうなっていくのだろうか。第6層からさらに深いところへ潜っていくことになるのだが、そこは本来、人が死んで魂だけになって行くような場所……。「冥界」である。アビス信仰によれば人は死ぬと魂だけがアビスの底へ沈んでいき、やがて地上に戻って新しい命として生まれるという。そんな魂が沈んで集まっていく場所に行くことになる。それはつまり、どういったことなのか。そんな風景をどうやって「視覚化」していくのか。天才・つくしあきひと卿がどのようなイメージを作るのか、楽しみでならない。

 とはいえ、リコやレグたちの冒険の続きはいつアニメで描かれるのだろう……。ファプタは本当についてこないのだろうか。
 原作はまだ11巻。まだイルブルの物語を終えた直後だ。早く続きをアニメで見たいが……それは数年後だ。

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