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2022年夏アニメ感想 メイドインアビス 烈日の黄金郷

 アニメーションでリコとレグの冒険が始まったのは2017年。最初のテレビシリーズで第5層まで進行し、そこで一旦中断。2020年の劇場版で冒険は再開され、ボンドルドとの戦いを終えて、いよいよ第6層へ――というところで冒険は中断されていた。第2期『メイドインアビス 烈日の黄金郷』は劇場版の直後から物語が始まる。


 劇場版の最後がポッドに飛び込んだところで終わっていた。『烈日の黄金郷』はあの直後のシーンから始まる。


 ポッドの中でうんち💩をひねり出す一時があって……。


 辿り着いたそこは――今までのアビスとは違う風景だった。


 イルブルに到着したらまたうんち💩。うんち💩の話題に事欠かない作品だった。

 第2期の物語を見ていこう。
 第5層までのアビスには険しい原生林が茂っていたが、第6層に入ると不思議なくらいに人工物の痕跡があちこちに残されている。地面は石畳がずーっと敷かれているし、建築物の痕跡も多い。しかし住民達の姿はなく、文明の跡は今や凶悪な獣たちの住処となっている。
 リコ達はいつもの調子でとりあえずの食料を確保して、その日は眠りについたが、目を覚ますと白笛《プルシュカ》がない。寝ている間に何者かが入り込んで、盗んでいったのだ。
 その何者かが残していった痕跡を辿っていくと、リコ達は不思議な場所へとやってくる。そこは成れ果て達が集まって住む場所――イルブルと呼ばれる場所だった。
 そこに住む人々は、みんなかつて探掘家だった人たちだった。第6層へのラストダイブ――還らずの旅に挑戦した人たちが最後の安息地にした場所だった。イルブルにいれば凶悪な原生動物に襲われる心配はなく、上昇負荷の呪いがかかる心配もなく、寿命も解除されて永遠の安寧の時を生きていける……。
 だがそんな場所を破壊したいと願う1人の生き物がいた。ファプタ。イルブルの人々はファプタを「不滅の価値を持つ姫」と呼んで崇めていた。


 物語は過去へ遡っていく……。
 ガンジャ隊と呼ばれる人達がいた。ガンジャ隊の人々は帰る場所がなく、行く場所もない、地上に生きる場所のない人たちが集まってできた旅の一団だった。ガンジャ隊の人たちはヴエコが持っていた「星の羅針盤」に導かれて、謎の大穴《アビス》を発見し、その底を目指して探検を開始した。まだアビスの淵にオースの街などが築かれる以前のお話である。
 ガンジャ隊たちは幾多の犠牲を出しながら、とうとう第6層へ行き着いた。
 しかしそこは理不尽なまでの凶悪な原生生物がひしめく場所。帰ろうとしても上昇負荷の呪いで帰ることすらできない。ガンジャ隊達は帰還を諦めて、そこに拠点を築くことにした。
 間もなく水を確保し、長期間定住の用意を整える。
 しばらくは順調に思えたが……隊員達が謎の不調を訴えて倒れる。原因は水だった。それは水ではなく、寄生生物。飲んだ対象に寄生し、姿を変えさせ、後に自分の養分にさせてしまう生き物だった。この水は“ミズモドキ”と呼ばれるようになる。
 他に水を確保できる場所もなく、寄生生物とわかっていても飲まなくてはならない状況に陥ってしまう。そうしているうちに隊員達は次々に倒れ、別の何者かに姿を変えようとしていた。
 そんな最中《欲望の揺籃》と呼ばれる謎の遺物を発見する。それは持ち主の願いを叶えるというアイテムだった。ただしそれは子供が持たないと効果を持たないという。ガンジャ隊達は一縷の望みを託し、最年少だったイルミューイに《欲望の揺籃》を与えるのだった。


 《欲望の揺籃》によって回復したイルミューイだったが、しかしその姿は次第に異形に変わっていき、間もなく「子供」を産み落とすようになった。「子供を産めない体」ゆえに一族から追放されてしまったイルミューイ。そんなイルミューイが心から願っていたのは「子供が産める体」だった。
 だがその子供はたった一日のうちに死んでしまう。翌日にはイルミューイは新しい子供を産み、その日のうちに子供は死んでしまい、また翌日には新しい子供を産み落とす……。新しい地獄の始まりだった。
 結局ミズモドキに毒されたガンジャ隊達を救う手立てにならず、いよいよ全滅……というとき、隊長のワズキャンはどこからともなく、謎の食べ物を持ってくるのだった。
 その謎の食べ物とは、イルミューイが毎日産み落とす子供だった。ガンジャ隊達はようやく安全な食料を確保ができて、しかもその食べ物によってミズモドキを体内から退けることもできた。
 ただその代わり、「イルミューイの子供を取り上げる」という罪悪感を抱えることとなってしまう。


 『メイドインアビス』の独創性はその物語の中で描かれるイメージの全てが、原作者:つくしあきひと卿の想像力で作られているというところにある。世にあるほとんどのファンタジーは誰かの“借り物”で作られている。エルフやオークといったキャラクターたちはトールキン先生が生み出したものだし、ファンタジーふうの世界観や社会観は『D&D』をはじめとする作品の中から生み出されたもの。世にある「ファンタジー作品」の99%くらいはあまり「創造的」な作品といえず、“偉大なる創造主”の掌の上で戯れているだけに過ぎない。
 そんななか、『メイドインアビス』は異端にして独創の作品である。過去のどのファンタジーにも似ていない。私たちのまったく知らない社会観、知らない生物、見たことのない風景……。
 それも、ただ「イメージが格好いい」だけの作品ではない。そういうのは『ファイナルファンタジー』あたりでいくらでもある。ただ雰囲気だけではなく、そこに架空の生態系を生み出していること。生態系があって、その風景がある……という構造が生み出されている。植物の陰で暮らしている生物、それを捕食する生物、さらにそれを獲物とする生物……これらを創造するところから作り上げているから、風景がただの風景ではなく、それら全てが生きているもののような実感を与えてくれる。これこそまさに「創造」といえる創造をやってくれているのがこの作品だ。
 ファンタジーとは、いつしか「ファンタジーの定番をなぞること(偏差値の高いファンタジーを作ること)」をファンタジーの物語を作ることと思われてきたが、実際にはこういうものをファンタジーと呼ぶべきなのである。
 そんな架空の風景の架空の生物種の中に人間が立ち入っていく……それが『メイドインアビス』の物語だ。そこでまざまざと見せつけられるのは――人間の「弱さ」である。

 人類が文明を生み出す以前の話――。人類は「地上最弱」の存在だった。10万年前のアフリカにいた頃の人類は、周囲の獣たちに怯えながら、他の肉食獣が狩り取って食い残した肉を貪って、どうにか生きているような生き物だった。
 人類は弱い。肉体的な強度はどんな生物よりも劣るし、視覚聴覚臭覚といった感性もどの生物にも劣るし、身軽さについても人類とよく似た種であるお猿とも比較にならない。ただただ大きすぎる脳みそを抱えて、その脳みそを支えるためにフラフラしていたのが我らの御先祖である。
 現代人は勘違いしているが、道具を生み出しそれを武器とする以前、人類はどうにもならないくらいの最弱の存在だった。現代人は知能を持たない野生のお猿を見下しているが、ある時点までは私たちの方が見下される存在だった。
 『メイドインアビス』で見せつけられるのは、そういった時代の過酷な自然と、人類が最弱だった頃の状態だ。人類は道具と積み上げてきた知恵で自然と向き合ってきたが、もしもそういう経験のほとんどが通用しない自然とぶつかってしまったら……。『メイドインアビス』はその状況を描いている。
 しかも深界6層にもなっていくと、自然そのものがただひたすらに凶悪になっていく。どの生物も、尋常ではない生存競争を勝ち残るために、どこまでも凶暴だ。人間からしてみれば地上の条理の通用しない、悪夢のような世界だ。
 ここでは人類を守ってくる「文明の盾」などはない。「先人が残してくれた」道具もなければ、断片的な知恵があるのみ。そこに何があるのかわからず、何が起きるのかもわからない。
 さらに上昇負荷の呪いで、行ったら最後、もう帰還不能の場所である。
(ボンドルドはどうやって第6層と第5層を行ったり来たりしていたのやら……)

 ガンジャ隊達はまさにその危機に直面する。
 第6層の自然がどのように成り立っているのか、まったく知識がない。ガンジャ隊達は何も知らずに、「飲み水があった」と思ってそれを口にしてしまう。それが寄生生物だと知らずに。
 ガンジャ隊達は「水の確保」という生存するための最初の一歩に失敗してしまう。しかしその場所に水と呼べるものがないから、寄生生物だと知りつつも飲み続けなければならない。生存戦略として完全に失敗した状況に陥ってしまう。

 祈手・アンブラハンズたち。

 第5層のもっとも深い場所である「前線基地」はかつて「祭祀場」だったようだ。きっと昔の人は、ここで異形と成り果てる人に対し、祈りを捧げていたのだろう。犠牲になっていく人たちへの尊さを忘れないために。

 人はどうにもならないその時、神に「祈り」を捧げ始める。どんなに理知的で合理的な人間であっても、本当にどうしようもない局面に立たされたとき、神に祈り始める。なぜそうやって人間は「神」なるものを作り、祈りを捧げるようになったかというと、人間の認知能力は人間が思っているほど高度ではなく、人間の精神は人間が思っているほど強くもないからだ。
 人が文明を作り上げる以前、自然界の最弱の存在で、明日にも、いや今日中に死んでしまうという状態のなかで生きていたとき、人は祈ること自体に救いを求めて生きてきた。


 ガンジャ隊は食糧危機に追い込まれてしまうが、そこに思いがけない福音がもたらされる。それがイルミューイの子供。食糧確保が困難な第6層において、安全に手に入り、栄養素充分でしかも美味しい食べ物。
 しかし子供を取り上げることは、イルミューイの絶叫を毎日聞くことであった。すでに異形に成り果てたとはいえ、みんなイルミューイが可愛い子供だった頃を知っている。そんな人の子が産みだしたものを取り上げ、生きたまま屠り、食べてしまう……。その瞬間の後ろめたさは永久に消えない。地上の倫理観を崩壊させないと、やっていけないような状況だった。
 やがてガンジャ隊たちは毎日新しい命を産み落とすイルミューイの前に集まり、祈りを捧げはじめる。それはイルミューイへの申し訳なさと、子供を食べる自分たちへの後ろめたさのごまかし。作品は宗教が生まれる瞬間までも描いてしまった。
 こうして命繋ぐことはできたけれども、それは「絶望」と隣り合わせ。絶望しながら、生きていること自体に感謝して、後ろめたさをごまかしながら生存を続ける……ガンジャ隊にできることはそれが全てだった。
 もしかしたらこれが人類が文明を作り上げる以前に、世界に対して感じていたような感慨かも知れない。まさかそういった光景を、アニメを通して見ることになろうとは……。

 私は常々、「主人公が○○をしたい」形式の物語ではなく、「主人公が○○しなくてはならない」形式の物語にしたほうが良い、そのほうが「強い物語になる」と書いてきた。「主人公が○○したい」という物語の場合、それは主人公の自由意志であって、やめようと思えばいつでもやめられるし、何が起きても主人公の自己責任ということになってしまう。直面している困難に対して、対処する義務がない。
 一方、「主人公が○○しなくてはならない」形式の物語だと、主人公は状況的に追い詰められているということになる。そこでどう立ち回るかでエンタメ的な面白さが現れ、時には感動できるドラマになる。
 『メイドインアビス』のガンジャ隊が陥っている状況は「主人公が○○しなくてはならない」形式の極地だ。ガンジャ隊がアビスの底を目指したという切っ掛け自体は自由意志かも知れないが、第6層に到達した時点で帰還不能になり、しかも食糧確保に失敗してしまう。選択肢として、イルミューイの子供を食べなければならない……という状況に追い込まれる。
 イルミューイの履歴を掘り下げると、子供を埋めないために部族から排除を受けた少女だった。「子供が産めない」という身体的欠陥にコンプレックスを抱えていた。そこで《欲望の揺籃》を与えられたとき、「子供の産める体」を願った。この心理的経緯にも納得感がある。
 しかし《欲望の揺籃》はこの世界における《猿の手》。その人が望んだとおりのものは与えない。イルミューイは異形となり、子供を産めるようになったものの、自分の意思とは無関係に生み続け、しかもその子供はその日のうちに死んでしまう……。
 アビスの底で希望を願ったら、「呪い」で返ってくるのだ。そういう世界観の物語だ。
 実に度し難い。しかし物語の描き手というのはむしろ露悪的であったほうが良い。その人間において、何が「最悪」なのか、これを考え、突きつけ、その状況からいかにして脱出を図るのか……ここにこそ極上のエンタメ的な気持ちよさが現れていく。
 『メイドインアビス』は絶望に溺れていく人々の心理をどこまでも掘り下げていった。倫理観の崩壊に苦しむベラフ。同じく倫理観を崩壊させてしまい、状況を宗教的にしてしまうことでごまかしを始めるガンジャ隊。そもそも倫理観それ自体に対し無感覚になっていくワズキャン(どこかボンドルドを連想させる)。そんな地獄のような状況下で、ひたすらイルミューイへの愛を深めていくヴエコ。
 「主人公が○○しなくてはならない」形式から、他作品ではまず見られないような、極上の「感情のドラマ」を作り上げていった。描き込んでいったのは、絶望の中の「愛」の物語だった。ここまでの境地を描いたのは「主人公が○○しなくてはならない」形式をどこまでも、人間の裏も表も剥き出しになるところまで描き込んだからだった。


 やがてイルミューイはまだ意思が残っているうちに、ファプタを産み落とす。イルミューイは自分の子供を取り上げるガンジャ隊を恨み続けていた。その恨みを与えられて生まれた存在がファプタだった。そんな恨みの象徴を、イルブルの住人は「不滅の価値」と呼んで崇める。
 イルブルの住人は第6層という地獄の底で安息地を手に入れたが、そこはいつかファプタに「罰」を受けねばならない場所だった。イルブルの住人達は、自分たちに罰を与える存在を史上絶対の価値にしてしまっているわけだから。その罰が下る日とは、イルブルの人たちにとって、「後ろめたさ」が解消されるときなのかも知れない。


 『メイドインアビス』の見事だったところはやはり「デザイン力」。デザインの一つ一つがとにかくも良い。舞台は深界6層、異形が集まる場所だというのに、どのキャラクターたちにも愛嬌がある。こういった世界観だと、リアルにしようと思えばいくらでもリアルにできるし、怖い表現にしようと思えばいくらでもできる。
 しかしそういう最中であるのに『メイドインアビス』のキャラクター達は愛らしい。イルブルの変なキャラクター1人1人に感情を持って見ることができる。どうしようもない惨劇が描かれているのに、キャラクターたちが可愛いおかげで、作品自体が少し柔らかくなっているように感じられる。
 もしも欧米人が描きがちなリアルなスタイルで描かれたら、この作品の物語にそこまで感情移入できなかったんじゃないかな。リアルな映像でやられたら、途中で見るのをやめていたかも。
 それにやはり誰も見たことのない風景に、見たことのない物質をデザインに描き起こした力。よくもあんな訳のわからないものを絵として描きおせたな……というのもあるし、しかもそのどれもが格好よかったり可愛かったりする。格好よかったり可愛かったりするデザイン、というのはデザインとして合理性を持っているということでもある。もしもデザインとしてまとまりを持ってなかったら、格好いいとか可愛いといった感慨を抱くこともないはずだから。
 そんなデザインの圧倒的力が、画面の隅々まで、隙なく張り巡らされている。このデザインの力も凄まじいが、それを1枚の絵として画面に描き起こす力。才能と才能がぶつかって大爆発を起こしたからこその画面になっている。だから『メイドインアビス』の画面はずっと見ていても飽きることがない。ずっと追いかけていたくなる画面に仕上がっている。

 『メイドインアビス』を見ていてふと思うのは、ジョゼフ・コンラッドの『闇の奥』だ。
 『闇の奥』の物語は、主人公マーロウの視点から、アフリカの奥地へと旅立って戻らなくなったクルツという男について語られる。クルツはアフリカの奥地から象牙を送っていたが、しかしあるとき、それが絶えてしまった。マーロウはクルツという人物の行方を追って、アフリカの奥地を目指していくが……。
 アフリカの奥へ奥へと潜り込んでいくほどに、人間の文明は遠ざかっていく。ひたすらに過酷な自然が待ち受けている。しかしクルツはどういうわけか自らアフリカの奥地へと踏み込んでいってしまう。そこで現地人から神のように崇められる存在になっていた。
 そこには度し難い「闇の奥」があって、理性的に考えればそこに行ってはならないのはわかっている。どういうわけかクルツは、その闇の奥に魅入られ、自ら踏み込んで行ってしまう。
 ふと『メイドインアビス』と『闇の奥』には似通ったものがあるのかも知れない……という気になる。そこには人間の力ではどうにもならない過酷な自然があって、奥へ奥へ行くほどに度し難さも極まってくるのに、どういうわけかそこに魅了され、目指していく人がいる。その最奥へ行くと、あたかも文明が始まった最初期のような原始宗教の世界が広がっていて……。度し難くも魅力的な風景。まるで人間心理の奥底に隠されている闇を覗き込むような感覚である。

 ワズキャンは語る。
「君が持ってきた羅針盤。あれを見たとき、なぜかね“望郷”を感じたんだ」
「僕の感じた望郷はね、故郷を想う気持ちじゃないんだ。どんなに求めても得られなかったもの。決して帰らないもの。もうどこにも存在し得ないものへの、儚く、強い強い憧れなんだよ」

 ワズキャンは帰る場所を持たない人だった。誰からも求められていない。地上のあらゆる場所は探索され尽くしていて、そこに自分たちが新たに住めるような安息地はなかった。
 そこで見出したのはアビスの大穴だった。世界でもっとも危険な場所。文明の手の届かない野生が残る場所。それこそ「深海」のような世界だ。人間が立ち入って生きていけるような場所ではない。
 そんな場所に、ワズキャンは自分の想いを託し始める。
 ワズキャンだけではない。何人もの人たちがアビスに得体の知れない魅力を感じ、さらに下へ、さらに下へ……と自分の足を止められなくなっていく。
 そんな探掘家達の姿に、どこかクルツの姿が重なっていく。

 イルブルの人たちはみんな帰らずの旅「ラストダイブ」をした人たちだ。だからみんなどこかおかしい。そんな探掘家達がイルブルの村へやってきたとき、ふとそこが安息地であるかのような気持ちになってしまう。なぜなら、地上には自分たちの安息地はなかったから。本当に共感を持てる相手がいない。しかしイルブルには同じようにラストダイブをした無謀な冒険家達が、仲間達がいる。
 ああ、仲間だ。嬉しい……。
 しかしムーギィが語るように、夜になるとアビスのさらなる底を目指したいという欲求がわき上がってくる。ここは冒険の最終地点じゃない。こんな場所にいていいのだろうか。といっても、イルブルで異形になったら最後、もうそこから出られないのだけど。

 『メイドインアビス』は古典文学の名作である『闇の奥』を越えるかも知れない。なぜなら、深界6層以降の世界というのは「死」を越えた世界だから。『闇の奥』は人間文明が剥ぎ落ちた世界を描いたが、『メイドインアビス』のような「死」を越えた世界は描いていない。
 そもそも物語の始まりは、死んだと思った母親が残したメッセージを発見したからだった。要するに「あの世」から手紙を送ってきた。第5層から第6層の狭間には、大量の生き物の死骸があって、それを乗り越えたらいよいよ第6層……という構造になっていた。
 要するに、第6層以降は観念的には「死の世界」。もはや死の世界だから、地上の倫理観など一切通用しない。ただどこまでも尽きぬ暗黒があるだけ。
 だがそんな世界である第6層すら、この死の世界の入り口に過ぎない。さらに奥へ、奥へと潜り込んでいったとき、どんな世界観が待ち受けているのか。どんなドラマが待ち受けているのか。もしかすると、私たちの誰も見たことのない、何かを越えた物語がそこに描かれるかも知れない。それが今から期待だ。

 最後に一つ、今回の『メイドインアビス』に感じた唯一の引っ掛かりというものがあって、というのも、物語の展開があまりにもゆっくりだったこと。
 第1期シリーズの頃は、ほぼ3話おきに新しいステージ、新しいキャラクターが登場していた。新しいステージにどんどん切り替わっていくから、見た目にもどんどん新しくなっていく。
 このスピード感を見た直後に第2期「メイドインアビス」を見ると、お話の展開が緩やかに感じられる。
 といっても、面白くないわけではない。毎回体感時間が短く、本当に24分も見たのか……というくらいあっという間に終わる。あっという間に終わる、ということはそれだけ物語に実が詰まっている、ということだ。しかもイルブルを巡る物語には、それくらい語るドラマがある。1クールかけて語るだけの物語は間違いなくある。
 ただ、このスピード感でその後に起きるエピソードを一つ一つ掘り下げてしまうと、『メイドインアビス』完結までどれくらい時間が掛かってしまうんだろう……。まだ第6層の入り口の話だから、次のエピソードに入ってもまだ第6層あたりをウロウロしているかも知れない。イルブルを巡るドラマは見事だったけれども、完結までこの緊張感は果たして続いてくれるのだろうか。という以前に、アニメシリーズで完結まで描いてくれるのだろうか……。そういう心配をしてしまう。

各話感想文 第1話感想文

第12話感想文

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