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ドラマ感想 呪怨 呪われた家

!!重大なネタバレに関する記述があります!!

 Netflix版『呪怨:呪いの家』の話をする前に、私の個人的な『呪怨』の話をしよう。
 2000年に発表された初代『呪怨』であるビデオ版はそれはそれは素晴らしいものだった。オムニバス形式になっており、それぞれの人物がとある家へ行き、あるいはあの家に行った人に接触したことにより呪いを被る、というお話である。それぞれが独立したオムニバス形式となっているが、最後には呪いの本体である佐伯伽椰子が登場してクライマックスを迎える……という展開だったと思う。私の記憶で語っているので、間違いがあるかも知れない。
 しかし、その後のシリーズが良くなかった。『呪怨2』、劇場版『呪怨』と続けて観ていったのだが、どうにも表現がギャグになってしまっている。ぜんぜん怖くないどころか、あの白塗りの少年が出てくるたびに笑いがこみ上げてくる。なんでそんなところにいるんだよ、本当に怖がらせる気があるのか、と笑わせようとしているんじゃないかと勘ぐってしまう内容だった。

 ホラーを作る上で難しいポイントの一つ。
「ホラーとギャグは紙一重」
 ホラー表現は一歩間違えればギャグになる。幽霊を登場させるタイミングを一つ誤ると、笑いになってしまう。これが難しいところで、では「どこからがホラーでどこからがギャグになるのか」が明確に提示することが難しい。私もそれなりにホラーを見てきたほうだが、ホラーとギャグの境界線がどこにあるのかよくわからない。
 恐怖漫画の巨匠・楳図かずお先生によると「追われる側で描くとホラーになり、追う側で描くとギャグになる」と語る。なるほど見ている側の気持ちが「追われる側」にならないとホラーにならないのかも知れない。これも一つの定義として心得ていたほうが良いかも知れない。
 ただとにかくも初代『呪怨』以後の作品はどれもギャグにしか見えなかった。あるとき、知人が劇場版『呪怨』を見たけれどあまりにもつまなくて……と話を聞かされたが、しかしここで初代『呪怨』を勧めるわけにもいかなかった。すでに作品の傾向というか手法のようなものを知った状態だと、いくら初代『呪怨』が良かったと言っても、もう「追われる側」の気持ちにはなれない。ホラーの難しさは「一回限り」というものもあり、一回その作品の傾向や手法を理解してしまうといくら頑張っても作品から怖さを感じることがなくなってしまう。人は同じ幽霊を怖がることはできないのだ。
 幽霊や悪霊を、あるいは惨劇をこれみよがしに列挙すれば観客は怖がってくれるだろう……といったら実はそうはならない。反対に白けてしまうだけだったりする。惨劇が次から次へと描かれると、次第に刺激に対して無感覚状態に陥り、次の惨劇が来ても「ああ、ハイハイ」くらいの気持ちになってしまう。ホラー表現も過剰に描けば怖さではなく「またか」と呆れてしまうか、笑ってしまうかしかない。
 同時代のホラー2大巨頭の片割れ、貞子も最初は面白かったが、以降はホラーではなくギャグだった。いつだったかテレビで貞子シリーズの何かを見たのだが、「ホラーっぽい雰囲気」だけで中身のない映画だった。かつてホラーだったもののなれはてでしかなかった。それでもどうしても楽しもうと思えば、ギャグ映画として接するしかなかった。

 そんな時に『呪怨』がNetflixドラマとして制作される、という話を聞いた。
 ……大丈夫だろうか。ギャグドラマになっているだけじゃないだろうか。確かに初代『呪怨』は楽しかったけれども、あの作品も20年も昔。あの呪いの家も佐伯伽椰子も使い古された表現でしかない。人は同じ幽霊を怖がることはできないのだ。今からあの作品をドラマにしたところで楽しめるのだろうか――と疑いながらの視聴だった。

呪怨Netflixドラマ イメージ

 さてNetflixドラマ版『呪怨』。始まりは1988年だ。
 お話は初代『呪怨』にならって複数の登場人物が登場し、まったく別の機会、別のタイミングであの家に触れるところから始まる。それでそれぞれで呪いを受け、悲劇を被るという展開が描かれる。
 始まりが1988年というところがまず「おや?」と引っ掛かるポイントだ。つまりこれは、まだ佐伯伽椰子が登場する前の話だ。佐伯伽椰子のエピソードはこの因縁深い呪いの家の最後のほうに出てきた怪異に過ぎず、実はその以前にもっともっと根深い物語があったんだ……それを語るのがNetflix版『呪怨』の物語であり、趣旨。ある種の『エピソード0』を改めて語ろう、というのがコンセプトだ。

 1988年のエピソードでは2組の人物が呪いの家を訪れる。はじめの1組は女子高生の河合聖実とその悪友達。近くに空き家があってそこに猫が集まるようだから様子を見に行ってみよう、と。
 もうひと組は深沢哲也だ。深沢は近く結婚を考えていて、二人で住む家を探している過程で、あの家に立ち入ってしまった……という経緯だ。
 河合も深沢も行った直後から奇怪な現象に見舞われ、少しずつ呪いに蝕まれていく。
 転落していく二人のもう一方で心霊研究家の小田島泰男の物語も少しずつ描かれる。なにか子細がありそうではあるが、本人にとってもまだ「なぜ呪われた家に興味を持つのか」その動機を自覚できずにいる。小田島はすぐには物語の核心部には来ないが、この小田島の存在が次から次へと惨劇が起きて脱落していく人々の中で、物語を連なったものにしてくれている。

 幽霊表現について。
 呪いの家へ行くと、じわじわと幽霊の存在が映像のそこかしこに現れるようになってくる。見せ方としては近くに寄るときは必ず足下から。扉を開けたりといった動作が入るときは手元を。全身を見せるときはロングサイズになり、必ずピントを外す。
 動きはゆっくりとゆっくりと。すり足で足音を聞かせていく。そうした最中、驚き、怯える人の顔を何度も捉える。
 実にセオリー通り。教科書通りの幽霊表現だ。Netflixドラマ『呪怨』において特段驚くような幽霊表現は見当たらない。このドラマの中で20年前に確立された幽霊表現がアップデートされているということはない。

 ここでホラーを制作する上でのもう一つのポイント。
「ホラーを制作するのは簡単だが、難しい」
 ホラーっぽい雰囲気の物を作るのは私でもできる。これを読んでいるあなたにでもできる。簡単なんだ。たぶん、簡単で安く作れ(そしてそこそこ安定して儲けられ)るからこそ、ハリウッドはホラー映画だけはあんなに何本も似たような物から定番シリーズものから次から次へと作るんだろうと思う。
 ホラー映画っぽいものなら誰でも作れる。でもオリジンを作れるか、というと全く話は違ってくる。『13日の金曜日』のジェイソンをゼロから作れるか、あるいはゾンビのようなキャラクターをノーヒントで生み出せるか、という話だ。これは超絶的に難しい。誰にでもできるものではない。
 貞子と伽椰子も2000年初頭に産み落とされた怪異だが、あれから20年、貞子と伽椰子に変わるホラー映画の定番キャラクターは誰も創造していない。20年間、当然ながら様々なホラーが作られたのにも関わらず誰も新しいキャラクターを生み出せなかった、ということは、それだけ難しいということだ。
 新しい幽霊表現、恐怖表現の手法が発見されるまで、多くのホラーは前景となる何かを模倣し、「ホラー映画っぽいもの」を作り続ける。

 Netflixドラマ『呪怨』に話を戻そう。ドラマ版『呪怨』は恐怖映像に関しては特にこれといって特筆することはない。というか、終始“同じこと”をし続けているだけだ。上に挙げたような幽霊の見せ方に、あと幽霊はいつも何かしらを両手に抱えていて、訪れるものにそれを差し出そうとする……。これを繰り返しているだけに過ぎない。
 幽霊表現の心得として良かったポイントは、過剰にやらないこと。実はこの幽霊、作中思ったほど登場してこない。たまに出てきて、すり足で寄ってきて、両手に抱えている何かを渡そうとする。同じことの繰り返しだが、いい感じのキーになるポイントだけに出てきてアクションを起こすから、ほどよく“不気味な印象”だけで終わってくれている。ギャグっぽい雰囲気には陥っていない。
 もう一つ別のポイントがあるとしたら、幽霊が明らかに佐伯伽椰子ではないことだ。ドラマ版『呪怨』は佐伯伽椰子のお話ではなく、佐伯一家が移住してくるよりもさらに前のお話だ、ということがわかる。

 どちらかといえばドラマが重点を置いているのは、呪いに蝕まれた人間がいかにして転落していくのか。そこになんともいえない人間の業のようなものを描き出そうとする。
 第1話で呪いの家に訪れる河合聖実は、実はその後、かなりの長期間生存する。生存期間は作中非常に長い。生存するがその後の人生はどん底もどん底。あの時一緒にいた不良男性と夫婦になって子供を作るが、仕事は底辺中の底辺(まあ私も似たような人生歩んでますけども・笑)。男の暴力で子供が意識不明になったのを切っ掛けに、女は売春で食いつなぐ生活を始める。
 その合間に奇怪な、幽霊映像がちらちらと挟まってきて、一見するとどん底へ“墜ちた”女のお話だけど、それがただのどん底人生のお話ではなく、幽霊による呪いのものだというのをどこかしらで感じさせようとする。だから「幽霊映像が怖い」お話というよりも、どん底へ、どこまで転落していく人々の人生話のほうが怖いと感じさせる。
 実際、現実にいるかどうかわからない幽霊の恐怖よりも、どん底人生へ転落していく人間のほうが生々しくて怖かったりする。ドラマ版『呪怨』はそちらのほうに降っているように感じられるし、そのどん底人生の生々しさになんともいえない不気味さが貼り付いているように感じられて非常に良い。

 そうこうしているうちに、あの呪いの家は解体されることなく、何年か後、別の夫婦が住み始めるようになる。そしてあの幽霊が現れ、平穏穏やかな夫婦は次第に壊れていく。また繰り返しである。
 このあたりでふと気付くことだが、『呪怨』の物語は夫婦間に起きるある種の普遍的は不和を描いているように感じられる。まず夫は身ごもった子供が自分の子供かわからない、という不信感。あの家に住んだ夫婦は決まって似たような転落を迎える。夫が妻の大きくなった腹を包丁で引き裂いて、そこに何があるのか確かめようとする。
 そこに入っている子供は本当に俺の子供なのか? この不信は現代に入って始めて起きた心理ではなく、普遍的な、それこそ人類が歴史を作る前からあった男の心理である。だから男は、妻となる女性を独占し、他の男性と性交しないよう注意深く遠ざけ、もしかしたら結婚の制度はその不安を解消させるために生まれたものかも知れない。
 立ち入ったとき女子高生であった河合聖美は最初の段階では子供を身ごもっていなかったが、この後子供を身ごもるようになり、夫は「こいつ本当に俺の子か?」と疑い続ける。
 一方の女は自分の子供がどこへ行ったか、探し求め続けている。あの幽霊はいつも何か両手に抱えて差し出そうとするが、そこに赤ちゃんの姿はない。「私の赤ちゃんはどこ?」があの幽霊が抱えているテーマかも知れない。このあたりは明確に語られることはないが。
 ここからがホラーものらしい味付け。男は妻の腹を引き裂くが、そこには何も入っていない。恐慌状態に陥った男はとにかくも裂いた腹を塞ごうと、そこにあった電話機を突っ込んでしまう。これを映像として描いてしまう異様さとグロテスクさ。
 電話機はこの物語で何度も繰り返し使われるモチーフだ。でもなんで電話機なんだろう……? 電話機はどこと繋がっているかわからない……というところから来ているのだろうか。その先は近所の知り合いの家かも知れないし、霊界かも知れない……。電話機の意図はよくわからなかった。

 この中で実は呪いの家に入って、呪いを被らない人、というのが何人か登場している。例えば呪いの家を取り扱っている不動産屋だ。不動産屋のおじさんは何度も呪いの家に立ち入っている、と語るが呪いの類いを受けたことはないと語る。
 それはもしかすると、身ごもった妻の子供が本当に俺の子供なのか、といった不信の時代をとっくの昔に通り過ぎたからじゃないだろうか。
 後半、小田島もようやく呪いの家へと立ち入ることになるが、やはり呪いを被らずに済んでいる。それは小田島に子供がいないから。子供が生まれないから、じゃないだろうか。

 ところで、この物語は1988年から始まり、1994年、1995年、1997年と時代をまたいで描かれる。
 1988年は「女子高生コンクリート詰め殺人事件」。作中、「M」としか示されない獄中の人物が登場するが、これは宮崎勤だ(私たちにとっても因縁深い!)。「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」も1988年だ。1994年は「松本サリン事件」、翌年に「地下鉄サリン事件」。1997年は中学生が凶行に及んだ「神戸連続児童殺傷事件」が起きている。これらの事件は、作中でもニュース映像を介して描かれている。
 これらは特に物語と直接絡んできたりはしない。時代を象徴するような事件を描いただけに過ぎない。行ってしまえば“フレーバー”の部分だ。だがなかなか効果的だ。物語の不穏さにいい具合の匂い付けしてくれている。

 呪いの家の物語は後半へ行くほど、深さを増していく。どういうことかというと、それまでの出来事の積み重ねが、家の「呪いの深さ」を強めていっているように感じられるということだ。後半に入っても、物語前半に出てきて行方不明になった女子高生がふらっと現れるし、中盤入居して悲劇に遭った夫婦もその後もちらちらと出てくるようになる。そこに迷い込んだ人は一人二人ではない。何人も何人も飲み込んで、まだあの家の中に囚われている。
 中盤以降、少しずつ時間の感覚が狂うような、奇妙な描かれ方をし始める。前半に行方不明になった女子高生がちらちらと登場するのはもちろんだが、それだけではなく後に呪いの家に入居しようとする人の姿も現れるようになる。惨劇が起きたという過去の光景も、やがて訪れる未来の光景も、一つの光景の中に重なろうとしていく。
 ――そう、あの家ではずっと同じ時間が繰り返されている。同じ記憶が繰り返されている。一見奇妙に見える情景や奇妙に見える行動。みんな過去にそこで起きたかも知れない行動や情景を、不完全であるが再現しようとしているのだ。それはちょうど、ヒッチコックの『めまい』のような感じだ。幽霊に取り憑かれた人々にとって、事件再現をしているのだ。
 その上に、後に入居した人々の呪いも行動様式の中にプラスされていき、どんどんどんどん呪いの層が厚くなっていく。どんどんどんどん意味のわからない不気味な層のようなものが形成されていく。
 この物語が描かれるのは1997年までだが、この後、2000年に入りあの佐伯一家が移住することになる。ある意味、佐伯伽椰子が出現するまでの下地作りの過程を見ているのだと思っていいかも知れない。

 お話は1988年からスタートするが、最後の最後になってさらにその以前のお話に遡っていく。小田島が5歳の頃、その家に住んでいた記憶。その時に、呪いの家オリジンともいえる幽霊を目撃し、接触していたことを思い出す。これが『呪怨』の原点となる「最初の惨劇」の物語だ。
 そこで5歳の小田島は、窓を破って何者かが飛び込んできて、赤ちゃんを持ち去ってしまうのを目撃する。初代の幽霊がいつも両手に抱えているのはこれだ。「私の赤ちゃんはどこ?」――持ち去っていった女がいるのだ。その女が何者なのかは示されることはなく(もしかしたら私が気付いていないだけでちゃんと示されてたかも知れないが)。
 呪いの家の原点を突き止めたところで、『呪怨』のドラマは終わりとなっている。

 まず驚いたのは映像作りの丁寧さ。あれ? 日本の映像制作ってこんなにレベル高かったっけ? と驚くほどの丁寧な作り。たまに見かける民放ドラマがいかにレベルが低いか、レベルの低い物ばかり見せらられているか、という話だ。
(民放テレビのドラマはセット全体に均一な光を当てるからいかにもセットにしか見えないし、俳優のクローズアップばかりで話を進めてしまう。だから単調に見えてしまう)
 俳優の演技が非常に丁寧だった。中盤、呪いの家に入る夫婦のお話。妻がワインを注ぎながら「お腹の子供、あなたの子供じゃないの。私、他に好きな人がいるの」と告白し、それを聞いたときの夫の薄い微笑み。そこから惨劇に発展する映像のすさまじさ。(日本にもちゃんと芝居できる人がいたんだ……これも民放ドラマがいかにレベルが低いかという話で……)
 舞台の作り込みもいい。核となっているのはあの呪いの家だが、時代ごとの家具の変化。これが細かく細かく作り込んでいる。時代の変化や夫婦の性格の反映させ方や。どれもしっかり作っている。(黄色のリモコンなんかあったのかな? という気はしたけれど)
 河合聖美が売春をやっているアパート周辺の、掃きだめのようなほどよい汚さもなんとも言えない。あんな風景、よく見付けてきたな、と感心。
 幽霊表現はこの作品においてアップデートは見られない、と書いたものの、しかし全体においてレベルが高く、なかなかいいものを見た、という気分にさせる。ホラー表現はちょっとギャグに見えてしまう場面がちらちらあったけれども、マイナス点にはなっていない。それよりもそこに住む人間がいかにして転落していくか、そのおぞましさや生々しさにほうに振っている。おそらくそのように描いたほうが作品として正解だったんだ。
 そして最終的には佐伯伽椰子が出現する前のお話。佐伯伽椰子は2000年という時代に突然現れたのではなく、それまでの長い積み重ねの結果、佐伯伽椰子という化け物を生んだ。ドラマ版『呪怨』はエピソード0をきちんと描いた作品として、シリーズに新しい魔力を与えてくれた。余計な付け足しではなく、良い意味で『呪怨』に因縁深い「歴史」を与えた作品だ。


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