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映画感想 シェイプ・オブ・ウォーター

 クリーチャーとの性愛を本気で考えた作品。

 『シェイプ・オブ・ウォーター』は2017年のアメリカ映画。この作品でギレルモ・デル・トロ監督は第90回アカデミー賞作品賞・監督賞・作曲賞・美術賞を受賞。他にも第74回ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞、第75回ゴールデングローブ賞で監督賞と作曲賞。他にも様々な栄誉を得た。
 もともとの着想は、デル・トロ監督が子供時代に見た『大アマゾンの半魚人』。この作品の半魚人とヒロインが恋に落ちていたら……というところから着想をはじめ、リメイク映画にしようと映画会社に売り込んだが却下される。その後、改めてオリジナル映画として構想を練り直して、現在の形になる。
 制作費1950万ドル。これに対し、世界興行収入は1億9524万ドル。数々の栄誉を獲得したことからもわかるように、評価も非常に高い。映画批評集積サイトRotten tomatoでは批評家によるレビューが465件あり、肯定評価92%。オーディエンススコアが73%となっている。
 こうした大ヒット映画にありがちなこととして、作品が公開された後は、数々の「盗作疑惑」がかけられている。ピュリツァー賞を受賞した米劇作家のポール・シンデルの息子は、父親の舞台劇と類似していると裁判を起こす。他にも1962年のとあるソビエト映画の作品に似ている、という指摘。フランスの映画監督ジャン・ピエール・ジュネもこの作品について、自分の作品である『アメリ』『デリカッセン』『ロスト・チルドレン』などから盗用していると主張した。
 他にも様々な告発があった(例えば無名の学生映画からの盗用だ……とか)のだが、すべての裁判で「盗作には当たらない」という判決が出ている。そもそも様々な告発に対し、デル・トロ監督はそれらの作品を「知らない」とコメント。この件に関しては、「なんでも知っていると思うなよ」というやつだ。
 ちなみに今回視聴したのはR指定版。無修正X指定版も存在する。

 それでは前半のストーリーを見ていきましょう。


 1962年。冷戦時代のアメリカ。とある映画館の上のアパートにイライザは住んでいた。イライザは幼い頃、川辺で捨てられているところを拾われ、その時から発話障害を抱えていた。アパートの隣部屋には、画家のジャイルズが住んでいて、イライザはジャイルズの面倒を見ながら日々を過ごしていた。
 イライザはバスに乗り、仕事場へと向かう。場所は航空宇宙研究センター。イライザはこの研究施設の夜勤清掃員を務めていた。勤め先にいる唯一の友人ゼルダと交流しながら、退屈な仕事をこなしていく。
 そんなある日、研究施設に“少し変わった研究対象”が運び込まれる。それと同時に、専門の警備員であるリチャードもやってくる。
 少し変わった研究対象は頑丈な水槽に閉じ込められているのだが……イライザが覗き込むと、中の物が水槽のガラスを叩く。濁った水の中に、奇怪な姿が浮かび上がった。しかしその時は正体はわからないまま。
 その翌日も、同じように研究施設にやってきて、仕事をする。トイレ掃除をしていると、あの謎の水槽とともにやってきた警備員リチャードが入ってくる。リチャードは用を足す前に手を洗い、用を済ませた後は手を洗わなかった。
「手を洗うのが用を足す前か後かでその男がわかる。前後2回洗うのは、軟弱な男だ」
 そう言ってリチャードはトイレを出て行く。
 その後、イライザとゼルダが休憩所で食事を取ろうとしていると、研究室のフレミングがやってきて、「すぐに来てくれ」という。研究室に連れて行かれると、そこはあちこち血まみれ。これから来客があるから、20分で綺麗にしてくれ……という。
 掃除を始めると、計器類の下から何かがポロッと出てきた。――指だ。リチャードのもぎ取られた指が出てきた。
 それからイライザは、水槽の中に何かの気配を感じて覗き込む。するとその中にいたのは、半魚人だった。
 半魚人の姿に一目惚れしたイライザは、それ以降研究室にこっそり潜り込み、半魚人との静かな日々を過ごすのだった……。


 ここまでで25分。細かいところを見ていきましょう。

 主人公のイライザは、幼い頃川辺で捨てられていて、その頃から発話障害を抱えている。首にはその頃から3本の傷跡が付けられている。
 ……この描写で、勘のいい人は『アンデルセンの人魚姫』だ、と気付くでしょう。ただしイライザは、自分の人生に隠されていた運命を知らない。

 イライザは夜勤の仕事をしているのだが、仕事前の日課は、お風呂場でのオナニー。性的な欲求不満を抱えている。そのオナニーも、タイマーで時間を決めてその時間内でやっているから、欲求不満のすべてが解消されるわけではない。

 アパートのお隣さんが、ジャイルズ。下ネタも言い合えるくらい仲がいい(相手が喋れないから、一方的に下ネタ言っているだけかも知れないけど)のだが、ただの仲の良い隣人さん。それにジャイルズはゲイ。健全な関係性を築いている。

 映画館上のアパートに住んでいて、映画館で上映されている作品が1960年の映画『砂漠の女王』。
 こうやって他作品が引用される時は、本編と関連を持たせていると思って見たほうがいい。しかし『砂漠の女王』は古い作品なので、なかなか見る機会がなく……私もこの作品は知らない。
 一応のストーリーを調べると、物語の舞台は紀元前1250年。モアブという国では偶像ケモシュを崇拝していて、毎年ケモシュに生け贄を捧げることになっていた。娘ルツはもともとは生け贄に選ばれていたのだが、腕にアザがあったために失格となり、その後も生き続けていた。ルツは成長して神官となり、ある日、生け贄に使う冠を制作するために、ユダヤ人のエリメレックに制作を依頼しに行く。そこでエリメレックの息子マーロンと出会い、心惹かれる。マーロンが生け贄制度の誤りを話し、それに感化されたルツはモアブの信仰に疑いを持つようになっていく……。
 引用されているのは、この場面だと思われる。生け贄を続ける国に疑問を持つルツ。それを聞いている神官。
 『砂漠の女王』は後半にも引用されていて、その場面では半魚人が一人で映画を見ている……という場面。まさに生け贄にされようとしている半魚人と、生け贄に疑問を感じているイライザ。ここで本作と内容がリンクする。

 当時のテレビもよく引用されている。この場面では、ジャイルズがテレビを見ながら、こう言う。
「アリス・フェイだ。大スターだったが、悪口や裏切りに耐えきれず、突然引退した」
 これはジャイルズの過去について語られている。ジャイルズはとある企業に勤めてイラストレーターをやっていたが、なにかしらの悪口や裏切りがあったのだろう。しかしそれ以上は語られない。
(テレビが出てくる場面は、登場人物の「代弁」になっているので、注意深く見てみよう)


 さて、本作について、どこから掘り下げていこう。とりあえず、ここから作品を見ていこう。
 事務所に呼び出されて、二人について尋ねられる場面だ。ここでゼルダの名前が「ゼルダ・D・フラー」で、ミドルネームが「デリラ」と説明される。「デリラ」の名前が出てくる理由はなんなのだろうか?
(ゼルダの名前は『ゼルダの伝説』からかなぁ?)

レンブラント 1636年 ペリシテ人に目を潰されるサムソン

 デリラというのは旧約聖書の登場人物。旧約聖書の土師記に記されている物語だ。
 サムソンはイスラエルの英雄で、神から与えられた怪力で虐げられていたイスラエルの民を救っていた。そんなサムソンはある時、デリラという女性に恋をする。敵対国のペリシテ人はデリラを利用し、サムソンの怪力の秘密を探らせようとした。サムソンはある時、とうとう自分の怪力の秘密が髪の毛にあると教えてしまい、デリラはサムソンの髪の毛を切り、そこにペリシテの兵士達が殺到する……レンブラントが描いたのはまさにその場面。力を失ったサムソンがペリシテの兵士に捕らえられ、目を潰され、捕縛される瞬間だ。

 ではゼルダはどういう位置づけのキャラクターなのだろうか。映画を見ているとわかるが、ゼルダは喋ることができないイライザの気持ちを代弁するキャラクターとなっている。話せないイライザに対し、ゼルダは喋り続けるが、ゼルダ自身の気持ちの場合もあるが、イライザの気持ちを喋っているという場合もある。2人で1人というキャラクターになっている。

 この映画の中で、「髪がない(薄い)」人物と言えば、ジャイルズ。ジャイルズは男性としての強さを奪われた男性である。

 ゲイのジャイルズは、パイ専門のチェーン店・ディキシー・ダグへ行く時、わざわざカツラを被り、ちょっと良い服を着て行く。目当てはパイではなく、店員の男性。パイではなく店員を見て、「うまそうだろ」と言う場面もある。
 このディキシー・ダグの店の場面に入る時、「タンタロス神話」が引用される。タンタロスはギリシア神話の一つで、タンタロスはある時神々の饗宴に招待される、そこでつまみ食いをしたために、罰として“タルタロス”という奈落に落とされ、そこではすぐ側に木の実があるがどんなに手を伸ばしても決して届かず、タンタロス自身は不死になっているので永久に苦しみ続けることになる。
(※ この神話は2つのバージョンがあり、もう一つのバージョンは神々の饗宴に自身の息子ペロプスを殺してシチューとして出し、それに神が気付かずに食べてしまったから罰が下される……というものがある)
 すぐ側に欲しいものがあるのに、手を伸ばしても決して届くことのない。ジャイルズの立場を現している。

 この作品に登場するもう一人の男性、といえば半魚人とともにやってきたリチャードだ。トイレにやってきたリチャードは、これみよがしに警棒を洗面台の上に置く。言うまでもなく“男根”の象徴だ。そこにいる女性達に、男根を見せびらかしている……というシチュエーションだ。
 その後、用を足した後「手を洗うのが用を足す前か後かでその男がわかる。前後2回洗うのは、軟弱な奴だ」という名言なのか迷言なのかわからない台詞を残していく。映像をよくよく見ると、チャックを下ろしてポロリをしたあと、手を腰に当ててモノには触れていない。だから用を足した後、手を洗う必要はない……と。この理屈は正しいのだろうか? とにかくもリチャードは「強い男」アピールをしたがっている。

 こんなふうに、これみよがしな男性性をアピールするリチャードだが、実は男性性に不安を抱えている。後に上官であるホイト元帥に、「いつになったら男として認めてくれるんだ」みたいなことを問う。男らしくなりたくて、無理してでも男らしさを演じ続けている……そういうタイプの男性だ。男性の登場人物は、実はみんな去勢されているか、去勢されることに怯えている。

 リチャードの家庭での風景。「理想的なアメリカの家族」を築いているリチャード。しかし実はリチャード自身、去勢不安を潜在的に抱えていて……。
 妻が「赤い服」を着ていることにも注目したい。

 こんな作品なのだが、作品を見ていると、だいたい2つのカラーしか出てこない。「赤」と「緑」だ。この配色にはどんな意味があるのか?  ここまでに見てきたテーマで読み解くとすぐにわかるが、「赤」は情熱、性愛を現している。一方緑は「無性」。性的な側面を排除された状態……を現している。
 この場面で赤い靴を見ているのは、イライザの正体が実は……。『アンデルセンの人魚姫』と考えればピンと来る。

 男性はこんな感じ。緑の風船に、緑のケーキ。どこか作り物めいた夢を見ている。
 この場面は、イライザの背後を見ると、ニュース番組を映しているテレビが配置されている。女性の方がまだ現実見てますよ……という示唆になっている。

 情熱的なジャイルズは、赤いゼリーパイの絵を描いている。しかし会社に持っていくと「緑にしろ」と修正を受ける。
 社会は情熱的・性的なものを拒否している。なにもかも作り物に変えてしまいたい……それが時代の要請になっている。

 半魚人の存在を知り、イライザは毎日彼のために卵を持ってくる。
 なんで卵なのか……イライザは出勤前の習慣としてお風呂場でオナニーをしているのだが、その時タイマーに使っているのが卵形のタイマー。思いっきり性的な意味を含んでいる。
 この場面、卵を差し出すイライザもなんとなく性的。

 そんなイライザに、性的な欲求を向けるリチャードだが……。
 この場面のリチャード……勃起してない? それは私の考えすぎ? 勃起した股間を見せるためにこの構図なのかと……。
 とにかくもこの後、帰宅したリチャードは妻とセックスするのだが、口を押さえて喋らせないようにする。イライザとのセックスを夢想している。

 映画の後半。半魚人との性交した後、赤い服を着るようになるイライザ。

 ここまでは、このお話しを読み解くための前提。
 時代は冷戦時代。この当時はアメリカとソ連とでミサイル開発競争をやっていて、アメリカ側は一歩先んじるために半魚人の生態解剖をしたい。人間が宇宙に出たら様々な影響が出るわけだが、半魚人の人体の秘密を知れば、それを防げるかも知れない。ソ連側はアメリカに先を越されたくないから、半魚人が欲しい。手に入らないのなら、殺せ……という指令を出す。
 半魚人は国家同士の目論見の中心に置かれる。まさに“生け贄”状態。それを救い出せるか――が前半の大きな物語となる。


 解説はここまで。ここからは映画感想。
 まず思ったのは……デル・トロ監督、ド変態だな。
 いや、褒めてるよ。「半魚人との性愛物語」なんて、よくそこまで持っていったな……。最終的に、主人公も実は人魚でした……というオチがあったからいいものの、それがなかったら、クリーチャーとの性愛を大真面目に語る、というヤバい作品。でも、そこを描いたから、なにか突き抜けちゃった作品。物語が上っ面だけじゃなく、綺麗事だけじゃなく、生物的な生理までも描ききっている。そこまで描いたからこその評価なのだろう。

 ただ、この作品の批評を見たのだけど、どうも「LGBT」的な視点(あるいはポリコレ的な視点)での評価らしくて……。この作品の中で、ノーマルな性愛はあまり出てこない。ジャイルズはゲイだし、イライザは半魚人に対して性的な思いを抱く。この物語の中に、米ソ対決のモチーフが混ざり込んでいる。一方で激しく対立し、一方で多文化共生を描いている。確かにLGBT的な物語ともいえるけども、今時なLGBT的テーマに合致しているから評価がアップした……というのはどうなんだろう?
 いや、結果的にデル・トロ作品が評価されたのだから、それは良かったんだけど。
 でもデル・トロは別にLGBTの時代に何か提唱してやろう……と思ってこの作品を作ったわけじゃなく、ただのクリーチャーへの変態的な愛情を思いのまま描いただけだぞ。時代が何か勘違いして、トロフィーを与えちゃった……みたいな感じになっている。
 まあ、結果的にデル・トロという天才が世の中的に認められたんだから、それは良かったんだけど。
 時代の勘違いがあるような気がするけども、それは黙っていた方がいいのかも知れない。

 ここまでに書いたように、この作品はクリーチャーへの性愛を描いちゃった……という作品。かなり変態的な作品だ。
 ただ奇をてらっただけではなく、デル・トロ監督は本気。本気で半魚人との性愛を考えていて、この恋愛が幸福な結末になればいいな……と。デル・トロなりの理想の恋愛観が見えてくる。
 もしもこの物語を人間に置き換えると、実はよくある「身分違いの恋を実現するために、駆け落ちするお話」になる。ただそれを人間と半魚人で描いたから、どこか次元の違うものになっている。人間と半魚人の恋を、いかに現実的に、あるいは夢想的なロマンスたっぷりに描けるのか……その最適解としてこの主人公で、この時代で、このシチュエーションだった。あらゆる構造がピタリとはまり込んだ、美しい作品だ。
 ある意味ゲテモノ的な作品なのだけど、いったいどんな巡り合わせなのか時代の気分と合致し、高く評価されちゃった作品。デル・トロの発想にも唖然とするが、これを受け入れちゃった時代にも唖然とする。今はそういう時代なんだな……。


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