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映画感想 ジョン・ウィック4:コンセクエンス

 犬を連れている奴に慈悲を!

 『ジョン・ウィック:コンセクエンス』は2023年に劇場公開された。2014年に『ジョン・ウィック』シリーズが始まって実に9年。前作の後、パンデミックの影響でしばし休止期間を挟んだが、第4作まで一気に駆け抜けた、という感がある。
 制作費は1億ドル。興行収入は4億2900万ドル。ここで1作目からの制作費とRotten tomatoでの評価を振り返ってみよう。

 1作目から2作目、3作目まで制作費、興行収入ともに2倍、2倍。さすがに4作目も2倍……というわけにはいかなかったものの、階段を駆け上がるように制作費、興行収入、批評家スコア、尺のすべてが上昇している。よくある映画は1作目が面白く、その後はいまいちになっていくものだけど、『ジョン・ウィック』シリーズはその例外。第1作目から面白さも、制作費も、興行収入もすべて上昇したかなり珍しい作品となった。
 監督はキアヌ・リーブスのスタントダブルから大出世したチャド・スタエルスキ。スタントマン出身の監督だからなのか、クレジットを見ると、シマヅ・アキラのスタントダブルが書かれていたりする。撮影監督もシリーズ2作目から変わらずダン・ローストセン。シリーズ1作目から振り返ると映像のルックが変わったように感じられるが、予算増加になるといいカメラも使えるようになるようだ。
 今回は日本が舞台になる……ということで、日本人スタッフも参加した。まず日本を代表する国際スターとなった真田広之。もともとは3作目に出演予定だったが、別作品と重なったし、当時は怪我もしていたので今作で出演となった。次にシンガーソングライターであるリナ・サワヤマ。2013年にアーティストデビューし、5枚目のシングルである『Bad Friend』のMVが監督の目に触れ、役者として抜擢される。リナ・サワヤマは本作で役者デビュー。他にもアクションコーディネーターに川本耕史が参加している。川本耕史はアクションコーディネーターとして『るろうに剣心』などに参加。スタントマン、アクション監督、モーションアクターと多方面で活躍するクリエイターである。
 中国からは世界最強のカンフースターとして名高いドニー・イェンが参加。アジア勢が強烈な存在感を持った4作目となった。ドニー・イェン60歳、真田広之63歳と、年齢を見るとかなり高齢だが、この2人が作中桁外れにキレッキレッのアクションを見せている(そういえばキアヌ・リーブスも59歳と、そこそこの年齢)。

 訃報。シリーズでコンチネンタル・ホテルのコンシェルジュ:シャロンを演じたランス・レディックが本作の撮影後、死去した。享年60歳。『ジョン・ウィック』のスピンオフである『バレリーナ』でもシャロンを演じていて、これが遺作となる。

 では本編ストーリーを見ていこう。ジョン・ウィックの復讐はいかなる結末を辿るのか――。


 ニューヨーク、コンチネンタルホテルに“告知人”がやってきた。彼が言うには、コンチネンタルホテルは破棄。破棄は1時間後だ、という。
 ホテル支配人であるウィンストンは、公爵の一人であるヴィンセントのもとへ抗議に行く。ヴィンセントは言う――「お前は二度もしくじった」。ジョン・ウィックの抹殺に。
「失敗の責任者はお前だ。お前はこの町を喪った。お前は無だ。今のお前にコンシェルジュは必要ない」
 と、ヴィンセントはシャロンを撃ち殺してしまう。
 やがて約束の1時間後がやってきて――ホテルは爆破されてしまう。

 パリに戻ったヴィンセントは、腹心の殺し屋を呼び戻す。盲目の中国人、ケインだ。ケインはすでに引退していたが、「娘に危険が及ぶ」と脅され、仕方なく引き受ける。しかしターゲットの名を聞いて、愕然とする。ケインの友人でもあったジョン・ウィックだった。

 大阪コンチネンタル。ここにジョン・ウィックはやってきていた。友人のコウジに助けを求めに来たのだ。しかし、どこから嗅ぎつけたのか、殺し屋達が大阪コンチネンタルに集まってくる。賞金稼ぎのトラッカーもやってくる。
 ただならぬ事態に、コウジは「コンチネンタルでは君たちでさえ、仕事は禁止だ」と警告する。だが殺し屋達は言う――「ここは聖域指定解除となった。そこをどけ」。
 もはや争いは回避できない。その時突如照明が消える。


 ここまでが前半30分。なんと今回、前半30分バトルシーンなし(冒頭にちょっとあるけど)。今までと映画の作りが違う。今までなら、始まってすぐにバトルシーンだったのだけど、今作はドラマパートをしっかり作り上げている。
 もう一つのポイントは、映像の重厚さ。毎回スケールアップを重ねてきた本作だったが、第4作目は映画としての質が違う。どのシーンも絵作りが印象的。このシリーズはだいたい似たようなところをウロウロし続けているわけだけど、今作は今作でしかない画面を練り上げている。第1作目から制作費、興行収入という面でクラスアップし続けたこのシリーズだが、それ以上に監督としての力量がどんどん上がっている、というのがはっきりわかる。

 では細かいところを見ていきましょう。

 今作ではいよいよ“公爵”が登場する。フランス人のヴィンセントだ。その最初の登場シーンがこちら。恐ろしく巨大な、1枚ガラス。その窓ガラスの前に、男が一人立っている。ただそれだけのシンプルな画面構成だが、なかなか圧倒される。
 では次の公爵登場シーンを見てみよう。

 ヴェルサイユ宮殿……では、ない。どこだろう?? セット撮影かな?
 構図の比較をしてほしいのだが、最初の登場シーンとカメラの位置、人物配置などがほぼ一緒。これが公爵という人物を表現する手法となっている。まず《場所》で圧倒する。しかしその一方、ステージの大きさに比較して、人物が小さい。巨大な権力を背負っているけれど、本人は小さい……というのがポイント。
 映画の最後のほうに、「人の野心は、人の価値を超えてはならない」という台詞が出てくる。ヴィンセントはずっと「身の丈に合わない」野心を追い求め、それを背負ったつもりになっている……それを表現するために、とにかく“場所”で圧倒するように描かれている。

 今度はルーブル美術館。よく撮影の許可が下りたな……。ルーブル美術館の中でも、人気の高いロマン派の作品が並んでいる場所で撮影されている。
 これまでと同じように、巨大なセットがドーンと出てきて、人物はごく小さい。人物よりも絵画を見せる構図になっている。ただ、進行方向が違う。これまではセットの奥に公爵がいて、招かれた人は公爵のいる奥の方へ向かって行く……という構図だったが、ここに来て平面的に右方向へ進むようになっている。この場面で、公爵に向かおうとしている人の立場が変わった……と読み取れる。お話しが進むと、次第に公爵が少しずつ地に下りてきている……というのがわかる。

 せっかくなので、劇中に出てくる絵画について取り上げていこう。
 まず、公爵の背にあるこちらの絵画。

ウジェーヌ・ドラクロワ作 1827年 『サルダナパールの死』

 1827年ドラクロワ作『サルダナパールの死』。ベッドにゆったりとくつろいでいる男が、アッシリア王サルダナパール。この王は今まさに敗走して、自身の財産が破壊されている場面を見ている。裸の女達は愛人で、王の命令で殺されているところだ。
 とんでもない混乱の只中だが、サルダナパール王はなぜか特に感情を浮かべず、他人事のように状況を見ている。自分の資産を自ら破壊する……という倒錯的な行動を、他人事のように見ている……というところに異様さが現れている。
 公爵がこんな絵画を背にしている……。つまり公爵が今まさにサルダナパール王のような立場にいる、ということを示唆している。

 次のこちらの絵画を見てみよう。

ウジェーヌ・ドラクロワ作 1830年 『民衆を導く自由の女神』

 ドラクロワといえば……の超名画。学校の教科書にも必ず載せられている一作。こちらの作品は1830年の7月革命を記念して描かれている。
 この絵画の雑な読み方は、オッパイ出して旗を掲げている女が「勝者」である。一方、その足元で下半身丸出しの男が「敗者」である。
 では映画中の場面をもう一度見てみよう。

 旗を掲げた勝者の下に公爵が立ち、地面に横たわる敗者と重なる位置にウィンストンが立っている。この時点では公爵が勝者の立場……で語られている、というのがわかる。

 立ち去ろうとしているウィンストンに、雑な要約すると「お前も殺されるんやで~」と警告される(ネタバレ防止)。この時、ウィンストンは側に掲げられている絵画を見るが……。

テオドール・ジェリコー作 1819年 『メデューズ号の筏』

 それがこちらの作品。1816年に起きた実際の事件がモデルになっている。メデューズ号がモーリタニア沖で座礁し、147人が急ごしらえで作った筏で脱出。最終的に15人が生存して帰還したが、飢餓、脱水などで狂気に陥っていたという。
 公爵に警告を受けて、ふっとこの絵画を見て「これが人生か」と呟くウィンストン。自分の行く末を案じた場面だ。

 せっかく絵画ネタが続いているので、こっちのシーンを見てみよう。これみよがしな位置にカラヴァッジオの絵画が置かれている。

カラヴァッジョ作 1601年 『聖トマスの不信』

 この作品は、復活してきたイエス・キリストだが、信徒トマスに信じてもらえず、「ほら、ここ! 槍で突かれた跡があるでしょ! 俺だよ俺!」と言っている場面。
 ご存じだと思うが、キアヌ・リーブスといえば代表作は『マトリックス』で主人公ネオはイエス・キリストになぞらえて描かれていた。そういう内輪的なネタではないが、何度も殺されても復活してくるジョン・ウィックを喩えている絵画。この場面が「“地下”鉄」というのも象徴的で、地下から地上へと這い上っていく……というところであの世から地上へ向かう、というテーマ的な導線を作っている。

 さて、そろそろ映画の本編に話を戻そう。

 ジョン・ウィックは数少ない友人を頼って、大阪へ。その最初のカットがこちら。さては『ブラック・レイン』大好きだな。

 その大阪の友人というのが、真田広之演じるシマヅ・コウジ。二人が出会う場面の背後にはでっかく「初志貫徹」。なにが初志貫徹なのか、というと最初のテーマに戻れ、だ。シリーズ1作目、ジョン・ウィックは何を求めていた? 第3作目の最後に、ジョン・ウィックは殺し屋組織に対する復讐を決意する。だが、ジョン・ウィックにとってのもともとのテーマはなんだったか……それをわざわざでかい文字で示している。

 さあ、いよいよバトルシーンの舞台となる大阪コンチネンタルのロビー。広い! こういうところも、予算枠が大きくなった恩恵。ニューヨークのコンチネンタルホテルとは比較にならないくらい広い。
 大きく作ったのは、もちろんバトルシーンの展開を大きくするため。広さがあるから空間が使えるし、上層があるから立体的な構図も作れる。ただ、それだけの構図や立ち回りを作り上げるのは大変だったはずだが。

 大阪の場面では、ドニー・イェン演じるケインのバトルシーンも見られる。盲目の剣士……ということで『座頭市』をモデルにしているのだが、サングラス掛けたスーツ姿がどうしてもタモリさんに見えてしまって……。
 ただ、動きのキレは作中随一。さすが映画界最強のスター。盲目設定はハンディとしてちょうど良かったくらい。

 お、イップマンだ!

 大阪のシーンは一つ一つのセットが広大だったが、実はそれぞれのセットは繋がってない。まるでステージクリア型ゲームのように、一つのシーンが終わったら、パッと次のシーンに移るように描かれている。
 その描き方だけど、まず最初に真田広之を案内役にして、ロビー→ギャラリー?→厨房→屋上の、ジョン・ウィックのいるところへと移動していく。アクションシーンはロビーからの進行と屋上からの進行の両方から描かれていく。最初に真田広之を歩かせることで、それぞれのセットは繋がってないのだけど、どのように繋がっているか、順序を見せている。
 で、こちらの場面はギャラリー? なにかよくわからない、不思議な場面。美術品が飾られている一方、この中で剣道や弓術の稽古なんかやっていたりする。この場面で、ジョン・ウィックは10分にわたるバトルシーンを演じている。この場面の立ち回りが実に鮮やか。演技として、だんだん「疲れている」過程を見せているのもいい。ジョン・ウィックが無敵の人ではなく、あくまで人間である、という生々しさが伝わってくる。ただ、ヌンチャクの扱いはあまり上手くなかった。

 第4作目は公爵直属の戦士達、ということで全員がアーマー持ち。銃での撃ち合いをすると、スーツでガードする……という、ちょっと見ると不思議な立ち回りが描かれている。
 さらに全身甲冑の戦士なんかが出てくるので、そうそう簡単に倒れてくれない。間接か、ヘルメットの隙間を直撃ちしないと倒せない。ゲーム後半で、ザコでもやたらと固い……みたいな感じになっている。一人倒すのにも、ジョン・ウィックですら手こずる。

 バトルシーンの時間配分だが、まずホテルのロビーでの戦いが1~2分。屋上での戦いが1~2分。次に厨房での戦いが4~5分。ギャラリーではザコ戦で4~5分。ジョン・ウィックとケインの戦いが5分。その後脱出シークエンスとなっている。
 よくあるアクション映画は、だいたいドラマパート20~25分で、アクションシーンが5分という配分となっている。ところが『ジョン・ウィック』ではしっかり25分。どのバトルシーンも、これくらいの長さとなっている。明らかにバトルシーンが長いのだが、しかし冗長だとはまったく思わない。それどころが、立ち回りが見事なので、ずっと見ていていたくなる。よくここまで、アクションが楽しい作品に仕上げた、と感心してしまう。

 大阪での戦いを終えて、梅田の電車に逃げ込むジョン・ウィックとアキラ。電車の照明としては、ありえないくらい真っ赤な照明。二人が背負う、血塗られた運命を示唆している。リアルな風景よりもイメージが優先されている。

 公爵に狙われ続ける……というのも埒があかない。こちらから「決闘」を申し込むしかない。しかし決闘を申し込むためには首席連合の代表にならねばならない。そこで、かつての古巣であるドイツ・ベルリンを訪ねるのだった。

 ただし、ベルリンの組織:ルカス・ロマに復帰したければ、先代のボスを殺したキーラを殺してこい……という条件を突きつけられる。
 そこで、『天国と地獄』というクラブにいるキーラに会いに行くのだが……。
 ここからちょっと不思議なトーンになる。明らかにトーンダウンするし、それ以前にこの世ではない雰囲気が漂い始める。
 このシーンが何を示唆しているかというと、「神話」。クラブの名前が『天国と地獄』という意味深な名前からもわかるように、「この世」ではない。英雄が使命を果たすために、この世ではない危険な場所へ行き、魔法のアイテムを入手する……という神話的なやりとりをここでやっている。命をかけて賭け事をする……というのも神話的なモチーフ。命の賭け事を強要するキーラも、人間というより閻魔様とか、そういう立場のキャラクター。こういう神話的な飛躍をくぐり抜けなければ、「公爵」というこの世ならざるものと会うことも叶わぬ……というわけだろう。

 ポーカー対決なんて退屈だぜ! と、言わんばかりに結局殴り合いの対決になっていく。クラブの中へと入っていくが……おやおや? 似たような場面を『マトリックス リローデッド』で見たような……?
 この世ならざるクラブなので、すぐ側で殴り合いや殺し合いなんかやってても、周りの人たちはひたすら踊り狂っている。

 セットの中に滝がある……ってなかなか凄い。こういうのも、「この世ならざる場所」を演出するための舞台装置なんだろうね。しかしこうやって見ると、雨のように見えて、ふっと『マトリックス レボリューション』を思い出す。
 そういえば監督のチャド・スタエルスキは『マトリックス』時代、スタントマンだった。監督の師匠であるウォシャウスキーに挑戦しているかのようなシーン作りだ。ウォシャウスキー監督がやりきれなかったことを、チャド・スタエルスキ監督が完成させた……という感じがして、なんともいえずいいシーンになっている。

 さあいよいよ最後の戦い。パリにやってきたジョン・ウィック。それをラジオ実況するDJ。
 ここからのシーンは「大乱闘・殺し屋運動会 ポロリ(首が)もあるかもよ」。第3作目でも「ニューヨーク殺し屋いすぎ問題」が気になったが、今度は「パリ殺し屋いすぎ問題」。街行く人がことごとく殺し屋で、ジョン・ウィックを狙ってやってくる。派手にドンパチをやっているのに、誰もパニックにならないし、警察はやってこない。いやぁ、殺し屋ってその辺に一杯いるもんだね。
 殺し屋運動会なので、このお姉ちゃんがなにを言っているのかというと「赤組がんばれ、白組もがんばれ」というこれを、ひたすらかっこよく言っているだけ。スタイリッシュ運動会実況と思えばよい。運動会の放送委員はノリのいい曲もかけてくれるぞ!

 戦いの舞台は……なんと凱旋門!
 マジか……ってなるが、実はベルリン郊外の、使われなくなった空港で撮影。空港の広い敷地を、凱旋門っぽい化粧をして、撮影している。

 後半バトルシーンも「ステージクリア型アクションゲーム」みたいな構成。シーン同士のつながりはなく、そのシーンが終わったら、ぱっと次のシーンへ遷移するように描かれている。凱旋門のシーンが終わったら廃墟。この廃墟も信じられないくらい巨大に作られていて、かなり長い立ち回りを1カット長回しで撮影している。

 さて、殺し屋運動会はまだまだ続く。赤組代表(血まみれだから)ジョン・ウィックは果たしてゴールできるのか?

 本編の紹介はここまで。
 低予算、101分というそこそこのスケールで始まった『ジョン・ウィック』シリーズは1作目ごとに成長し、変わっていった。第4作目まで来ると、堂々たる大作になっている。単にシリーズ作品として成長した、というだけではなく、監督の作家としての力量も上がっている。第4作目まで来ると、それまで描かれなかったドラマや、神話的モチーフなども入り込んできている。第1作目の頃はスタントマン出身の変わり者監督……というポジションだったが、もはやベテラン監督の域。見応えある1本。本作がシリーズの中でもっとも評価が高く、もっとも利益を上げた訳がわかってくる。

 さて、ジョン・ウィックの終わりなき戦いはいかにして決着するのか? 第3作目のラストで、現実世界との関係性が完全に立たれて、名実ともにブギーマンとなったジョン・ウィック。復讐の鬼となって、殺し屋社会全体を敵に回すのか――。
 という期待で始まった4作目だが、ちょっとトーンが違った。殺し屋の世界は思った以上に業が深い。復讐だ、と殺しても殺しても次が現れてくる。ジョン・ウィックはすでに煉獄に迷い込んでいて、そこからいかにして脱出するか……という物語になってくる。
 終わりなき地獄からの脱出。というお話しになってくると、モチーフもだんだん神話的になっていく。第4作目は今までとちょっと違っていて、現実感に欠ける。

 公爵の登場シーンからして、どこか非現実的。場面そのものが舞台劇っぽい作り方になっている。ホテル・コンチネンタルにしてもかなり高層ビル、という印象だったが、公爵ヴィンセントのいるこの場所からだと、余裕で見下ろせてしまう。つまり、“天上界”として表現されている。
 ただし、天上界の御座(みくら)に座る男は普通の人間……というのが一つのポイント。「人の野心は、人の価値を超えてはならない」という象徴的な台詞が出てくるが、公爵に登りつめたからと言って、人間を越えた存在になれるというわけではない。所詮は小さい人間でしかないのだ。

 相手が天上界の住人で、その天上人に会うためのチケットを手に入れようとしたら、やはりこの世ならざる場所へ赴かなければならない。その場所が「天国と地獄」という名前のクラブで、その主が「天国と地獄の狭間にいる」という……じゃあこの人は閻魔様だ。異界の住人と魂を掛けたゲームをやる……こういうのも昔からの英雄物語でよく描かれるモチーフだ。ここでどうしてトーンダウンするような展開があるのか、というと神話が語られているから。

最後の戦いが長ーい階段……というのもここに連なるモチーフだろう。地下鉄の駅から始まり、地上に上がり、階段を駆け上がって教会へ……という導線は、天国への階段がイメージされている。

 もともとこの作品で描かれた世界観というのが、ちょっと妙な世界観だった。「殺し屋の社会」が現実にある、ということにして、その社会ではどんなやりとりが行われているのだろうか。そういう空想から組み立てられていった。設定も最初から何もかもすべて作り込んで……という感じではなく、建て増しで作った部分も多いだろう。主席連合や幹部といった人々はどういう人間で、どういう生活をしているだろう――その空想を広げていって、次第に非現実的、非人間的な世界にイメージが広がっていった。
 1作目から見ていると、4作目の神話的モチーフはあまり整合性がとれているとは思えないし、トーンも別作品のようだ。しかしシリーズのクライマックス……と思うとしっくり来る。行くところまで来たんだな……と感じさせてくれる。

 初志貫徹。そういえば、ジョン・ウィックが求めていたのはなんだったか? 妻が残した犬を殺され、家を破壊され、指輪を奪われ……これまでの物語で、俗世との接点を完全に立たれてしまったジョン・ウィック。ある意味の透明人間。存在しない人間。アイデンティティを削ぎ落とされた人間。ジョン・ウィックは激情に駆られ、復讐を誓う。
 しかしすぐに復讐は過ちだと気付く。ではジョン・ウィックが1作目の最初の時点で求めていたのはなんだったのか――“安らぎ”ではなかったのか?
 煉獄の只中で、ジョン・ウィックは最初から選択している。殺し屋社会で自由になりたかったら、首をつるなり飛び降りるなりすればいい。死こそが解放だ。だが、ジョン・ウィックは逆の道をわざわざ歩む。自ら修羅に飛び込み、自由の証を手に入れたいと望む――死の覚悟で。

 それは生命への執着だったのか。いや、その逆で、死への執着だ。完璧なる“死”を獲得したい。煉獄の最中で命を落とすと、あの世で妻に会えない。妻に会うためには“安らぎある死”しかない。煉獄を走り抜けないと、愛すべきベアトリーチェには会えないのだ。その死を得るために、ジョン・ウィックは終わりなき地獄巡りへと飛び込んでいく。
(ベアトリーチェ …ダンテの『神曲』に出てくるヒロイン。煉獄の頂きで主人公がやってくるのを待っている)

 ジョン・ウィックを追跡する謎の男、トラッカー。名前を聞かれるといつも「何者でもない」と答える。この男が何者か、創作論的な視点でいうと、ジョン・ウィックを裏返しにした存在。だからジョン・ウィックが喪った犬を持っている。ジョン・ウィックの影のような存在だから、「何者でもない」のだろう。
 彼が連れている犬を撃つ……という過ちだけは犯してはならない。

 盲目の剣士ケインももう一人のジョン・ウィックだ。同じように、殺し屋社会という煉獄にはまり込み、抜け出せなくなった男。ケインもこの世界から抜け出すために、公爵からの殺害依頼を受けるのだが、しかしそれが新たな地獄への切っ掛けを作ってしまう。結局誰も勝者がいない……その理不尽さが表現されている。この世界がいかにおぞましいかが、ジョン・ウィックとケインの二人で描き込まれていく。

 第1作から続けて見ると、4作目はすでに違うものになっていたのだが、ジョン・ウィックという男の人生を終わらせるには、この形で良かった……というのが率直に思ったところ。ただひたすらに悲劇的な人生を歩んだ男の最後を、綺麗に送り出してくれた。この作品自体が、ジョン・ウィックという男に手向けた葬送。シリーズを見終えて、「ああよかったな……」という感想で終われたのが良かった。これまでのシリーズを見てきたなら、絶対に見届けたい1本だ。


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