拡張された日常。 春の京都で1週間過ごす
要約
京都は2日間の花見の予定で訪れた。だが、この街の妙な居心地の良さに惹かれ、1週間の滞在に引き伸ばした。京都は保守的に見えて、人口の1割が学生、宿泊者の5割が外国人であることに由来する開放性も備える街だ。そのことが居心地の良さに繋がったのかもしれない。観光客として訪れているのに街の一員になったような感覚があった。特に鴨川沿いを歩いていると、そこにいる人々は皆友達じゃないかという錯覚がした。このような感覚をぼくは「拡張された日常」と呼ぶことにした。
旅の始まり
桜の季節。東京に暮らす私は、週末に2日間の予定で京都を訪れた。学生時代、18きっぷで全国を旅していた頃、偶然桜の季節に京都を訪れその美しさに惹かれた。それ以来、都合が合えば桜の京都を訪れている。
例年の通り、4月最初の土日に京都を訪れれば満開の桜に出会えると予測していた。だが、その期待は外れ、迎えたのは六部咲きの桜であった。せっかく京都まで来て満開の桜を拝まず帰るのは惜しい。私は旅程を一週間延長して翌週の土日まで滞在することに決めた。
京都に滞在する中で、私は桜の美しさにとどまらない京都の魅力に気づいが。京都は単なる観光都市ではなく、日常生活を送る上でも愉快な街だった。
毎日花見生活
京都で過ごす平日は、早朝花見をして、昼間働き、晩に再び花見をした。会社員である私は昼間はリモートワークで働く必要があり、花見に費やせる時間は朝晩だけだったのだ。しかし、これが結果として良かった。
仕事と花見を行き来するライフサイクルが心地良かったのだ。平日の朝、地元の人々に混ざって桜が咲く鴨川沿いを散歩し、ローカルな喫茶店で朝食を食べ、京都のオフィスに出勤する。昼は京都のサラリーマンに混ざって定食屋へ行き、退勤後は夜桜を見て、帰り道に魁力屋のラーメンを食べる。
昼間に仕事をせざるを得なかったお陰で、そこに暮らす人々と同じ生活リズムを取り入れることができ、単なる観光を超えた満足感を得られたのだ。
開放的な保守性
京都にたった1週間滞在しただけで京都人の仲間入りを果たした、というのは私の錯覚に違いない。それでも、何故か私はそのような感覚がした。
京都は千年の歴史を持つ都であり、それ故に地元の方々は京都人としての矜持を持っている。しかし一方で、人口の一割は学生、宿泊者の半数が外国人であり、伝統都市にも関わらず多様な人々を受容する開放性がある。つまり、京都は単に古代の伝統を守るだけの膠着した土地ではなく、多様な人々が行き交う生きた街なのだ。
保守性と開放性が入り混じった独特の雰囲気のお陰で、単なる一週間の滞在者であった私も、観光客を超えてこの街を構成する一部として受け入れられているように感じたのだ。
日常と非日常の交差点:鴨川
京都滞在中は貴重な花見の時間を減らすまいと朝5時には起きて、桜が咲く朝の鴨川沿いを散歩した。何千年の古の人々もこの流れを眺めていたことに思いを馳せながら、川の流れを眺めると、心が安らぎ、時の流れが一つの連綿とした物語を紡いでいるように感じられた。
朝とは対象的に、夜の鴨川は賑やかだ。酒を飲みながら歩く学生や外国人、川辺に座るカップルたち。私とは属性が異なる人々が行き交うが、しかし、自分の居場所がないような感覚がしない。この川沿いにいる人々は何故か全員友達であるような、不思議な感覚がするのだ。保守性と開放性が入り混じったこの街ならではの感覚だ。
京都の喫茶店もまた、そんな非日常の空間を提供してくれる場所だ。都市の中にありながらも、どこか自然と文化が共存している。日常から一歩外れたところに広がるこの非日常の空間が、日常そのものを豊かにしてくれるのだ。
拡張される日常
京都での一週間を振り返ると、「拡張された日常」というテーマが浮かび上がってきた。伝統と現代、保守性と解放性、仕事と観光・花見。この一週間で、私は様々なレイヤーにおいて日常と非日常を行き来した。
日常と非日常の境界を柔軟に渡ることで、私の日常は相対化され、新たな価値が発見されたのだ。これはテーマパークやライブイベントで味わう非日常性とも異なる、独特のものだ。すなわち、日常の対立軸として強力な非日常性を立てるのではなく、日常の少し隣にに非日常性を感じられるというものだ。それゆえに、拡張された日常と形容するのがふさわしい。
日常を拡張する街として京都は非常に大きな魅力を持つことに、今回の滞在で気付かされた。
余談
この記事の下書きは4月に書き、公開せず数ヶ月間寝かせていた。「日常の非日常化」という表現が抽象的で結論を煙に巻いているだけであると感じられ、公開をためらっていた。しかし、先日街で偶然友人に会った際の言葉に後押しされて公開に至った。
友人は、今年の春は訪れが遅く、その分季節が過ぎ去るのも遅く春が延長された感覚がして浮かれた気分になった、と言っていた。私が京都滞在を1週間も延長させてしまったように、この友人もまた、今年の春に何かしらの特別性を見出していたようなのだ。
今年の春独特の感覚を共有できる人が少なくても1人いるならば、記事を公開する価値はあるかもしれない。抽象的な結論に陥っているが、変に取り繕わずそのまま公開しよう、という自己弁明的な勇気を得たのだ。
記事中に挿入しきれなかった写真たち
以上であります。
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📷 Camera: FujiXT30 + TT artisan 35mm f1.4