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私のボルシチ主義

 今日はみなさまに「ボルシチズム」についてお話ししたいと思います。

 おや、そんな言葉を初めて聞いたとおっしゃいますか?それでは、ボルシチという料理はご存じでしょうか。そうです、あのロシア料理として知られているスープの一種です。ほとんどの方は名前くらいはお聞きになったことがあるでしょう。見たこと、食べたことのある人は、もしかしたらそんなに多くないのかもしれませんが。で、ボルシチズムとは、もちろん勝手な造語でありまして、文字通りボルシチ主義という意味で、ボルシチを思考の根本に据えて考えるということを言っております。

 まず、改めて、そもそもボルシチとは何かということから説かねばならないでしょうが、実はこれが簡単ではありません。その現代における位置づけからして難しいのです。先にも述べたように、こんにち多くの方がロシア料理だと認識しているボルシチですが、しかし、実はロシアではなく、ウクライナの郷土料理だということが近年盛んに叫ばれております。つい最近、ボルシチをロシア料理だと「誤解」されることに忸怩たる思いを持っていたウクライナの料理家が、ウクライナ政府に働きかけて、ついに同政府は「ボルシチ」を、ユネスコの無形文化遺産として申請することに動いたというのであります。これに対して不快感を示したのは、なんといってもロシアでした。ロシアはロシアでまた、ボルシチが自分たちの料理だと自負をもっているわけです。これがこじれてしまって、ついには「ボルシチ戦争」と呼ばれるような、国際機関を巻き込んだ深刻な事態にまで至ってしまいました。冗談のような話でありますが、どうやら世界のAFP通信で取り上げられるほどの大事になっているようです。ロシアとウクライナといえば、クリミアをめぐる世界を巻き込んだ領土紛争が今なお係争中であり、そもそも険悪な関係にあるわけですが、食文化についても、同様の事態が起こってしまっているわけです。

 上掲の記事の末尾では、ウクライナの人に「ボルシチは芸術であり、言葉であり、文化であり、私の祖国ウクライナの歴史でもある」とまで言わしめております。

 ちなみにこのような食文化をめぐる対立は、新たな国際関係上の紛争としていくつか類例が出てきているようです。以下の記事では、やはり屋台文化(「ホーカー文化」)をユネスコ無形文化遺産に申請したシンガポールに対するマレーシアの反発や、「トルマ」と呼ばれるミートボール料理をめぐるもうひとつの「ナゴルノ・カラバフ紛争」すなわちアルメニアとアゼルバイジャンの対立などが、挙げられております。食文化は新たな国民的アイデンティティの象徴として、国際紛争の種になるリスクをはらみ始めたということで、人間の最上の喜びのひとつである食が原因でこのように人間が分断されることに、嘆かわしい気持ちを抑えきれません。
 これらの対立は当然ながら文化圏の類似した隣接の二国間で起きやすく、そして多くの場合、それらの両国は領土的確執も抱えているようであります。日本もいずれ、ラーメンや巻き寿司の食文化を巡って中国や韓国と対立するなんてことにならなければ良いのですが…

 それにしても、日本の食のアイデンティティはどこにあるのかと言われたら、少し迷ってしまいますね。個人的には白いご飯を思い浮かべますが、今や日本に住む人でも、白米を必ずしも必要としない人が多くなっているかもしれませんし、そもそも稲作というものは、大陸から伝わっているわけです。日本文化の根底に関わりそうな問題ですので、深く入り込まないうちにやめておきますけれども。

 さて、先ほどの「ボルシチ戦争」の記事にあったように、ボルシチがウクライナの歴史に他ならないとまで言われてしまっては、このようなセンシティブな問題に、遠く離れた(ロシアとは隣国ですが)極東の一国からこれに批評を加えることは、お門違いも甚だしく、僭越極まりないような気がいたします。
 しかし、ここでお話ししたいことは、ボルシチについての客観的批評であります。ウクライナやロシアの主張は主張として、ここはあえて、日本の目から遠距離視点での批評を試みましょう。突き放してみることで、客観的な視点というものも生まれるかもしれません。

 まずは、歴史をさかのぼってみましょう。ご存じのとおりロシアというのは帝政時代から広大な領域をもっておりました。1905年の第一革命に端を発する革命の炎は帝政ロシアを覆し、その後もクーデターと内戦と権力闘争を繰り返して、中央アジアや北東ヨーロッパに至るまで、ロシア帝国の版図であった周辺地域を広範に巻き込んで、1922年にソヴィエト連邦が成立いたします。ウクライナもこの構成国であったわけですが、上記でウクライナとロシアの争いになっているのは、旧ソヴィエト連邦において、ボルシチが「国民食」として喧伝されたことに端を発しているようです。
 旧ソ連時代に国民食とされたボルシチは、現在我々がボルシチと呼んでいるスープとほぼ同じもののようです。つまりビートを使って、キャベツとトマトで煮込んだ、この赤紫のスープのイメージは、ユダヤ人たちがアメリカに伝えたボルシチのイメージも大きく影響しているようで、アメリカの人々に膾炙しているボルシチとは、そのようなものです。

 もっと歴史をさかのぼってみましょう。原初のボルシチは、食用のハナウドの葉を発酵させてスープに使ったものだとされているようで、文献では16世紀頃から確認されているとのことです。貧しい人々の食べ物として広まったハナウドのスープでしたが、徐々にハナウドが用いられないようになり、他の具材を用いた酸味のあるスープのことを、ボルシチと呼称するようになったと言われております。現在のボルシチのイメージに連なる、赤紫のビートを使うようになったのは、19世紀に入ってからのようです。かようにして、本物のボルシチにはトマトなどという近代的な野菜は絶対に使ってはいけないという話もあるそうです。詳細はWikipediaが異様に詳しく伝えておりますので、参照いただければと思います。

 こうした経歴を見てもわかるように、「ボルシチ」と一言で言っても、その具体的な姿はあまりにも多様です。しかし、あえてそのイメージとして歴史的に一貫しているものを抽出すると、それは「酸っぱいスープ」であることだと、私には思われます。しかるに現代のシチュー型の料理においては、そのままでは酸っぱくない。トマトで酸味を出せなくはないが、それは伝統的なボルシチの作法からすれば異端である。よって、実はサワークリームをのっけることがもっとも大事ではないかと思えます。私は若い頃にはこのことに気づきませんでした。ただビーツが入った赤紫色のシチューであれば、それがボルシチであると信じており、むしろサワークリームをつけ合わせると美味しくないとさえ思っていたのです。しかしそれはボルシチの本質をまったく見誤った謬見であったかもしれません。すなわち、現代にいうシチューと化したボルシチの本体はサワークリームと言っても過言ではありません。ボルシチは酸っぱい革命の味であり、ボルシチズムは革命思想そのものなのであります。ソ連の指導者たちは、この革命的な酸っぱさを忘れないために、ボルシチをソ連の味にすべく喧伝したに違いありません。ソヴィエト連邦の国旗は真紅に染まっておりますが、本来これはボルシチを象徴する赤紫であっても何ら不思議はなかったと思うのです。また、ソ連崩壊後、ウクライナの人々は、ソ連体制下で辛酸をなめさせられた思いを、部分的にでもボルシチの味に託しているのに違いありません。ウクライナの人々にとっては、この酸っぱさは独立の味でもあるのでしょう。

 ところで、日本においてボルシチを批評すべき必然性をもうひとつこじつけるために、日本とロシアあるいはウクライナの交流という側面から見てみましょう。日本におけるボルシチ受容については、新宿中村屋さんがルーツとなって広まった説が知られております。

このボルシチを日本に伝えたのは、ロシア人の作家だという話があります。
それは、1914年に来日したワシーリー・エロシェンコ氏。盲目だった彼が来日した理由は、「日本では(マッサージなどの仕事で)目の不自由な人が自活している」という噂を聞いたからでした。

エロシェンコ氏が身を寄せたのは、「新宿中村屋」。
創業者である相馬夫妻を中心に、国内外の作家やジャーナリスト、画家などが交流する、国際文化サロンのような場になっていました。
その交流の中で、インド独立の闘士ボース氏がカレーを、エロシェンコ氏がボルシチを伝えたのだそうです。

 記事にもあるとおり、中村屋さんは日本のインドカレー誕生の地としても(むしろそちらのほうがはるかに)知られております。私も若い頃に一度、中村屋でカレーを食べたことがありました。その当時は背景をよく知らなかったこともあり、それほど感動を覚えなかったのが今となっては悔やまれます。
 なお、中村屋に寄宿して日本の知識人・文化人と交流したインドの独立運動家ラス・ビハリ・ボースについては著名な評論家の方の出世作が知られております。

 インドカレーとボルシチと両方のルーツを独り占めにする中村屋さんはなかなかのぜいたく者で商売上手だと思ってしまいますが、それだけ当時の日本において、分野も国籍も超えた交流の場としての突出した役割があったということで、注目されるのも当然なのでしょう。

 さて、日本にボルシチを伝えたというワシーリー(ヴァシリー)=エロシェンコがロシア人なのかウクライナ人なのかは重要な問題だと思うのですが、ネット上ではロシア人と書かれたりウクライナ人と書かれたり、入り乱れております。Wikipediaによればウクライナ人としつつ、ロシア連邦ベルゴロド州出身とされています。新宿中村屋さんのサイトではウクライナに生まれたとあります。地図で見ると、ベルゴロド州はウクライナに隣接しているので、ウクライナ文化が浸透していても何の不思議もないのですが、ここで彼をウクライナ人とするか、ロシア人とするか、難しい問題です。藤枝静男の私小説「キエフの海」に、ウクライナを旅行中の主人公が、現地の人にエロシェンコに会ったことがあるとリップサービスをしたばかりにエロシェンコ研究家から取材される羽目になり、気まずい思いをする場面が描かれております。しかしその主人公であっても、エロシェンコがロシア出身かウクライナ出身かで論争があることを知っていました。
 エロシェンコはエスぺランティストとしても知られており、彼が無国籍語としてのエスペラント語を広める運動に積極的であったということも、彼の出自とも関連するかもしれないと考えるのは邪推かもしれませんが、なんとも興味深く思われます。

 話をボルシチに戻しましょう。実は先日、数年ぶりにスーパーマーケットでビーツ(ビート)を見つけまして、迷うことなく購入したのです。そうして、この珍野菜を使った料理はボルシチ以外に考えられないとばかりに、インターネットで気軽に検索したレシピ情報に基づいて自分なりの「ボルシチ」を作ったのであります。しかし、よくよく考えればボルシチの正しい姿を知らないと思い、いろいろと調べてみたわけです。そうすると直ちに、当然のようにカットトマトをたっぷり入れていたことは、見ようによっては大変な愚であるという発見がありました。しかし、そんな「誤った」ボルシチでも、色はたいへん鮮やかに出ました。ビートの色素は凄まじい威力です。最初トマトの真紅だけに見えたスープが、時間が経てば経つほど、赤紫に染まっていくのです。
 それを見ているうちに、ボルシチとは浸透力の高い一つの主義であるとの考えが、わたくしのなかにもりもりと漲ってきたのでありました。まるで旧ソ連の真紅の旗が赤紫の民族色に染め返されるような、不思議な感覚にとらわれたのです。そこで、その興味をお伝えしたいと思って、にわか仕込みでボルシチについて得た情報(定着した知識ではありません)に基づき、ボルシチズムなどというけったいな言葉を使って、みなさまにこのような拙いお話をさせていただいた次第です。

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