垂直居士

水平からの離脱にあがく漫筆家。 人が何を考えて生きているかに興味をもって、生きていま…

垂直居士

水平からの離脱にあがく漫筆家。 人が何を考えて生きているかに興味をもって、生きています。名前はそのまま「すいちょく」で差し支えありません。居士は号で、仕官せず野にある男子の読書人の意ですが、必ずしも本人を適切に表してはおりません。

マガジン

  • 詩と詩人のはなし

    詩についての考え方や、詩人のエピソードをまとめてみました。

  • 言葉の砂漠、文字の海

    言葉や文字にまつわる書き物をまとめました。

  • 読書論雑感

    「読書」という営みについての断片を、自分のための整理もかねて、ひとまとめにしていく予定です。

  • こどもシリーズ

    大人が想像した、摩訶不思議な子供たちの世界。 「文明社会の中で生きていると、だんだんにその文明が入っていってしまうが、それ以前に子供は、非常に強い問題を、太古の言葉で、哲学的な質問として投げかけてくる。これに対して、『子供は黙っていなさい』とか『大人になりゃわかる』なんて言い返すのは間違っている。子供の質問は、極めて哲学的なものなのだ。」(鶴見俊輔「イシが伝えてくれたこと」より)

  • 近未来アニマルペディア

    実験的短編『近未来アニマルペディア』をまとめました。

最近の記事

  • 固定された記事

垂直に生き、論理で乗り越えよ。

 一人の学徒として、学問に向き合う態度はいかにあるべきか。  人それぞれの考え方はあるとしても、自分にとって、学問とは常に生き方の問題であり、自己確認であり、自らの来し方を反芻自問することに他ならない。すなわち、ここにこうして奇妙な回想の類や自己批判の駄文を連ねることも、これまでの経験を振り返り、自分の立ち位置を確認し、吟味して批判するという、ひとつの学問的修練につながるものだと考えている。馬鹿げた考えかもしれないが、修練の成果が出て来れば、駄文が駄文でなくなって磨かれるは

    • 充電したい

       寝るのが好きだ。というより、充分に寝ないと体力がもたない性質だ。夜の睡眠のみでは足りず、職場の昼休みには短時間の午睡を必要とするほどである。世の中には寝なくても動けるタイプの方がおられるようだが、実に羨ましい限りである。私についていえば、これでもまだ通常の生活に戻ったほうで、若い頃は10時間でも半日でも寝すぎるくらい寝ていて、用事のない日中は昼過ぎや夕方まで寝たせいで却って身体が重苦しくなり、生活に支障を来していたのである。あのいつも重苦しい身体の倦怠は、今思えば身体を動か

      • 読解について

         他人の文章を読むということは、他人の排泄物を有難がって悦んでいるようなものであり、そう考えると印象だけでは嫌な気分になるし、いかにも読むことが浅ましく卑しい行為であるようにも思える。  実際それは卑しい行為なのである。文字を読むことがやたらと高級で価値のあることだと認識されて久しいが、それは時間を超えてメッセージを伝えられる利便性が、いつの間にか高度な情報まで伝える役割を伴うようになった結果である。読み取るということは本来、人の付着させた体臭や排泄物を嗅ぎ、その人が前夜に

        • 右手の親指と習慣

           原因がわからないが、少し前から右手の親指が痛んでいる。第一関節が疲労しているような痛みで、力が入らない時がある。仕方なく右手を保護するために左手を使うようにしている。左手で歯を磨いていると、思ったよりもずっと、思ったように滑らかにはいかない。歯ブラシは口腔内で頬っぺたの裏側や歯茎の下など思わぬ場所にぶつかり、力加減がわからないのでへんに歯にブラシを押し付けてしまって全然磨けていなかったり、狙った隙間にブラシの毛先が入って行かずに、腕の角度もヘンな形になったりして、もどかしい

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        記事

          頭のねじ

           頭のねじが緩んだ人、という言い方があるが、自分はそういう人間なのだとつくづく思う。ものをすぐ忘れるし、とにかく肝腎なところで抜けていたり、ドジを踏んだりする。もっと際どい言い方をするならば、脳に何らかの欠陥があるのだと思う。それほどに社会とのズレ・不適合というか、頓珍漢というか、ありふれた「常識的」な規格にうまく合わせられない失態を演じるのである。これは、社会の矛盾や問題点を衝くという格好いい表現をとることもできそうだが、実際のところはもっとチープである。別に社会とかかわり

          赤い闇に詩が灯る

           週末に時間を見つけて、自宅で映画を観るようになった。今回はアマゾンプライムビデオで『赤い闇 スターリンの冷たい大地で』を観た。  舞台となっているのは1933年の英国とソ連である。英国のガレス・ジョーンズという実在の記者を主人公にした物語であり、原題は単に”Mr. Jones”となっている。ジョーンズは幼少期ロシアに在住した経験があってロシア語が話せる。ジャーナリストとしては首相であるロイド・ジョージの外交顧問を務めるほどの敏腕で、ヒトラーにインタビューした経験がある。ヒト

          赤い闇に詩が灯る

          差異を見つめる

           大人になってから表向きは社会と馴染むようになっているが、心の中では様々なことに違和感がある。むしろ違和感のほうが大きいことが多い。おかしい、なんやこれ、わけわからんと心の中で呟いている。よく考えてみれば、子供の頃から何にでも違和感があって、それが解消された試しがない。例えばみんなが集まってわいわい騒ぐことが嫌いで、それに対する違和感がずっと昔からあるのだ。それは単純に自分の心が臆病で、大きな音への生理的な苦手意識があったり、その大きな音を威力として強弁されることへの嫌悪感へ

          差異を見つめる

          白いものが混じる

           馴れない環境でバタバタしているうちに大学院の前期講義が終わり、どうにか折り返すことができた。四月、五月はいきなりコロナ罹患の影響で潰れてしまったし、六月、七月は一度ずつゼミでの報告があり、ほとんどの余暇時間をそこに持っていかれてしまった。毎回のゼミでは他の参加者が報告するテクストを読んでいることが前提となり、それが中編小説だったりするとおそろしく苦労した。なんというか、人生のほとんどの時間を文字を読むこと(と、たまに書くこと)に費やしていて、学生時代でもこれほど読書や読解に

          白いものが混じる

          アマゾンプライムビデオで高評価の映画「丘の上の本屋さん」を何気なく観ました。古本屋好きにはお勧めです。展開は予想されることが予想通りに起こり、ラストは広告臭を感じなくもないのですが、悪意のない登場人物とイタリアの風景の美しさのおかげで見続けることができ、爽やかな余韻が残ります。

          アマゾンプライムビデオで高評価の映画「丘の上の本屋さん」を何気なく観ました。古本屋好きにはお勧めです。展開は予想されることが予想通りに起こり、ラストは広告臭を感じなくもないのですが、悪意のない登場人物とイタリアの風景の美しさのおかげで見続けることができ、爽やかな余韻が残ります。

          怠けたい

           古来から人間の悪習として、目前のやらねばならないことを脇に置いて、別のことで時間を費やすということがしばしば行われる。いってみればこの記事の執筆もそういう逃避行動として行われていると理解されてよい。実際さし迫った研究報告があるのに、それに取り組む気力がない。そしてこうやって別のことに時間を使ったのちに、ギリギリになって重苦しい後悔の気持ちに苛まれるわけである。そしてそのたびに、どうにも自分は重圧が好きなマゾ気質なのではないかしらと疑う。あるいはいつも辛い、辛いと泣き言を唱え

          兆民先生

           中江兆民は気になる存在で、もし自分が明治初期あたりに生まれていたら、兆民への弟子入りを願って、彼を師と仰いでいたのではないかと想像するときがある。上掲はそんなことを想像しながら、自分に模した架空の人物の口に托して、師と仰いだ兆民の思い出を語らせたものだ。小説と言ってよいのかわからないが、自分が歴史に題材をとった小説を書くならこのようなものが書きたいというプロトタイプというか原案というか、習作のようなつもりで書いてみた。  著者の田原直史なる架空の人物は1870年前後の生ま

          詞華集と日本文化 —丸谷才一『日本文学史早わかり』を読む—

           本書において筆者はまず、文学を楽しむための道具とは何か、それはすなわち本であると説く。そして、「文学の中心部は形式的にすれば一体何だらうか」と問いかけるが、次の瞬間に「それはもちろん詩である」と断定してから話を進める。ここは読者にとって違和感があるかもしれない。通常我々が考える文学とは多くの場合、近代的意味の「小説」を中心とするものであるが、筆者はそうした通俗的な考え方を歯牙にかけることもなく、文学の歴史は詩の歴史であると言い切る。そして「詩集」こそが文学の道具の代表である

          詞華集と日本文化 —丸谷才一『日本文学史早わかり』を読む—

          詩人としての樋口一葉

           明治29年、森鷗外は、自らが主幹する雑誌「めざまし草」に連載された幸田露伴・齋藤緑雨との鼎談連載「三人冗語」において、樋口一葉を絶賛した。評して「われはたとえ世の人に一葉崇拝の嘲を受けんまでも、この人にまことの詩人といふ称をおくることを惜まざるなり」(世間の人々に一葉を崇拝していると嘲りを受けようとも、一葉に「まことの詩人」の称号を贈りたい)と述べている。一葉はそれを知った喜びを「うれしさは胸にみちて物いはんひまもなく」云々と素直に日記に書いており、また、一葉本人のみならず

          詩人としての樋口一葉

          時間は誰のものか

           人間は閑暇に身を任せている時にはますますサボるもので、追い詰められてようやく頑張るということは、誰しも経験があることだと思われる。そして、奮起して物事をはじめて、多忙の只中にあるときほど、多くのことをこなしたいという意欲が湧いたりする。一生懸命こなしてひと段落ついたら、疲れ切ってしばらく何もできなくなり、再びサボり癖がむらむらと湧いてきて、しばし休息のつもりがいつしか再びサボりの道に入ってしまい、そのまま暇を持て余す。そういった繰り返しで人生が成り立っている。そして、いつも

          時間は誰のものか

          文字の水圧に浸りながら

           ここ最近は、とにかくいつも何かを読んでいる――というより、読まされているような感覚で、ちゃぷちゃぷと音を立てて文字の水槽に浸っているような日々をずっと過ごしている。水槽はすでに溢れているのに、いっこうにそれが統一的な流れとして排水されないままに水かさが増している。どんどん新しい水脈から水が継ぎ足されてくるが、そのうちには真水もあれば塩水もあって、清水もあれば汚水めいたものもあって、どれもこれも吸収しようとして、頭の中で清濁混交した文字の水が、すでに表面張力の限界を突破してい

          文字の水圧に浸りながら

          昭和10年代の穴

           社会主義思想は明治43年の大逆事件によって冬の時代を迎えるが、その後大正から昭和初期にかけて、いわゆる左翼陣営においてはマルクス主義があたかも信仰のように浸透して我が思想界を席巻し、「思想=マルキシズム」とでもいうべき時代があった。しかしそれも長くは続かず、昭和8年頃の集団転向の季節をまたいで一夜の夢のように消え去り、プロレタリア文学が急速に退潮していった。佐伯彰一によると、これは日本独自の状況ではなく国際的な現象であったといい、佐伯は特に日本とアメリカとの共通性を指摘して

          昭和10年代の穴