見出し画像

昭和10年代の穴

知識人たちというのは、じつの所意外なほど時代の趨勢に敏感、かつ順応的な生き物であって、彼等の反時代的な姿勢そのものが、しばしば流行の衣裳にすぎない。

(『昭和批評大系』第二巻解説 佐伯彰一「「国際性」と「帰還」の季節」)


 社会主義思想は明治43年の大逆事件によって冬の時代を迎えるが、その後大正から昭和初期にかけて、いわゆる左翼陣営においてはマルクス主義があたかも信仰のように浸透して我が思想界を席巻し、「思想=マルキシズム」とでもいうべき時代があった。しかしそれも長くは続かず、昭和8年頃の集団転向の季節をまたいで一夜の夢のように消え去り、プロレタリア文学が急速に退潮していった。佐伯彰一によると、これは日本独自の状況ではなく国際的な現象であったといい、佐伯は特に日本とアメリカとの共通性を指摘している。

 ともかく、我が国においてその思想的空白が生じたことは、新しい思想の爛熟のまたとない機会でもあって、これが文学界隈においては日本における「文芸復興」とも呼ばれる状況を現出したわけである。

 文学界にあってその思想的隙間を埋めようとしたのは、ひとつにはいわゆる「新感覚派」からモダニズムへと進化した新しい表現形態であり、またひとつには日本的なものの模索あるいは原初の民族性への回帰であった。ここに転向文学を経由して戦時中の国策文学に向かう根っこも同時に生まれたことが、我が思想界の必然的な悲劇だったとはいえる。しかしながら、日本的なアイデンティティを求める意識を単に極端な国家主義の跋扈という形で切り捨てることは妥当ではない。佐伯彰一はここでも、アメリカの「新批評派」における反コミュニズム、農本主義、伝統主義や審美家的な性質を認めて、日本における「日本浪曼派」との共通性を見つけている。そして、国際性の波に目を向けたときに、自分が何者であるかを確認しながら進もうとする心理は当然のことであると述べる。

 しかし佐伯によれば、結局日本的な批評は「日本浪曼派」の保田與重郎に代表されるように、心情的、印象的手法に傾いているとの誹りを免れないものである。そこにあるのは徹底した他者感覚ではなく、一般論的な幻影や自己のイメージと反するものが投影されているにすぎない。昭和10年代において、そうした自己認識イメージの投影がどのようになされてきたかを、まとまった一連の仕事として評価することは重大問題である。その評価軸のひとつを佐伯は他者認識に求め、他者認識の深さなくして深い自己認識は得られないだろうとの見解を述べている。

 当時の知識人において他者認識が欠けていたことが妥当だとして、それは一体どうすれば獲得可能だっただろうか。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?