見出し画像

詞華集と日本文化 —丸谷才一『日本文学史早わかり』を読む—

 本書において筆者はまず、文学を楽しむための道具とは何か、それはすなわち本であると説く。そして、「文学の中心部は形式的にすれば一体何だらうか」と問いかけるが、次の瞬間に「それはもちろん詩である」と断定してから話を進める。ここは読者にとって違和感があるかもしれない。通常我々が考える文学とは多くの場合、近代的意味の「小説」を中心とするものであるが、筆者はそうした通俗的な考え方を歯牙にかけることもなく、文学の歴史は詩の歴史であると言い切る。そして「詩集」こそが文学の道具の代表であると述べる。また、「詩集」といっても我々が想像する個人詩集(例えば『月に吠える』とか『春の岬』とか『白秋詩集』といったもの)ではなく、その本来の意味は「詞華集」——すなわち、数多くの詩人の作品から編者がよりすぐった傑作集を指すものであるという。

 筆者は英国の文化において、例えばグレアム・グリーンの小説において作中人物が『ゴールデン・トレジャリー』(正式名称『英語で書かれた最上の唄と抒情詩の黄金の宝庫』)をいつも携えて楽しんでいる描写を引用しつつ、「詞華集」が生活に根付き、優れた詩を自然に諳んずるほどに行き届いていることを指摘する。さらに、英国においては『ゴールデン・トレジャリー』と『オクスフォード英詩選』の二つの代表的な英詩選からはじまって、『十六世紀詩選』・『二十世紀詩選』・『ヴィクトリア朝詩選』・『イギリス神秘詩選』などが綿々と編纂され、人口に膾炙していった経緯が示される。「ヴィクトリア朝のイギリスは、たとへば社会全体が好戦的な愛国主義を奉じ、性的タブーを守る(ふりをする)という具合に、まとまりのよい堅固な共同体を形成してゐた。そこでは趣味と嗜好が画一的で、…何が詩であり何が詩でないか、何がよい詩であり何がよい詩でないか、に関する社会的含意が出来あがつてゐた」という。すなわち英国では詞華集が編みやすく、かつ所収の詩が愛誦される条件がそろっていたのである。

 次に、翻って日本をみると、英国とは対比的に、一国の詩の歴史全体をつらぬく詞華集を持っていないという状況があるという。『日本詞華集』(西郷信綱他編)や『日本詩歌集』(山本健吉編)といったタイトルの本が刊行されたにもかかわらず、これらは世に迎えられなかった。現代詩だけの詞華集も編纂されておらず、わが国は「詞華集を編纂する文学的エネルギーが乏しい」という。そしてその原因は、現代日本の社会が詞華集に向いていない、不必要だからであるとする。かつての日本が世界に冠たる詞華集の国であったにもかかわらず、現代においてそうした状況が広がっていることに、筆者は「かなりの衝撃」をおぼえる。明治末年までの日本は、詞華集中心の文学といってよいほどの詩文化が栄えており、天皇の勅撰集の文化的価値も高く、その影響力が広範であったと述べる。明治末年以降においていきなり詞華集のない文学になったのは、日本文学が個人主義的なものになったことの端的なあらわれであるという。

 ここから筆者は日本文学史を語ろうとするのだが、まず最初に、日本文学史において一般的に適用される「上代・中古・中世・近世・近代」という区分はそれぞれの命名の適切さが怪しく、また西洋的な区分法とは区別しようと苦心した命名法でありながら、結局は西洋式の区分を逃れていないと批判する。またこの区分法は、「平安時代」・「室町時代」といった権力の変遷すなわち政治史と連動している点において、文学が政治の影響を受けて隷属しているような印象を与えるという意味でもまずいと述べる。具体的には、政治的変革があった直後の時期を扱うことの難しさがあり、『新古今和歌集』が鎌倉時代が開かれてからの選集であったり、明治初期の文学作品は明らかに江戸の名残を懐かしむものでありながら、近代の最初に据えなければならず、結局は等閑視されてしまっているという問題点を指摘する。

 次に筆者は、それまでに試みられた文学史の整理を一通り検討する。例えば尾上八郎『日本文学新史』であり、津田左右吉『文学に現はれたる我が国民思想の研究』であり、風巻景次郎『日本文学史の構想』や『日本文学史の周辺』が取り上げられ、いずれにも不満があることを表明する。それらは結局やはり西洋わたりの観念にすぎず、文学史あるいは歴史叙述というものが舶来品である以上やむを得ないとしても、文学史家たちは西洋の基準に義理立てするよう苦心したと述べる。

 それらの欠点を補って、日本文学の歴史を描くにあたって筆者が提案するのは、詞華集を目安としての時代区分である。具体的には以下の区分になるという。宮廷文化とのかかわりが色濃く反映された区分といえる。

第一期 八代集時代以前(~9世紀半ば)
 『万葉集』『懐風藻』など。平安遷都後五十年まで。宮廷文化の準備期。
第二期 八代集時代(9世紀半ば~13世紀初め)
 『古今集』など八つの勅撰和歌集。承久の乱まで。宮廷文化の全盛期。
第三期 十三代集時代(13世紀初め~15世紀末)
 十三の勅撰和歌集。承久の乱から応仁の乱まで。宮廷文化の衰微期。
第四期 七部集時代(15世紀末~20世紀初め)
 芭蕉や蕪村の七部集。応仁の乱から日露戦争直後。宮廷文化の普及期。
第五期 七部集時代以後(20世紀初め~)
 個人詩集、歌集、句集の時代。日露戦争直後から、宮廷文化の絶滅期。

 こうした時代区分を設定しておきながら、その後筆者の行論は、この区分ごとの解説という形をとっていない。むしろそれにとらわれることなく、ある程度時代を追いつつも、折々の詞華集の特質とその文化的な影響を自由に述べていくスタイルをとっていく。

 筆者はまず、古来詞華集編纂の主体となった天皇の性質として、日本の天皇は中国の皇帝に比べて呪術者的な性格が濃厚であることを指摘する。天皇は「呪術者と詩人と君主とを兼ねた者であり、その「呪術と言へば呪術、文学と言へば文学、そして政治と言へば政治である作業の仕掛けが歌だった」と述べる。続けて、『万葉集』の第一巻が雄略天皇の求婚の歌と舒明天皇の国ほめの歌で始まっていることに注目する。性的行為は作物の成長とつながり、国の繁栄をもたらすための願いの歌として統治に必要なものだった。時代を追うにつれて歌からは次第に呪術性が薄れ、そのぶんだけ社交性や遊戯性が芸術性が表面に出て来て、宮廷文化の中心として花開く。また、宮廷文化では恋歌と並んで、季節の移り変わりを詠んだ四季歌が重んじられるようになる。恋愛が色好みの尊重にかなうのに対して、四季歌は春夏秋冬の正しい循環という農事の基本をほめたたえるものだった。

 筆者によれば、勅撰集は宮廷の文化的な力を誇示するために編まれたものだが、重要なのはその文化的な力がただちに政治的な力として働くという事情であるという。文化力は正当性の淵源であるので、勅撰集を重複なく編纂することは権力的行動以外のなにものでもないこととなる。勅撰集を成立せしめる条件として、ほかに多くの優れた歌人を擁していること、すぐれた批評家を撰者として擁していることが必要となる。批評家はすぐれた歌人であることも必須であり、批評家=詩人という観念が理想的とされていた。これらの批評家=詩人にとって、同時代の歌から秀歌を選りすぐることのみならず、過去の勅撰集に漏れていた秀歌を拾い上げる再評価の試みがさらに重要であった。そうした過去に遡っての鑑賞眼、眼力が求められたのである。

 勅撰集の目的は、いわば感性・情感の共有に基づく共同体的性格の形成だった。筆者が述べるには、勅撰集は四季歌において自然に対する感受性の型を日本人に教えた。一国の季節感を統一するのに寄与した。また、単なる性欲の充足を恋愛に変えるのが人間の文化の基礎だとすれば、勅撰集の形で恋歌の鑑賞形式に天皇の与えた教科書が強制されることとなり、それによって文化の様式が規定されていたという。

日本人はどの階層も、人間との関係、自然との関係、さらには宗教との関係、総じて言へば世界との関係において、エロチックなものと溶け合った情調を受入れ、それによつて相互の仲を円滑にし、人生を平穏にしてきたのである。これは宮廷の教育政策の成就であり、と言ふよりもむしろ教育者としての天皇の成功であつた。

 その後、連歌が起こったり町人の古典主義が流行った。詳細は省略するが、前者は三十一音以外の詩形を日本文学にもたらし、挨拶としての機能を失った歌に社交性や遊戯性や即興性を回復したもので、しかも集団制作を基礎とする共同体的性質のものであった。また後者は自分たちの共同体の典拠として宮廷を求めたものだったと筆者は指摘している。

 さらに後に至って、孝明天皇の恋歌には呪術性もなければ詩情もなく、さらに明治天皇に至って、天皇はもはや恋歌を詠むのをやめ、エロチックな呪文の作者、歌道の司祭であることを断念したのであり、その判断は賢明であったと筆者はいう。荷を軽くする唯一の手段として、天皇は宮廷文化の伝統と絶縁することが必要となった。そうして、われわれの文明は勅撰集の衰退ともに詞華集をも必要とすることがなくなったのであった。

 非常に図式的な言ひ方をすれば、横の方角に共同体があり、縦の方角に伝統があるとき、その縦と横とが交叉するところで詞華集が編纂され、そしてまた読まれる。といふのは、われわれは伝統を所有する際に、孤立した一人ひとりの力で持つことは不可能で、共同体の力によつて持つからである。…事実われわれは、そのことの不可能をいはば無意識的に知つてゐるゆゑに、もうずいぶん長いあひだ、詞華集を持つことを実質的には諦めてゐるのである。つまりわれわれの文明と文化は共同体的なものを失つてからすでに久しい。そしてそのことがどういふ弊害をもたらすと言へば、いちばん歴然としてゐるのは言葉の衰弱である。言葉は過去から伝はつて来た力を失ひ、社会を養ふことをやめてしまつた。

 さういふ状況を嘆くあまり、共同体と伝統とを一挙に回復しようとする人がときどき現れるが、そしてその種の人がよりすがるのは決つて天皇のイメージだが、これはどう考へてもをかしな話だらう。なぜなら、共同体と伝統とを最初に否定したのは、さつきも言つたやうに天皇と宮廷だからである。考へてみれば、これは当然の話だつた。宮廷は、もう何世紀も以前から、文明および文化と具体的に結びつくことがむづかしくなり、いはば惰性によつて存在してきたにすぎないからである。

 本書は文学史を語っていながら、日本で編まれた「詞華集」を題材にした文明批評となっている。詞華集の編纂動機の基調をなすものが、古くは天皇と宮廷文化の結びつきにあった。その原理で共同体と伝統が維持されてきたにもかかわらず、近代にいたって宮廷文化はほとんど滅亡したがために、天皇は宮廷文化と断絶し、政治的機関にすぎなくなった。筆者によれば、七部集時代以降、江戸と現代とを急速に切り離したことで、文明の過去と現在は離れ離れになってしまったため、詞華集編纂は不可能となったように思える。ただし筆者は、『古今集』成立が漢詩の勅撰集から百年かかったことを例に出して、文化の成熟にはその程度の時間がかかると述べ、江戸と西洋との断絶という悪条件がいずれ解消し、われわれの文明が落ち着いたものになるかもしれないと希望を語ってもいる。

 本書の初出は1976年(『群像』10月号掲載)であり、現在の我々はさらに50年近くを経過した地点にいる。果たして丸谷のいう「文学史」を継ぐための詞華集が編纂される状況は現出しているだろうか。それは我々自身が、日本文化の伝統と共同体的性質を回復するに等しい歌をもてるかどうかということにかかっているが、詩歌や短歌ブームというような散発的なものがあるとしても、国民的詞華集が編纂されて愛誦される状況とは離れて行く一方だとも思える。しかし、伝統に基づく共同体原理としての詞華集が失われることで言葉が弱っていくという指摘は重く受け止める必要があり、もしそうした現象が実在するならば由々しき事態である。丸谷才一は現状をみて、日本文学史というものは完全に喪われ、言葉が衰弱し尽くしてしまったというだろうか、それとも今なお希望を捨てずに待つべきだというだろうか。





この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?