【エッセイ】喫茶店の試練

 空気のこもった部屋から窓の外を眺めると、真っ青な空。木々は風に吹かれてそよそよと優美にその枝葉を揺らしている。アスファルトは薄い日に照らされていて心地よさそうだ。まるで楽園を見せられているかのよう。これといって外に出る用もなかったが、その楽園に我慢できなくなって散歩に出る事にした。

 外に一歩踏み出した瞬間から、待っていましたと言わんばかりの涼しいそよ風が吹き抜けた。私は大きく息を吸い、部屋から望んでいた楽園に期待を膨らませて歩み出した。そしてすぐに私は春に騙されたことに気づいた。してやられたのである。春はさっきまで、こっちに来なよ。気持ちいいよ。ちょうどいい風吹いてるよ。と私に手招きをしていたのに、はいはいと私が散歩の用意をして、外に出て一瞬の春を感じた瞬間、春はすんとどこかに隠れ、その代わりにもっと強烈な奴を連れてきてしまった。弟分なんだか、兄貴なのかわからないが、春は夏とタッチ交代してしまったのだ。まだ世間は春だというのに!瞬く間に日差しの色が濃くなり、アスファルトからの照り返しもそれに比例した。窓からはあんなに心地よさそうに見えたのに。風もいつしかぴたりとやんでしまい、気づけば上下から焼かれていた。ムシっとした無風空間は石窯そのもの。パンなら石窯に入れれば膨らんで美味しそうになるけれど、人間なんか膨らみもしないのだから勝手に石窯に入れられるのは困ったものである。向こうも焼き甲斐がないだろうに。とにかく、時間がたてばたつほど、気温は上がってきたのである。

 私の散歩中のポリシーはなにも買わないということである。これが鉄則。ケチなだけなのだけれど、これはまずい、限界だ。と思ったときに飲み物を買ったりする。最近は夏が大暴れしているから毎回そう思うことも多いのだけれど。基本的には買わない。そして家に帰って、今日も特に出費はなかったな。よし。と満足感に浸るのである。ただ、この日は早々に限界が来てしまった。どこかに座りたい。何か飲みたい。公園でもいい。公園で自販機で飲み物買って休む、で良いから。どこか休む場所はないかと思っていた矢先、タイミングが良いのか悪いのか、行ってみたかった喫茶店が目の前に現れてしまった。これでは神様がここに入れと言っているようなものなのだけれど、問題があって、そこは少しお高いのである。出費したくない。この思いにとらわれて、ここを無視して違う場所を探すか。神様の思し召しを受け入れるか。どうしたものか。しかし、もし。もしここで神様の思し召しを拒否したらいよいよ見捨てられるんじゃないかと思ったから、悔しいながら入った。(悔しいし、表情は厳しいが、内心ウキウキである。)

 ここで私は告白をしなければならないが、コーヒーが飲めない。苦すぎて。じゃあ何で喫茶店なんか入りたいんだよ、と思われてしまうかもしれないが、私にとってみればそれは別である。喫茶店は別にコーヒーを飲む場所でないと思っているから。しかし忘れてはいけないのは、喫茶店にくるお客さんも店員さんもコーヒーに何かしら思い入れのある人が多いということである。飲み方なり、味なり。つまり、店内には前提というものが存在していて、そこを敢えて話すことはない。そこに私はその時気づいていなかった。
メニューを広げてジュースの欄を眺める。おこちゃまだと思われたくないから、遠くを見つけるような眼をして、コーヒーの欄もまじまじと見てみる。そしてそのまま店内を見回して、余裕を振りまく。本当は余裕などないのに。心の中では、こんな高かったんだ、というのと、何が書いてあるか何もわからない、という叫びが響いていた。カフェオレというのもある。飲んだことはないけれど、あのコーヒーとミルクを割ったやつっていうのは知っていた。これなら、ジュースを頼むよりコーヒー通みたいにみられるか?別にみられる必要はないのだけれど、コーヒー飲んでいる人に囲まれてアウェイ感があったから。スポーツ観戦で、相手のユニフォームを着て味方の陣営に乗り込んでしまったような、そこまでしなくても自分は普段着なのにみんなユニフォームみたいな。そんなアウェイ感はあった。それにドンと背中を押されて、カフェオレを頼んでしまった。

 手をあげずとも目線で近寄ってきてくれた店員さん。私が慣れた風に渋めの声で、カフェオレを。というと、すかさず、お砂糖とミルクはお入れしますか、とかえってきた。出た。私の知らないコーヒーの前提。慣れた風に遠くを見つめていた目線はすぐにキッと店員の目を見て、拍子抜けした、えっ?という声が自然に出た。いけないいけない!なにも知らないことがばれるではないか!すぐに遠くを見つめて、あぁ…砂糖を、と言ってみた。かしこまりましたと彼は一言、去っていった。あの質問はどういうものかわからないから、未だにこの答え方があってたのかどうかもわからない。ただ、事実として、運ばれてきたカフェオレがとてつもなく苦かった。これだけは明らかであった。その苦さを表に出さないように、私は頷きながら、ちびちび飲んだ。どうですか、カフェオレを今味わっています、この豆は南米産ですね?と言いそうな雰囲気を醸し出すことに全力を注いだ。

 災難はこれで終わらず、その夜は全く寝付けなかった。目が冴えに冴えた。というのもあのカフェインなのだろう。神様に誘われてはいったコーヒーの世界。これは本当に思し召しだったのだろうか…。

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