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心ここにあらずだった土曜日に、私の心が居た場所。マトリックス!!

今日は土曜日。

息子とべったり2人きりで過ごした7日間が終わった。来週月曜日からは、またいつも通り幼稚園が開く。



「おつかれさま。土曜日は俺がりんりんと外に遊びにいくから、ゆっくりしなね。」

父ちゃんが息子を連れて、外に遊びに行ってくれるとのこと。次にまとまった1人時間ができた時、どうやって過ごすかはすでに決めていた。


マトリックス2と、マトリックス3を観る。


2週間前くらいに、人生ではじめてマトリックス1を観た。映画館でマトリックス4の上映が開始したからなのか、「マトリックス」という言葉をよく耳にするようになった。あまりに耳にするのでなんだか妙に気になってしまったのと、アマゾンプライムで無料で配信されていたのもあり、とりあえず観てみることにした。


アクション映画のスピード感とドキドキ感が苦手なので、観終わったあとの疲労感はなかなかのものだったけれど、その世界観と、映画全体にちりばめられた"意味ありげ"で"奥深い"セリフに魅了された。

すぐにでも2と3を観たかったけれど、そこからまとまった時間がとれず。でもついに今日という日がやってきた。


朝10時半頃に父ちゃんと息子が出かけていった。少し家事をしてから、リビングの大きなテレビの前にデンッと座って、アマゾンプライムにピッとアクセスして。


マトリックス2が、始まった。

マトリックス2が終わって、そのままマトリックス3にピッとアクセスして。

マトリックス3が、始まった。

そしてマトリックス3が終わった。


マトリックス3のエンドロールをボンヤリ眺めていると、映画が終わるのを見計らったかのようなタイミングで、ピンポーンとインターフォンが鳴った。

ハッ!として、玄関に向かう。

そういえば、15時半に網戸屋さんが来てくれる予定だったような。ボーッとしながら玄関のドアを開けると、網戸屋さんが網戸を持って立っていた。破れていた網が、ピンッと張った新しい網に張り替えられている。そのピカピカの網戸を寝室まで運んでくれて、窓枠に丁寧にはめ込んでくれた。


私はお金を払って、網戸屋さんを見送った。


でもその一連の流れに、なぜか現実味が湧かない。私は確かにここにいるのだけれど、ここにいない感じがする。

4時間半もマトリックスの世界にいたからだろうか。

体は網戸屋さんに対応しているのだれど、心はまだマトリックスの世界にいるんだ、きっと。

もうすぐ父ちゃんと息子が帰ってくる。それまでに、心を現実の世界に戻しておかないと。

心はまだマトリックスの世界に浸っていたいと叫んでいたけれど。




無理やり体に意識を向けてみると、お腹がすごく減っていることに気づいた。よく考えたら、昼ごはんを食べていない。水分をとるのも忘れていたし、集中しすぎていて、おそらくいつもの半分くらいしか空気も吸えていなかった。少し胸が苦しい。


手始めにベランダに出て洗濯物を取り込みながら、深呼吸した。キッチンに立って、お茶をグビグビと飲んだ。冷蔵庫を開けて、1番最初に目に入ったチョコレートを口の中にポイッと放り込むと、異様な甘さがした。

本当は夜ご飯に"鶏肉のトマト煮込み"を作る予定だったけれど、急遽カレーを作ることにした。心ここにあらずの今、できるだけ香りが強くて刺激的な食べ物を食べたほうがいいような気がしたから。

お米を洗って、炊飯器にセットする。にんじん、じゃがいも、たまねぎ、お肉、ソーセージ。切って煮込む。グツグツという音。煮込んでいる間に、洗濯物をたたむ。


少しでも油断したら、また心がマトリックスの世界に戻ってしまう。できるだけ目の前のことに集中するようにした。カラッと乾いたタオルの感触や、カレーの匂いに助けられながら。

夜ご飯の準備がおわったら、なぜか息子の幼稚園の帽子のゴムを取り替えなきゃ、と思った。ずっと面倒でビヨビヨのままかぶっていた帽子のゴムをチョキンと切り取って、新しいゴムを針でチクチクと縫いつけた。



ピンポーン。


父ちゃんと息子が帰ってきた。



「めっちゃたのしかったでー!」

そう言いながら、今日あったことを話してくれる息子と父ちゃん。膝の上に息子の重みを感じる。かわいい顔が確かに目の前にあって、高い高い声が耳に心地よく響いてくる。


やっとやっと現実に戻ってこられたような気がした。体といっしょに心も、今はちゃんとココにいる。そう思えてホッとした。 

もしもマトリックスのように、今この瞬間ハッと目覚めてしまって、すべてが夢だったんだよ、なんて言われたらと考えるとゾッとした。






私はマトリックスを観ているとき、
マトリックスに繋がれていた。

マトリックスを観ている間は、体はリビングにいるけれど、意識は完全に「マトリックスの世界」の中に入って"同化"していた。

私はその中でもおそらくトリニティと"同化"していたような気がする。トリニティという女性は私とは全くちがうキャラクターだけれど、男であるネオやモーフィアスに比べると感情移入しやすいからだろうか。

そして映画が終わって、"私の心"と"マトリックスの世界"とを繫いでいたパイプがプチッと切られて。

私は現実に戻ってきた。

映画の世界にいる間、体はジッとしていたけれど、映画の世界で体験したことは私の心にクッキリと刻まれている。


この感覚、マトリックスそのままじゃないか!と感じずにはいられなかった。




物語の世界に入りこみやすい人と入りこみにくい人がいるとは思うけれど、ほとんどの人はこの感覚を大なり小なり味わったことがあるのではないか。


映画、ドラマ、漫画、小説、ゲーム、ネット、SNS・・・


これらのものは、マトリックス=仮想現実への扉を開く。


肉体はジッとしているのに、現実とはちがう世界を疑似体験できる、映画やドラマや漫画や小説。映像なのか、絵なのか、文字なのか、その方法はちがうけれど、自分が好きな方法で物語の世界に入って楽しむ、という部分で、目指すゴールはいっしょだ。

ゲームなんて、自分自身の"腕"や"選択"が物語の展開や勝敗に直結したりするのだから、より現実に近い。

ネットの世界には、言葉や画像や動画が、無限にプカプカ浮かんでいる。それらを置いていった人たちが、あたかもその場所で何かを主張しているよう。

SNSだって、まるでそこに人が集っているかのよう。言葉や写真や動画を使って、「私は今ここにいます。」ということを表現し合って、まるで会って会話しているかのように交流したりする。そこが"心の居場所"になっている人だっている。でもSNSで発信する"その人"が、リアルと全く同じ"その人"であるとは限らない。ある部分が強調されていたり、ある部分が消去されていたりすることがほとんどのような気がするので、そういう意味では、"SNS用の私"同士が交流する仮想現実、とも言える。



人それぞれ好みはあれど、どんな人も何かしらの"バーチャル世界"とパイプを繋いで生きているのではないか。

その世界に癒やされたり、励まされたり。
その世界から学んだり、
その世界でただ楽しんだり。

それはきっと悪いことではない。







ふと大学1年生と2年生の頃のことを思い出した。大学に馴染めず、大学に通う意味も見い出せず、すごくつらかった時期だ。

だからといって、大学をやめる勇気もなく、やめたからといって何がしたいのかもわからず。授業はつまらなくて全く耳に入ってこないし、なんとなく一緒にいる友達はいるものの、気の合う友達は見つかっていなかった。授業をサボりまくってしまい、卒業できるか危うかったほどだ。


親にも心配かけたくなくて、とりあえず大学の敷地内には足を運んでみるものの、どうしても教室に足が向いてくれない。

そんなとき、いつも大学の図書館に逃げ込んだ。大学の図書館には、本だけじゃなくてDVDを視聴できるブースがあった。そのブースは席ごとに仕切られていて、そこは広い広い大学の中で唯一"1人になれる場所"のような気がした。

ヘッドホンで耳を覆うと周囲の雑音が遠ざかっていく。目の前の小さなテレビに映画が映し出され、クリアな音たちが脳みそに響き始めると、スッと映画の世界に溶けていく。


しんどい現実を忘れられる時間。
現実から唯一逃れられる時間。


そして映画が終わってヘッドホンを外すと、何も変わりやしない現実に絶望する。どんなに映画の中で素敵な疑似体験をしたとしても、現実には何ら反映されていないと知る。私の体は、紛れもなく大学の図書館に居る。


トボトボと駅に向かい、電車に乗る。

まるでお守りみたいにいつも持ち歩いていた、よしもとばななさんの小説。

電車に揺られながら、また少し物語の世界へ逃げ込む。どうか駅に着かないでいてほしい。ガタンゴトンと心地よい揺れに身を任せて、このままずっと物語の世界にいられたらどんなに楽だろうか。

そんなことを思いながらも、体は実家の最寄り駅をしっかりと覚えていて、ほとんど無意識にパタンと本を閉じて、ちゃんと降りる。いや、降りてしまう。





もし当時の私に、映画や本がなかったら。

"逃げる"場所がなかったら。


そう考えると、ゾッとする。

当時の私には、必要な世界たちだったことに間違いはない。



でも大学3年生になって、ゼミで興味のある勉強ができるようになったり、フラダンスサークルを友達と立ち上げて居場所ができたり、大学でのやりがいを見つけたりして、現実が楽しくなってきた頃、映画を観たり本を読んだりする時間が格段に減った。


それは、リアルな現実の方が楽しくなったからだろう。

目と目を合わせて、会話を交わす喜び。
自然体で気持ちが通じ合ったときの感動。
仲間とおいしいものを食べるときの幸せ。
手と足と頭を働かせれば働かせるほど、変化していく現実。やりたいことだらけで体も心も忙しいけれど、充実している毎日。

楽しくないはずがない。


そう考えると、私にとっては「映画や本とパイプを繋ぐ頻度」が、いわゆる"リア充度"を測るバロメーターになっているような気もした。



でもよく考えてみたら。


大学1、2年生の暗黒期、
大学3、4年生の黄金期。

大学4年間を総合してみると、つらいこともたくさんあったけれど、楽しいこともたくさんあった。授業をサボってフラフラしていた時期もあったけれど、興味深く学べたこともあった。ボーッとしてた時期もあったけれど、活動的に動き回った時期もあった。一人ぼっちの時期もあったけれど、温かい仲間と過ごせた日々もあった。


あとから振り返ってみると、まるで映画や小説のようだ。


ずっと順風満帆、ずっと幸せルンルンな主人公の物語なんてちっともおもしろくない。暗黒期だけであっても、黄金期だけであっても、「物語」というものは生まれない。


映画1本約2時間の中で、小説1冊を読み終える約3時間の中で、主人公が何かを乗り越えてハッピーエンドでめでたしめでたし、となるから"おもしろい物語だった"と心が動くのだ。



映画や小説に励まされるのは、自分の人生のサイクルがギュッとつまっているからなのかもしれない。

映画や小説は短い時間の中で必ず、"起承転結"を見せてくれる。


33年間生きてきて、私の人生はいつも"起承転結"の繰り返しだった。大学時代だってスタートは散々だったけれど、勇気を出して行動してみた結果、ハッピーエンドを迎えることができた。

映画や小説の世界で「絶望」のあとには「転機」や「出会い」や「希望」が必ず巡ってくることを疑似体験することで、無意識レベルで癒やされていたのかもしれない。今は暗黒時代だったとしてもずっと続くわけじゃないよと、真っ暗な心に光を灯してくれていたのかもしれない。

そんな感じで、映画や小説は私にとっては、「娯楽」や「現実を忘れて休憩する場所」という位置づけだった。

それは今も変わっていない。



最近は、仮想現実とかメタバースとかバーチャルリアリティとか、そんなような言葉をたくさん耳にする。

1日のほとんどをゲームの世界で過ごしている人もいるようだし、コロナのせいかお陰かはわからないけれど、前よりもオンライン〇〇が増えた。VR的なものがもっともっと発達したら、もうみんながみんな仮想現実の中で満たされてしまう時代だって来ちゃったりするのかもしれない。


「現実世界ではなかなかうまくいかないことが多いやん?でもゲームの中ではさ、現実では成し得ないことがちょっとの努力でできてしまう。それが楽しい。達成感を感じる。」

ゲーム大好きな父ちゃんの言葉をふと思い出す。「仮想現実で一生を過ごしてみたい方、大募集!衣食住は保障します!」なんていうチラシが家のポストに入っていたとしたら、興味深くチラシに目を通し、何なら本当に行ってしまうそうだな、なんてちょっとだけ寂しくなった。


仮想現実を「娯楽」や「現実を忘れて休憩する場所」ではなくて、

起きているほとんどを仮想現実の中で過ごすような日々が訪れたとしたら、その日々はどんな感じだろう。

1日中ゲームをして過ごす日、
1日中テレビを見て過ごす日、
1日中漫画や小説を読んで過ごす日、
1日中スマホをいじって過ごす日、

それらと似ているのだろうか。
たまになら、そんな日も楽しかったりする。

でも。

今のところ
人間として生きているつもりの私は、
今のところ
そんな日々にちっとも魅力を感じない。


人間くささや、腹黒い気持ちだっておもしろがりながら、

不確かなこの舌で、
おいしい味とまずい味を味わって

不確かなこの目に、
キレイなものと汚いものを焼きつけて

不確かなこの耳で、
大好きな音と、大嫌いな音を響かせて

不確かなこの肌で、
人間の温かさも冷たさも感じていたい。

まだまだそんな日々を味わっていたい。


マトリックスの映画で表現していた世界が完全なフィクションだと言い切れる証拠はどこにもないんだから、この瞬間にもハッと目が覚めてしまうかもしれないけれど。

今まで私が現実世界だと思っていた世界が、実は仮想現実だった、というオチだって有り得てしまうけれど。

もしそうだったとしても、目が覚めてしまう瞬間まではこの肉体の中で、できないことだらけで、うまくいかないことだらけで、起承転結・喜怒哀楽を繰り返さなければならない地球で、思いっきりそのしんどさや不自由さを楽しみたいなと思った。






マトリックス。

マトリックス。

マトリックス。


考えれば考えるほど、不思議で得体のしれない世界にまた迷い込んでしまいそう。



でも一周回って、シンプルにシンプルに映画マトリックスからのメッセージを受け取るとするのなら。


私はどんなことがあっても大丈夫!


ということだろうか。


自分で選択しているように思えても
自分で人生を切り開いているように思えても

マトリックスの物語のように、すべては"プログラム通り"に動いているだけなのかもしれない。"預言者"がすべてを知っていたように。

偶然と見せかけて、すべてが必然、なのかもしれない。


それならば、プログラムの中で生きている私は、そのとおりに生きるしかないということになる。


「そんなことない!自分次第で人生はどうにでも変えていける!」と反抗したりもがいたりすることもできるけれど、

私の場合は、「必然」としてやって来る日々の出来事を、多くてもあと60年ほどしたら使い物にならない不思議な不思議な肉体の中で、ただ全力で味わう毎日も悪くないなぁなんて思っている。




もしかしたら「マトリックスという映画を観た」ということも必然だったのかもしれない。

マトリックスが今の私に必要な物語だったのだとしたら、今日こうやって小さな頭で考えたことや湧いてきた気持ちだってしっかり味わって、大切にしたいものだ。






【最後に】

こんなに長い文章をここまで読んでくれて、ありがとうございます。

長すぎますね!(笑)

でもそんな長すぎな文章を最後まで読めてしまったということだって、偶然ではないのかも。

もしかしたらあなたも、
マトリックスに呼ばれているのかも(笑)

気になった方は、ぜひ観てみてくださいね♪

感じ方はそれぞれだと思うけれど、自分の世界をグンッと広げてくれる映画だと思っています。


ちなみに、マトリックス4はまだ観ていません。アマゾンプライムでお金を払って観るか、映画館で観るか、迷い中(^o^)

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