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#25 あだ名は「うんこ」いじめられていた僕が考える自殺報道

今回は自殺報道についてです。その理由は、有名な俳優さんが亡くなったというニュースが飛び込んできたからです。
普通に読むと「自殺」という文字はありませんし、そういう具体的な内容には触れていませんから「あれ?なんで亡くなったんだろう」そんな感じなんですけれども、最後にいのちの電話、悩んでいる人たちが相談できるフリーダイヤル電話番号が載ってるんですね。それを見てしまったら一目瞭然なわけです。自殺したんだって。

報道するときに遺族とか、ご本人に配慮して、そういう細かいこと、特に自殺の場合は書かないんですね。なのに、最後にいのちの電話掲載してしまったら「この人自殺しました」って言ってるようなものじゃないですか。

例えば刑務所内で自殺する人がいます。そういうときは、おおむね自殺というワードを使います。徹底的に監視された場所で、なぜ人が亡くなったのか。やはりそこは触れざるを得ない。

あとは逃走中の犯人が自ら命を絶ったときも、そういった趣旨がわかるような報道にします。「向かい側のビルから飛び降りた模様です」とか。ただ一方で、本当に自分自身のことで悩んでいたり、考えていたり、追い詰められてしまっていたり、もしくは病気で悩んでいたりとか、そういう人たちが自ら命を絶ったときは自殺というワードは使わないんですね。そこは最大限配慮する。でも、いのちの電話を載せてしまったら意味ないではないか、思ってしまうんですよね。

また、その報道を見た人でまさに悩んでいる人がいたとして、そのうちどれだけの人が、最後のいのちの電話をみて電話するのだろうかとも思うんです。

もはやメディア側の自己満足、自己正当化なのではないか。私達はこういう報道しました、しかしきちんと配慮してますよ、というエクスキューズでしかないと思うんですよね。

陰湿ないじめに遭っていた自分が思うこと

僕自身、中学生のときいじめられていました。あだ名が、うんこですよ。なぜそういうあだ名がついたかといいますと、僕もお腹が弱いんですよ。なんとなく想像がつくと思いますけれども、授業中にやっぱりお腹痛くなっちゃうとトイレいくじゃないですか。当然漏らすわけにいかないから。それだけでもう、あだ名はうんこですよ。

子供たちがつけるあだ名はすごく単純で、残酷です。

しばらく僕はうんこでしたが、もう一ついじめられる要素がありました。アナウンサーを目指すぐらいですから、話すことが好きなんです。人前に立つのもどちらかというと好きです。多くの人にいろんなことを共感してもらったり、話をしたり、司会とかでもそうですし、その場の空気を作り上げていくことが好きなんですね。

中学生のときは、めちゃめちゃ見た目も中身もオタクだったんです。それがいいとか悪いとかじゃなくて、家電が好きすぎて前にも話しましたが、秋葉原で家電のカタログ集めるのが大好きなぐらいのオタク

さらにニキビ面で髪の毛はほぼ7:3みたいな感じ。これで人前に出るのが好き、って鬱陶しいじゃないですか。自分で見ても思うわけです。ビデオカメラ買って、アナウンサーごっこを1人でずっとやっていたから、昔の映像が残っています。大人になって振り返ってみると、いや、これはさすがにやっぱりちょっといじめられるな、という要素が自分でもわかるくらいです。

一方、当時自分はそんなみてくれのこととか全く気付いてない。

悩みますよ、そりゃ。「教室の真ん中より後ろに来るな」なんて言われたりもして。理不尽すぎる要求がたくさんでてくる。あとは、美術の時間に外で写生をしていると、石とか投げられるわけです。普通に体めがけて。古典的な例では、下駄箱の靴がなくなる。だから、帰る時間とか怖いわけですよ。
「今日は靴あったらいいな」なんて思いながら下校の時間を迎える。でも、そういう話ってやっぱり親には言えないんですよね。

親に言えない理由

まず一番にあるのは「心配をさせたくない」というのと、あと、父親と母親からの愛情をすごく感じてるからこそ、それを何かこう、自分が裏切ってしまってるんじゃないかと思うんですよね。自分が至らないがゆえにこういう目に遭っているんだ、お父さんとお母さんは何も悪くない。しかも、心配をかけさせたくない。自分たちの育て方が間違っていた、なんて絶対思って欲しくないし。だから結局、誰にも言えなくてずっとひとりで抱える。

そういう人が、俳優さんの死亡記事を見て、いのちの電話にかけて相談するか?という疑問を感じるわけです。

30年経っても忘れられない自殺報道

僕自身、そうしたいじめを受けている最中に読んだ、記憶に残る報道があります。

いじめを受けていた中学生が自殺しました。今でも名前覚えてるからあえて言いませんが、何が印象深かったかというと、亡くなってから、新聞にその子の遺書全文が載ったんです。もう、そのまま全文です。

そこにはですね、自分自身と同じ思いが綴られていました。親に対しての申し訳なさ。いじめを言えなくてごめんなさい。お父さんとお母さんは悪くない。全部言えなくてごめんなさい。そしてこれまでの感謝の気持ち。

涙なくして、読めませんでした。号泣です。当時、中学生の僕としては、やっぱり同じ立場というのもあるし。どんなにこの子はつらかったんだろうか、との思いもあるし、それを読んだご両親はどう思ったのだろうか、と。

この報道は、どう考えても親御さんがその遺書を新聞社に提供したわけです。どれだけつらかったことか。

その報道がもう30年近く経った今でも僕のこの胸の中に残っています。当時、僕自身は、頑張っていくしかない、親に苦しみや悲しませるわけにはいかない。命を絶つとこんなに悲しい思いをする人たちがいる。
やっぱり僕自身は、どうにか頑張って生きていく。

そういう思いを抱きました。

では、どうやって対処したらいいのか。

この先が、僕の場合それが正しかったのかどうかはわかりませんが、全部先生にいいました。全部です。これね、一か八かですよ。いじめてる側からすると、さらにうざくなりますからね。どんな些細なことも、全部先生に。あの子にやられました、とか。

全部徹底的に報告すると、さすがにいじめている側も面倒くさくなって、収まりました。

報道機関としてあるべき姿

報道機関としてどうあるべきかと考えたときに、ここまで鬼気迫る、思いのこもった記事を、親御さん、そして新聞社が腹を決めた記事を書くと、こうして心に響くんです。受け取る側にとって、ここまで書かれるとやはり立ち止まって考えさせられるわけです。

自分だったらどうしたらいいんだろうか、と。ただ単に、いのちの電話を載せればいい、ということではないと思うんですよね。

テレビでも定例のコメントがあります。「こういうのがありますので、電話してみてください」みたいな。そういうことじゃないと思うんですよね。

では、どうしたらいいのか。毎回、このような記事を書くことはできません。遺族のご協力も入ります。いま自分自身として、答えの持ち合わせがないのですが、少なくともこうした疑問であったり考えを持ち続けて報道にあたりたいと思っています。

(voicy 2022年5月6日配信)

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