君たちは『君たちはどう生きるか』をどうみるか ~ めためたなメタ批評もどき
はじめに
この記事は、宮崎駿/宮﨑駿(1941-)による映画『君たちはどう生きるか』についてネット上に(主に無料で)公開されている批評や考察記事から、私が強く興味をもったものを備忘録を兼ねて多少の分析を加えながら整理したものだ。
タイトルに「メタ批評」などと大それた語を用いているが、そんなことをちゃんとできる能力はないので「もどき」としている。
先に正直に申し上げるが、ここで取り上げる書き手の方々について、殆どの方を私はまったく存じ上げなかった。さらに言えば、私はいわゆる批評理論についても専門的に学んだことはない。それゆえ内容が「めためた」になることは書く前から自分でも分かり切っている。
せめて、北村紗衣(1983-)の言う「間違った解釈」だけはしないように心がけるが、やらかしてしまう可能性も否定はできない。もしも私の致命的な間違いにお気づきの際には、やんわりとご指摘いただくか、もしくは素人のお遊びとご容赦いただければ幸いだ。
まず、いくつかの批評や感想を読んだ上で、私なりにそれらの類別を試みたのだが、その結果、以下の3グループ程度に分けられると考えた。
一つ目のグループは、映画『君たちはどう生きるか』(以下『君たちは~』または「本作」と記す)を、「物語」の作り手である宮崎駿の「内面・無意識への下降」と捉えた一群である。言い方を変えれば、本作を「宮崎駿による『宮崎駿論』」と捉えたものと言えるかもしれない。
その多くは、文学や哲学をバックボーンとしている書き手によるものが多いように感じられた。
二つ目のグループは、アニメーター宮崎駿が自分の衝動に忠実に「描きたい映像」を描いた作品と捉えた一群である。
こちらは、「映像系」の実制作者あるいはその研究者によって書かれているとの印象を持った。
三つ目のグループは、宮崎駿がこれまで牽引してきた「アニメーション業界へのメッセージ」を読みとる一群となる。
これは、文字通りに「アニメーション業界」に近い(あるいは詳しいと自負する)書き手によるものが多いという印象を持った。
乱暴にまとめるならば、
①文学系の書き手による「物語作家としての宮崎駿の、内面の告白」としてみた批評
②映像系の書き手による「アニメーターとしての宮崎駿の、描画の衝動の発露」としてみた批評
③アニメーション業界界隈の書き手による「業界牽引者(あるいは大御所)としての宮崎駿の、業界全体へのメッセージ」としてみた批評
といった類別になる。
では、それぞれのグループごとに、私が興味を抱いたテクストをあげていく。また、ここから続く本文においてはいわゆる「ネタバレ」が存在することに留意いただくとともに、敬称略とするのでご容赦願いたい。
①「物語作家 宮崎駿」の内面の告白
■ 宮崎駿の悲しみと問いかけ─『君たちはどう生きるか』(下西風澄)
下西風澄(1986-)は、ネット上ので情報では「哲学を中心に執筆活動を行う」とある。「主な論文・執筆に『フッサールの表象概念の多様性と機能』(『現象学年報 第33号』)」との記載もあり、哲学の中でも現象学が専門なのかもしれない。
この情報をパラテクストとして下西のテクストを解するなら、批評の方法論として現象学批評なのだろうと「見当をつけ」ることができる。牽強付会の誹りを恐れずに言うならば、現象学批評について記された次の一文が、下西の批評の方法論に近いのかもしれない。
端的に言えば、下西は本作を「告白文学」と捉えた。「ファンタジックで魅惑的な世界を過剰に描き、そしてその愛したすべてを自らの手で封印するという、恐ろしく悲しみに満ちた自己否定を含んだ告白」という読みは、私にとっても納得できるものだ。
下西の解釈を借りて、私なりにこの映画を言い換えるならば、「映画『君たちは~』は、宮崎駿による宮崎駿論であると同時に、宮崎駿による(強い葛藤を内包した)アニメーション論でもある」ということになろうか。
以下、私が注目した箇所を少し長くなるが引用する。(太字強調は引用者による。特にことわりの無い場合は以下同様。)
私にとって興味深かったのは、下西が本作を「告白文学」と捉えた上で、さらに宮崎の「アニメーションへの思い」の告白として読んでいる点であった。
一般に「告白文学」という言葉から想起されるものは、日本的な私小説であったり、あるいは森鴎外(1862-1922)の『ヰタ・セクスアリス』や、三島由紀夫(1925-1970)の『仮面の告白』といった作品であろうが、下西は宮崎のそうした「私的領域の内面」の告白ではなく、アニメーション作家としての宮崎駿の「実存的な仕事とその世界」に対する告白という読みをしている。
その意味で言えば、本作は「アニメーションについてのアニメーション」であるとも言え、つまりは「メタ・アニメーション」としてみることも可能なのかもしれない。この下西の批評は、宮崎のフィルモグラフィーの研究者たちに、小さくない示唆を与えるのではないだろうか。
■ 木と石、そして死と共に歩くこと -『君たちはどう生きるか』覚え書き-(フガクラ)
フガクラは、ネット上の情報によれば「ライター/プログラマー」とのこと。
本作を、「木と石」を重要なモチーフとする、主人公であるマヒトの「武装から非武装への成長」の物語と捉えている。
この物語が、「行きて帰りし物語」の形式を持ち、「ビルドゥングスロマン」の側面を持つことは論を俟たないが、フガクラは、その構造の中に「木と石の対置」を読み込んでいる。
批評理論的な背景としては、前掲の下西の現象学批評に対して、こちらは(解釈学批評から派生した)受容理論の色合いが強いと言えるのかもしれない。
解釈学批評については、例えば筒井康隆(1934-)は著作において、そのうちの一つであるガダマー(1900-2002)流の解釈学批評のエッセンスを「作者の意図しなかった意味が生まれる不安定さこそが文学作品の特質だ」と踏まえることだと記述しているのだが、これは芸術作品にとっての「解釈」について、非常に本質を突いた言説だと私は感じた。
本題に戻るが、フガクラは、「石が『関わらなさ』、木が『関わりあい』を含む要素と大まかに結びついている」との解釈を示しており、それらからマヒトの「武装→非武装」への成長を関連付けているようだ。だが、私にはこの解釈は少々分かり難い立論だと感じた。
私にとっては、全編を通した「『石と木=道具』を通したマヒトの成長」との見方の方が(終盤での「石」のあり方も含めて)、納得できるものであった。
また、フガクラは本作を「二つの継承」を描いた作品だとする解釈も提示している。二つとは「大叔父とマヒトの継承」、そして「ヒミとナツコの継承」である。前者については作中で明示されてもおり、他のレビュワーも多く指摘しているが、後者は、非常に卓越した読みだと私には思えた。
ヒミがマヒトとの関わりの中で「救われた」ことにより、「母親としての役割」をナツコへと「継承」していくことが出来たというロジック(因果)が、フガクラの解釈であろう。
これを、(後述する三宅による)宮崎本人の「喪われた母への思慕」の文脈において読み直すならば、この2人の食事のシーンで最も救われたのは、実は宮崎本人なのかもしれない。作中で「母」を救うことで、宮崎は「自身」を救ったということだ。私はフガクラの解釈をもとに、このシーンをそのように読みなおした。
また、このテクストの最終盤でフガクラは、「マヒトの部屋」に言及しているが、この解釈も非常に興味深かった。フガクラは、この「部屋」の描写(レイアウト)が作品中で常に固定されていることを指摘し、そこからこの「部屋」の閉鎖性、圧迫感を読み取っている。
フガクラの解釈を私なりの言葉で言いかえれば、この部屋の「閉鎖性」とは、即ちマヒト自身の(心の)閉鎖性でもあり、だからこそ映画のラストシーンは、ここからの出立が描かれたのであろう。ラストのカタルシスがそのような演出によってもたらされていたという気づきは、私にとっては非常に大きな気づきであった。
■ 『君たちはどう生きるか』に描かれた“誕生”と“継承”(柴那典)
柴那典(1976-)は、ネット上の情報では「音楽ジャーナリスト」とのこと。私にとっては、柴が音楽雑誌の編集者だった当時からの既知の書き手でもある。
記事の表題のままであるが、柴は本作を「誕生と継承」の作品と捉えており、その上で柴による「メタファ」の解釈が次々とテクスト上に提示される。背景となる批評の方法論については推察しにくいが、強いて言うならば前掲の解釈学批評(あるいは受容理論)が近いだろうか。
柴によるメタファーの解釈で、私が最も唸らされたのは、映画の最終盤に登場する「積み木」を、(複数のレビュアーが言う)「宮崎自身の過去の作品群」とみるのではなく、「アニメーション映画の先人たち」と読んでいる点だ。これは一つの卓見のように思う。
積み木の「13」という数は、ひょっとすると、手塚治虫(1028-1989)、高畑勲(1935-2018)、あるいはウォルト・ディズニー(1901-1966)やポール・グリモー(1905-1994)といった、宮崎が敬愛もしくは批判しながらも業績を認めているアニメーションの先人たちの数なのかもしれないとの想像も浮かんでくる。(私自身はこの領域にまったく詳しくないので、この4名くらいしか名前が浮かばないが。)
そしてこの「先人たちからの継承」という解釈は、柴が「音楽畑」の出身であることも多少の影響があるのかもしれない。もちろん、「映画をはじめあらゆる芸術は先人たちからの継承である」と語ることも出来るだろうが、私の理解では、音楽、特にポップミュージックはその傾向が強いように思えるからである。(分かりやすい例で言えば、アメリカにおける黒人音楽からのロックンロールの発生など。)
さらに言えば柴は、宮崎が「自身の創造力」の継承の相手に、主題歌の制作(詞・曲)を担当した「米津玄師を定めたのだと思う」とまで述べており、これも(音楽畑出身であるという影響もあるにせよ)独自の見方として興味深い。
私自身は、米津玄師(1991-)とその音楽作品について特に詳しくないため、この見方について語る言葉を持たないのだが、「領域を超えた継承」という見立ては、なかなかにロマンティックであると思う。
この「継承」についての柴の論から、(まったく唐突ではあり単純に「継承」の文脈で語れるものでないことは承知しているが)昨年リバイバル公開された、ルー・リード(1942-2013)とジョン・ケイル(1942-)によるアンディ・ウォーホール(1928-1987)の追悼ライブを撮影したドキュメンタリー映画『ソングス・フォー・ドレラ』(1990)を私は思い出し、ややセンチメンタルな感情に包まれた。
遠い将来のいつの日か宮崎が亡くなり、追悼コンサートのような催しが行われるとしたら、多くのミュージシャンの中で米津は特別な位置を与えられるのかもしれない。
(8/4追記:柴による米津玄師へのインタビュー記事が音楽ナタリーにアップされた。 『「君たちはどう生きるか」主題歌制作の4年を振り返って 』)
■ #君たちはどう生きるか で、宮崎駿は結局、何を描こうとしたのか?【ネタバレあり最速レビュー】(三宅香帆)
三宅香帆(1994-)は、ネット上の情報によれば「書評家」とのこと。
本作を、「『喪われた母』を(自身の“マザコン”を隠さずに堂々と)描いた映画」と捉えている。
批評の方法論としては精神分析批評といってよいのだろう。作者である宮崎駿自身を対象とする「(フロイト的な)精神分析」がベースにあることは、テクストの(無料部分の)最終部にやや唐突に挿入される「親殺し」という単語からも明らかなように思われる。
私自身も本作の鑑賞時には、前半で「宮崎アニメのいつものヒロイン」がなかなか登場せず、「ヒロイン不在の宮崎アニメ」なのかと訝っていたところに中盤で「ヒロイン(ヒミ)」が現れ、ある種の“安堵感”を感じもしたのだが、その後に彼女が主人公マヒトの「母」であるという関係性が明かされた時には、宮崎の「(無意識の)正直さ」に驚きを覚えた。
そして三宅も書いているように、2人の「母」にキリコも含めた3人の女性は、いずれも強く母の表象として描かれていたと私も感じた。(ただし、そもそも宮崎の作品に登場する「主役以外の主要な女性キャラ」は、ほとんどが「母」の表象であるという批評も可能ではあろうが。)
さて、三宅のテクストには「宮崎駿は何を描こうとしたのか?」という表題が付されている。これは精神分析批評の視座に立つならば、「『宮崎の無意識』は何を描こうとしたのか?」と読み替えることが可能だろう。その問いに三宅の言葉を用いて答えるならば、「喪われた母への思慕」であり、それは、老齢の、自らの死期を意識しているであろう男性(宮崎)の「無意識」が為した作業として理解できるものではある。
ただし一つだけ指摘しておきたいのは、三宅はこのテクストの終盤で「父の不在と母子の密着、生まれ得ない卵たち、つるりとしたバーチャルな世界」といった、現代社会への批判を読み取っているように思えるが、私自身は、これが「宮崎(の無意識)が描こうとしたこと」とは思えない。
三宅自身による作品の解釈としてであれば納得できるものではあるが、宮崎はこれまでアニメーション映画の制作動機としてたびたび「子どもたちへ向けて『世界を肯定』してあげること」と語っている。
おそらくこれは彼の強固な信念であろう。そうした信念を持つ老練な作家による作品が、こうしたティピカルな社会批判に向かうことは、(たとえ無意識裡にでも)可能性は少ないように思うが、いかがだろうか。
(8/4追記:三宅による別のレビュー記事が文春オンラインにアップされた。『 あのセリフには宮崎駿監督の“願望”が…『君たちはどう生きるか』でキムタクが“父親役”だった理由とは 』)
②「アニメーター 宮崎駿」の表現衝動の発露
■ 『君たちはどう生きるか』作品評 理屈を超越した「漫画映画」への回帰(叶精二)
叶精二(生年不明)は、ネット上の情報によれば「映像研究家、高畑勲・宮崎駿作品研究所代表」とある。肩書からは「文学畑」ではなく「映像畑」の書き手だと拝察する。
本作を「つじつまを無視して、『描きたい』というアニメーターの衝動を最優先した映画」であり「漫画映画の志を後進に伝えるための映画」であると捉えた批評であり、私の鑑賞時の第一印象はこの前者に極めて近かった。
つまり、ストーリーやプロットではなく、宮崎が、自分の人生の最後の映画で「描きたい画(ショット)」を全力で描いた作品であり、そうした意味から、私のこの作品への初期の印象は、まるで「宮崎駿による、宮崎駿の生前葬(のための自作映像)」のようだなというものだった。
また、このテクストの背景の批評理論としては、やや強引かもしれないが「ジャンル批評」に属すると言ってもよいかもしれない。
叶によれば、漫画映画という「ジャンル」は、「個々の場面の分散的突出が、戯作的順列や脈絡を突き破り、動く画の特異な活力が押し寄」せ、「脚本・演出主導の整合性や統一感よりも絵作りの総合力で勝負」し、「どれほど世界が混乱しようが、主人公たちは刹那的な多幸感に包まれて帰還を果たすという、明快な枠組みがあ」る作品としている。
そして、叶による、本作を読み解く上での非常に重要な指摘は、宮崎自身が「つじつまというやつは本当に愚劣な行為なんだな」と思い始めるようになり、2011年の大震災を経て「無理だと感じていたファンタジーの制作を再度『あり得る』」と思うようになったと語っていることに尽きる。
ネット上では複数のレビュアーが「脚本が破綻している」といった批判をしていたように見受けたが、宮崎としては当然、分かった上での「つじつまの無視」であったということだろう。
蛇足ながら私としては、当初はこの「脚本の破綻」が、たとえば映画『2001年 宇宙の旅』(1968)のような「意図的な説明の省略」であった可能性も感じたのだが、本作が「漫画映画」であることを前提にするならば、私のこの推察は的を射ていないことになろう。
「つじつまというやつは愚劣な行為だ」と語る宮崎は、なかなかに痛快である。「漫画映画にとっては、つじつまは邪魔なのだ」と宣言し、その上に「痛快娯楽ファンタジー」を立ち上げる作家を、私は強く支持したい。いまだに「宮崎アニメ」のフェイバリットに迷いなく『未来少年コナン』をあげる私としては、短編でもよいので完全にそちらに針を振り切った「漫画映画」を作ってくれないものかと期待してしまう。
■ 「増える」と「崩れる」——映画『君たちはどう生きるか』を形成する2つの運動について(伏見瞬)
伏見瞬(生年不明)はネット上の情報によれば「批評家/ライター」。私にとって伏見は既知の書き手である。(過去に伏見の著書『スピッツ論』についてのnote記事を投稿したことがある。)
この批評の方法論としては、著名な映画批評家でもある蓮實重彦(1936-)が多く用いるテマティスム(テーマ批評)ということになろう。(伏見が蓮實について書いた文章は、このnote記事で読むことが出来る。)
テマティスムの視座から過去の宮崎の作品を語るならば、主題を「飛ぶ」こととすることが一般的であろうが、ここでは伏見は「増える」「崩れる」を新たな主題と見出し、その「運動」を本作の最大の魅力としている。
私自身、劇場での鑑賞時にここに気づくことはなかったのだが、言われてみればたしかに伏見の指摘通りに、この多くの「運動」が本作の大きな魅力であったし、蛇足ではあるが付け加えるならば、まさに(蓮實のよくいう)「活劇」としての映画の魅力を駆動していたのが、この「増える」と「崩れる」という二つの主題であったのだと、強く納得する。
③「業界の牽引者 宮崎駿」の業界へのメッセージ
■ 『君たちはどう生きるか』【ネタバレ感想】宮崎監督は「自分の人生の扉を離すな」と言った。(渡辺由美子)
渡辺由美子(生年不明)は、ネット上の情報によれば「アニメ文化ジャーナリスト」。「コンテンツビジネスの『提供側』と『ユーザー(ファン)』に焦点を当てた記事を執筆」との記載もある。
本テクストは渡辺によって「メタファーがすぎる!ww 」と書き始められている。
『君たちは~』については、ネット上の多数のレビューにおいて、「○○は××のメタファー」という言い方が多くなされており、この映画が、そうした「メタファー探しに向いている」作品であるということ、あるいは本作に限らず、(特にネット上の)映画レビューにおいて「メタファー探し」が非常に頻繁に見られることの、双方の意味合いを受けての書き出しなのかもしれない。(余談ながらネット上のレビュー記事では時折「メタファー」と「シンボル」を混同しているケースを見受けてやや気になるのだが、本稿の主旨からは外れるので踏み込まずにおく。)
このテクストでは、渡辺の解釈による「多くのメタファー」が提示されるが、そのほとんどが、アニメーション業界の実在の人物であったり、組織や集団である。(例えばプロデューサーの鈴木敏夫(1948-)や、スタジオジブリそれ自体。)
この意味で、背景となる批評理論としては「伝記的批評」になろうか。
渡辺のあげるメタファー(あるいはキャラクター造形の際のモデル)における固有名と作品内の登場人物(物)の類似性について、私は固有名をまったく知悉していないため語る言葉を持たないが、それでも「読み物」としては面白く読めた。いくぶん内集団における「楽屋落ち」の雰囲気も感じるものの、ネット上の「コンテンツ」として、「読み手」をしっかりと意識したまっとうな方向性でもあるのだろうと感じる。
渡辺の解釈の中では、「城」をスタジオジブリそのもののメタファーとして、その崩れる姿を宮崎による「ジブリの終焉の宣言」と捉えているが、これはアニメーション業界に詳しくない門外漢としては、一抹の寂しさを感じもした。(業界の方々やいわゆるアニメファンがどういう感情を持つのかは私には想像がつかない。)
また、渡辺は本作から「それぞれの人生を自分で生きよ」「友達をつくれ」という「(道徳的な)メッセージ」を受け取ったと述べる。
本作をこうした「メッセージ」が読み取れる作品と捉えることに対して、強い違和感までは無いのだが、私自身は映画などの創作物に向き合う際にはこうした「メッセージ」を重視しない質であるためか、この渡辺の解釈についてもあまり納得感は強くない。
ただしもちろん、ネット上にあげるコンテンツとして「作者の言いたいこと」を知りたがる読者のニーズに応えるという意味で必要性のあるものだということも理解はできるので、その点において、読者に向き合った良いレビューだと言えることは間違いない。
(8/4追記:渡辺による別のレビュー記事が朝日新聞DIGITALにアップされた。『 「君たちはどう生きるか」塔の奥の世界、解釈すると 』)
■ 映画「君たちはどう生きるか」を、ある業界に生きた女性たちへの賛歌として考察する。(吾奏伸)
吾奏伸(1970-)は、ネット上の情報によれば「映像演出家/文筆家」。
宮崎に関係する実在の女性について語られている点、その背後に垣間見える書き手の意識などから推察するに、批評の方法論としては、前掲の「伝記的批評」であると同時に、「フェミニズム批評」の側面もあるように思える。
吾奏は、具体的な二人の「アニメーション業界で働いた女性」の存在を、本作に描かれるメタファーとして読み取る。一人は、ヒミとして描かれた保田道世(1939-2016)という色彩設計を担当されていた女性で、業界では「有名人」であったらしい。もう一人は、キリコそしてナツコとして描かれた、大田朱美(1938-)という女性で、出産によって引退した「元・天才アニメーター」であり、現在の宮崎駿の妻であるとのことだ。
上に「フェミニズム批評の側面もある」と書きはしたが、吾奏はその視点で本作を断罪するわけではなく、むしろ「女性賛歌である」とまで称賛している。(より正確に言えば、吾奏の称賛は、宮崎のこれまでの歩みを振り返り、宮崎の「過去の“女性差別“への後悔と懺悔」の存在を前提にした上での称賛となっている。)
「老齢のアニメーション作家が、人生最後の(可能性のある)作品で、自分を支えてくれた二人の(そして多数の)女性への謝辞を伝える」という物語自体は美しくはあるものの、私自身は、宮崎はもっと(自分の表現欲求に忠実という意味で)エゴイスティックな表現者だという感が強いので、この吾奏の見立てにはやや違和感はあるのだが、しかしこれも、業界内部や宮崎駿という人物と直接的な接点のある人間から見れば、一面の真実ではあるのだろう。そうした意味でも非常に興味をそそられるテクストであった。
おわりに
宮崎駿は、存命の映画監督の中で、おそらく日本で最も知名度のある監督であろう。比較し得るのは北野武(1947-)くらいしか思いつかない。しかしタレントのビートたけしと比べれば北野武の知名度は低いようにも思われ、宮崎駿は、現在の日本で最も知られていて、最も作品が観られている映画監督といって大きく間違ってはいないように思う。
それ故、『君たちはどう生きるか』に関しては、公開日からネット上に多くの批評や解説、感想が投稿され、現在も続いている。
そうしたネット上のテクストから私が強く興味を持ったものを並べて整理分析したのが本稿であり、浅学菲才を顧みずにそれに「メタ批評」なる副題を付してしまったわけだが、私の「批評(もどき)」は、おそらく「程度の低い(よくない意味での)印象批評」にも達してはいないだろう。
それでも、こうしてリアルタイムで日々増えていく多くのテクストに接しながら、映画作品について、批評について考えることは、得難い体験であった。本稿で取り上げられなかった方も含め、多くのレビュワー、批評や感想の投稿者の方々に感謝したい。
【付記:本記事アップ後に注目したテクスト】
予期していたことではあるのだが、本記事の投稿(8/1)後に、非常に刺激的で学びの多いテクストを目にしたため、ここに付記することとした。
■宮﨑駿監督『君たちはどう生きるか』ーー「極端な時代」に猥雑で複雑な他者と共に生きるためのヒントとは(河野真太郎)
河野真太郎(1974-)は、ネット上の情報によれば英文学者。「専門はイギリス文学・文化ならびに新自由主義の文化と社会」との記載もある。
本作を、「多義的な解釈が可能な(解釈に開かれた)作品」であり、その「多重性」自体が宮崎のメッセージであるとしている。
背景にある批評理論としては、私の印象としてはナラトロジー(物語論)が根底にあるように読んだ。
河野のテクストは複数の論点を持ち、本記事冒頭の私の無茶な分類には当てはまり難いのだが、テクストの後半部分を河野の主張の中核と捉えるならば、強引ではあるが新たな分類として、
④文学・社会学系の書き手による、「社会思想家 宮崎駿の、すべての生きる人へのメッセージ」とみた批評
と見立てることができるかもしれない。
(おそらくは)ナラトロジーを背景とする、本作の構造分析も非常に興味深く、その中での「アオサギ=猥雑で複雑で理解不可能な他者、世間のような存在」とした解釈などに、私は非常に強く納得した。
また、まったく個人的なことだが、この一文を読んで私はふと『君と世界の戦いでは、世界に支援せよ』との加藤典洋(1948-2019)による古い書籍の題名を思い出した。(このフレーズ自体はフランツ・カフカ(1883-1924)の文言とされる。)
そして、私が最も強く共鳴したのは、「猥雑で複雑な世界と共に生きるための処方箋としての『解釈と批評』」と題された最終章である。
河野は、ここで「物語分析」から離れ、『君たちは~』が、「その難解さゆえに分析や考察を誘う」作品であることそのものに、宮崎の主張(問いかけ)を見出す。少し長くなるが以下に引用する。
ここで河野の言う、「解釈をしつつ、解釈が届かない『分かりにくさ』も手放さないでいることができる」能力とは、最近多く聞かれるようになったネガティブ・ケイパビリティのことだと思って間違っていないだろう。
私も実は、本作の鑑賞直後に『君たちは~』の「分からなさ」を題材に軽いコラムのような記事を書いていたのだが、そこで、以下のようにネガティブ・ケイパビリティについて、そして宮崎の「問いかけ」についても触れていた。
上記の「終わりに」で記したように、リアルタイムに増えていくテクストのすべてをキャッチしていくことなど出来るはずもないが、まさに「ニアミス」のような、自身が記事をアップした直後のタイミング(8/2)で、このような自身が強く共鳴できる批評に出会えるダイナミズムも、ネット空間の面白さであるとの実感を強くした。
*以上、8/2追記
■なぜヒミは炎の中から顔を出したのか?──『君たちはどう生きるか』における虚構と治癒(戸谷洋志)
戸谷洋志(1988-)は、ネット上の情報によれば文学博士。専門は「哲学・倫理学」との記載がある。
本作を、「(成長の物語ではなく)『治癒』の物語」と捉えている。マヒトを、(母の死を契機とする)「世界の無意味な解体」によるトラウマを抱いている少年と捉え、「虚構の創造性(による世界の再統合)こそが、それを治癒す」ることを示した物語であると読みとっている。
この批評を私の無茶な分類に当てはめるのは困難だが、強いて言えば、①「物語作家 宮崎駿」の内面の告白」に分類し得るだろうか。
マヒトを宮崎自身の投影とするならば、「虚構による治癒」を宮崎が望んでいる(いた)のだとする解釈も可能だろう。
背景にある批評理論としては、「物語」そのものの在り様を論じているという点ではナラトロジー(物語論)的でもあり、そこから「トラウマの治癒」を見出している点では、(登場人物を対象とする)精神分析批評的でもあると言えるかもしれない。
さて、ここまで述べて思い出されるのは、本記事で最初に提示した下西による批評である。
下西は本作を「恐ろしく悲しみに満ちた自己否定を含んだ告白」と捉えていた。もう少し具体的に記すならば、「自らが構築した(幼い子どもが、ビデオが擦り切れるまで見てしまうような)美しい世界」が生み出す矛盾と、それへの葛藤ということであろう。下西のテクストは、次のように結ばれている。
対して、戸谷はこの作品を、宮崎が「虚構が現実に対して果たしうる使命」を問い直そうとしているものだと読みとっている。そこにあるのは「虚構の力への信頼」だろう。
この二つの見方は一見両立し難いようにも思えるが、もちろん、どちらかが正しく、どちらかが間違っているというものではない。作者である宮崎の内面には、これらが矛盾をしつつも同時に存在していると捉えてよいように思える。
ひょっとすると、『君たちは~』は、この二項対立から脱構築されるべき作品なのかもしれない。
ここまでが、最初に記事をアップした後の二つ目の「付記」となる。
本文で最初に取り上げた下西のテクストと、(現時点で)最後の戸谷のテクストが、(私なりの解釈では)二項対立的に(脱構築的に)捉えることができるという事象は、偶然にしても出来すぎているような感触を抱くが、これもまたリアルタイムで記事を更新(追加)しているダイナミズムである。
*以上、8/6追記
(了)
【付録:その他の批評・感想】
以下、興味深く読んだ記事やウェブページの備忘録。順不同ではあるが、傾向としては掲載(投稿)時期の順番に近い。
■【徹底考察】ジブリ映画『君たちはどう生きるか』産屋の禁忌・13個の積み木の意味とラストの意味(ネタバレ解説) (ユリイカ)
ユリイカはブロガー。
こちらも「謎解き(考察)系」のブログ。ユングの「石の塔」との関連についての指摘、民俗学(日本の南島諸島)や神話(記紀など)の知見からの考察も非常に興味深かった。
■ 【映画】飛ぶ/落ちる/降りていく 『君たちはどう生きるか』についての雑文(ドント)
ドントは、note投稿者。
本作を「飛ばないまま降りていく映画」であり、「飛ぶ」ことを目的としていた『ポニョ』までと、「落下」を描いた『風立ちぬ』を経て、「自分の内側(原体験・無意識)」に降りていった映画としている。
■ 宮崎駿最新作『君たちはどう生きるか』を理解できなかった人のためのネタバレ謎解き。(海燕)
海燕は、ネット上の情報によれば「プロブロガー」。
いわゆる「謎解き」系の記事2本。記事中の文言を拾えば、1本目の記事では、本作を「価値観の異なる他者との友情のストーリー」と捉えていて、2本目(上級編)では「(漫画版ナウシカから連なる)宮崎駿の『思想』の最終表明(左派理想主義への批判と決別)」と捉えている。
海燕は、『君たちは~』に描かれる「墓」と漫画版『風の谷のナウシカ』の「シュワの墓所」、およびいずれにも登場する「清浄」という言葉に言及し、「その意味で、『君たちはどう生きるか』は『ナウシカ』の再演である」とも述べているが、私もその解釈に強く同意する。(これはある意味で「王道」ともいえる読みだと思うのだが、その割にこの点に言及しているレビューが多くないのはどうしたことなのだろう、とも思うが。)
■ 宮崎駿濃縮還元100%体験(笑)でした〜『君たちはどう生きるか』と威圧の強いタイトルと内容から「承継」を描いた物語としてとらえる(ペトロニウス)
ペトロニウスは、ブロガー。
本作を「『承継』と『内面世界の冒険』を描いた映画」と捉えている。『漫画版ナウシカ』との関連や、村上春樹作品や宮沢賢治作品への言及なども興味深かった。
■映画「君たちはどう生きるか」を評価する(紙屋高雪)
紙屋高雪は、ネット上の情報によれば「ブロガー・ライター・マンガ好き・コミュニスト」。
批評の方法論としては直接的なマルクス主義批評とは異なるようにも思うが、しかし、作品を通した宮崎のマルクス主義思想(からの転向)についての批評となっている。「理想主義への徹底した批判を加えつつも(そして本作ではさらに現実主義にスライドしつつも)、その理想そのものは決して捨てない」と宮崎の思想を捉えており納得できる点が多い。
(なお参考までだが、マルクス主義批評の視座からの宮崎の複数の作品への批評については、『批評理論を学ぶ人のために』〈小倉孝誠 編,世界思想社,P.154-161〉で読むことができる。)
■ 宮﨑駿『君たちはどう生きるか』( hiko1985)
hiko1985は、ブロガー。
本作を「イマジネーションの破茶滅茶なまでの躍動」と捉えている。ストーリー・テリングの混乱を、宮崎が「複雑で暗澹たる現代や人間の複雑性」を理解する故の「“世界”に対する誠実な態度」によるものと受け取っている。
■映画「君たちはどう生きるか」を評価する(紙屋高雪)
紙屋高雪は、ネット上の情報によれば「ブロガー・ライター・マンガ好き・コミュニスト」。
批評の方法論としては直接的なマルクス主義批評とは異なるようにも思うが、しかし、作品を通した宮崎のマルクス主義思想(からの転向)についての批評となっている。「理想主義への徹底した批判を加えつつも(そして本作ではさらに現実主義にスライドしつつも)、その理想そのものは決して捨てない」と宮崎の思想を捉えており納得できる点が多い。
(なお参考までだが、マルクス主義批評の視座からの宮崎の複数の作品への批評については、『批評理論を学ぶ人のために』〈小倉孝誠 編,世界思想社,P.154-161〉で読むことができる。)
■『君たちはどう生きるか』と、実際の宮崎駿の両親について(ネタバレあり)(三代目)
三代目は、noet投稿者。
作品の直接的な批評ではないが、宮崎駿の両親について公表されている情報から数多くのエピソードなどが子細に提示されており、『君たちは~』を(特に伝記的批評として)読み解くにあたっての非常に重要で強力な補助線となる。
■「君たちはどう生きるか」が何を伝えたいか「地球儀」を聞いたらちょっと分かった話(syudou)
syudouは、ネット上の情報によれば、「ミュージシャン、シンガーソングライター/ボカロP」。
本作を「宮﨑駿の頭の中を正直に表現した映画」であり、宮崎の「半生記・創作論」と捉えている。その上で、その意味を主題歌の歌詞から読み解いており、ややアクロバティックだが独自のアプローチが興味深い。
■《考察》『君たちはどう生きるか』日本文化とアイデンティティに対する問いかけ(Tepppeiii)
Tepppeiiiはnote投稿者。
美術史の視点からの作品解釈となっており、特に、大叔父の「積み木」について、ポール・セザンヌ(1839-1906)の「自然を円筒、球、円錐によって扱い、すべてを遠近法の中に入れなさい」という言葉から、「積み木を世界に見立て、組み替えたり調整し」ているとの解釈が興味深かった。
■アオサギの話しかしない『君たちはどう生きるか』考察&感想&レビュー(ぬまがさワタリ)
ぬまがさワタリは、ネット上の情報によれば「生きものクリエイター(映画好き)、イラストレーター/作家」。
実際の鳥類としてのアオサギについての生物学及び歴史文化の領域での圧倒的な知識と、そこから発展する『君たちは~』の「アオサギ」についての解釈(たとえば「親近感と他者性」、「リアルとファンタジーの往還」、「最後の台詞に象徴されるキャラクター造形の妙」)、および他の文芸作品との関連性(例えば『やぶにらみの暴君』(1952)に登場する鳥との類似性)など、非常に興味深く、スリリングな読み物としても楽しめた。
■「君たちはどう生きるか」このタイトルでなくてはならなかった理由―(藤津亮太)
藤津亮太(1968-)は、ネット上の情報によれば「アニメーション評論家、フリーライター」。
本作を「シンプルなストーリーの上に、この世界の様々な要素をモザイクのように散りばめた作品」ととらえ、それを「ひとつのルール」で読み解く「寓話化」を避けるべき作品だとしている。
藤津は本作を「世界の在り方=生命の循環」、「マヒトとナツコの葛藤とその解消」、「悪意と共に生きること」といった3つの主題からなるとしている。
■【対談#1-2】藤田直哉×杉田俊介対談『君たちはどう生きるか』(2023年7月14日公開、宮崎駿監督)を、僕たちはどう観たのか?――ポスト宮崎駿論を超えて
藤田直哉(1983-,SF・文芸評論家)と杉田俊介(1975-,批評家)による対談記事。多彩な論点が繰り広げられている。
■宮﨑駿の映画は何を伝えようとしてきたのか? 最終回『君たちはどう生きるか』(藤田直哉)
藤田直哉(1983-)は、ネット上の情報によれば「批評家/SF・文芸評論家」。
『ナウシカ』から『君たちは~』までの宮崎の映画作品についての連載批評の最終回。(第1回6.21掲載~第5回8.17掲載)
本稿では、『君たちは~』の中に、宮崎の「語り落とし」を見出し、そして本作を「悲惨さや残酷さそのものを描くことを回避し、代わりにファンタジーとしての役割を敢えて果たそ」うとしており、そしてそのファンタジーとは「死生観を巡るファンタジー」であり、そこにおいては「死への憧れと、現世を生きる覚悟」の両方が示され、矛盾と葛藤が構造化されているとしている。
また、連載全体を通しては、宮崎のフィルモグラフィを「アニミズム」の視点から論じている。
■宮崎駿監督の全てを込めた映画『君たちはどう生きるか』(ネタバレあり注意)(五味洋子)
五味洋子はネット上の情報によれば「アニメーター、アニメーション研究家・評論家」。
業界の内部からの視点も併せての総合的な作品の解説(解釈や批評ではなく)となっている。五味自身による作品の捉え方は明確には提示されておらず、「自分が見たいものをそこに見る、鏡のような映画」との見立てに留めている。
■映画『君たちはどう生きるか』に宮﨑駿が込めたものとは?(杉田俊介)
杉田俊介(1975-)は、ネット上の情報によれば批評家。
「この映画の中心にあるのは輪廻転生であ」り、そこには「宮﨑駿という人間だけに固有の、クィアで特異的な欲望のねじれが生々しく示されてい」たとしている。杉田によればそれは「母親から何度でも産み直してもらうこと」とのこと。
■内田樹が語る『君たちはどう生きるか』——かわいいものと空飛ぶ少女の不在(内田樹)
内田樹(1950-)は、著名な作家。多数の肩書を持つ。
本作を「母探しとその挫折」の物語と捉え、宮崎がその主題を選んだ理由を「自分(宮崎)にしか創ることのできない物語だ」と考えたからだと推察している。
■宮﨑駿監督『君たちはどう生きるか』を民俗学から読む。鳥と異界、「産屋」のタブー、ワラワラについて(畑中章宏)
畑中章宏(1962-)は、民俗学者。
丸山眞男、柳田國男、折口信夫、アルノルト・ベックリン、福永武彦ら、多士済々の作品が参照され興味深い内容だったが、残念ながら、畑中自身が本作をどう捉えたのかの芯が私には読みとれなかった。
■ 『君たちはどう生きるか』の考察ゲームに対しての個人的な意見 ネタバレあり(はてな匿名ダイアリー)
本作に対するネット上での「考察ゲーム」に対する考察。これも一種の「メタ批評」とも言えるかもしれない。
■ 村上隆氏の「君たちはどう生きるか」評 絵描きの僕にとっては最高の作品(村上隆氏のツイートまとめ)
世界的現代美術家である村上隆(1962-)による、本作への「感想」。
「芸術家、ハヤオさんの脳内をゆっくり堪能できた、最高の芸術作品体験でした。 映画ファンでは無く、美術館に行くのが好きな人にお勧めできる作品」と評している。
■オマケ:個人的に いちばん笑ったツイート。
「君たちはどう生きたっていい」 ↓
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?