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宮崎駿最新作『君たちはどう生きるか』を理解できなかった人のためのネタバレ謎解き(ちょっと上級編)。

 昨日、「宮崎駿最新作『君たちはどう生きるか』を理解できなかった人のためのネタバレ謎解き。」と題する記事を書いた。

https://note.com/kaien/n/n60f311211017

 これが、意外にというか、非常に好評だったようで、現時点で600以上の「スキ」を獲得している。

 ぼくとしてはわりと常識的というか、いってしまえば基礎的な内容に留めた記事だったのでいくらか意外に思うと同時に、「そうか、この種の記事の必要性があるのか」といまさらながらに気づかされた。

 ぼくのようなオタクの考えることは時とともにどうしても専門的に、マニアックになっていく傾向がある。

 その際、一度語ったことはいわば「常識」とみなして「その先」を語りたいという欲求が強い。

 しかし、あまりにあたりまえのことだが、いくらぼくが「常識」とみなしていても読者にはまったく共有されていない知識がほとんどなのである。

 ごく少数の「自分の読者」だけをあいてにして「未知の読者」を切り捨てることは99%を排除するに等しい。じつにいまさらではあるが、あらためてそのことに思い至った。

 つまり、毎回、読者の知識がゼロであることを前提に浅いところから深いところへ導くようにして書いていかなければならないということ。

 もちろん、だからといって相対的に「深い」内容を捨ててしまうことももったいない。そこで、今回は実験的に、前回の記事を「初級編」と見立てて「上級編」を書いてみることとする。

 実のところ、大げさに「上級者向け」と題するほど「深い」話ではないかもしれないのだが、あくまで「基礎的な事実の確認」に留めた前回記事と比べると、ぼく個人の主観的意見が入った内容になるはずである。

 良ければ、ご一読いただきたい。あと、面白かったら「スキ」を入れてTwitterなどで広めてください。個人的な執筆モチベーションに影響するから。

 まあ、今回はだれも読まないかもしれないけれど……。

 さて、今回は前回の記事では扱わなかったような、「正解」を明確に見定められないいくつかのポイントについて深入りしていこう。

 ぼくもまた、まだ初日に一度しか映画を観ておらず、まだまだ「浅い」理解しかできていない状態ではあるのだが、あえて蛮勇を発揮して『君たちはどう生きるか』の数々の「謎」に踏み入っていこう。

 前回、ぼくはその「謎」についてこう書いた。

 たとえばそもそもあのアオサギは何者なのか? 空から飛んできた〈塔〉は何だったのか? 大叔父が用いていた「悪意に染まっていない13個の石」とは? 〈墓〉にはだれが眠っているのか?

 これらのポイントはこの映画の主な「謎」である。

 たとえばインコやペリカンといった鳥たちがあのなぞめいた〈塔〉の先の〈下の世界〉にいわば封印されてそこから出ていけない様子なのに対し、あのアオサギは〈下〉と〈上〉を自由に行き来している。

 あいつはいったい何者なのだろう? 考えてみれば不思議なことである。

 また、そもそもあの〈塔〉は何だったのか? よくわからないとしかいいようがない。

 これらの謎はそれが理解できないと即座に物語を楽しめなくなるといった性質のものではない。わからないならわからないなりに映画を楽しむことは可能だ。

 しかし、気になることもたしかではある。どう考えたら良いだろう? もちろん、「正解」を見つけることは困難であるものの、「解釈」は自由に可能である。

 アオサギは後継者である眞人を〈下の世界〉に誘導するために大叔父に生み出されたのかもしれない。アオサギは古代エジプトで聖なる鳥のモデルとされていたという話がある。

  今から4000年前の古代エジプト。ラーが太陽神として君臨し、オシリスが冥界を司っていた地で、ベヌウという名の1羽の聖鳥が崇められていた。他の何千という神々と同じく、ベヌウも最初は田舎で崇拝される一地方神にすぎなかった。それが千年、二千年を経て、多くの神々が忘れ去られる中、ベヌウはしなやかに生き続け、最終的にエジプト神話の中でも極めて重要な位置を占めることになったのである。この聖鳥のモチーフになったのがアオサギなのだ。

https://www.greyheron.org/wp-content/uploads/2012/05/heron-as-image.pdf

 この「ベヌウ」がさらに不死鳥「フェニックス」へと変化していくというのである。

 もちろん、宮崎駿もアオサギを映画の主要なキャラクターとして位置づけるとき、このような情報を念頭に置いていたに違いない。

 つまり、アオサギは「死後の世界」からの使者なのだと捉えることができる。

 そう考えたところで物語中におけるかれの正体がはっきりするわけではないが、とにかくどうやらアオサギはそのような存在であるらしい。

 かれが眞人に「お待ちしておりましたぞ」と不気味に声をかけるのは、大叔父から眞人を連れて来るよう指示されていたからだろう。

 大叔父はおそらく、長いあいだ、現世に不満を持ち、人工世界の管理者となれる資質をもつ後継者を探していたに違いない。

 眞人はそれにぴったりだ、と思われていたわけである。じっさいには必ずしもそうではなかったのだが……。

 空から飛来したというあの〈塔〉は、宮崎駿が少年時代に耽溺したという江戸川乱歩の小説『幽霊塔』のイメージが関係していると思われる。

 それは現世と彼岸を結ぶ神秘の塔であり、いわばファンタジックな別世界の突端なのだ。

 具体的に〈塔〉や〈石〉の正体が何であったのかはわからない。だが、これは「そういうもの」として受け入れるべき存在であることはまちがいないだろう。

 不思議なもの、なぞめいたもの、よくわからないもの――トトロやネコバスがそうであるように、ロジカルな説明をつけてはかえって魅力を損なうような「向こう側」の存在と解釈することが妥当なのではないか。

 それでは、大叔父が眞人にあたえようとした「悪意に染まっていない13個の石」とは何か?

 「13」という数字がいかにも意味ありげだが、ぼくはこの数字について具体的な意味を探ることはしたくない。

 はっきりいってしまえば、どうとでも解釈できる数字なのである。

 たとえば高畑勲の監督作品数だとか、いや、宮崎駿がたずさわった作品の数だとか、カウントのしかたによっては何とでもいえる。

 しかし、どの解釈を採用しても牽強付会の印象は拭えない。それはたとえばピラミッドの高さは何を意味しているのか、といった神秘的な議論と何ら変わらないだろう。

 とはいえ、一方でもう少したしかにいえることもある。大叔父はその「悪意に染まっていない石」を使って「穏やかで清浄な世界」を作り出そうとしたということである。

 清浄。

 宮崎駿作品について少しでも関心がある方なら、この言葉から漫画版『風の谷のナウシカ』のクライマックス、〈シュワの墓所〉におけるナウシカと先史文明のヒドラとの議論、舌戦を思い出すことだろう。

 『ナウシカ』の世界を管理し、戦争の火種を生んでいたのは実はその〈墓所〉であった。

 〈墓所〉は何千年もかけて地球をいわば「浄化」する計画を立てていたのだ。そのかれらがめざしたものこそは「清浄で穏やかな世界」だった。

 戦争によって滅んだ人類をいとったかれらは、決して争うことを知らない人間を生み出そうとしたのである。

 大叔父の「人工世界維持計画」は、この〈シュワの墓所〉の計画と重なる。その意味で『君たちはどう生きるか』は『ナウシカ』の再演である。

 そして、ナウシカが「いのちは闇のなかのまたたく光だ!」と叫んで〈墓所〉を拒んだように、眞人もまた「自分のなかの悪意」に言及して大叔父を否定したのだった。

 じっさい、大叔父の作り出した世界は実のところ、まったく完璧にはほど遠い。そこではインコやペリカンが「呪われた生」に苦しみ、閉塞感を抱えている。

 大叔父が一切の「悪意」を排除しようとしたこの世界は、現実にはまさにそのためにどうしようもなく欺瞞と閉塞を抱えているのだ。

 それは「生」の本質的な野蛮さが否定された世界であり、そのためにかえって無惨なこととなっている。

 だからこそ、眞人はその世界を否定せざるを得ないのだ。「悪意」のないよう管理された世界、それは悪意と差別に満ちた現実世界よりいっそう酷いということである。

 ここに、たとえば経済学者フリードリヒ・ハイエクの「設計主義」批判のこだまを聴き取ることは可能だろう。

 「設計主義」とは「自ら思いのままに社会や制度を設計し管理することができるとする思想」のこと。

 ハイエクの思想を完全に理解し解説することはぼくにはむずかしすぎるが、つまり、かれは「世界を人工的に管理し尽くそうとすること」を徹底的に批判したのだと受け止めている。

 宮崎駿の思想の血脈もまた、この「設計主義」批判の文脈にあり、ゆえに左翼的な理想世界実現の夢を否定せざるを得ない。

 仮に作中における大叔父が高畑勲をモデルにしていると位置づけるとすると、そこにはまさに左派理想主義への批判と決別が感じられるといえそうだ。

 ハイエクはすべての「人為的秩序」をコスモス(cosmos)とタクシス(taxis)に分類したという。

 池田信夫によると「タクシスは人工的秩序、指令的社会秩序、組織を示し、コスモスは自然に成長してきた秩序すなわち自生的秩序を示す」とのことである。

 そう考えると、大叔父は本質的に「コスモス」的な自然世界を「タクシス」として管理し直さそうとしたということかもしれない。いささか難解ではあるが……。

僕は、大叔父から、「この世界にコミットしろ」という激しい世界の真理の維持者というか「世界を作るんだ!」というエリートの責任感を強く引き継いでいて、ああ、これを「無理やりバトンを渡されそうになった」けど、いやまって、そんなバトンおかしいから! セカイの秩序を良きモノで形作るとか無理だから! もっと世界は汚濁に塗れて、鳥のフンが象徴的でしたが生々しくて、気持ち悪いモノだから! それこそが命の生きる真実ですから! という葛藤を、選択を感じました。

https://petronius.hatenablog.com/entry/2023/07/15/182236

 そのように考えていくと、「我を学ぶ者は死す」という文字が刻まれた〈墓〉についても想像をたくましくすることが可能になる。

 この言葉は、昭和の右翼思想作家・林房雄の名作とされる短編「四つの文字」からの引用らしいのだが、作中における「我」とは何を指しているのだろう?

 当然ながら、明確に「答え」を示すことはできないが、ぼくはふと、「悪意」に汚染された人類の「科学」や「文明」が封印されているのかもしれない、と思った。

 つまり、「我」とは「文明そのもの」であり、そこに「我を学ぶ者は死す」と刻んだのは大叔父その人だという解釈である。

 もちろん、べつだん、確固たる根拠があっていっているわけではない。しかし、あの〈下の世界〉が元々、大叔父が生み出したものではないらしいことは、どうやらたしかである。

 もともと頭が良い人だったという大叔父は「知」を極めた結果、その「知」そのものを否定する境地に至ったのではないか、それが「我(≒知性≒科学≒文明)を知る者は死す(滅び去る)」という文言に象徴されているのではないか、そんなふうに思った。

 その意味ではまさにその〈墓〉は〈シュワの墓所〉に通じているわけである。おおまかに作中の「謎」を考えていくと、ぼくとしてはそのような答えが出て来る。

 もうひとつ、作品内の「母性」の描写について語って終わりにしよう。

 宮崎駿のヒロインの「母性的」な描写については、いままでもさまざまな書き手がさまざまな観点から指摘してきた。

 今回、「母にして少女」というキャラクター・ヒミが物語に登場したことは、まさにその分析を裏づけているようにも思える。

 その点を強く指摘しているのが、たとえば、書評家の三宅香帆氏のnoteである。

 彼女は書く。

母の妹であり義母の夏子。
イメージの世界で母代わりとしてごはんを食べさせてくれ、船を漕いでくれるキリコ。
そして実母であり、ともに旅をするヒロインでもあるヒミである。
全員、眞人にとっては〈母〉のポジションを担ってくれる存在だ。
そしてここが重要な点なのだが、眞人は、彼女たちの境界を少しずつ曖昧にする。たとえば夏子を助けようとする場面で、眞人は夏子のことを「夏子さん」と呼びながら同時に「お母さん」と呼ぶ。あるいは、ヒミのことを「実の母」であると知りながら、初恋の相手のようにも接する。
キリコは、明確な血のつながりは示唆されていない。だが、明らかにキリコとのやりとりには、初体験のメタファーが登場する。魚をさばきながら、「もっと深く」「一気に突く」という発言があるのだが……まあ、何のことを言っているのかは察することができるだろう。その魚は、ある妖精たちの栄養になる。妖精の正体は、人間の卵だった。ここにあるのは人間同士がセックスして子供が生まれる過程そのものだ。
だが何がびっくりするって、その相手がほとんど〈母〉の表象であることである。というか、キリコほどはっきり書いていないものの、夏子ともヒミともほとんど恋愛に近い感情は仄めかされている。

https://note.com/nyake/n/nc74f29fccca2

 しかし、魚をさばく場面が性的なメタファーであるという説を無条件に受け入れるとしても、だからキリコが「母」だ、ということをそのままに受容することはむずかしい。

 セックスをして子供を作ったら「母」だ、というのなら、男性にとってのすべての恋人や妻は母だということになってしまう。それはあまりにも範囲が広すぎる解釈に思われる。

 もちろん、子供を出産する女性はある意味では「母」ではある。しかし、それは「自分の母」であるということとはやはり違うだろう。

 キリコもまた「母」の一面をもつ女性であるかもしれないが、だからといって即座にそれを「眞人にとっての母」であると考えるのは、あまりにもレトリカルでトリッキーに過ぎると思う。

 夏子もそうだ。たしかに眞人は彼女に向け「おかあさん!」と呼びかけるのだが、これはむしろ「義理の母」であると認めるという意味であって、「母にして恋人」と捉えることは少し違っているのではないだろうか。

 また、これは少し話がずれるが、『君たちはどう生きるか』がある意味で母性的な世界を経巡る「胎内回帰」の物語であるというのは(魂のルフラン!)、すぐに思いつくところではあるし、完全に否定することはできないだろう。

 しかし、これはひとつの視点を欠いているように思う。その「胎内の世界」はあくまで大叔父の管理下にあるということだ。

 つまり、ある意味では男性による女性の「バース・コントロール」が行われていると見ることすらできるわけである。

 それがいったい何を意味しているのか、これからの議論が必要になるところではあるだろう。しかし、この映画をシンプルに「母性への回帰」、あるいは「母性の礼賛」と見ることはむずかしいように思う。実態はもっと錯綜している。

 三宅氏は最後にこう書いている。

父が不在で、母子密着で、卵たちは生まれてくることができず、そしてつるりとしたインコたちが叫ぶ声がバーチャルに響く、世界。

――こんなに的確に現代日本を表象した人が他にいただろうか。吐きそうなくらい的確なメタファーだと思う。

 これは映画をかなりネガティヴに捉えた見方である。ぼくはこの見解に必ずしも賛成しないが、ひとつの見解としてありだろう。このような数々の意見、見解、批評を前提として、さらに映画を深掘りしていきたいところである。

 祭はまだ始まったばかりなのだから。

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