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宮崎駿最新作『君たちはどう生きるか』を理解できなかった人のためのネタバレ謎解き。+おまけ記事30000文字。

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 昨日、宮崎駿監督の『風立ちぬ』以来、10年ぶりの新作映画『君たちはどう生きるか』が公開されたので、ひとりのアニメファンとして当然ながら初日初回で見てきた。

 個人的にはリッチなアニメーションと幻想的なストーリーテリングを楽しんだが、予想通りというかいつものことというか、ネットでは賛否両論である。

 それ自体はおおよそ想像できた展開ではあるのだが、予想外だったのは「ストーリーがわからない」という意見だった。

 たしかにとっつきの良いわかりやすい娯楽大作とはいいがたい映画だが、個人的にはそこまで難解だとも思わない。

 おおむね情報は開示され、伏線は回収されており、いくつか大きな謎は残り、解釈が分かれる点はあるものの、基本的な物語は初見で十分に理解できる。

 ぼくとしてはむしろ『ハウル』や『ポニョ』のほうが「突き離された」感は強かったくらい。

 一方で批判的な人はきわめて極端な見解を抱いているように見える。最も端的なのはトゥーンベリ・ゴンさんの意見だ。

が、ストーリーに全く道筋がなく、目的も何もない。何がしたいのかも見えて来ない。
メッセージ性もなく、何かを問いかけられた感じもしない。
様々な伏線と見られるような謎な演出も、後半にかけて何一つ回収されずに不完全燃焼のままエンドロールに向かう。
ファンタジーパートに移行してからは、作画がおかしい鳥の大群の印象しかない。
上映終了後、満席の映画館は沈黙に包まれ、誰一人として笑顔になっていなかった。
我々は何を観させられたのか…
みんなそう思ったに違いない。

https://twitter.com/bakanihakaten35/status/1679755668163801088

 他人の意見をかってにまとめあげないでほしいとしかいいようがないし、このツイートに寄生して見てもいない映画の内容を決めつけている人に賛同することはむずかしいが、それでもひとつの見解ではある。

 なので、まず、解釈とか考察とか批評とかの前に物語上のファクトといって良いであろうこととして押さえておかなければならない点を並べておこう。

 ここでは仮に主人公の眞人たちがたどり着いた異世界を〈下の世界〉と呼ぶことにする。なお、全面的にネタバレなので、未見の方は気をつけてください。

①〈下の世界〉はどこからか飛来した〈塔〉の力で大叔父が作り出した人造世界である。そして、おそらく人間が生まれる前の世界でもある。

②〈下の世界〉は複数の世界と時間につながるハブであり、複数の時間からやって来た人間と生命が存在している。この世界の鳥たちは大叔父が持ち込んで繁殖させたものである。

③したがって〈下の世界〉のヒミやキリコは若返ったり生き返ったりしたわけではなく、過去の時間からやって来た彼女たち自身である。

④〈下の世界〉でヒミは行方不明になった1年間を過ごして元の時間に戻っている。その後、大人になって眞人を妊娠出産し、死亡する。

⑤〈下の世界〉を出たヒミやキリコはその場所のことを忘却している。よってマヒトと再会したそのときにはすでにその記憶はない。最後まで〈下の世界〉を忘れていないのはマヒトだけ。しかし、そのかれですらやがて忘れていくであろうことが示唆されてもいる。

 ここまではおおよそ「客観的に確認できる事実」といって良いと思うのだが、ここから推定されることとしては、大叔父の世界は純粋に大叔父が作り出したものというよりは、もともと存在した「生前/死後の世界」をかれが改造したものであるのかもしれない。そう考えたほうが筋が良い気もする。

 まあ、それでも、ここら辺を押さえておけば物語はひと通りは理解できると思うのだけれど、どうだろう?

 もちろん、そのくらいのことはわかっているという人も多いくらい基本的な事項であり、これらを解決してもなお謎は残る。

 たとえばそもそもあのアオサギは何者なのか? 空から飛んできた〈塔〉は何だったのか? 大叔父が用いていた「悪意に染まっていない13個の石」とは? 〈墓〉にはだれが眠っているのか?

 これらの謎に明確な答えを出すことは容易ではない。しかし、たとえそうでも物語を楽しむことはできる。

 『ドラゴンボール』や『DEATH NOTE』で小道具の正体がわからないからストーリーの意味もわからないなどといい出す人はいないだろう。

 一方、もう少し心理的な「謎」もある。たとえば、眞人はなぜあえて自分の頭を傷つけたのか。夏子はなぜ〈下の世界〉へ逃げていったのかといったことである。

 これらのいわば「心の謎」は、設定的な意味での謎とは異なり、各人が個人的に解釈していかなければならない性質のものだ。

 しかし、だからといってまったく理解が困難な異常心理というわけでもない。手がかりはある。

 たとえば眞人は頭の傷跡を自分自身で「悪意」のしるしであると語っている。ということは、つまり、その傷を加害的、攻撃的にもちいる意図があったということだ。

 ならば、あえて大きな傷を負ってみせることでいじめっ子たちを追い詰めるつもりだったというのが妥当な解釈ではないだろうか。

 そしてまたそこにはかれの父や義母や環境に対する不満、鬱屈、悪意、復讐心などが複雑に関わっていたことだろう。人の心の問題に「正解」はないが、そう理解しがたい心理でもない。

 また、夏子。彼女が家出した理由も、おおよそは推測できる。彼女は彼女で初めての妊娠に不安があり、また、なつかない義理の息子に対しても怒りがあったと見るべきだろう。

 だからこそ、追いかけてきた眞人に対し「あなたなんて大嫌い!」と叫ぶ。

 しかし、もちろん、だから眞人を全面的に否定しているわけではなく、かれが「おかあさん(お義母さん)」と呼んで彼女を「家族」として認めると、いっきに正気に帰ったようになるのである。

 夏子だけではなく、この作品の登場人物はこれまでの宮崎駿作品に比べ、一様に卑小で生々しい印象を受ける。神話的な巨人はいない。

 しかし、だから否定的に描かれているかというとそうではなく、むしろ「卑しいところも醜いところも抱えているが愛するべき人たち」として描写されている印象である。

 この優しさ、親しみやすさはかつての宮崎作品に欠けていたものではないだろうか。ここにはあきらかに他者に対する「赦し」がある。

 そして、その「他者への赦し」と「自分はじつは愛され、守られている」という自覚、「自分にもまた悪意がある」という認識が組み合わされることで、かつてひとりよがりの悪意を振りかざして自傷していた少年は他者と、世界と向き合うことを知るのである。

 その象徴的なできごとがアオサギを「友達」と呼んだことである。

 この映画を母性への回帰と見る人も多いようだが、むしろこれはまったく価値観の異なる他者との友情のストーリーと見るべきだろう。

 たしかにある種のマザー・コンプレックス、あるいはエディプス・コンプレックスの発露と見ることができる映画ではあるのだが、重要なのは眞人が母の死を受け入れ、母に別れを告げて外の世界へ出ていくという成熟のプロセスである。

 この後、おそらく眞人は永遠に母と逢うことができない。それでも、かれは「友達を見つける」ために元の戦火の世界へ戻ることを選んだ。

 それは人工世界を完璧なものとすることをめざし、悪意のない石を探し出して理想世界を作り出そうとした結果、逆にその世界を「呪われたもの」にしてしまった大叔父とは真逆の生き方である。

 この展開に漫画版『ナウシカ』のあの有名な、「いのちは闇のなかのまたたく光だ!」という言葉がこだましていることを聴き取ることも可能だろう。

 また、庵野秀明監督の『シン・エヴァンゲリオン劇場版』とも強く共鳴するものを感じる。

 これはもちろん、どちらがどちらを模倣したとかいった低次元の話ではなく、両作品がひとつの普遍的なテーマに到達しているということである。

 「母なるもの」に別れを告げ、「友達」という他者を知ること。両作品のメッセージはこれ以上ないくらい明確である。

 「メッセージ性もなく、何かを問いかけられた感じもしない」? いったいどのようにこの映画を見たらそのような感想が出てくるものなのか、正直、謎でしかない。

 アオサギに友達として認めてもらうのを待つのではなく、夏子に家族として許されることを待つのでもなく、眞人のほうから心を開き、「友達」とか「お義母さん」と呼びかけていく展開はきわめて感動的だ。

 ここには明確に「他者」がいる。メタ的に見るのならアオサギは宮崎駿にとっての鈴木敏夫と見るべきなのだろうが、あえてそのようなモデル詮議をする必要もない。

 これは内に悪意や暴力性や加害性を抱え、それを自分に向けて暴走し空転していた少年が少し大人になるまでの成長と成熟の物語だ。

 そう考えると、宮崎駿のいままでのフィルモグラフィで最も優しい物語だといえると思うし、そこまで難解で観客を突き離す展開とも思わない。

 突然の母の死を受け入れられずにいた少年が友達を作るまでの物語、と見ることもできるだろう。それは「他者」という「世界」との出逢いであり、そこからすべては広がっていくに違いない。

 そこにはたしかに悪意が満ちており、「火(文明)」は戦乱を起こして人を焼き尽くす。それでも、閉塞した人工世界ではなく、その現実の世界を選ぶこと。そこに友達がいるということ。

 これはきわめて前向きな映画であり、やはり『シン・エヴァンゲリオン劇場版』と内容的にシンクロしていることを強く感じる。

 今回は父性も、たしかに滑稽なほどズレてはいるが、わりあいに肯定的に描写されているようだ(キムタクだし)。

 「ガレキの王国」に終わった『風立ちぬ』から十年、宮崎駿がこんなに愛を感じさせる優しい映画を撮ってくれるとは想像の外だった。

 「我々は何を観させられたのか… みんなそう思ったに違いない」。

 「みんな」がそう思ったに違いないって? ここにあるものは自他の区別をつけられない、つまり「他者」の存在を認めない感性である。

 それに比してというわけでもないが、『君たちはどう生きるか』は死と向き合いながらもなんと豊穣な世界を見せてくれるだろうか。

 やはり傑作だと思う。82歳の宮崎駿は素晴らしい仕事をやり遂げた。ありがとうございました。

 【追記】

 ――ときれいに終わっておこうと思ったのだが、「スキ」がたくさんついたので(ありがとうございます)、オマケとしていくらか加筆しておこう。

 「わかる人」にとってはあたりまえのことかもしれないのだが、まさにそれだけにわかる人はいちいち説明をしない個所について簡単に解説をしておこう。

 たとえば、作中におけるシュールレアリズム絵画からの引用である。

 この映画を見ていて、「あれ、この絵面、どこかで見たことがあるな?」と思った方は少なくないのではないだろうか。

 それもそのはず、この映画では古典名作絵画からの引用というかオマージュと思しい場面が複数登場する。

 たとえば、ベックリンの「死の島」であったり、マグリットの「ピレネーの城」、あるいはキリコ「通りの神秘と憂愁」である。


『ピレネーの城』
『死の島』
『通りの神秘と憂愁』

 これらは人間のイマジネーションの深淵を描き出した不思議な絵画の系譜であり、何かこう、無意識を鷲づかみにされるような異様な迫力をかもし出している。

 宮崎駿はこれらの絵画を引用することで神秘的な「潜在意識の世界」を描写しようとしたのかもしれない。

 また、「死後の世界」との往還を描く物語の系譜は「行きて帰りし物語」と呼ばれる神話の基本的なパターンである。

 これは、ある日常を生きる主人公が非日常に旅立ち、そこで冒険を繰りひろげて日常に帰還する物語のタイプで、その意味では『君たちはどう生きるか』も異質なストーリーというわけではない。

 ただ、本作で描かれているのは「わくわくするような冒険」というよりは、むしろ村上春樹的な死と無意識の世界への潜航であり、その意味で新海誠の興行的「失敗作」『星を追うこども』にかぎりなく近い。

 これは、そのような潜在意識の不思議な領域を描こうとするの「ではなく」、理不尽な「現実そのもの」を活写しようとする最近の物語のトレンドとは乖離しているようにも思える。

 宮崎駿にはぜひもう一作、「現実の世界」、つまりこの物語における〈上の世界〉を舞台にした少年の冒険活劇を描いてほしいものだ。それはきっと見る者を魅了する大エンターテインメントとなるに違いない。

 そもそも、宮崎駿はかつて、「善」と「悪」が明瞭に分かれた少年冒険活劇を描いていた。その最高傑作が『未来少年コナン』であり、また『天空の城ラピュタ』である。

 しかし、混沌として崩壊後の世界を描く里程標的大傑作、漫画版『風の谷のナウシカ』の完結を経て、『もののけ姫』においてはすでに何が正しく、何がまちがえていることなのかがわからない世界を描くようになっている。

 これはエンターテインメントとしての危機であり、もっというなら「物語」を成立させることの危機である。宮崎駿はコナンやルパンやパズーのような「正義の男の子」を容易に描くことができなくなったのだ。

 その結果、たとえば『ハウルの動く城』のハウルはまったく主体的なアクションを起こして「世界を救う」ことができなくなる。

 その限界を突破したのが『風立ちぬ』で、ここでは「男の子の加害性、暴力性」がはっきりと認識され、その上で肯定的に描写されることとなった。

 そして、いま、さらにその先で「男の子」は「すべてを受け入れてくれる母性」を離れて「何を考えているのかよくわからない卑小な性格の友達」を、「すべてが完璧で穏やかな理想の人工世界」を拒んで「暴力と差別に満ちた戦火の現実世界」を選択する。

 これは感動的な展開ではないだろうか。ぼくはとても感動的だと思う。世界は薄汚れていて卑しくみすぼらしい。そして、愛に満ちて美しくあたたかい。素晴らしいではないか。

 もうひとつ、この記事を書いたあとで面白いと思った人たちのネタバレ感想記事を挙げておこう。まずは、ノラネコさんの記事。さすがによくまとまっている。

 それから、ペトロニウスさんの記事。こちらは、アオサギ(≒鈴木敏夫)に着目したぼくの記事と異なり、大叔父(≒高畑勲)をクローズアップして語っている。宮崎駿の思想的側面を押さえておくためには必読。

 一方、あくまで物語をベタに受け止めて内容を解説したぼくの記事と比べ、よりメタに、モデル定義に踏み込んで語っているのが以下の渡辺由美子さんの記事。非常に納得度が高い。

 いろいろな人がいろいろなことを言うのはヒット作の宿命ではある。しかし、可能であればできるかぎり深く理解し、物語を楽しみたいものだ。何しろ宮崎駿の10年に一度の新作なのだから。

 祭はつづく。

 600スキを超える好評をいただいたので、調子に乗って「続編」を書いてみました。こちらもお読みいただければ&ついでに拡散していただけると大変ありがたいです。

 この解説記事がついに1000スキに到達してしまった。

 はっきりいってそこまでたいした内容ではないだけに「ひええ」である。いつもは10スキとか行けば良いほうなのに。

 何だろう、肩の力を抜いて書いたのが良かったのかな。おれはまだ本気出していないだけ。

 ウソです。全力を出してマジメに書きました。とはいえ、ぼくの書くものを長年追いかけているという、全体の0・01%くらいの希少な読者は、内容的にそこまで目新しいものはないなと感じたはずだ。

 自分のなかで新しいことではなくても読む人によってはバリューがあるかもしれないのだから内に抱え込まないでちゃんと外に出しなさい、という教訓としかいいようがない。

 そういうわけで、ここで何匹目かのどじょうを狙ってさらに『君たちはどう生きるか』について書き連ねても良いし、じっさい書きたいことはいくらでもあるのだが、あえてちょっと目先を変えて『風の谷のナウシカ』から続く話をしたい。

 そこまで長くはならないつもりなので、気楽に読んでほしい。そう、そこまで長くはならない。せいぜい30000文字くらいかな(てへぺろ)。

 最後まで読むと『君たちはどう生きるか』の話に接続するはずなので、まあ、お暇な方だけ読んでみてください。ぼく的にはそこそこ面白いつもり。

 題して「『君たちはどう生きるか』は『風の谷のナウシカ』の続編である」。

 あ、それから、常時お仕事募集ちうなので、この記事を読むなどしてぼくに宮崎駿作品について(ほかのことでも)書かせてやっても良いとお考えになった方はぜひご連絡をください。よろしくお願いします。

 ちなみにこの記事の有料部分を含む関連記事をすべて修正の上で収録した電子書籍も発売されました。こちらのほうが読みやすい方はぜひどうぞ。

 では、始めましょう。

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