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木と石、そして死と共に歩くこと -『君たちはどう生きるか』覚え書き-

宮崎駿監督の最新作『君たちはどう生きるか』が公開されてから約二週間が経過した。SNSやレビューサイトを覗くと、その物語は「難解」「カオス」と評され、そして宮崎駿監督の人生、あるいはセルフオマージュや元ネタを通して作品の考察が飛び交っている。

あるいはマヒト/大叔父/アオサギetc…。作中人物のいったい誰が宮崎監督本人であり、鈴木敏夫プロデューサーであり、はたまた高畑勲監督なのかという正体当てゲームは過熱し、日夜討論が繰り広げられている。

だが、本当にそうなのだろうか?少なくとも私にとって『君たちはどう生きるか』は誠実な作品だった。作品の内容はそれ単体で意味を為していたし、物語のシーンの順番はカオスとは真反対に精査して並べられ、キャラクターの一人一人を慈しむような作品だと感じた。
そして物語を辿っていくことで見えてくるのは、武装を解き、非武装の想像力へと開かれていく少年と世界の姿だ。

関わりあう木、関わらない石


まずは「君たちはどう生きるか」における重要なモチーフの話から始めよう。
それは「木」と「石」だ。

石が大事なモチーフであることは作品の中で明確に示されるが、木もまた石の対比関係に置かれている。ここで思い出されるのが大叔父とマヒトが邂逅時に交わした会話だ。

マヒトは大叔父の持つ積み木を見て「それは木ではなく墓と同じ石です。悪意がある」と語っていたが、これは単なる「石の積み木」という矛盾の指摘というだけではなく、作中で石と木が対比関係に置かれていることも暗示しているように見える。

作中で石が登場する場面を挙げていこう。原っぱで拾った白い石、大叔父の積む石、そしてマヒトが頭部を打った石、産屋(あるいは墓の)石、インコたちが住む石造りの塔、あるいは鉄製のナイフも石の派生と言えるかもしれない。マヒトが使っていたナイフは、石で研ぐシーンが描写される。

対して木はどうだろうか。アオサギの穴を閉じたコルク、キリコさんの住む大船も木製であり、キリコさんから手渡される人形も木彫りのように見える(人形の底面には塗装のされていない木材のような色が見え、そして加工用の穴が空いている)。

次にそれぞれの石と木の用途を考えると、例えば大叔父は一人で石を積み重ね、産屋や墓の石は人を孤独に深く眠らせる。インコたちは飛び方を忘れて石造りの塔に引きこもり、マヒトの頭部を打った石は学校を遠ざけた。

対してコルクはマヒトがアオサギの穴を埋めるために作ったもので、あの大船には亡者やワラワラが無秩序に寄り集まり、木彫りの人形は遠くに居る人間を大事に想うお守りだ。

このように石と木は、それぞれ石が「関わらなさ」、木が「関わりあい」を含む要素と大まかに結びついていることがわかる。

しかし作品内で興味深いのは、この石か木のどちらかを選ぶのではなく、両方をもう一つの世界から持ち帰っていることだ。石は強く頑丈だが、人を寄せ付けず、そこには悪意が宿る。木は柔らかく人をつなげるが、脆くそして燃えやすい。石と木はどちらも重要で、片方が欠けてはならない。

実はもう一つの世界に行く前からすでにマヒトは、石と木のどちらも大事な要素であると理解している。それはマヒトが弓矢を武器として使用しているからだ。柔らかな竹を切り出して弓を作り、鉄製の矢尻を使用する弓矢は、木と石のどちらの性質も兼ね備えている。
そのしなやかさを持って遠くまで矢を飛ばし、先端に取り付けられた悪意の塊で敵を撃つことが出来る。
そして劇中では弓矢にアオサギの矢羽根を取り付け、マヒトはアオサギに傷をつけることに成功する。

つまりマヒトはもう一つの世界に行く前に、すでに段階的に「石と木」の力そのものに気付いている。だから彼があの冒険で学んだ知恵は、石と木で作った「弓矢」という武器を、「白い石と木の人形」という非武装的なお守りに変えることだったと見えるのだ。

武装から非武装へ

それでは、映画の中でマヒトが武装→非武装の思考へ至る変化はどのようなものだったのか見ていこう。こちらもシークエンスの順番を見ていくことが重要だ。

物語の序盤で、マヒトは学校という場所を遠ざける為に自ら頭部に石を使って傷をつける。そして前述の通り、木刀やナイフ、弓矢を使ってアオサギを追い払おうと試行する。
つまりここではマヒトにとって攻撃とは、誰かを寄せ付けない為に行われるものである訳だ。

しかしその後、マヒトはもう一つの世界で若きキリコさんと出会い、大船の住処へとたどり着く。キリコさんはマヒトに魚の捌き方、そして殺生を教える。亡者たちを見て、「あいつらは殺生はできない。殺すのは俺の仕事さ」と語るように、殺生とは元々目的を持って行われる、特別な仕事であることが示される。
マヒトは汗だくになりながらナイフで魚を捌くが、その肉と内臓は亡者やワラワラに振る舞われる。他者を拒絶するのではなく、他者とつながるための殺生を知る体験。魚を捌くシーンのカメラの位置にも注目しよう。この時マヒトは傷のない左側から映されている。つまり悪意の傷の側ではない、生の意志を持って殺生が行われているのだ。

殺生の意味を知ったからこそ、その後に描かれるペリカンがワラワラを食い、さらにヒミが燃やすシーンでマヒトは怒る。しかしここでもマヒトの怒りは独善的だ。傷ついたペリカンが、ワラワラを食うのはここに連れてきた大叔父様の命令だと語り息絶える時、マヒトは他者における殺生の意味を知り、死んだペリカンを埋める墓を作る。

また、このシーンで死生の混ざり合いを象徴するモチーフが火だ。キリコさんは料理の窯を煮るために火を使い、そして自身の自衛にもその力を使う。
しかし火の力は強大で、美しくもあるが時として暴力的ですらある。海のシーンでヒミがペリカンを追い払う為に花火のように打ち上げたヒミの魔法は、周囲のワラワラまで燃してしまう。

そんな大船での体験を経たマヒトの心情の変化を表すのが、アオサギの為にコルクをナイフで成形してやるシーンだ。ナイフは元々アオサギを追い払う弓矢を作る為に使用していたはずだ。しかしキリコさんの元での体験を経た後ではアオサギのクチバシの穴を塞ぐためのコルクを作るため、そして口の中に当たるコルクの出っ張りを削るためのナイフとして使われる。
武器を作るための道具が、誰かのために役立てる道具に用途が変化するのだ。

この映画の興味深い部分は、キャラクターの内面で成長が完結するのではなく、石と木に代表される道具というモノへの使い途や見方を学んでいくことで成長を表現している点にある。
そしてそれは軍事産業に従事し、兵器によって資金を得るマヒトの父親の道具に対する画一的なスタンスへの回答でもある。

こうして徐々にマヒトは、自らの行為を省みつつ武装→非武装の思考を会得している。そしてそれを生きた知恵として活用し、手元にある道具を使いこなしていくのだ。

とはいえ彼は、大叔父との最後の会話で「悪意のない石には触れない」とも語っている。彼は完全なる非武装の、あるいは平穏の世界を否定する。何故ならば、石と悪意は分かつものではないからだ。そして彼が悪意の無い石に触れなかったのかは、次の章でアオサギの存在と共に語ることにしよう。

映像には登場しないが、こうした「石と木」の組み合わせで象徴的な物体がピアノである。ピアノは鉄でできたフレームで弦を張り、木製のボディとハンマーを使って音を鳴らす石と木の楽器だ。

今回、劇伴はオーケストラの重厚なサウンドよりもピアノの静かな音色が印象的に使用され、またEDで流れる米津玄師の「地球儀」もアップライトピアノの音色が楽曲全体を包み、よく耳を澄ませると鉄のダンパーペダルが木製のボディに軋む音がわざと残されている。

作曲という行為は孤独な体験だが、それを演奏すれば誰かに届く音が鳴る。弓矢は遠くまで悪意を飛ばす武器だった。しかしピアノはその音を遠くまで響かせ、悪意に染まらない個人的な感情を誰かに届けることが出来る。
マヒトがもう一つの世界から持ち帰った石と木に宿った祈りの一つの答えは、映像の外側で鳴り続けていたのだ。

飛来するアオサギ、死と共に歩く


もう一つの世界でマヒトは木と石の使い方、つまり知恵を得た。
その知恵を用いることで、関係を変化させたキャラクターがいる。
それが物語のトリックスター的人物であるアオサギだ。では、マヒトが敵対し、そして知恵を使い、最終的に友達となったアオサギとは一体なんだったのだろうか?

作中冒頭でナツコがマヒトに向かって、アオサギが屋敷に棲みついていると説明するシーンがある。このシーンでは、観客からはあたかもアオサギは実在しているように見える。
しかし一方で屋敷に長年働いてきたお婆さんたちは、マヒトの言うアオサギがピンと来ていない。アオサギに襲われ、気を失ったマヒトが目覚めた時に質問しても、「アオサギ?夢でも見たのかしらね」と言われてしまう。
本当にアオサギが実在するのであれば、屋敷に二人より長く居るお婆さんたちが知らないのはおかしい。つまりアオサギは一般の人々からは存在そのものが認知されていないことが判明するのだ。

また、アオサギとマヒトの交流には段階があることも注目したい。最初にアオサギが現れた当初は鳥らしい振る舞いを見せ、さらに離れの屋敷を見つけた当初、その穴に入り階段を見つけたマヒトは羽を手に入れるものの、出た瞬間に手元にあったはずの羽は消えてしまう。

しかし次にマヒトが石で自らの頭部右側を傷つけると、そのすぐ後にアオサギは喋りだす。その時にアオサギが喋るセリフは「マヒト、助けて、マヒト!」というものだ。これは夢の中で母親、ヒサコが炎で焼かれながら呼ぶ声を真似たもので、マヒトはその声に「母さん、今いくよ!」と応答している。
また石で頭部に傷をつけるシーンを経た後に挿入される弓矢の作成シーンでは、池の近くでアオサギの羽を回収し矢羽根に取り付ける=実存するものとして羽を扱っている。

つまり自傷行為や死者の囁きに近づけば近づくほどアオサギはこちらに近寄り、存在を獲得していっているのだ。アオサギは屋敷ではなく、ナツコとマヒトそれぞれの心に棲みついている幻で、それは死に誘惑される度に強度を増していく怪物だ。死の象徴としてのアオサギの存在は物語序盤の館の広間でピークを迎え、弓矢を構えるマヒトに向かって、恐ろしい形相で「弱虫のお前の心臓をブチンと噛みちぎってやる!」と明確な殺意を剥き出しにする。

しかし物語は意外な展開を見せる。もう一つの世界に招かれたマヒトはアオサギに向かって弓矢を撃つと、アオサギは矢から逃げるうちに着ぐるみのように皮が剥がれ、中から別の顔が現れる。弓矢がクチバシに穴を開け、アオサギの飛行する能力は失われる。そして彼らは反目しつつも、かつての怪物と敵対者は、キリコさんとの出会いを経て、やがて奇妙な友情を結ぶことになる。

鳥男という隣人

この鳥から鳥男への変化は、マヒトの死に対する考えの変化を表している。

マヒトは夢の中で見た母親の声に、「今いくよ」と答え、そしてアオサギとの会話でも母親が死んで、もう居ないことを何度も確かめたように、死、あるいは死者は生者とは相入れない距離があるものだと考えている。つまり母親の死を受けた直後のマヒトは、死と生は分たれるものだと考えているのだ。

だからこそマヒトは当初、アオサギを追い払おうとする。しかしその度にアオサギは力を増していく。その羽に傷を与えたのは、マヒトが自らの意思でその元に向かった時だ。そして石と木でできた弓矢で、「アオサギ自身」の落とし羽を使った矢羽根は意志を持ったようにその姿を捉え、飛翔する力を奪う。
しかしここで彼が行っているのは、石と木で武装し、その力によって死を無理やりねじ伏せようとする行為でしかない。

対して、アオサギと友情のようなものが芽生え始めるのは大船の場所へ向かった後だ。
魚を捌き、ワラワラとペリカンの捕食の輪廻を目の当たりにし、ヒミの火が善悪の区別なく命を燃やすのを目撃する。その行為に怒りつつも、息絶えたペリカンを埋葬し、そしてまた次の日が来ると自分たちもまた命を食らう食事を行う。船上の生活において、死と生は混ざり合うものとして描かれる。
それを学んだマヒトを見て、キリコさんは「あんた達はいい相性だ」と笑うのだ。
マヒトはアオサギと共にナツコを探すことになるが、その時アオサギは翼ではなくその脚でマヒトとともに歩んでいく。そしてコルクで穴を埋めてもらった後も(あるいは埋めてもらったからこそ)アオサギはマヒトと共に冒険を続ける。

そう、アオサギとマヒトは世界を並んで歩いていく。それはただ一人で歩かされる行為とはまるで異なる行為だ。

劇中、「歩く」ことの違いを象徴するようなシーンがある。墓の門の前でマヒトがペリカンの襲撃に遭う場面だ。ペリカンはマヒトに詰め寄り「食いに行こう/歩け!」と絶えず叫んでいる。この食いに行こう、は鳥の姿をしていた頃のアオサギの持つ殺意にも通ずる言葉であり、そして続け様に「歩け」という命令を発している。この時、カメラはマヒトの右側頭部の傷を映し、下手→上手に押し出されていく様を見せる。これはキリコさんの元で魚を捌くシーンとは極めて対照的な演出だ。

大船で出会った衰弱したペリカンは、呪いの海から逃げ出す為に高く飛んだが、結局そこから抜け出すことはできず、子孫は飛び方を忘れたと語った。
つまり墓のシーンでマヒトを襲った「歩くペリカン」は、先祖がかつて挑戦した飛ぶことを忘れ地獄を受け入れた者たちであったのだ。

歩くペリカンやセキセイインコたちに代表されるように、あの世界では食事という己の生存行動のためにただ歩かされる行為は、受動的に死を受け入れる行為の裏返しとなっている。しかし同時に、上に飛ぶこともまた答えではない。死のない世界を求めて上空へ飛ぼうとも、それは同時に目の前の生を全うすることからの逃避でしかない。
だからマヒトとアオサギは共に並んで、自らの意思で世界を歩くのだ。死は分たれるものではなく、生と混ざり合うものだから。

前章で予告していた、悪意の無い石で世界を作ることを拒んだ理由は、まさにその為だ。平穏で美しく、悪意の混ざらない石で出来た世界。それは言い換えれば、死が分かたれる世界の象徴でもある。
しかしそこには、ヒミやキリコや、そして死の象徴であるアオサギのような友達はいない。だからこそマヒトは、悪意のない石の積み木を作らなかったのだ。

また、正体を見せたアオサギは、意地悪ではあってもなかなか憎めないやつである。
キリコさんの部屋で食事を行うシーンで、アオサギは「自分はズルくない、ズルイのは我々の生きる知恵だ」と憤り、ナツコをもう一つの世界におびき寄せるような力は無いとも白状している。
確かにアオサギはマヒトを死へと誘惑したが、例えばそれは夢で母親から言われた言葉だった。つまりマヒトが聞いていたのはアオサギ自身の言葉ではなく、自分の心に響く内的なものだったはずだ。死に知恵はない。死に知恵を授けているのは、本当は我々自身なのである。

二つの継承

『君たちはどう生きるか』は、見方によっては二つの継承が描かれている作品でもある。大叔父とマヒトの継承、そしてヒミとナツコの継承だ。この二つの継承にも、「分かたれる/混ざり合う」死という価値観が大きく関わっている。

大叔父とマヒトの継承

まずは大叔父とマヒトの世界をめぐる継承問題を見ていこう。この継承は失敗し、世界の崩壊を招くことになる。

まずは、大叔父とその世界とは何なのかを考えてみることにしよう。
それにはまずお婆さんがマヒト父に語った昔話を思い出すことが必要だ。石造りの塔が作られた経緯を聞くと、始まりは巨大な石が空から落下してきたことからだったと言う。
そして石が落下してきた時期を、お婆さんは「維新のちょっと前」だと明確に語っている。それから三十年経って、森も戻って来たころに大叔父が石を建物で囲ったのだと。



先に結論を言ってしまうと、この落下してきた石とはつまり、明治期に日本に輸入された西洋文化のメタファーであると考えられる。


明治維新後、文明開化によって様々な西洋文化が日本に入り込んできた。中でも洋装、石造りの建物、肉食文化は代表的な例だろう。

作中で描かれる要素を見ていけばそれらが当てはまることがわかる。大叔父の格好は洋装で、建てた塔は石造りの洋風だ。塔に居座るセキセイインコはアオサギ曰く大叔父が持ち込んできたものだったが、セキセイインコは明治時代の末期に日本に輸入されてきた飼鳥である。

そしてこの世界のセキセイインコはナイフとフォークを持って、人間の肉を食らおうとする。そして大叔父の暮らす「天国のような」塔の最上階では明治期から流行した園芸空間が広がる。

このように外部から突然やってきた別の文化、あるいは想像力を持って大叔父はもう一つの世界を作り上げた。しかしそれは大叔父を外の世界と隔たりを生み、塔の内側に閉じ込める孤独な世界を作り上げてしまう。石の想像力が持つ「関わらなさ」がここでも機能している。


ここで、とっくに寿命を迎えるはずの大叔父が死亡せずに生きながらえていることは重要なポイントだ。大叔父は石の拒絶する力によって、死そのものすら遠ざけているのだ。自然はコントロール可能であり、生と死は分かたれる。そうした西洋的な思想が大叔父の死生観そのものにも共鳴していることがわかる。

大叔父の死生観は、アオサギという死と共に世界を歩いたマヒトとは真逆の思考だ。ここでマヒトがアオサギと共に歩むように思考を変えた、キリコさんとの出会いを思い出すと面白い対比が浮かび上がってくる。

キリコさんの服装は和装で、さらに樹木が鬱蒼と生い茂る大船に住んでいる。大船は家とも森とも移動手段ともつかぬ混ざり合った存在で、そこで食されるのは魚だ。海に生きるペリカンやナマズ、ワラワラは輪廻を描く。要するにそこに描かれているのは旧来的な日本の暮らし、そしてどろどろと生と死が混ざり合う、一種の自然信仰やアニミズム的価値観に近い世界観であったという訳だ。

石造りの塔と森の大船は対照を成し、ここで石と木のメタファーは西洋文化と旧来的な日本文化という大きな要素を包括し始める。
それを踏まえると、大叔父が石の世界を継承させようとするも、第二次世界大戦という「西洋諸国との戦中世界」からやって来たマヒトがそれを断り、木と石の両方を持って現実に帰るというストーリーはかなり示唆的なものにも感じられるだろう。つまり大叔父の継承とその失敗とは、戦後日本社会における「時代そのもの」の継承とその行く先でもあったと見立てることができるのだ。

が、ここではあえてメタファーの包括量を過度に肥大化させることはやめて、個人的な尺度で物語を語ることにしよう。マヒトは生と死が分かつものではなく、混ざり合うものであると思考する。

対して大叔父は時間がねじ曲がった石の塔に寿命を超えてもなお住み続け、初登場シーンからマヒトたちの場所より遥か高みの位置から語りかけ、アオサギについても「愚かな鳥」と蔑んでいるように、生と死は混ざり合うものではなく分かつものだと信じている。ここで二人の思想は平行線を辿り、継承が成立しないことは最初から明確だ。

だが、ここで大胆な一つの仮説を立てて大叔父の行動を考えてみよう。
実は大叔父の継承とは、絶対に成立しない行為ではなかったのだろうか?という仮説だ。

というのも、マヒトが生まれる為にはヒミが外の世界に出ていくことが絶対条件だからだ。
お婆さんがマヒトの父親に伝えた昔話を思い出してみよう。ヒサコが失踪から一年後、何もかもを忘れてそのままの姿で戻ってきたことを語っているあのシーンだ。

その時に描かれるカットで、ヒミの姿はシルエットであるにも関わらずエプロンだけは彩色され、時の回廊を出た時と同じものを着用していることが演出されている。つまりマヒトの出会ったヒミは幻ではなく、時の回廊から出たシーンと失踪したヒサコが帰ってくるシーンは連続した現実であることが示されている。

だからこそ、マヒトの誕生には比喩ではなく事実としてヒミが今いる世界から脱出しなければならない。そして仮にマヒトが継承を承諾し、もう一つの世界が崩壊しなかった場合、ヒミは今いる世界を出ていく理由がなくなってしまう。

しかし、そうなるとマヒトが生まれる条件である「ヒミの外の世界への帰還」イベントが発生しなくなる。すると今度はマヒト自体が存在しないことになる為、継承者そのものの存在が消えてしまうのではないだろうか。
もう一つの世界においてこのようなタイムパラドックスが発生するかどうかは定かではないものの、もしこれが事実となれば継承は相当な矛盾を含んだ行為となるだろう。

マヒトとの一度目の継承についての会話では、マヒトが子孫であることは承知しつつも、その継承を持ちかけている。この時、大叔父はマヒトがナツコの子であると思っていたのではないだろうか。

そう考えると、大叔父はマヒトがナツコではなくヒミの子供だと知った時、「出る理由のなかったはずのヒミが外に出る=将来的に世界が崩壊するイベントが発生する」という残酷な現実を悟ったのではないかと考えられる。

大叔父の継承の意思が明確に変わるのは、マヒトとの一度目の継承についての会話終了後、インコ皇帝がヒミを庭園へ連れてきた場面だ。ここで大叔父は「眞人はいい少年だ。返さなければならないようだね」と語っており、まさにヒミとの会話のタイミングで継承を諦めていることがわかる。(マヒトは母親とそっくりだという設定が存在するが、もしかしたら大叔父はマヒトとヒミの顔を比べたことで、ナツコの子ではないと分かったのかもしれない)

ヒミがマヒトの母だと理解した時の大叔父の心境はどのようなものだろうか。マヒトは世界を存続させる救世主ではなく、むしろ世界にとっての破壊者であり、それはある意味で自らの死そのものである。
そう考えると、大叔父が物語終盤に行う2回目の継承の場面は、世界の継承をすでに放棄している(帰るもよし、残るもよし、とマヒトに語っている)。すでに大叔父がやり残したことは、マヒトに悪意の無い石を積んでもらうことでしかない。

彼はすでに世界の終わりを悟りつつも、マヒトに美しい平穏な世界を作ってほしいと願う。その時のマヒトとの会話は大叔父にとって、死を分かつものではなく混ざり合うものとして受け入れた行為だとも捉えることが可能だろう。

ここにおいてマヒトにとってのアオサギと、大叔父にとってのマヒトは奇妙な相似を描いている。死を受け入れ、それと並んで歩くこと。大叔父の継承と死は、そこにヒミの子供たるマヒトが存在しているだけで、すでに完結していたのかもしれない。

ヒミとナツコの継承

それでは、もう一つの継承とも言える、ヒサコ/ヒミからナツコへの親という役割の継承を見ていこう。


まずは継承そのものについて語る前に、ヒサコとナツコの二人について考えていこう。劇中では二人の心境は多くは語られないが、幼少期の彼女たちを想像させるセリフがある。それはヒミがマヒトと食卓を囲み、紅茶とパンをご馳走するシーンだ。マヒトが「母は死んだ」と語った時、ヒミがどこか寂しそうな声で「私と同じだ」と答えている。

これは何気ないが重要な台詞だ。ヒサコ/ヒミと、その妹であるナツコはマヒト同様、かつて母親を失った子供たちだったことがここで明かされているからだ。しかし孤独な二人の少女たちは、それぞれ別々の人生を歩むことになる。

ヒサコはお婆さんがマヒトの父に語った昔話にある通り、幼い頃に幻想の世界へ消えてしまったことが示されている。これはマヒト同様、母親の姿を探し求めた末に、いつの間にか迷い込んでしまったのかもしれない。

そうなると、孤独なのはナツコだ。彼女もまた母親を失った子供であったはずなのに、それに次いでヒミまで消えてしまったのだ。彼女はきっと自分の感情を押し殺して生きていかなければならなかったのだろう。劇中には大人になった彼女の孤独を語るようなシーンがある。

屋敷を案内した後、マヒトが自分の部屋に戻って眠っている場面で、その横顔を彼女が見つめるカットだ。マヒトの顔は姉にそっくりだとその直前で語られているが、その顔を見つめるナツコの表情に滲むのは子供に対する慈愛ではなく、むしろ重苦しい雰囲気に満ちている。

あるいは家族の食事シーンで、戦況が激しくなり工場が栄えていることを誇る夫に対して「亡くなった方達が可哀想」と彼女は悼むが、夫はそんな彼女の言葉を無視して「おかげで工場は大忙しさ」とその売り上げを喜ぶ。彼女の存在は一家の誰にも見えてないのだ。

こう考えると、彼女にもアオサギが見えていたのも肯ける。彼女の大事な人はみんな亡くなっていて、目の前にいる人々とは絶対的な距離を保ったままの世界に一人生きているのだから。
彼女はもう一つの世界に出向き探していたのは、もしかすると自分自身の居場所だったのかもしれない。

だが、物語はマヒトとナツコが関係を編み直す様が丁寧に描かれている。それを繋いだのは二人の痛みだ。シークエンスを順番に追っていこう。

マヒトがアオサギに館に来るよう誘惑を受け、鯉や蛙から「おいでませ」と呼び寄せられるシーンで、その窮地を救ったのはナツコの飛ばした弓矢だった。
マヒトはこのすぐ後に気絶してしまう為、弓矢が誰のものなのか分かっていない。
それがナツコのものだと気づくのは、つわりで休む彼女の部屋に見舞いに行った時だ。部屋の中にコートスタンドとその傍らに弓矢が置いてあるのを見て、ハッとする真人のカットが挿入される。

この時、マヒトはすでにアオサギが見えるもの/見えないものの二種類がいることをお婆さん達の反応で知っている。マヒトは自らを救った弓矢がナツコのものであると気づくと同時に、彼女にも「アオサギが見えている」意味を再確認したのだ。

その為、森の中へナツコさんが行方不明になった時にマヒトがキリコさんと森を捜索する際、「来たくて来たんじゃないと思う」と彼女の心境を推測するのだ。
そして館へと立ち入るマヒトを、「ナツコさんなんかいなくていいと思っているのに、それでも行くなんておかしいよ」とキリコさんが止めるが、それについても彼は聞く耳を持たない。
この時点でマヒトは、ナツコが自分と同じ痛みを抱えているのだと気付いているようにも見える。

では、彼女の救いはどのように達成されるのだろう?ナツコの救いは「拒絶」という行動によって達成される。産屋のシーンで、彼女はその中に入ってきたマヒトに向かって何故きたのかと問い詰める。そしてナツコさん、一緒に帰りましょうというマヒトの問いかけに、「あなたなんて大嫌い!」と恐ろしい形相で叫ぶのだ。

この時、ナツコはようやく誰かの為に我慢するのを辞め、自分の本心を吐露して拒絶を示すことで彼女自身の人格を取り戻している。ここでマヒトの名前を呼ばず、「あなた」と呼びかけていることも重要だ。彼女はマヒトだけでなく、その面影に重なり合う姉や、あるいは夫の残像を見ていて、それら全てに「大嫌い」だという感情をぶつけているようにも聞こえる。そして

ナツコの拒絶と石の持つ「関わらなさ」や「他者を遠ざける力」は共鳴する。
産屋は冷たく硬い石で出来ていて、そこには侵入者を許さない魔法が走る。人とつながる木の力だけでなく、拒絶する石の力もまた重要であることはこの為だ。

そしてマヒトは最初こそ彼女の拒絶に驚くが、その後にようやく「お母さん!ナツコお母さん!」とそれまでの他人行儀な「ナツコさん」から「お母さん」と呼び方を変える。ここでは二人のつながりが、拒絶を経由することで編み直されていくのだ。

しかし産屋はそれを許さず、絡みつく紙垂の群れの中、二人は気絶する。
しかし産屋の外側で待っていたヒミは、その一部始終を受けて石と契約を行う。それはナツコを、息子となるマヒトのもとへ返して欲しいという願いだ。この瞬間に「親子」という役割の継承が、ヒミからナツコへ行われている。そしてヒミの親としての舞台の終了を告げるように、彼女が地面に倒れると同時に赤い幕が画面に降ろされるのだ。

では、なぜヒミは役割を継承しようと思ったのだろうか?

私はヒミにとって、役割というものの考え方が変わったきっかけとなったのがマヒトとの食卓のシーンなのではないかと考えている。
長いあいだヒミはもう一つの世界で一人だったはずだ。母親を探して世界を旅するも、その影はどこにもない。そんな中でマヒトに出会い、暖炉と窯のある家の中でヒミはパンを振る舞う。

あの食卓のシーンは、一見マヒトが母親の愛情に触れて救われるシーンのように見えるが、実はあのシーンで救われていたのはヒミだったようにも思えるのだ。

そこに描かれる暖かな食卓の風景と、ヒミのバターとジャムを塗る優しげな手つき。それはかつて母親から過去に受けられなかった愛情を、目の前の誰かに向けて再演する行為でもある。



おそらく誰しも心の深い部分に、救われなかった幼い頃の自分自身がいるのだと思う。そして私たちが生きる中で、子供たちは笑ったり怒ったりする。そしてある時は、孤独に沈んでひとり泣いている時もあるのかもしれない。

しかし、心の中に棲む子供はいつまでも孤独ではないはずだ。ヒミはあの食卓で目の前のマヒトだけではなく、ヒミ自身の幼き頃の孤独も一緒に救っていたのではないだろうか。
時は不可逆だが、愛情は可逆する。自分自身が過去に受けられなかった愛情を、人は別の誰かに向けることで満たすことが出来る。

だから、パンにバターとジャムを塗る手つきはヒミだけでなく、ヒミの母親のそれでもある。あるいは私自身が過去に見た手つきでもあるし、また誰かの過去に残った、あの時の手つきであるかもしれない。


その時、誰かの為の愛情は仕草(それはあるいはアニメーションと言い換えてもいいかもしれない)という「ゆるやかな依り代」によって、キャストを変えて無限に再演され続ける。
そしてマヒトがバターとジャムが滴り落ちるパンを頬張る瞬間、ヒミの孤独もまた溶けていくのだ。



時の回廊でヒミとの別れ際、マヒトはいずれ火に焼かれるヒミの未来を案ずる。そこでヒミは「火は平気だ。素敵じゃないか。マヒトを産めるなんて」と返す。ここで彼女が「親になる」ではなく「産める」という行為を素敵だと語ることで、マヒトの呪いは解かれている。



何故なら、上記の食卓でのシーンでみたように、愛情を向ける行為は人を変えて再演され得るからだ。だからその愛情を受ける/与える対象である命がそこに存在するのであれば、ヒミの人生は肯定される。

親という役割そのものは交換/再演可能で、だから彼女はその役割を果たせなくても、マヒトという命を「産む」という行為を言祝ぐ。

石との契約でヒサコに親という役割を譲渡したのもその為であろう。子供への愛情は、例え自分がそれを達成できなくても誰かがその愛情を再演する。それを信じて彼女は親という役割を継承したのだ。

大叔父の継承は(タイムパラドックスが発生するのであれば)ヒミとマヒトの血の繋がりがあった故に失敗したのに対して、ヒミからナツコへの継承は血の繋がりではなく、そこに宿る愛のこもった仕草や感情を尊ぶことで達成されたとも言える。
そして再演という行為もまた、ヒミの母親の感情がヒミの手つきに混ざり合うように、あるいはヒミの感情がナツコの親という役割に混ざり合うように、故人の意思が生者と重なり合う力でもある。ここでも死と生は混ざり合い、共鳴するのである。

ヒミはあの扉をくぐり過去の世界に出て後は、それまでの記憶を無くして生きていく。
お婆さんがマヒトの父親に伝えた昔話で、ヒサコが失踪から一年後、何もかもを忘れてそのままの姿で戻ってきたことを語っている。

だから彼女はマヒトとの出会いを覚えていない。だが、大事なのは記憶ではなく行動であって、ヒミはもう一つの世界から出たことで未来でマヒトを産むことが出来る。
その後火事で死んだことでマヒトは母親の幻想を求めてもう一つの世界へ出向くが、そこで過去のヒミと出会い、またヒミは時の回廊から扉をくぐる決意をする。
時間はループする。そこに記憶は残らない。
しかし同時に、死者と生者という垣根を超え、「誰かが誰かの歩みを進めた」という行動は残り続け、何度でも世界を前進させていくのだ。

マヒトの部屋


ここまで物語を追ってきたが、最後に映画で象徴的に描かれたマヒトの部屋について触れることにしよう。
マヒトの部屋のシーンでは、以下のようなレイアウトが複数回使用されている。(記憶を頼りに書いている為、あくまで大まかな配置だけ見て欲しい)

最初にマヒトが部屋に入ったシーンや怪我をしたマヒトを父親が看病しに来るシーン、そして夜中にマヒトが起きるシーンなどでも同一のレイアウトが使用され、そして何より映画の最終カットはこのレイアウトで締められる。

重要なのはその配置だ。上手側に窓、画面中央に机、下手側に扉を配置した、水平/フルサイズのカットになっている。
アオサギは必ず上手側の窓から登場し、屋敷の人々は下手側の扉から出入りを行う。その二つが同時に映り込む上記のレイアウトは、絵の構図そのものが彼岸と此岸、あるいは現実と想像のつなぎ目を表しているようだ。

そして水平/フルサイズのカメラは密室的で、どこかドールハウスのような息苦しさを感じる。まるで上手の窓、下手の扉が、両極のつなぎ目であるこの小さな部屋を、両側から押しつぶそうとしているようにすら見えるのだ。

そう、マヒトはこの部屋に閉じ込められている。屋敷の人々やアオサギ、あるいは時代や運命というものによって、ケースの中で押え込まれているのだ。

しかしその一方で、窓と扉の間を区切るように、部屋には小さな机が設置されている。ここでマヒトは本を読み、弓矢を作る。机は上手と下手に広がる世界と対峙する為に用意された子供の聖域であり、だからこそ机の前に居る時間だけは、彼はカメラに背中を映す形になる。

弓矢の作成に熱中する時、あるいは、母の残した本を涙を流しながら読む時、その手元はレイアウト上、背中に隠れて見えない。机の上に広がる彼の透明な時間は、彼以外の誰のものでもないからだ。

扉を開け放つ

劇中、上記のレイアウトの中でマヒトが扉をくぐるシーンは3回登場する。最初にこの部屋を訪れた時と、夜中にマヒトが目覚める時、そしてラストカットの3回だ。

最初に扉をくぐるシーンでは、ナツコが部屋の扉を開け、マヒトはその後に続いて入るという演出をとる。そこではナツコが部屋を案内すると言い、扉を開けるとすぐにこの窮屈なレイアウトのカットに移るようにカットがつながっている。前述の通りこの部屋は彼を閉じ込めるケースのようなものであり、だからこそ、ここにおけるカットの繋がりは新生活への希望のようなものを意図的に感じさせないよう演出されている。

次に夜中に目覚め、彼は扉を開ける。しかし彼は階段の上で座ったまま動かない。玄関の扉からは火に巻かれる母親を幻視し、さらにナツコと父親のキスシーンを目撃してしまう。彼は階段の下につながる現実に慄き、自分の部屋にすごすごと戻るのだ。

だが彼は長い冒険を経て、様々な知恵と経験を得ることになる。時の回廊に無限に並ぶ扉を抜け出た彼は、世界がどこへでも行けるものであることを知っているはずだ。
ラストシーンは塔での出来事から数年後、戦後の世界を描いている。最初に階段の下にはマヒトを笑顔で待つ家族の姿が映り、そして件のレイアウトで描かれた部屋のカットへ移行する。マヒトはこの部屋を出ていく。デッドエンドのように見えていた扉と窓はもはや少年にとってただの枠でしかなく、窓からは戦後の青空が煌めいている。

ここに来てようやく映画は、マヒトが自分自身で部屋の扉を開け放ち、この場所を出ていくアニメーションが描かれる。

レイアウト外に出た彼の姿はカメラには映らない。
その先の世界は小さな部屋を飛び越えて、私たちには見えない無限に広がる未知へと続いていくのだ。


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