『スピッツ論』、または(私の)くだらない冗漫性
はじめに
伏見瞬という批評家の『スピッツ論』という本に興味を持ったのは、『webゲンロン』というサイトの記事がツイッターに流れてきたのがきっかけだった。
私は必ずしもスピッツの熱心なファンではないのだが、初期の《スピッツ》《名前をつけてやる》《オーロラになれなかった人のために》の3枚については現在も大好きなアルバムだ。
私がこれから書く記事は、『スピッツ論』の章題に添う形で、それに触発されて私が思ったことや感じたことを、冗漫に、冗長に、脈絡なく書き連ねるつもりであるが、この雑文がもしも読者に何かをもたらすとしたら、その冗漫性ゆえの、論の焦点の定まらない、迷宮的な酩酊的な(ひょっとしたらそれ故に蠱惑的な)感覚くらいであるかもしれない。
いかに雑文とはいえ、独り善がりな“自分語り”にならないようにだけは留意するつもりだが、一般的なスピッツ・ファンにとっては長文過ぎて退屈であろうし、本格的なポップ・ミュージック批評を欲する向きにとっては立論の粗雑さゆえ読むに堪えないものであるかもしれない。
何を申し上げたいのかというと、つまりこの記事は私個人の単なる「読書メモ」に限りなく近く、「読者」という存在を仮想せずに書きなぐっているにすぎず、ついでにいえば批評のマナーとしての先行研究のリサーチなどもまったく行っておらず、被ってたらすいませんと、初めに謝っておく。
なお、記事タイトルは伏見がnoteで公開しているある記事へのオマージュとして付した。「冗漫」はもちろん伏見の著書へではなく私のこの雑文の属性として記したことを、念のため書き添えておく。
いちおう私のスピッツに関するアティテュードをもう少し示しておくならば、仮に私が日本のポップミュージックのベスト100曲を選ぶとしたら、前掲の3枚から1~2曲を選ぶであろうし、アルバムベスト100なら《名前をつけてやる》はおそらくセレクトするであろう、そんな距離感となる。
音源については、初期のCD4枚のリマスター版は2010年代になってから買いなおしている。それ以降のCD化されている音源は、この数年内にレンタルCDからリッピングして、その殆どをPCのHDDに保存している。この記事のタイトル画像は、PCの音楽アプリで《名前をつけてやる》を再生している画面である。
さて、伏見の『スピッツ論』には、曲名だけのものまでを含めれば、(私のカウントで)全部で174曲が挙げられているが、それをプレイリスト化し、紙幅が費やされている楽曲については改めて聴きなおした。
良い曲が多いと感じはしたのだが、私にとっては、冒頭であげた初期3枚の中の「お気に入り曲」を超えて心に響く楽曲は、正直に言えば見いだせなかった。
これは中期以降のスピッツの楽曲のクオリティやスタイルに原因があるということではなく、あくまで私の個人的な状況が理由である。「多感な思春期や青春期に感情を揺さぶられた楽曲は既に心の中に確固とした位置を占めており、新たな楽曲がそれを押しのけて入れ替わることは難し」いということであろう。(付け加えれば、私が現在50代半ばという年齢であることによる感受性の劣化も認めねばなるまい)
誰かこの(昔の曲の方が良く思えるという)現象に、本気で考えて名前をつけてほしいのだが、「その楽曲を通して、自身の思春期や青春期を“追体験“してい」るということであろうと考えつつ、それを「ノスタルジー」や「郷愁」と呼ぶのが適切であるかどうかは、現時点では判断を留保している。
私が乱暴に名前をつけてやるならば、「自己追体験バイアス」とでもなるだろうが、いかがであろうか。
さて、長い前置きと先回りの言い訳を経て、ようやく本題に入る。
「密やかさについて」から ― スピッツとシューゲイザー
『スピッツ論』は、「密やかさについて」と題された第一章から始まる。伏見の形容した「密やかさ」あるいは「密室の感触」という言葉は、スピッツの音楽(特に初期のそれ)を表す言葉として、私の感覚にとても近しい。
私が初期のスピッツを好んでいた理由の一つは、この「少しの息苦しさを伴うけど、心地よくもある密室感(=密やかさ)」なのだと強く共感した。
そして、この「密やかさ」を組成している要素(あるいは手段)を、伏見はスピッツの楽曲の「音の鳴り方」に見出している。
こうした音の感触についての分析、あるいは後の章での楽理的な分析は、本書『スピッツ論』の大きな特徴であり、従来の多くのポップミュージックについての言論が、「一面的な歌詞の分析」や「人物評」やあるいは「書き手の“自分語り”」に陥りがちな中、本書が優れた批評として成り立っている大きな要因であろう。
(『文學界』で連載されいてた北村匡平の「椎名林檎論」も、連載中に何回か読んだのみだが同様のアプローチだったように思う)
さて、この章ではスピッツとシューゲイザー(というロック・ミュージックのジャンル)について言及されている。
正直に言えば、私はこれまでスピッツにシューゲイザーを感じたことはなかった。だが、なるほど、草野自身が影響を公言しているというライド(1980年代から活動している英国のロックバンド)の楽曲を改めて聴きなおしてみると、たしかにところどころスピッツっぽさを感じた。(正確には「スピッツがライドっぽい」のだが)
ライドの〈Taste〉という曲など、ボーカリストであるマーク・ガードナー(と思われる)の発声が草野マサムネのようにも聞こえ、「スピッツの英語詞の曲」といわれたら信じてしまう程度に似て聞こえる。
シューゲイザーは「うつむいたボーカルと轟音ギター」というステロタイプを持ち、それ故に私はスピッツにその特徴を感じていなかったのであるが、確かに(特に初期のスピッツにおける)「密やかさ/密室性」は、両者に通底する魅力なのだったと感じざるを得ない。
「コミュニケーションについて」から ― スピッツとコミュニケーション不全
この章の冒頭で紹介される中島梓(評論家, 1953-2009)の『コミュニケーション不全症候群』は、スピッツのデビュー年である1991年に上梓されたと記されており、まず私はそこに少なからず驚いた。
この書物を私は発売当時に読んだはずだが、記憶の中では、自分の学生時代と重なる1980年代の書物のイメージであった。どうやら私は、その年代に「オタク」を論じたいくつかの言論(中森明夫や大塚英志らによるそれ)と同時期のものだと混同してしまっていたようだ。
「オタク」の起源は、よく知られるように、彼らの発話における「二人称」の用語法による。最近のある論文でもそのような記述がある。
これを発見したのはコラムニストの中森明夫(1960-)とされ、初出は1983年とのことだ。依拠した論文では、中島の前掲書についても述べられている。
こうした文脈において、中島の言う『コミュニケーション不全』と、この章で取り上げられるスピッツの楽曲〈名前をつけてやる〉は、深いところでつながっているように、私にも思われる。
〈名前をつけてやる〉という楽曲は、スピッツの中でも特に好きな楽曲である。私は以前からこの曲を「歪んだ愛情としての支配欲」を歌ったものだと解釈している。つまり、「愛する『きみ』に、勝手に自分の考えた名前をつけることで、『きみ』を自分の意のままに支配したい」という欲望の表れだととらえている。
その意味で、中島の言う「コミュニケーション不全」、すなわち「相手を『オタク』と呼ぶ=相手の名前を棄却する」者と、この歌の主体(行為者)のような、「相手に『名前をつけ』て支配しようとする」者は、いずれもコミュニケーションの「不全」を抱えた、裏表のような存在に私には思える。
伏見は、この曲の解釈において「名づけ行為の対象」を明示していないが、その行為は「性的な行為」であろうと推察している(P.50)。もちろんこの見立てに私も同意する。その上で、名づけの対象は「むき出しのでっぱり=自身の性欲」であるとする見方も可能ではあるが、やはり私にはこの歌は「コミュニケーション不全を抱えた者の、歪んだ支配欲」の歌に聴こえるのだ。
「サウンドについて」から ― スピッツとパンクロック
この章では主に、スピッツの楽曲の「サウンドの変遷」についての分析が行われている。《Cryspy!》以降、スピッツをさほど積極的には聴かなくなってしまっていた私は、その「サウンド」について丁寧に聞いていないこともあり、この章について語ることはあまり多くない。
そもそも端的に言えば、私が《Cryspy!》でスピッツから離れてしまったのは、このアルバムの「Jポップっぽいサウンド」が理由であった。
個人の嗜好性や好みの問題にすぎないのだが、このアルバムを聞いた当時に、「残念だけど、このバンドはもう僕は聞かなくてもいいや」と感じてしまったことは、ここに正直に告白しておく。
さて、この章では、スピッツのサウンドについて、雑食的ともいえるような多数のジャンルからの影響が伏見によって指摘されている。
伏見が「スピッツが影響を受け」たと指摘するロックミュージックのジャンルを記載順に列挙すると、「ニューウェーブ」「シューゲイザー」「産業ロック」「オルタナティブ」「ハードロック/ヘヴィメタル」「パンク」「サイケデリック」と並ぶ。スピッツだけに特徴的なことでもないが、こうした「サウンド面での雑食性」はスピッツの特徴の一つではあろう。
なお、上記のジャンル名とは別に、イギリスのシンガーソングライターであるドノヴァン(1946-)の名も、草野が影響を公言しているシンガーとして取り上げられている(P.77)。伏見は「サイケデリックなカルチャーの流れの中」のシンガーとして取りあげているが、一般的にはドノヴアンは「フォーク(フォークロック)」と称されることの方が多かろう。
これまで私はスピッツに「フォーク」の匂いを感じたことは無かったのだが、改めてドノヴァンの影響下にあることを知ってからスピッツの楽曲を聞いてみれば、確かに初期スピッツの〈ビー玉〉〈うめぼし〉などには、ドノヴアンの〈Mellow Yellow〉〈Writer In The Sun〉のような「ちょっとサイケっぽいフォーク」の匂いがあるようにも思えてき、納得した。
さて、この章に書かれたことで、私が最も納得したことは、スピッツのニューウェーブからの影響についての指摘である。取り上げられているキュアー(1970年代から活動する英国のロックバンド)の〈Friday I'm In Love〉(P.71)はこのバンドの中で私が最も好きな曲の一曲であるが、たしかにイントロも曲全体から受ける印象も似ている。
これまで気づかなかったが、ボーカリストであるロバート・スミスの高音部の「艶」など、草野マサムネに近いボーカルスタイルに聞こえるようになった。(「艶」の点では草野の方が勝っているようには思う)
ただし、伏見が指摘したジャンルの中で、私としては違和感を持たざるを得ないのは、「パンク」からの影響だ。
パンクロックといって一般的に想起されるバンドは、やはりセックス・ピストルズになろうか。人によっては、テレヴィジョンなどのニューヨーク勢かもしれないが、世間的にはやはりパンクのアイコンと言えばピストルズであろう。
パンクロックの本質とは、「音楽のスタイル」ではなく、「(精神的な)アティチュード」のことだと私は考えており(もちろん、このオリジンはザ・クラッシュ(1970~80年代に活動した英国のパンクロックバンド)のジョー・ストラマーの「Punk is attitude. Not style.」。)、その核心は、あからさまな、過剰でさえある反権威性であり攻撃性にある。その意味で、音楽のスタイルとしてのパンクロックではなくても、パンク(より正確に言えばパンク・スピリット)を感じさせるロックミュージシャンは、少なくない。
しかし、そのようなあからさまな反権威性や攻撃性を、私はスピッツから感じることはない。
ただし、デビュー前の初期のスピッツがブルーハーツの影響を大きく受けていたことは、周知の事実であるらしい。
この点を踏まえ、より正確を期した言い方をするならば、スピッツは、「パンクロックの影響下でブルーハーツが発明した、(日本語による)ビートパンクという形式」に影響を受けたと言うべきあろう。(念のため言っておくが、ブルーハーツのメンバーである甲本ヒロトも真島昌利も自身では「ビートパンク」という言葉はおそらく使ってない)
少し調べたところ、2017年にリリースされた「1987→」という楽曲について、草野は「バンド結成当初の“ビートパンクバンド”スピッツの新曲という想定で作った1曲」と語っているようだが、まさにその通りの極めて優れた「日本語ビートパンク」であった。
「メロディについて」から ― スピッツと“切なさ”
見出しに「切なさ」という陳腐な言葉を置いたが、伏見はこの言葉を『スピッツ論』で使うことを慎重に避けている。
この章で伏見は一度だけ「切なさ」という言葉を用いているが、「俗な言葉で言うところの」という前置きをした上での限定的な使用にとどまる。
こうした「陳腐な形容詞を使うまい」とする伏見の態度に対して私は好感を持つが、それはそれとして、ここではあえての「スピッツの切なさ」について述べていく。
スピッツの楽曲が与えてくれる「切なさ」、つまり「(伏見流に言えば)寂しさと無常観と透明なイメージの混ざった感覚」、あるいはもっと平易な辞書的な説明を用いれば「悲しさ・寂しさ・恋しさなどで、胸がしめつけられるような気持」は、スピッツの楽曲のどこから生まれているのか。
伏見は、その源泉の一つを「SoundQuest」というウェブサイトの提唱する用語を用いて音楽理論的な面から解き明かしており、それは非常に興味深く納得できるものだったが、私はスピッツの楽曲の「切なさ」は、究極的には草野の「声」がもたらしているのであろうと考える。
伏見はここで「切なさ」とは言っていないが、「スピッツのメロディが強い印象を残」す理由として、草野の「声の力を上げざるを得」ないと記している。
草野の声の「艶ときらめき」と伏見は表現しているが、その、高い音域をファルセットでもベルカントでもなく「力をこめずに、のびやかに響かせることができ」るから、草野マサムネの歌に「艶」があり、それが切なく響くということであろうと私は考えている。
そもそも、物理学的には空気の振動でしかない「声」が、なぜヒトの脳に「切なさ」という感情を喚起するのか。もちろん状況によっては歌詞(言葉)の力もあろうが、しかし、私たちはボーカルのロングトーン、すなわち「おー」や「あー」と伸びていく「声」自体にも、切なさを感じる。これはいかなるメカニズムによるものなのか。
この現象に近いものとして、短調の音楽を聞くと「悲しい感じ」がするという現象があるが、この理由については、「生得的なもの」ではなく「学習(=記憶)」によって後天的に「短調と悲しさが結びつ」いたという説が有力のようだ。
しかし、私自身の感覚はその説に納得をしていない。私の勝手に考えている仮説であるが、ヒトの進化の過程で、「短調風の音をきくと、怖れの感情を生じる」個体の方が生存に有利だったからなのではないか。すなわちダーウィン進化論の自然選択説が背景にあるのではないか。短調風の音とは例えば、危険な動物の唸り声や、嵐の吹きすさぶ音などである。
草野の「高音部の艶」に私たちが切なさを感じるのも、そうした生物としての進化論的な背景があるのではないかと考えている。(例えばであるが、乳幼児の声に「愛しさ」を強く感じる個体が児孫を残しやすかったというような)
大きく話がそれたが、草野の「声の艶」には、そうした理由( =高い音域のソからシの音を、力をこめずに、伸びやかに響かせることができる)があったと知ったことは、私にとって嬉しい発見であったと、ここで改めて記しておきたい。
ついでに言えば、曖昧な感覚によるものではあるが、私は草野のボーカリゼーションは、その醸し出す「切なさ」が松任谷由実のそれに似てるという印象を持っていた。音声学的あるいは音楽理論的な分析は私には不可能なのだが、あるいはそうした「高域ののびやかさ」が似てるということはあるのかもしれない。
なお、上述した「SoundQuest」というウェブサイトでは、「ドレミファソラシ」の7音が元来持っている「原質」についての説明があり、スピッツの〈スパイダー〉が、「サビの最高音にミの音を使っている楽曲」の例として取り上げられている。興味のある方は一読をおすすめする。
「国について」から ― 草野マサムネと草野心平
スピッツを「国」という視点から分析することの妥当性が、最初は私には納得しかねたのだが、この章で語られる、「唱歌や童謡との共通点」は非常に興味深かった。
歌詞の点での野口雨情(1882-1945)との類似性の指摘と、その類似性がスピッツに与えられる「なつかしさ」という評価の源泉となっているとの指摘は卓見であろう。
こうした例示に加え、伏見は、野口雨情作詞の「シャボン玉」と、草野の作詞による『ニノウデの世界』や『ビー玉』の歌詞との類似性をあげ、両者の詩世界について、「喪失感や寂しさが共通してい」ると述べる。
そして、これらの「唱歌・童謡との近似性と、それがもたらす懐かしさや安心感」について、メンバー本人たちは「居心地の悪さを感じているのではないか」と推察するが、私もこれに同意する。
伏見も、この「居心地の悪さや恥ずかしさを感じてい」るという推論への明示的な根拠までは提示していないのだが、次章の「居場所論」で語られる、「周縁にも中心にもなりえない」ことの遠因が、この「草野に沁みついた唱歌・童謡性」にあるように、私には思えた。
また、この章で指摘されている、スピッツとピクシーズ(1980年代から活動している米国のロックバンド)の類似についても触れておきたい。
草野の言う「ライド歌謡(P.20, P.140)」に模して伏見の言う「ピクシーズ童謡」に、どこまで草野本人が納得するのかは不明だが、〈Here Comes Your Man〉は、なるほど似ていなくもない。ピクシーズのボーカルであるブラック・フランシスには「絶叫系」のイメージが強く、指摘されるまで私はまったく気づけなかった。
ちなみに、私が最も好きなピクシーズの楽曲は〈Debaser〉という曲だが、これなど、楽器の構成は異なるが〈青い車〉に似てるように思えてきている。(この曲については後述する)
なお、この章では、野口雨情以外にも、草野マサムネに影響を与えたとされる日本の近現代詩人についても触れられている。
ここで名前の挙げられる草野心平(1903-1988,草野マサムネの親類ではない)への言及については、私はあまり納得できない。
ネットで検索したところ、心平のオノマトペに言及しているマサムネの発言が発見できた。ラジオの書き起こしのようである。
オノマトペはともかくとして、心平の詩を「滑稽・ナンセンス」と評するのは日本の近現代詩の論評において、一般的ではないはずだ。(手元にある『草野心平研究序説(深澤忠孝, 1984)』、『草野心平の世界(大滝清雄, 1985)』をざっと見返してみたが、そのような記述は見当たらなかった)
ひょっとすると「●」一文字の〈冬眠〉や、「るるるるるるる・・・・・・」とひらがなが続く〈生殖Ⅰ〉といった詩をさして「滑稽・ナンセンス」と評したのかもしれないが、そうだとしたらそれは「誤読」といっても差し支えないのではないか。
ちなみに言えば、「ナンセンス詩」というジャンルが現代詩の世界にはあるが、有名なものは谷川俊太郎(1931-)の『ことばあそびうた』(1972)だろう。
現代詩における「ナンセンス」を、文芸批評の言葉を借りて記すと、それは「管理社会の閉鎖状況を打ち壊そうという衝動からほとばし」るものであり、「思想性や批評性の重視に傾いていた傾向からの反動としての、音韻的な魅力や、言葉の音楽性や呪力性への回復」となる。
心平のオノマトペに「音韻的な魅力や言葉の音楽性への回復」を見ることは可能だとはいえ、心平詩の本源は、やはりそこ(滑稽やナンセンス)には無いように私には思える。
二人の草野(マサムネと心平)の話に戻すが、心平は「蛙の詩人」との異名を持ち、「蛙を擬人化した詩」を数多くものしたが、心平の「蛙」と、マサムネの「動物」の描き方についても、だいぶ異なるようにも思う。
心平における「蛙」は、雑駁に言えば「地べたに生きる生命力」が形を伴って現れたものであり、マサムネの描く、自身の心象を投影したファンタジックな動物たち(と私には思える)とは、だいぶ異なる。
とはいえ、この「二人の草野」が、いずれも「動物表象に特徴をもつ表現者(詩人・ソングライター)」であることも事実であり、この観点での両者の考察は、学部の卒業論文に値するテーマくらいにはなりそうである。スピッツのファンで日本の近現代詩に興味のある文学部系の学生の方、だれかトライしてみてくれないだろうか。(なお、マサムネの動物表象については『スピッツ論』の第8章「“野生”への憧れ」の節で詳しく分析されている)
参考まで、初期の4枚のアルバム(ミニアルバム扱いの《オーロラに~》を含む)の詞に登場する「動物」を数えてみたところ、
《スピッツ》 オケラ、ノラ犬、トンビ、クモ(の巣)、ヒバリ、
《名前をつけてやる》 ウサギ、蜂、カラス、鈴虫、蜘蛛(夏蜘蛛)
《オーロラに~》 一番鶏、サル、海ねこ(曲名のみ)
《惑星のかけら》 クジラ、ロバ、仔犬、かげろう、羊(の目)
と、すべてで18を数えた。(暗喩やコノテーション的用法を含む)
なお、話がだいぶそれたついでにもう一つ余談を記すが、日本のロックミュージシャンで草野心平の影響を公言している一人に元アンジー(1980年代に活動した日本のロックバンド)の水戸華之介(1962-)がいるが、彼はまさに心平詩へのオマージュ、あるいはモチーフを援用したであろう楽曲を、アンジー時代に何曲か発表している。
〈風のブンガ〉という楽曲は心平の〈ヤマカガシの腹の中から仲間に告げるゲリゲの言葉〉をはじめとする蛙詩群へのオマージュであり、〈夜の行進〉〈夜中の3時のロマンチック〉は、心平の〈デンシンバシラのうた〉を思わせる。興味のある向きは、一読(一聴)してみてほしい。
「居場所について」から ― スピッツと草食動物
この章で伏見が指摘している、スピッツへの「周縁を好みながら、中心に押し出されており、結局、そのどちらにも居場所がない、中途半端なバンド」という見立ては、多分に正鵠を射ているように思える。
伏見による「どのカテゴリーにも属せない(属さない)バンド」という指摘も、まさにスピッツの立ち位置であろう。スピッツを、日本のロック(Jロック)のサブカテゴリ―としての「〇〇系」と呼ぶことは難しい。一般的なロック・ミュージックのジャンルにおいても、上であげたような「雑食性」によってか、どのようなジャンルにも、すっぽりとは収まらない。「中途半端さ」がスピッツの本質だという伏見の指摘は正しいように思う。
ここで一つ、過去の雑誌記事を思い出したのだが、草野はスピッツの初期の頃に『ロッキンオン・ジャパン』誌で、「ひなぎく対談」という企画に駆り出されていた。調べたところ、1994年の7月号のようだから、《空の飛び方》のリリースの少し前になる。
「ひなぎく対談」というのは雑誌側の企画タイトルで、草野、フィッシュマンズ(1980年代から活動する日本のロックバンド)の佐藤伸治(1966-1999)、b-flower(1980年代から活動する日本のロックバンド)の八野英史(1963-)の3名による対談だった。
内容までは記憶していないが、当時の読者からも「この3バンドは、音楽性的には共通点ないのではないか」との声があったように記憶している。しかし一方、「ひなぎく」というタイトルは、3バンドの「非マッチョ」なアトモスフィアを表現しているようにも感じられ、面白く読んだ記憶がある。
ちなみに、検索したところ、b-flowerの八野による2011年の震災の後に草野が体調を崩した際に書いたブログ記事を見つけることができた。
八野によれば、(2011年当時には)b-flowerのファンにおいて、スピッツのファンの比率は高かったとのことだ。
私が、この対談の当時に感じていた「非マッチョなアトモスフィア」を、八野は「草食動物」になぞらえている。対談後の1990年代から2011年頃までのスピッツのあり方(あるいはバンドとしての生きざま)を、「草食動物が『生態系になくてはならないもの』として存続し続けようとするあり方」としており、納得のできるものだと感じた。
中心でもなく周縁でもない、所在なき存在。でありながら、生態系の中でしっかりと生き抜いて見せようとする、草食動物的な強さ(決して「ひなぎく」ではない)というあり方、あるいは立ち居振る舞いに、スピッツというバンドの本質があるように、私には思える。
「性について」から ― 〈ナイフ〉と時空の跳躍
この章で丁寧に語られている〈ナイフ〉という楽曲は、スピッツの楽曲の中で私が最も好きな楽曲のうちの一曲である。ストリングスによるオーケストレーションを中心に編曲された、いわゆるバンドサウンドではない、スピッツの中では特異な曲だが、伏見による子細な(主にサウンドに関する)分析を目で追いながら、約7分のこの楽曲を聴くことは、愉悦に満ちた稀有な音楽体験であった。
伏見は、初期のスピッツに「エロスとノスタルジア」を感じていたと言う。
〈ナイフ〉を初めて聞いた際、私はすでに20代の半ばだったが、伏見が10代で感じたと書き記した「エロスとノスタルジア」を、同じように受け取っていたように思う。
この楽曲の草野の声は、音響も相まって消え入りそうで夢幻的だ。この歌詞を性的な喩として読むことは比較的容易だと思うが、ここに続く歌詞では、そこから大きく「数百万年」の跳躍をみせる。
年齢も性別も明示されてはいないが、おそらくは年下の女性(それが恋愛の対象なのかも明確でない)へのバースデイ・プレゼントの歌から、歌詞は、ヒトという種のDNAレベルに刻まれた記憶への跳躍を見せる。
もしかすると「ナイフ」とは、映画『2001年宇宙の旅』に描かれたような、「サルをヒトへと進化させた『道具』」であり、「無垢を失わせる知恵」の象徴なのかもしれない。
そうして、「数百万年前の記憶」から歌詞はまた「現実」へと戻る。しかも、「20号(国道20号)」「ビートル(フォルクスワーゲン)」といった固有名詞による具象的な映像を伴った現実へと引き戻る。
その映像が「不完全な、霧の中のよう」な音響の中で歌われ、現実なのか夢の中なのか、聞き手は、その間(あわい)に漂わされることになる。
こうしてみていくと、〈ナイフ〉は、草野の歌詞の中でも極めて技巧に優れた一篇であるように思われる。ここから感触されるノスタルジアは、伏見の言うように、「(まだ見ぬ未来の)君がこのナイフを握りしめるイメージ」、「数百万年前の(DNAに刻まれた)記憶」から発動されており、それぞれが「20号でみかけたビートル」という現実(具象)をはさんで美しく跳躍している。
蛇足ながら、伏見による「ノスタルジア=現在の私がそこから絶対的に切り離されているという実感」という定義について私は同意するが、付言するならば、「それ(ノスタルジアの対象)が、自分から離れていっている(あるいは消えつつある)」、つまり「遠ざかっていく速度」をもっているということが、ノスタルジアという感情を強く駆動するもののように、私には思える。
言い換えるならば、「喪失しつつあるもの」を繋ぎ留めたいとする願いと、今まさに、徐々に、遠ざかっていくことへの悲しみが、「ノスタルジア」の正体なのであろうと私は考えている。
「憧れについて」から ― スピッツと夏の詩情
私のスピッツというバンドへの好意はどうしても初期の楽曲に偏るのだが、この章で取り上げられている、〈プール〉も、私が非常に好んでいる楽曲だ。セカンドアルバム《名前をつけてやる》に収録されている。
「夏蜘蛛=重なりあった二人」との伏見の推察は、おそらくその通りだろう。続く歌詞にある、「ねっころがって からまってふざけ」ている二人を俯瞰してみている視線が、幽体離脱のような死の匂いを強く感じさせる。
そして、そこからの、「街のドブ川にあった/壊れそうな笹船に乗って流れ」るという飛躍は、草野の歌詞の中でも、とびぬけて強いポエジーを私に感じさせる。「ドブ川」の「ド」が僅かに強調されるボーカルも、そのポエジーを強めている
また、スピッツには〈夏の魔物〉という楽曲もある。デビューアルバムである《スピッツ》に収録されている。
〈夏の魔物〉でも「ドブ川」という言葉が歌われている。草野のボーカルは、〈プール〉でのそれ以上に、「ドブ川」の「ド」に強いアクセントを置いている。
リリース順としては〈夏の魔物〉〈プール〉の順なので、ひょっとしたら、〈夏の魔物〉で「ぬれたクモの巣が光っ」てたのをみた幼い二人が、〈プール〉の「夏蜘蛛になっ」た二人なのかもしれない。
少なくても初期のスピッツにとっての「夏」とは、このような季節だったのだ。一般的なJポップで歌われる、照り付ける太陽の下の開放感ではなく、陰りのある密やかな汗ばんだエロスを感じさせる季節。それを「夏の詩情」と呼んでもよいだろう。
ところで、日本のロックミュージックにおける「夏の詩情」といえば、真島昌利(1962-)の〈夏が来て僕等〉にふれないわけにはいかない。
ブルーハーツからの影響を公言している草野が、この楽曲の収録された真島の1989年のソロアルバム、《夏のぬけがら》を聴いている可能性は高いだろう。
勝手な想像ではあるのだが、草野が「魚もいないドブ川越えて/幾つも越えて行く二人乗りで」と歌う〈夏の魔物〉は、真島が「うばわれた声に耳を澄まし/自転車で知らない街まで」と歌った〈夏が来て僕等〉に対する返歌なのかもしれない。
草野の「魔物」「呪文」といった幻想的な語彙に対して、真島の「高校野球」「給水塔」といった現実がむき出しの語彙。いずれも、互いの資質のよく表れた、優れた詩情をたたえた「夏のうた」であると私は感じる。
なお、本章で「詩情」「ポエジー」という言葉を使ったが、これらについて少しだけ補足しておく。「ポエジー」はフランス語で「詩」そのものを示す単語でもあるが、「詩情/詩想」との意味もある。私はここでは「ポエジー=詩情」として用いている。
では「詩情=ポエジー」とはどのようなものか。この問いに答えるのは実は極めて困難である。「詩情とは何か」という問いは「詩とは何か」という問いとほぼ同義でもある。手元にある幾冊かの詩論を見かえしても平明な回答は探し出せなかったのだが、ヒントになりそうなものを少しだけ挙げておく。
「揺続(グルーヴ)について」から ― 〈青い車〉と〈ディベイサー〉
この章の後半部では、〈青い車〉について述べられている。初期3枚のアルバム以降では、私が一番好きな楽曲である。ネオアコに近い印象を感じさせるギターのストロークとメロディであるが、たしかにグルーヴィという形容がふさわしい。
「半永久的に持続するような心地よさ」だという伏見の評価に、私も完全に同意する。〈青い車〉のリリース時には、ミニディスクに入れたこの曲を何度も繰り返してリピートして聞いていた記憶がある。(「ミニディスク」がなんのことか分からない人はネットで調べて頂きたい)
この、「何度聴き返しても飽きない」、言い換えればずっと聞き続けていられる中毒性のあるグルーヴを持つ音楽とは、ジャンルで言えばファンク系あるいはテクノ系が多いように思うのだが、一聴するとさわやかなギターポップ風の〈青い車〉が、なぜここまでの中毒性を持つのか不思議だったのだが、この伏見の分析でその謎が解明された。
ここで改めて、〈青い車〉と、ピクシーズの〈Debaser〉の近さも書き留めておきたい。前述したが、この2曲は伏見の論を読んだ後で改めて聞くと、とてもよく似た曲として聞こえる。そして、〈Debaser〉も極めて中毒性の高いグルーヴを持つ楽曲だ。
草野のボーカルスタイルと、ピクシーズのボーカルであるブラック・フランシスのそれとの差が大きいために、表面的な曲の印象はだいぶ違うのだが、2曲のグルーヴは、私にはとても似て聴こえる。〈青い車〉の間奏に入るギターソロは、〈Debaser〉のギターリフと、その音色までよく似ている。
伏見は、〈青い車〉では「サビの語尾がすべて『o(オー)』で統一されている点」もこの曲の喚起する情動に影響していると指摘している(P.261)が、これに対して、〈Debaser〉では、ブラック・フランシスは幾度も幾度も「andalusia !(アンダルシア)」、「Debaser !(ディベイサー)」とリフレイン(正しくは絶叫)する。
そうした、ギターやボーカリゼーションによって情動を喚起する構造もこの2曲は近似しているが、これらもまた、グルーヴの中毒性を組成する要因であろう。
なお、伏見は、草野が好きな言葉として、ブラック・フランシスの「ロックンロール・レコードなんてものは本当はデブで間抜けな、友達のいない子供に向けて提供されるべきもの」という発言を引いている(P.158)が、〈Debaser〉はまさにそんな曲だ。
そして、〈青い車〉も、一見するとオシャレな“リア充”たちにも好まれそうな、日本のポップミュージック・マーケットで充分に勝ち抜ける(実際に勝ち抜いた)ポップさを備えているが、実はそこから、「デブで間抜け」なやつらへ向けた、言い換えれば「コミュニケーション不全」を抱えた者たちに向けた、「生き残ろう」という、呼びかけが聞こえてくる。
Cメロの「心の落描きも踊りだす」というフレーズは、私には「自己の内面を持て余して、他者とのコミュニケーション不全を抱えている、間抜けなやつら」への呼びかけにしか聞こえなくなってきてしまった。
優れた批評とはこのように、「作品の見方が大きく変わ」るような、「世界を面白く感じ」るような、あるいは前章の終わりに引いた詩論になぞらえるならば「世界が再構成され」てしまうような営為なのだ。だから、私はあえて断言しよう。批評は単純に面白いのだと。
おわりに ― 「分裂」について
『スピッツ論』の、いわば全体を貫く「テーマ」でありながら、私がここまで触れずに来たのが、この章題の「分裂」という言葉だ。念のため書き添えておくと、『スピッツ論』に「分裂について」という章は存在しない。
『スピッツ論』を、私はとても興味深く読んだ。しかし、この「分裂」という言葉は、270ページ強のこの書物を読み進めていく中でも、なかなか私の中で落ち着いてくれなかった。
伏見も言うように、「分裂」とはスピッツだけに特徴的なものではない。
そしてその上でなお伏見は、「スピッツは強力な分裂を携えたバンドだ」(P.19)と言い切ってみせてはいるのだが、しかし一方、「分裂」をテーマとしたことに逡巡があったことも率直に明かしている。
私は上で「逡巡」という言葉を使ったが、伏見はそれを「諦め」とまで言っている。それだけに、批評の用語としてはやや陳腐にも聞こえる、この言葉を使うしかなかった伏見の苦渋を、私は想像する。
もちろん、スピッツが「強力な分裂を携え」ていること、その音楽に「あらゆる『分裂』が含まれ」ていることに大きな異論はない。
また、念のために申し添えれば、伏見が「分裂」という言葉に託したものが、ポップミュージックの送り手を語る際の常套句として使われる「多様な音楽性」や「(パーソナリティの)二面性」といった物言いとは全く別のものであることも、理解はしているつもりだ。
その上でなお、私は「スピッツが、強力な分裂を抱え」ていることが、その音楽の魅力にどのように作用しているのか、今一つ吞み込めずにいた。
伏見は序文で「スピッツの魅力がどこからやってくるのかを考え続けてき」たと述べてはいるのだが、『スピッツ論』の中で、この問いへの直截的な答えは明示していない。
しかし私は、スピッツ論をいったん読み終えたのちに、序文にあった次の一節を読みかえすことで、ようやく、伏見の掲げる「分裂」に納得することができた。
私の考えでは、おそらく先ほどの問いへの答えは、ポップ・ミュージックが内包する『相反する二つの感覚に引き裂かれる不思議』な力、『引き裂かれる力』、なのだろう。
つまり、「強力な分裂を携えているスピッツ」の魅力の源泉とは、「相反する二つの感覚に引き裂かれることの魅力」ということだ。その魅力は、人間の2つの欲動である性と死、エロスとタナトスに根差しているといった解釈も可能かもしれない。
さらに言えば、『スピッツ論』の第5章でも引用されていた大江健三郎(小説家, 1935-)のノーベル賞受賞講演を、この記事を書くに際し改めて読み返したのだが、そこでは大江は、日本人は「日本人としてのあいまいさ(アムビギュイティ)に引き裂かれている」と語っている。ただしもちろん、この「引き裂かれ」は魅力として語られているわけではない。それがもたらす感情は、自分の同一性の不安、あるいは漠とした寄る辺なさだろう。
そしてその後、大江の講演録は、「個人的な話」と断った上で、ご子息の、知的な障害をもって生まれ、長じた後に作曲家として作品も発表されている大江光さんの話へと続く。
伏見の言う、ポップ・ミュージックのもつ『相反する二つの感覚に引き裂かれる不思議に魅せられ』ること、大江の言う「(あいまいさに引き裂かれている)聴き手たちを癒し、恢復させる、芸術の不思議な治癒力」は、無論、等しく重なるものではないだろうが、どこか深いところでつながっているように、私には思える。
そしてもう一つだけ付け加えるならば、大江光の音楽に父である大江健三郎が聞き取った「イノセンス」と「泣き叫ぶ暗い魂」という二つの声も、スピッツの音楽と、どこかつながるところがあるように、私には思えるのだ。
(了)
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