長沢朋哉

広告会社のストラテジック・プランニング部門で働いています。著書に『世界一シンプルな「戦…

長沢朋哉

広告会社のストラテジック・プランニング部門で働いています。著書に『世界一シンプルな「戦略」の本』、『世界一やさしい「思考法」の本 ~「考える2人」の物語』、『新人広告プランナーが入社時に叩き込まれる プレゼンテーシション基礎講座』などがあります。大学では文学部演劇専攻でした。

最近の記事

「ご都合主義」を超えて ~ 映画の嘘とショットの力

■はじめに~「ご都合主義」とはこの記事は、映画作品における「ご都合主義」を揶揄または単純に批判するものではない。とはいえ積極的に擁護するものでもない。 「ご都合主義とは何か」については後ほど僕なりの整理を試みるが、本記事は「映画に(ある程度の)嘘は付きもの」であることを前提にしつつ、「どうせならうまく騙してほしい」と主張するものである。 下に引用した文章にもあるように、「ある種の嘘と映画の魅力は切り離すことができ」ない。「嘘」の中に「ご都合主義」も含まれるとするなら、そ

    • 『サマーフィルムにのって』オーディオ・コメンタリーへの私的コメンタリー

      はじめに2021年にミニシアター系の映画館で公開されたこの『サマーフィルムにのって』のことは、評判が良かったらしいことがぼんやりと記憶にはあったが、それ以外になんの予備知識もなかった。 2024年3月のある日、レンタルDVD店の棚に見つけて借りてみたのだが、その時点でそこまで期待が大きかったわけでもない。 SF要素が含まれることは予告編などでも事前に告知されていたようだが、僕はDVDの再生を始めた時点でそのことは知らず、「高校の映画部を題材にした青春映画(演劇部が題材の『

      • 「詩とはなにか」という問いへの二百五十個くらいの答え

        「詩とはなにか」という問いに対して、詩人や批評家や研究者はどのように答えているのか。そんな好奇心から、書棚にある詩論や詩にまつわる本から、それらしき「答え」を抜き出してみようと思いたった。 何冊かの本の頁をめくっていく中で、そこで紹介されていた別の本を買い求めたり図書館で借りたりし、そうこうしているうちに、その「答え」の数は膨れ上がった。 この記事では、その中からまず、私が気に入った十五の「答え」を並べている。その後、記事タイトルにあるように、おおよそ二百五十くらいの「答

        • 新年の「詩」(年賀状アーカイブ2007-2020)

          ある時期、ごく私的な年賀状に、新年を題材とする近・現代詩を使わせてもらっていた。(親類などに出す家族名義のものとは別に、個人で出すごく少ない枚数の賀状) 2020年(令和二年)を最後にやめてしまったが、個人的なアーカイブとして、少しばかりの感想(+批評の真似事)を添えてここにあげておくことにした。(住所氏名はマスクしている) 「今年も」が繰り返されたあとの、「決心はにぶるだろう今年も/しかし去年とちがうだろうほんの少し/今年は」が、たまらなく好きな一節。この詩人らしい巧み

        「ご都合主義」を超えて ~ 映画の嘘とショットの力

          「今年の映画ベスト10」って、皆さん、どんな基準で選んでいるのだろう。

          「良い映画」の基準とは 年末のこの時期には、多くの方が、色々なジャンルで「今年のベスト10」といった情報発信を行っていて、そうしたランキング自体にはあまり興味を持たないのだけれど、「どのような基準で、それを選んでいるのだろう?」ということには少し興味がある。 「今年の映画ベスト10」ならば、それはつまり「今年観て、良かった映画10本」のことであろうが、その「良さ」とは、そもそもどのような基準からの「良さ」なのだろう。 想像するにおそらくは、「感動した」「笑えた」「泣け

          「今年の映画ベスト10」って、皆さん、どんな基準で選んでいるのだろう。

          ヴェンダースの『PERFECT DAYS』とジャームッシュの『PATERSON』、二つの幸福論。

          出来るだけ余計な予備知識や事前情報を入れずに観たかったので、『PERFECT DAYS』を公開日の翌日(12/23)に観てきた。 ヴェンダースのフィルム、そこに流れる歌がルー・リードとくれば、否が応でも期待は高まるわけだが、期待にたがわず、端的に言って、僕の好きなタイプの素晴らしい映画だった。 ひとまず、自分の備忘録もかねて、感じたことをつらつらと書いていく。 (ここからは、いわゆるネタバレを少し含むので、未見の方はご注意ください) この映画はかちっとした起承転結的なス

          ヴェンダースの『PERFECT DAYS』とジャームッシュの『PATERSON』、二つの幸福論。

          映画『福田村事件』のパンフレットを読む ~「国家という大きな社会」と「村落という小さな社会」

          公開日の翌日である9月2日に、この映画を観た。シナリオ、撮影、俳優の演技といった、映画としての基本的なクオリティの高さに、正直に言えば驚いた。 その日はパンフレットを購入しなかったのだが、ネットの情報でシナリオ全文が掲載されていることを知り、9月5日に映画館に再び出向いて購入した。 一読して、そのパンフレットの内容の濃さに改めて驚いた。価格的に決して安くはないのだが、新書一冊分くらいの情報量があるのではないか。 そこには、 ●この映画(以下「本作」)が作られるきっかけの

          映画『福田村事件』のパンフレットを読む ~「国家という大きな社会」と「村落という小さな社会」

          君たちは『君たちはどう生きるか』をどうみるか ~ めためたなメタ批評もどき

          はじめにこの記事は、宮崎駿/宮﨑駿(1941-)による映画『君たちはどう生きるか』についてネット上に(主に無料で)公開されている批評や考察記事から、私が強く興味をもったものを備忘録を兼ねて多少の分析を加えながら整理したものだ。 タイトルに「メタ批評」などと大それた語を用いているが、そんなことをちゃんとできる能力はないので「もどき」としている。 先に正直に申し上げるが、ここで取り上げる書き手の方々について、殆どの方を私はまったく存じ上げなかった。さらに言えば、私はいわゆる批評

          君たちは『君たちはどう生きるか』をどうみるか ~ めためたなメタ批評もどき

          映画が「分からない」とは、どういうことか? ~「君たちはどう生きるか」を観て考えたこと

          公開日のレイトショーで『君たちはどう生きるか』を観てきた。ただしこの記事は、この映画についての批評や感想ではない。 ツイッターでこの映画の評判を眺めていて、「(この映画が)分からなかった」と投稿している人がまあまあ多いような気がして、はてさて、そもそも映画が「分からない」とはどういうことなのだろうと考えてみた。 おそらくその「分からない」には、いくつかのタイプがある。代表的なものは「物語自体が分からない」場合であろうが、まずはそれ以外の「分からなさ」について、あらかじめ触

          映画が「分からない」とは、どういうことか? ~「君たちはどう生きるか」を観て考えたこと

          男性ボーカルによる'70s-'00s Jポップ&Jロック・カバー曲プレイリスト

          この記事は、少し前に投稿した「女性ボーカルによる'70s-'00s Jポップ&Jロック・カバー曲プレイリスト」のいわば続編の「男性ボーカル」編になる。 選曲の基準は前の記事と同様で、なんらかの主張や独自の解釈が聞き取れるものとした。単に原曲に忠実なコピーや、弾き語りで歌ってみましたこんなアレンジで演奏してみましたというような曲は、原則として選出していない。 多くの人から知られていそうな楽曲のカバーを選ぶようにしたが、もちろん僕の趣味嗜好に依る一定の偏りは存在している。 以

          男性ボーカルによる'70s-'00s Jポップ&Jロック・カバー曲プレイリスト

          女性ボーカルによる'70s-'00s Jポップ&Jロック・カバー曲プレイリスト

          僕はわりとカバー曲が好きで、CDを買ったり借りたり、ダウンロードしたりで、けっこう膨大な数の楽曲を保有している。だいぶ前になるけれど、カバー曲に関するコラムみたいな記事を書いたこともある。 そんな中で、なんとなくの気分から、1970年代から2000年代のJポップ&Jロックの有名な曲を女性ボーカルがカバーしている曲のプレイリストを作ってみた。(*なお、男性編はこちら) 選んだ基準としては、なんらかの主張や独自の解釈が聞き取れるものとした。オリジナルに忠実なコピーや、単に弾き

          女性ボーカルによる'70s-'00s Jポップ&Jロック・カバー曲プレイリスト

          (実写とCGの挟間で)アバターはアニメーションの夢を見るか?

          少し陳腐なタイトルかなと思いつつ、いちおう記事の趣旨を表してはいるし他に思いつかないので、このままのタイトルで投稿することにする。 この記事は映画「アバター・シリーズ」の感想でもないし、大それた批評でもない。この映画を観たことをきっかけに、「映画の映像表現って、これからどうなっていくんだろう?」ってことに関心が向いて、それについて私が感じたことを書き連ねていくものになる。 ということでここから本題になるのだが、先日、映画『アバター:ウェイ・オブ・ウォーター』(以下『アバタ

          (実写とCGの挟間で)アバターはアニメーションの夢を見るか?

          春ねむりと修羅

          先日(2023年1月10日)、春ねむりのバースデイライブをストリーミングで見た。春ねむりを知ったのは4年ほど前、2018年のアルバム『春と修羅』のリリースに関する記事だったと思う。 具体的にどんな経緯でどんな記事を読んだのかまで覚えてはいないのだが、もしかしたら、宮沢賢治について語っている、この記事だったのかもしれない。 言わずもがなだが、『春と修羅』は、賢治が大正13年(1924年)に自費出版した生前唯一の詩集の題名でもある。 2018 年の『春と修羅』 件のライブ

          春ねむりと修羅

          「スポーツ」と「映画」、というか「スポーツ映画」についてのよもやま話

          「スポーツ」と「映画」の相性 noteに投稿した、『ケイコ 目を澄ませて』についての別記事で、一般的な「ボクシング映画」についても少し触れたのだが、それを切っ掛けに「スポーツ映画」全般について、もう少し調べてみようと思った。 映画もスポーツも、エンターテインメント(もしくは興行)ビジネスにおける一大カテゴリーだと思うが、しかし「スポーツ映画」というのは、映画におけるそこまで大きな(あるいは人気の)ジャンルではないように思う。 まず、映画賞やいくつかのランキングにおけるス

          「スポーツ」と「映画」、というか「スポーツ映画」についてのよもやま話

          『ケイコ 目を澄ませて』から思う、「撮影の映画」と「演出の映画」

          「ボクサーの映画」としての『ケイコ~』先週、『ケイコ 目を澄ませて』を劇場で観てきた。説明を丁寧にそぎ落とし、その上で研ぎ澄まされた映像と音響によって織り上げられた、端的に言って私がとても好きなタイプの映画だった。 『ケイコ 目を澄ませて』(以下『ケイコ』と略す)は、聾者のボクサーを主人公とする映画だが、いわゆる「ボクシング映画」ではない、と言ってよいと思う。ケイコという名のボクサーを主人公とする映画ではあるのだが、たとえば『ロッキー』のような、試合の勝敗そのものをメインプ

          『ケイコ 目を澄ませて』から思う、「撮影の映画」と「演出の映画」

          『スピッツ論』、または(私の)くだらない冗漫性

          はじめに 伏見瞬という批評家の『スピッツ論』という本に興味を持ったのは、『webゲンロン』というサイトの記事がツイッターに流れてきたのがきっかけだった。 私は必ずしもスピッツの熱心なファンではないのだが、初期の《スピッツ》《名前をつけてやる》《オーロラになれなかった人のために》の3枚については現在も大好きなアルバムだ。 私がこれから書く記事は、『スピッツ論』の章題に添う形で、それに触発されて私が思ったことや感じたことを、冗漫に、冗長に、脈絡なく書き連ねるつもりであるが、

          『スピッツ論』、または(私の)くだらない冗漫性