朝日新聞DIGITALの『音楽に批評は必要か サブスク時代、変わるリスナーと価値付けの意義』という有料記事を読んで、日ごろぼんやりと感じていたことがいくつも論点として提示されており、色々と気づいたこともあったので、そのうちの幾つかをここに書き残しておくことにした。
朝日の記事は、記者(河村能宏氏)が、ポピュラー音楽研究者で大阪公立大学の増田聡教授にインタビューする形式で掲載されている。
なお、当該朝日記事においては「音楽」「ポピュラー音楽」「ポップミュージック」の用語が混在しており、必ずしもそれらが明確に区分され定義されてはいないのだが、拙稿は基本的には「広義のポピュラー音楽」に関して述べるものとなる。
論点① ポピュラー音楽は、なぜアイデンティティに結びつくのか
増田は、現代の音楽は「個々人のアイデンティティに結びつく私的な『愛着の対象』」であり、「『自分にフィットするか』『似合うのか』という観点から選ばれ」ていると語っている。
「アイデンティティ」というとやや大げさに聞こえはするが、「好きな音楽ジャンル」が「自分らしさ」を示す要素となっていることは、だいぶ以前からその通りだろう。
ある社会学者〈*1〉が言うように、個々人の「音楽の趣味」が社会構造によって傾向づけられている部分が大きいとしても、それが「自分らしさ」の一部だと感じている人は多いように思われる。では、なぜポピュラー音楽はアイデンティティと結びつくのだろうか。
「愛着の対象」がアイデンティティに結びつくことは、もちろんポピュラー音楽に限ったことではない。増田の言うように、人によっては「ファッション(スタイルや特定のブランドなど)」も当てはまるだろうし、「スポーツ(競技種目や特定のクラブなど)」も同様だろう。これを俗に言う「推し」という言葉に変換すれば、アイドルタレントやアニメーション作品のキャラクターにまで広がる。
こうした中で、ポピュラー音楽がアイデンティティに結びつきやすい理由を、増田は「(ポピュラー)音楽には無数の、文脈の異なるジャンルがあ」ることが理由だと考えているようだ。
たしかに、(広義の)ポピュラー音楽自体が、「音楽」という大きなカテゴリーの一ジャンルであり、その下部には「ロック」「ジャズ」といった中区分、さらにはより細かなサブジャンルへと細分化される。ちなみに「ロック」のサブジャンルはwikipedia上では59を数えた〈*2〉。
単純化するならば、細分化され無数のサブジャンルが存在することで、ポピュラー音楽は、他のカテゴリーよりも「自分らしさ=他者との差異」を提示しやすく、無意識の裡の「差異化の競争〈*3〉」の「武器」として使いやすいということもあるだろう。
これに加えて私は、もう一つの理由があるように思えている。増田は「文脈の異なるジャンル」という言い方をしているが、「文脈」という言葉を「意味論・観念論的に、音楽作品に纏わりつくもの」だと解するならば、それとは別の、音楽の持つ、より本源的な「ヒトに生理的な心地よさを与える」機能である。
いま「生理的」と書いたが、ひょっとすると「音楽の好み」は、だいぶ生理的なものなのではないかという感覚が私にはある。それは必ずしも持って生まれた生得的なものではないにしても、過度に文脈(意味や背景情報)に依存したものでもないように思う〈*4〉。
言い換えれば、「クラシック好き」と「ロック好き」の違いは、「純文学好き」と「エンタメ小説好き」の違いよりも、「ビール好き」と「ワイン好き」の違いや「甘党」と「辛党」の違いに近いのではないかという感覚である。
むろん、この「生理」(食物の場合で言うならば「味覚」と言い換えてもよい)にも、生まれながら(遺伝子レベル)の性質だけではなく、成育歴や文化資本といったことが影響してはいるだろう。
それでも、先日亡くなった詩人の谷川俊太郎が「音楽は無意味だから素晴らしい」と語っていたように〈*5〉、「意味」を超えて「生理的感覚」に直接作用する力の大きさが、音楽を他のカテゴリーの芸術と大きく隔てていることも事実であると思う。
それ故に、リズムやグルーヴ、音色などが異なる無数のサブジャンルが存在するポピュラー音楽が、「自分との結びつき」を強く感じさせ、その上にある文脈性とアイデンティティを結び付ける土台になっているもののように私には思えている。
論点② ポピュラー音楽に「芸術的価値」は必要か
増田は、音楽は「『自分にフィットするか』『似合うのか』という観点から選ばれている」と語っていたが、これは言い換えれば、一般的なリスナーにおけるポピュラー音楽の選好は「芸術作品としての価値」とは基本的に無縁ということでもあろう。
多少穿った見方をすれば、消費者行動論において「衒示的消費」と呼ばれるような「『芸術的価値を分かっている自分』を見せびらかす」ことを目的として「芸術的価値の高そうな音楽を選ぶ」行動も行われているだろうが、それも「(芸術的価値を分かっている)自分に似合う音楽」を選んでいるのだとも言える。
そもそも「芸術的価値」の定義自体がやや困難ではあり〈*6〉、後述のように「批評」の機能の一つが「価値づけ」であるとするならば、その「芸術的価値」とは「批評」が付与するものとも言え、「作品に芸術的価値を与えるために批評が必要」とされる。しかし、「ポピュラー音楽には芸術的価値は必要ない」ことが前提となれば、その点において「批評は必要ない」ということになる。
また、だいぶ前(おそらく1970~80年代)になるが、ポピュラー音楽について「良い音楽が売れるのではなく、売れる音楽が良い音楽なのだ」という言説があった。私の記憶では、当時人気絶頂であった歌手の沢田研二がそう語っていた他、音楽評論家の渋谷陽一もそれに近いことを語っていた〈*7〉。字義どおりに解釈することも可能だが、「芸術的価値」を至上とする「権威」への、二人が属する団塊世代らしい反発もあったのだろうと思う。
こうした「売れている音楽こそが、良い音楽である」という命題は、ポピュラー音楽の「売れ行き」が明快であった時代には、一定の「分かりやすさ」があった。レコードやCDの販売枚数であったり、『ザ・ベストテン』に代表される歌番組のランキングの上位の音楽を「良い音楽」と言い切ることができたからだ。
しかし、現在ではそうした明快なランキングはほぼ消失し、付け加えるならば日本国内においては「レコード大賞」などの賞レースも、過去の権威は失われている。
「売れている音楽」自体が可視化されにくくなっている状況下で、かつ、増田の言うように「ポピュラー音楽」の選択において「他人の価値評価」を重視する層が少なくなっているのであれば、ますます「芸術的価値」やそれを担保する「批評」の必要性も減じていくのだろう。私自身の願望は別として、ここまでの論考からは、論理的にはそう導出せざるを得ない。
論点③ ポピュラー音楽における「教養主義」は衰退していくのか
「教養主義」について、増田は「対象に関する知識を、何の役に立つのかわからないけれど、とにかくコンプリートしたい欲望」と定義している。
私自身は、ここでいう「教養主義」的な性質を明らかに有しており、「物事を体系的に理解したい」と望む質の人間であって、『自分が好きになるであろう曲に出合いたい人』、『音楽を体系的に押さえたい人』とは、まさに私自身のことであり、さらに言えば私はおそらく「批評に郷愁を感じ」てもいる(ただし若い時分に定期購読していた雑誌は『ミュージック・マガジン』ではなく『ロッキン・オン』だったが)。
私の「内面」をここまで見事に喝破されてしまえば、ここに付け加えることなど無いし、さらに言えば「教養主義が衰退していくのか?」という論点においても、「イエス」という結論が、直感的に推測される。
なぜなら「郷愁」とは過ぎ去っていくものに感じる感情であって、私がそれを感じているということは、「批評の衰退」を私が既に「嗅ぎ取ってい」るということであり、それは「教養主義の衰退」ともおそらく連動しているのだろうからだ。
一方で、ビジネス書のカテゴリーでは「教養」がブームになっているとの報道もあり〈*8〉、私自身も、川﨑大助の『教養としてのパンク・ロック』などは購入してたいへん興味深く読んたが〈*9〉、近年のグローバル社会全体を覆う「反知性主義」が拡大する趨勢を見ても、ポピュラー音楽における「教養主義」は廃れていくのだろうと予感せざるを得ない。
論点④ ポピュラー音楽に「批評」は必要か
そもそも朝日記事のタイトルにもなっている論点だが、記事中では明快な結論として「必要」とも「不要」とも明言されてはいない。
まず、論点について語る前に、「批評」という用語を定義しておく必要があるが、増田は「対象について根拠を示し、その価値付けを行う言説」としている。一般的な定義としてはこれに「解釈」を付け足すことも多いだろう(一方で、批評に関して論じた『反解釈』という歴史的名著も存在するように、論者の立場によって異なる多くの定義がある)〈*10〉。
その上で、増田が言うように、かつてポピュラー音楽の批評は「商業的なゲートキーパーあるいは広告として機能してい」た。
例えば、ポピュラー音楽ではないが、小林秀雄の有名な「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。」といった一節は、優れた批評の言辞であったと同時に、優れた「広告コピー」としても機能していたはずだ。あの小林の一文を読んでモーツァルトを聴きたくなった読者は、実際に多かったのではないだろうか。
つまり、ポピュラー音楽の「批評の必要性」を考えるにおいては、本源的な「解釈と価値づけ」の必要性と、「商業的なゲートキーパーおよび広告の機能」の必要性の二面から考える必要がある。
さらに言えば、「ポピュラー音楽というカテゴリーが、総体として何を目指すべきなのか」という目的論、その存在意義にまで射程を広げる必要性が生じる。
つまり、ポピュラー音楽は、総体として
・「芸術面での絶対的な高みを目指すべき」か、
・「人類全体の『心地よい感覚経験』増大への貢献を目指すべき」か、
・「産業として発展しGDP増大への貢献を目指すべき」か、
といったことだ。
もちろん、この問いは答えのない問いであって、ここで論ずるつもりもないが、「批評が必要であるか否か」を考えるにあたっては、「何のためか」という視点はまったく無視できるわけでもない。
そこで、仮の視点として、一人のポピュラー音楽のリスナーとしての私の個人的な立場から考えるならば、先ずは、
①「私自身の、心地よい感覚経験をより多く得たい」というニーズ
のため、そして、
②「私自身の、体系的な知識を得たい」というニーズ
をよりよく満たすため、私自身においては「批評は必要だ」という答えにはなる。
しかし、こう書きながらも実は私は、ここしばらく長い間「音楽雑誌」の定期購読はしておらず、ネット上でも定期的かつ積極的に「音楽批評」に接しているわけでもない。
近年で言えば、批評家の伏見瞬による『スピッツ論 「分裂」するポップ・ミュージック 』を(SNSでの情報から知って)読んだことと、北村匡平による『椎名林檎論 乱調の音楽』を(たまたま文芸誌での連載から知って)読んだことが、(本格的な)音楽批評との数少ない接触になる〈*11〉。
但し一方、まったく勝手な言い分ながら、私自身は「あるカテゴリーが、総体として質的に向上し、(その結果として)経済規模的に拡大するためには、『批評』という機能は絶対に必要だ」という確信のようなものがある。
上で書いた「カテゴリー」には、音楽や文学、映画や演劇、美術など広義の「芸術分野」に限らず、「スポーツ(競技・興行)」も含まれるし、今日でいえば「お笑い・演芸」なども含まれるはずだ。
スポーツで言えば、中継放送の「解説」や「観戦記事」、「お笑い」であれば「賞レースの審査コメント」などが「批評」に近いものであろうが、それらは、質・量ともに充分とは言えない状況だろう。
どのようなカテゴリーであれ、「批評」が充実することはそのカテゴリーの質的・量的(そして経済的)発展に資するはずだと私は信じており、市場におけるマネタイズなど難題はあろうが、各カテゴリーでの「批評」の発展を強く望んでいる。
そしてもちろん、ポピュラー音楽においても私は「良質な批評」を求めている。一方で、私はそれに対して積極的な(支払いを伴う)消費行動までは(頻繁には)していないという矛盾もある。
かつては音楽批評の主戦場(主な発表媒体)であった「音楽雑誌」を購読しなくなった(私のような)音楽リスナーに、どのように「良質な批評」を届けるのか。
論点は移動し、この先は、メディア論やマーケティング論になっていくのだが(それは実はビジネスパーソンとしての私の“本業”でもあるのだが)、そこにも現時点で明快な回答はない。
可能性が感じられるのは、一部の音楽批評家が積極的に進めているYouTubeチャンネルであったり、批評的なアプローチでの「テレビの音楽バラエティ番組」などであろうか〈*12〉。
テキスト情報であれば、上でも触れた「書籍」(特に一般的な書籍と比べて間口の広い新書フォーマット)は、まだまだ可能性があるかもしれない。
それぞれのメディア自体のリーチ(到達率)の限界であったり、動画で言えば短尺が、テキストであれば短時間で読み切れるボリュームが求められるトレンドへの対応であったりと、考慮すべき課題の多い中、できるだけ多くのリスナー(消費者)に、どのように「良質な批評」を届けていけばよいか。
ポピュラー音楽に限らず、あらゆるカテゴリーでの「批評」の質・量の向上に期待をして、拙稿を閉じることとする。
〈了〉
本稿の論点に含めなかった2つのテーマについて、以下の記事にて「雑感」として記した。ご興味あれば参照ください。
〔注釈〕
*1
ピエール・ブルデュー(1930-2002)によれば、「自分が好きで選び取った(区別した)はずの趣味というものが、実は社会構造によってはっきりと傾向づけられている」とのこと。
*2
wikipediaによる「ロック」のサブジャンル数は2024年11月30日時点。
ちなみに、1999年発行の『音楽ジャンルって何だろう』という書籍では、「ジャズ」は合計14のサブジャンル、「ロック」は25のサブジャンルに区分されていた。
*3
ここで言う「差異」は、前出のブルデューによる「ディスタンクシオン(distinction)=卓越性」に言い換えることが可能であり、「差異化の競争」とは、ブルデューのいう「象徴闘争」とも言い換えられれる。
また、朝日記事中で紹介されている書籍では、ブルデューを引いて以下のように言及されいた。
*4
「音楽の好み」が形成される成育歴上の経緯については、以下の考察がある。
*5
つい先日亡くなった詩人の谷川俊太郎は、「音楽」への憧れを語る際に、生前よく「無意味だから素晴らしい」と言葉にしていた。
*6
「芸術的価値」とまったくの同義ではないが、哲学の一分野である「音楽美学」という領域において「音楽の美しさ」は客観的に評価できるのか否かという論争があるらしい。参考まで、関連する書籍から引用しておく。
*7
渋谷陽一の「売れる音楽は正しい」論については、こちらのブログが詳しい。
*8
一般的な意味での「教養主義」にはこの記事が参考になる。
*9
『教養としてのパンクロック』の一部は、版元によるnote記事で読むことができる(おそらく一部)。
*10
英文学者の北村紗衣は、一般向けの新書において「批評とは解釈と価値づけ」であると述べている。
また、『反解釈(Against Interpretation)』は、1966年に出版された、スーザン・ソンタグの著作。日本の版元である筑摩書房のサイトでは「《解釈》を偏重する在来の批評に対し、《形式》を感受する官能美学の必要性をとき、理性や合理主義に対する感性の復権を唱えたマニフェスト」と紹介されている。
(※以上『反解釈』からの引用は2024.12.16追記)
なお、ソンタグの論は、近年のテキストでも引用されることが多い。
*11
『スピッツ論』については、下のnote記事も投稿している。
*12
YouTubeにも地上波の音楽番組にも私は特に詳しくないのだが、例としてはこういったチャンネルかと思われる(順不同)。
地上波番組については例えば、こうした番組がある。