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『音楽に批評は必要か』という新聞記事を読んで考えた4つの論点


朝日新聞DIGITALの『音楽に批評は必要か  サブスク時代、変わるリスナーと価値付けの意義』という有料記事を読んで、日ごろぼんやりと感じていたことがいくつも論点として提示されており、色々と気づいたこともあったので、そのうちの幾つかをここに書き残しておくことにした。

朝日の記事は、記者(河村能宏氏)が、ポピュラー音楽研究者で大阪公立大学の増田聡教授にインタビューする形式で掲載されている。


なお、当該朝日記事においては「音楽」「ポピュラー音楽」「ポップミュージック」の用語が混在しており、必ずしもそれらが明確に区分され定義されてはいないのだが、拙稿は基本的には「広義のポピュラー音楽」に関して述べるものとなる。


論点① ポピュラー音楽は、なぜアイデンティティに結びつくのか

増田は、現代の音楽は「個々人のアイデンティティに結びつく私的な『愛着の対象』」であり、「『自分にフィットするか』『似合うのか』という観点から選ばれ」ていると語っている。

増田 「こんにちの音楽は、皆で鑑賞するというより『個人で選んで身につけて持ち運ぶもの』になっている。いわば衣服に近いのです。その音楽が『自分にフィットするか』『似合うのか』という観点から選ばれる。

朝日新聞DIGITAL 2024.11.16

増田 「今の時代は、音楽という一つのカテゴリーではなく、無数の、文脈の異なるジャンルがあり、しかもそれらが聴き手のアイデンティティーと深く結びついています。

朝日新聞DIGITAL 2024.11.16


「アイデンティティ」というとやや大げさに聞こえはするが、「好きな音楽ジャンル」が「自分らしさ」を示す要素となっていることは、だいぶ以前からその通りだろう。

ある社会学者〈*1〉が言うように、個々人の「音楽の趣味」が社会構造によって傾向づけられている部分が大きいとしても、それが「自分らしさ」の一部だと感じている人は多いように思われる。では、なぜポピュラー音楽はアイデンティティと結びつくのだろうか。

「愛着の対象」がアイデンティティに結びつくことは、もちろんポピュラー音楽に限ったことではない。増田の言うように、人によっては「ファッション(スタイルや特定のブランドなど)」も当てはまるだろうし、「スポーツ(競技種目や特定のクラブなど)」も同様だろう。これを俗に言う「推し」という言葉に変換すれば、アイドルタレントやアニメーション作品のキャラクターにまで広がる。

こうした中で、ポピュラー音楽がアイデンティティに結びつきやすい理由を、増田は「(ポピュラー)音楽には無数の、文脈の異なるジャンルがあ」ることが理由だと考えているようだ。

たしかに、(広義の)ポピュラー音楽自体が、「音楽」という大きなカテゴリーのいちジャンルであり、その下部には「ロック」「ジャズ」といった中区分、さらにはより細かなサブジャンルへと細分化される。ちなみに「ロック」のサブジャンルはwikipedia上では59を数えた〈*2〉。

単純化するならば、細分化され無数のサブジャンルが存在することで、ポピュラー音楽は、他のカテゴリーよりも「自分らしさ=他者との差異」を提示しやすく、無意識の裡の「差異化の競争〈*3〉」の「武器」として使いやすいということもあるだろう。

これに加えて私は、もう一つの理由があるように思えている。増田は「文脈の異なるジャンル」という言い方をしているが、「文脈」という言葉を「意味論・観念論的に、音楽作品にまとわりつくもの」だと解するならば、それとは別の、音楽の持つ、より本源的な「ヒトに生理的な心地よさを与える」機能である。

いま「生理的」と書いたが、ひょっとすると「音楽の好み」は、だいぶ生理的なものなのではないかという感覚が私にはある。それは必ずしも持って生まれた生得的なものではないにしても、過度に文脈(意味や背景情報)に依存したものでもないように思う〈*4〉。

言い換えれば、「クラシック好き」と「ロック好き」の違いは、「純文学好き」と「エンタメ小説好き」の違いよりも、「ビール好き」と「ワイン好き」の違いや「甘党」と「辛党」の違いに近いのではないかという感覚である。

むろん、この「生理」(食物の場合で言うならば「味覚」と言い換えてもよい)にも、生まれながら(遺伝子レベル)の性質だけではなく、成育歴や文化資本といったことが影響してはいるだろう。

それでも、先日亡くなった詩人の谷川俊太郎が「音楽は無意味だから素晴らしい」と語っていたように〈*5〉、「意味」を超えて「生理的感覚」に直接作用する力の大きさが、音楽を他のカテゴリーの芸術と大きく隔てていることも事実であると思う。

それ故に、リズムやグルーヴ、音色おんしょくなどが異なる無数のサブジャンルが存在するポピュラー音楽が、「自分との結びつき」を強く感じさせ、その上にある文脈性とアイデンティティを結び付ける土台になっているもののように私には思えている。


論点② ポピュラー音楽に「芸術的価値」は必要か

増田は、音楽は「『自分にフィットするか』『似合うのか』という観点から選ばれている」と語っていたが、これは言い換えれば、一般的なリスナーにおけるポピュラー音楽の選好は「芸術作品としての価値」とは基本的に無縁ということでもあろう。

増田 「とはいえ、公的な評価にさらされる『芸術作品』というカテゴリーから、個々人のアイデンティティーに結びつく私的な『愛着の対象』に、音楽の社会的位置が移動しつつあることは明らかです。」

朝日新聞DIGITAL 2024.11.16

増田 「さらに音楽について言えば、消費のあり方が大きく変化し、音楽消費において他人の価値評価に依存する度合いが低下しつつあることも大きいと思います。」

朝日新聞DIGITAL 2024.11.16

多少穿うがった見方をすれば、消費者行動論において「衒示げんじ的消費」と呼ばれるような「『芸術的価値を分かっている自分』を見せびらかす」ことを目的として「芸術的価値の高そうな音楽を選ぶ」行動も行われているだろうが、それも「(芸術的価値を分かっている)自分に似合う音楽」を選んでいるのだとも言える。

そもそも「芸術的価値」の定義自体がやや困難ではあり〈*6〉、後述のように「批評」の機能の一つが「価値づけ」であるとするならば、その「芸術的価値」とは「批評」が付与するものとも言え、「作品に芸術的価値を与えるために批評が必要」とされる。しかし、「ポピュラー音楽には芸術的価値は必要ない」ことが前提となれば、その点において「批評は必要ない」ということになる。

また、だいぶ前(おそらく1970~80年代)になるが、ポピュラー音楽について「良い音楽が売れるのではなく、売れる音楽が良い音楽なのだ」という言説があった。私の記憶では、当時人気絶頂であった歌手の沢田研二がそう語っていた他、音楽評論家の渋谷陽一もそれに近いことを語っていた〈*7〉。字義どおりに解釈することも可能だが、「芸術的価値」を至上とする「権威」への、二人が属する団塊世代らしい反発もあったのだろうと思う。

こうした「売れている音楽こそが、良い音楽である」という命題は、ポピュラー音楽の「売れ行き」が明快であった時代には、一定の「分かりやすさ」があった。レコードやCDの販売枚数であったり、『ザ・ベストテン』に代表される歌番組のランキングの上位の音楽を「良い音楽」と言い切ることができたからだ。

しかし、現在ではそうした明快なランキングはほぼ消失し、付け加えるならば日本国内においては「レコード大賞」などの賞レースも、過去の権威は失われている。

「売れている音楽」自体が可視化されにくくなっている状況下で、かつ、増田の言うように「ポピュラー音楽」の選択において「他人の価値評価」を重視する層が少なくなっているのであれば、ますます「芸術的価値」やそれを担保する「批評」の必要性も減じていくのだろう。私自身の願望は別として、ここまでの論考からは、論理的にはそう導出せざるを得ない。


論点③ ポピュラー音楽における「教養主義」は衰退していくのか

「教養主義」について、増田は「対象に関する知識を、何の役に立つのかわからないけれど、とにかくコンプリートしたい欲望」と定義している。

増田 「教養主義とは、対象に関する知識を、何の役に立つのかわからないけれど、とにかくコンプリートしたい、音楽なら音楽の歴史を自分なりに体系的に把握し理解したい、という欲望です。かつての『ミュージックマガジン』を読むようなタイプの人は、そういう教養主義的な感覚をポピュラー音楽の領域で保持していたように思える。」

朝日新聞DIGITAL 2024.11.16

増田  「つまり、かつては、さきほど述べた消費の効率化みたいなものと、教養主義的なものが一種の共存を果たしていたところがある。『自分が好きになるであろう曲に出合いたい人』と、『音楽を体系的に押さえたい人』が、どちらも批評を頼るという構造があった。しかし、サブスク時代になり両者は分離してしまう。後者は「批評」に郷愁を感じるのかもしれませんが。」

朝日新聞DIGITAL 2024.11.16

私自身は、ここでいう「教養主義」的な性質を明らかに有しており、「物事を体系的に理解したい」と望むたちの人間であって、『自分が好きになるであろう曲に出合いたい人』『音楽を体系的に押さえたい人』とは、まさに私自身のことであり、さらに言えば私はおそらく「批評に郷愁を感じ」てもいる(ただし若い時分に定期購読していた雑誌は『ミュージック・マガジン』ではなく『ロッキン・オン』だったが)。

私の「内面」をここまで見事に喝破されてしまえば、ここに付け加えることなど無いし、さらに言えば「教養主義が衰退していくのか?」という論点においても、「イエス」という結論が、直感的に推測される。

なぜなら「郷愁」とは過ぎ去っていくものに感じる感情であって、私がそれを感じているということは、「批評の衰退」を私が既に「嗅ぎ取ってい」るということであり、それは「教養主義の衰退」ともおそらく連動しているのだろうからだ。

一方で、ビジネス書のカテゴリーでは「教養」がブームになっているとの報道もあり〈*8〉、私自身も、川﨑大助の『教養としてのパンク・ロック』などは購入してたいへん興味深く読んたが〈*9〉、近年のグローバル社会全体を覆う「反知性主義」が拡大する趨勢を見ても、ポピュラー音楽における「教養主義」は廃れていくのだろうと予感せざるを得ない。

増田: 「そういう快適さとは異なるものを音楽言説に求める消費者層も少数ながらやはり存在しています。例えば『あの曲を理解したい』『あのミュージシャンの人気が歴史的、社会的にどう位置づけられるかを知りたい』といったニーズは、批評ではなく学術的な研究、つまり価値評価を志向しない言説が担うようになってきたようにも感じられる。」
増田:「私自身も従事しているわけですが、ここ数十年でアカデミックなポピュラー音楽研究はとても拡大してきていて、研究書なども活発に刊行されるようになっているのですが、その背景にはこういった『価値判断の役割の低下』と『解釈や背景知識のニーズ上昇』があるのかもしれません。」

朝日新聞DIGITAL 2024.11.16


論点④ ポピュラー音楽に「批評」は必要か

そもそも朝日記事のタイトルにもなっている論点だが、記事中では明快な結論として「必要」とも「不要」とも明言されてはいない。

まず、論点について語る前に、「批評」という用語を定義しておく必要があるが、増田は「対象について根拠を示し、その価値付けを行う言説」としている。一般的な定義としてはこれに「解釈」を付け足すことも多いだろう(一方で、批評に関して論じた『反解釈』という歴史的名著も存在するように、論者の立場によって異なる多くの定義がある)〈*10〉。

その上で、増田が言うように、かつてポピュラー音楽の批評は「商業的なゲートキーパーあるいは広告として機能してい」た。

増田 「批評とは『対象について根拠を示し、その価値付けを行う言説』ですが、同時に広告としても機能します。例えば、私もマスメディアの依頼で書評を担当することがありますが、学術書であっても書評がメディアに載れば、宣伝になるから出版社が喜ぶわけじゃないですか。どんな批評であっても本質的には広告的な機能を備えているのです。」

朝日新聞DIGITAL 2024.11.16

増田 「レコードやCDが音楽メディアの主流だった時代、消費者が音楽を聴くためには支払いが必要だったわけですよね。聴き手は、効率よく『良い音楽』にたどりつきたい。そこでは音楽評論家は商業的なゲートキーパーとして機能していたのです。音楽批評が『聴くべき音楽』を提示することで、消費を方向付ける役割を果たしていた。『●●な基準からすれば、この音楽は重要です』という価値評価は、同時にバイヤーズガイドの機能も持っていたわけです。」

朝日新聞DIGITAL 2024.11.16

例えば、ポピュラー音楽ではないが、小林秀雄の有名な「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。」といった一節は、優れた批評の言辞であったと同時に、優れた「広告コピー」としても機能していたはずだ。あの小林の一文を読んでモーツァルトを聴きたくなった読者は、実際に多かったのではないだろうか。

つまり、ポピュラー音楽の「批評の必要性」を考えるにおいては、本源的な「解釈と価値づけ」の必要性と、「商業的なゲートキーパーおよび広告の機能」の必要性の二面から考える必要がある。

さらに言えば、「ポピュラー音楽というカテゴリーが、総体として何を目指すべきなのか」という目的論、その存在意義にまで射程を広げる必要性が生じる。

つまり、ポピュラー音楽は、総体として
・「芸術面での絶対的な高みを目指すべき」か、
・「人類全体の『心地よい感覚経験』増大への貢献を目指すべき」か、
・「産業として発展しGDP増大への貢献を目指すべき」か、
といったことだ。

もちろん、この問いは答えのない問いであって、ここで論ずるつもりもないが、「批評が必要であるか否か」を考えるにあたっては、「何のためか」という視点はまったく無視できるわけでもない。

そこで、仮の視点として、一人のポピュラー音楽のリスナーとしての私の個人的な立場から考えるならば、先ずは、
①「私自身の、心地よい感覚経験をより多く得たい」というニーズ
のため、そして、
②「私自身の、体系的な知識を得たい」というニーズ
をよりよく満たすため、私自身においては「批評は必要だ」という答えにはなる。

しかし、こう書きながらも実は私は、ここしばらく長い間「音楽雑誌」の定期購読はしておらず、ネット上でも定期的かつ積極的に「音楽批評」に接しているわけでもない。

近年で言えば、批評家の伏見瞬による『スピッツ論 「分裂」するポップ・ミュージック 』を(SNSでの情報から知って)読んだことと、北村匡平による『椎名林檎論  乱調の音楽』を(たまたま文芸誌での連載から知って)読んだことが、(本格的な)音楽批評との数少ない接触になる〈*11〉。

但し一方、まったく勝手な言い分ながら、私自身は「あるカテゴリーが、総体として質的に向上し、(その結果として)経済規模的に拡大するためには、『批評』という機能は絶対に必要だ」という確信のようなものがある。

上で書いた「カテゴリー」には、音楽や文学、映画や演劇、美術など広義の「芸術分野」に限らず、「スポーツ(競技・興行)」も含まれるし、今日でいえば「お笑い・演芸」なども含まれるはずだ。

スポーツで言えば、中継放送の「解説」や「観戦記事」、「お笑い」であれば「賞レースの審査コメント」などが「批評」に近いものであろうが、それらは、質・量ともに充分とは言えない状況だろう。

どのようなカテゴリーであれ、「批評」が充実することはそのカテゴリーの質的・量的(そして経済的)発展に資するはずだと私は信じており、市場におけるマネタイズなど難題はあろうが、各カテゴリーでの「批評」の発展を強く望んでいる。

そしてもちろん、ポピュラー音楽においても私は「良質な批評」を求めている。一方で、私はそれに対して積極的な(支払いを伴う)消費行動までは(頻繁には)していないという矛盾もある。

かつては音楽批評の主戦場(主な発表媒体)であった「音楽雑誌」を購読しなくなった(私のような)音楽リスナーに、どのように「良質な批評」を届けるのか。

論点は移動し、この先は、メディア論やマーケティング論になっていくのだが(それは実はビジネスパーソンとしての私の“本業”でもあるのだが)、そこにも現時点で明快な回答はない。

可能性が感じられるのは、一部の音楽批評家が積極的に進めているYouTubeチャンネルであったり、批評的なアプローチでの「テレビの音楽バラエティ番組」などであろうか〈*12〉。

テキスト情報であれば、上でも触れた「書籍」(特に一般的な書籍と比べて間口の広い新書フォーマット)は、まだまだ可能性があるかもしれない。

それぞれのメディア自体のリーチ(到達率)の限界であったり、動画で言えば短尺が、テキストであれば短時間で読み切れるボリュームが求められるトレンドへの対応であったりと、考慮すべき課題の多い中、できるだけ多くのリスナー(消費者)に、どのように「良質な批評」を届けていけばよいか。

ポピュラー音楽に限らず、あらゆるカテゴリーでの「批評」の質・量の向上に期待をして、拙稿を閉じることとする。

〈了〉

本稿の論点に含めなかった2つのテーマについて、以下の記事にて「雑感」として記した。ご興味あれば参照ください。


〔注釈〕

*1
ピエール・ブルデュー(1930-2002)によれば、「自分が好きで選び取った(区別した)はずの趣味というものが、実は社会構造によってはっきりと傾向づけられている」とのこと。

『ディスタンクシオン』のテーマを大まかに言えば、趣味とは何か、文化とは何か――趣味や嗜好という個人的な領域が、いかに社会と結びついているかです。あなたが好んで音楽を聴く人だとしましょう。中でもクラシックが好きで、とりわけバッハが一番だと思っている。それは極めて個人的な好みのように思われます。しかしブルデューは、自分が好きで選び取った(区別した)はずの趣味というものが、実は社会構造によってはっきりと傾向づけられていることを明らかにしました。

NHK『100分de名著 ディスタンクシオン』ゲストコラム(岸政彦)


*2
wikipediaによる「ロック」のサブジャンル数は2024年11月30日時点。
ちなみに、1999年発行の『音楽ジャンルって何だろう』という書籍では、「ジャズ」は合計14のサブジャンル、「ロック」は25のサブジャンルに区分されていた。

(目次より)
ジャズのジャンルを定義する
ケイク・ウォーク/ブルース/黒人霊歌/ラグタイム/ディキシーランド・ジャズ/ブギ・ウギ/スィング・ジャズ/バップ/クール・ジャズ/モダン・ジャズ/ファンキー/フリー・ジャズ/フュージョン/クロス・オーバー
ロックのジャンルを定義する
ロックン・ロール/ロカビリー/カントリー・ロック/フォーク・ロック/テックス・メックス/サイケデリック・ロック/AOR/グラム・ロック/プログレッシブ・ロック/ブルーズ・ロック/ハード・ロック/サザン・ロック/パンク・ロック/ニュー・ウェーブ/インダストリアル・サウンド/ヘビー・メタル/スラッシュ・メタル/グランジ/オルタナティブ/デス・メタル/ブラック・メタル/ハード・コア/インダストリアル・スラッシュ/ドゥーム・メタル/ゴシック・メタル

『音楽ジャンルって何だろう』みつとみ俊郎(新潮選書,1999年)P.3-4


*3
ここで言う「差異」は、前出のブルデューによる「ディスタンクシオン(distinction)=卓越性」に言い換えることが可能であり、「差異化の競争」とは、ブルデューのいう「象徴闘争」とも言い換えられれる。

ブルデューによれば、人々は他者よりも少しでも優位に立とうという「卓越化」を目指して無意識裡に闘争し合っているという。いわば、人々は、自分たちの好き嫌いや趣味を互いに押し付けあっているといってもよい。この闘争をブルデューは「象徴闘争」と名付け、そのプロセスを克明に記述していく。

NHK『100分de名著 ディスタンクシオン』

また、朝日記事中で紹介されている書籍では、ブルデューを引いて以下のように言及されいた。

結論的にいってしまえば、かつてポピュラー音楽は、いまよりもずっと明確に「卓越化」(ブルデュー)のための手段だった。もちろん現在でも、細分化された趣味の世界としてほかの趣味や表現の世界と比べても音楽は格段に差異化の機能を備えていると思われるが、政治・社会空間との相対的な位置関係という意味で、かつてポピュラー音楽は現在とは比べ物にならないほど象徴的な闘争のためのフィールドだった。それはおそらく、ミュージシャンにとっても、オーディエンスにとっても。

『音楽雑誌と政治の季節  戦後日本の言論とサブカルチャーの形成過程』(青土社)山崎隆弘 P.76)

もちろん、どんな音楽を好むかということは、現在もなお周囲との違いを示唆するうえでわかりやすい指標ではある。前述のとおり、現在音楽の供給と需要のスタイルはきわめて多様化し、われわれは以前よりもずっと容易に自分だけのミュージシャン、自分しか知らない音楽にのめり込むことができるようになったように見える。しかし、だからといって音楽がわれわれの存在を社会的に規定する重要な構成因と見なされているかといえば、そうではない。現在、ポピュラー音楽はあくまで「差異化のゲーム」をネタ的に楽しむための、代替可能なツールに甘んじている。現代では、ポピュラー音楽の存在はきわめて換喩的であり、隠喩的だ。

『音楽雑誌と政治の季節  戦後日本の言論とサブカルチャーの形成過程』山崎隆弘(青土社) P.77

*4
「音楽の好み」が形成される成育歴上の経緯については、以下の考察がある。

私たちは10代の間に、違う考え方、 違う文化、違う人たちの世界が存在することに気づきはじめる。そして自分の人生や個性、あるいは決意を、親から教えられたことや育ってきた道に閉じ込めなくてすむよう、違う考え方を試してみる。同じようにして、新しい種類の音楽を探す。特に西欧の文化では、どんな音楽を選ぶかは社会的に大きな意味をもつ。私たちは友達と同じ音楽を聴く。若くて、自己を確立しようともがいている間ならなおさら、自分も同じようになりたい人、どこか共通点があると感じられる人と、社会的な集団を作って絆を結ぶ。その絆を具体的に表す方法として、同じような服装をし、いっしょに活動し、同じ音楽を聴く。自分のグループはこんな音楽を聴いているけど、あいつらはあんな音楽を聴いている。こうして、音楽は社会的な結びつきや社会行動の結束を強める働きをするという、進化論的な考え方につながっていく。音楽と音楽の好みは個人とグループのアイデンティティを表し、それぞれを区別する目印になるのだ。
好きな音楽はその人の個性とつながりがある、その人の個性を表していると、ある程度までは言っていいだろう。それでも大体の場合、そうした好みも多かれ少なかれ偶然の要素に導かれて決まるものだ――どこで学校に通ったか、誰と仲良くしていたか、そしてその仲間がどんな音楽を聴いていたのかが、大きく影響する。

『音楽好きな脳 ~人はなぜ音楽に夢中になるのか』ダニエル・J・レヴィティン(ヤマハミュージックエンタテイメントホールディングス,2021)P.296

私たちの音楽の好みは他の種類の好みと同様に、以前の経験と、その経験の結果がよかったか悪かったかによっても影響される。カボチャでいやな経験をしたことがあると――たとえば食べたらお腹をこわしたとか――その後はカボチャを食べるのに慎重にならざるをえない。ブロッコリーを食べて、ほんの二、三回でも、とてもおいしいのに出会ったことがあるなら、新しいブロッコリーの料理を積極的に試してみたいと思うだろう。まだ食べたことのないブロッコリースープなども、試してみる気になる。一つのプラスの経験が、また別のよい経験をもたらす。
心地よいと感じるサウンド、リズム、音楽的味わいの種類は、人生における音楽体験のなかでプラスの要素をもった経験の延長であることが多い。好きな曲を聴くことは、他の心地よい感覚経験とよく似ているからだ。チョコレートや摘みたてのラズベリーを食べる、朝のコーヒーの香りを嗅ぐ、芸術作品や、愛する者が眠る平和な顔を見るなど、心地よい感覚経験はいろいろある。その感覚経験を楽しむと、よく知っている感覚と、よく知っていることがもたらす安全に、心地よさをおぼえる。私は熟したラズベリーを見て香りを嗅ぐだけで、おいしいであろうことも、食べても安全でお腹をこわしたりしないことも、予想できる。ローガンベリーをはじめて見たときにも、ラズベリーとよく似ているので、食べてみようと思い、安全だろうと予想できる。

『音楽好きな脳 ~人はなぜ音楽に夢中になるのか』ダニエル・J・レヴィティン(ヤマハミュージックエンタテイメントホールディングス,2021)P.308-309


*5
つい先日亡くなった詩人の谷川俊太郎は、「音楽」への憧れを語る際に、生前よく「無意味だから素晴らしい」と言葉にしていた。

「音楽は、無意味だからこそ素晴らしい。意味を引きずる言葉をどう無意味に近づけるか。それが詩の問題なのだと僕は思っている」

「谷川俊太郎さんと音楽 歌い継がれる『死んだ男の残したものは』」朝日新聞 2024.11.19


*6
「芸術的価値」とまったくの同義ではないが、哲学の一分野である「音楽美学」という領域において「音楽の美しさ」は客観的に評価できるのか否かという論争があるらしい。参考まで、関連する書籍から引用しておく。

第1章から何度も述べてきた通り、本書の特色は、心の哲学を使って音楽美学の問題に取り組むという方針にある。ここで、本書で取り上げた音楽美学の問題がどういうものであったか、そして、それを考察するうえで心の哲学の議論がどのように使われたかを確認しておこう。
最初に取り上げたのは美的判断の客観性である。ある曲がパワフルでカッコいいのか、それともクドくてダサいのかについて、他人と意見が食い違うことがある。さらに、自分と意見が合わない人にいくらその曲の良さを説明しても、納得してもらえないこともあるだろう。そうすると、ある曲がパワフルなのかクドいのかは、個人の趣味の問題だと思えてくるかもしれない。他方で、雑誌やネットの音楽レビューで書かれたことを信じてアルバムを買うという行動は、そのレビューに書かれた曲に関する美的判断が正しいことを前提としている。では、美的判断には客観的な正誤の基準があるのだろうか。それとも、主観的な感想の表明にすぎないのだろうか。
こうした対立のなか、本書は、美的判断には客観性があると主張する客観主義を擁護した。

『悲しい曲の何が悲しいのか  音楽美学と心の哲学』源河亨(慶應義塾大学出版会)P.191

まず、美的判断の客観主義がどういった根拠から支持されるのか、また、どういった根拠から否定されるのかをみることにしたい。
美的判断に客観性があると考える理由としては、たとえば、誰かが書いた作品のレビューを信頼したりしなかったりするということが挙げられる。有能な音楽レビュアーが書いた「この曲はダイナミックでパワフルだ」という解説をみてアルバムを買う場合(実際のレビューはこんなに表現力が乏しくはないだろうが)、なぜ購入したかといえば、その批評家が下した美的判断を信頼し、その曲を聴けばダイナミックさやパワフルさを聴くことができると考えているからではないだろうか。他方で、音楽の素人がその曲について何か言っても、あまりあてにしない。こうした違いは、美的判断には正しいものと誤ったものがあるという考えを前提としている。有能なレビュアーの判断は正しいが、素人の判断は多分間違っていると思われているということだ。もし美的判断が正誤を問えない主観的な感想でしかないなら、有能なレビュアーの解説や批評を熱心に読む一方で素人の意見はあてにしないという振る舞いの根拠が薄れてしまう。どちらも主観的な感想であるなら、片方だけを信頼する理由はないからだ。また、どちらも感想にすぎないなら、レビュアー同士がどちらの美的判断が正しいのかを争うことも無意味になるだろう。

『悲しい曲の何が悲しいのか  音楽美学と心の哲学』源河亨(慶應義塾大学出版会)P.34

*7
渋谷陽一の「売れる音楽は正しい」論については、こちらのブログが詳しい。


*8
一般的な意味での「教養主義」にはこの記事が参考になる。


*9
『教養としてのパンクロック』の一部は、版元によるnote記事で読むことができる(おそらく一部)。


*10
英文学者の北村紗衣は、一般向けの新書において「批評とは解釈と価値づけ」であると述べている。

批評というのは、何をするものなのでしょうか? これについてはややこしい議論がいろいろあるのですが、ものすごく雑にまとめると、作品の中から一見したところではよくわからないかもしれない隠れた意味を引き出すこと(解釈)と、その作品の位置づけや質がどういうものなのかを判断すること(価値づけ)が、批評が果たすべき大きな役割としてよくあげられるものだと思います。
美学の専門家で批評の哲学を研究しているノエル・キャロルは、批評というのは「記述、解明、分類、文脈づけ、解釈、分析」に「価値づけ」をプラスしたもので、価値づけは批評にとって不可欠だと述べています(ノエル・キャロル『批評について』 森功次訳、25頁)。キャロルによると批評理論というのはたいてい「解釈」の理論で、批評家というのは価値づけに明確に言及したがらないことが多いのですが、キャロルはこれに抗い、明確に価値づけを行わなくても暗に批評は価値づけを含むものだと考えています。

『批評の教室 ―チョウのように読み、ハチのように書く』北村紗衣 (ちくま新書)P.12-13

また、『反解釈(Against Interpretation)』は、1966年に出版された、スーザン・ソンタグの著作。日本の版元である筑摩書房のサイトでは「《解釈》を偏重する在来の批評に対し、《形式》を感受する官能美学の必要性をとき、理性や合理主義に対する感性の復権を唱えたマニフェスト」と紹介されている。

現代における解釈は、つきつめてみると、たいていの場合、芸術作品をあるがままに放っておきたがらない俗物根性にすぎないことがわかる。本物の芸術はわれわれの神経を不安にする力をもっている。だから、芸術作品をその内容に切りつめた上で、それを解釈することによって、ひとは芸術作品を飼い馴らす。解釈は芸術を手におえるもの、気安いものにする。

『反解釈』スーザン・ソンタグ(ちくま学芸文庫)P.23

今日要望されているのはどんな批評、いかなる作品論であろうか? 芸術作品とはいわく言いがたいもので、描写やパラフレーズは不可能である、と私は言っているのではない。描写やパラフレーズは可能である。問題はその方法である。作品を簒奪するのでなく、作品に奉仕しようとする批評は、どのようなものとなるのだろうか?
まず必要とされるのは、芸術の形式にもっと注目することである。内容に対する過度の関心がのぼせあがった解釈を呼びおこすとすれば、形式へのこれまでにない詳しい注目と徹底的な描写は少なくともそののぼせあがりを冷やし、黙らせるだろう。 必要なのは形式を描写するための語彙――かくあるべしと命令する用語ではなく、かくあると描写する用語だ。最良の批評とは(まことに稀少なものだが)、内容への考察を形式への考察のなかに溶解せしめる種類の批評である。

『反解釈』スーザン・ソンタグ(ちくま学芸文庫)P.30-31

芸術についてのあらゆる解説と議論は、芸術作品を――そしてひろげて言えば、われわれ自身の経験を――われわれにとってもっと実在感のあるものとすることを目ざすべきである。作品と経験の確かな実在感を薄めてしまってはならない。批評の機能は、作品がいかにしてそのものであるかを、いや作品がまさにそのものであることを、明らかにすることであって、作品が何を意味しているかを示すことではない。

『反解釈』スーザン・ソンタグ(ちくま学芸文庫)P.33-34

(※以上『反解釈』からの引用は2024.12.16追記)

なお、ソンタグの論は、近年のテキストでも引用されることが多い。

映画を、作家の思想を基に「解釈」してしまうと、画面に映るものがそれを象徴した“記号”に堕してしまうというのが、スーザン・ソンタグによる「反解釈」の指摘だ。そういった“意味性”を超えたところで画面を味わうことで、映像をより純粋なものとして享受しようというのが、その論旨である。

「黒沢清監督の前衛性を紐解きながら『Cloud クラウド』を解説 菅田将暉が見せた真骨頂」小野寺系(Real Sound,2024.10.09)

内容と様式をくらべれば、主題と形式をくらべれば、様式や形式のほうがずっと重要であることなど、わかりきっている。それなのに、文学批評や芸術批評や文化批評の大半は様式や形式、すなわちスタイルというものを語るスタイルをもってこなかった。

「松岡正剛の千夜千冊  スーザン・ソンタグ『反解釈』」松岡正剛(2003.01.20)


*11
『スピッツ論』については、下のnote記事も投稿している。


*12
YouTubeにも地上波の音楽番組にも私は特に詳しくないのだが、例としてはこういったチャンネルかと思われる(順不同)。

地上波番組については例えば、こうした番組がある。


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