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宮崎駿監督の全てを込めた映画『君たちはどう生きるか』(ネタバレあり注意)

(宮崎駿監督の今作の苗字の表記は宮﨑で「﨑」は「たつさき」。環境依存文字で表示されない場合があるので、便宜上従来の文字で記す。)

 監督・宮崎駿にとって前作『風立ちぬ』以来10年ぶりの長編映画という。そんなに経ったかと驚きつつ、以前にも増して宮崎駿らしさ全開の映画をわくわくと楽しんだ。

 物語の舞台は戦時中の日本。主人公は11歳の少年・牧眞人(まき・まひと)。夜空に響き渡るサイレンが不穏を告げ、一気に物語に引き込まれる。火災で病院が燃え、眞人は入院中の母を喪う。作中年度からみて空襲ではないが、空襲を思わせる緊迫感があり、前作『風立ちぬ』との連続性が伺われる。火事か空襲か年代から考えないと解らないくらい、この映画は観客に理解させようとはしない。説明抜きでも解る人間でなければついていけない。鑑賞後の観客の評価が賛否に大きく分かれたのはそういう訳だ。
 これまでの宮崎映画は画面に虹が出れば登場人物が「虹」と声に出して指さすなど、観客に確実に伝わることを第一にしてきた印象がある。今回はその配慮を捨てた。監督の本気が伝わる。
 映画はとても素晴らしかった。冒頭からの現実シーンの圧倒的な描写力。塔に入ってからの圧倒的な得体の知れなさ。少年を主人公として異世界での冒険と成長を描く「往きて還りし物語」として正統な冒険ファンタジーであるし、宮崎監督自らの人生を投影した物語の骨はある。題名を拝借した児童文学も作中で有効に働く。が、しかし脈絡も整合性も放棄して、想像力の赴くまま臆面もなく外聞もなく圧倒的に溢れ返る、怒涛の宮崎駿100%のイマジネーションの洪水。その豊かさ。アニメーションは話でもテーマでもなく、目に見える画こそ全てと言わんばかり。アニメーションのプリミティブな歓び。どこへ連れて行かれるのか先が全く読めず、その洪水に翻弄される無上の楽しさ。まるで宮崎駿という人のいつ果てるともない夢の中に放り出されたかのよう。『ポニョ』で既に整合性や辻褄合わせは捨てているし、『風立ちぬ』には夢幻と現実とがシームレスに繋がる快感があったが、今作はそれをほぼ全面に展開したかのよう。サギ男の姿を筆頭に、どうやったらこんなことを思いつくのだろうという驚きに満ち満ちている。
 82歳の作とは思えぬパワー。前作『風立ちぬ』は本当に素晴らしかったけれどそれでお終いにせず、溢れる創作意欲のままに帰ってきてくれて本当に良かった。
 エンドロールに記されたスタッフが圧巻だ。原画は殊に監督・作画監督クラス、美術も監督クラス、協力には日本有数のスタジオの名が並び、現在のアニメ界最高の手練れが揃って、もしかしたらこれが最後の長編映画になるかもしれない作家が生み出す発想を渾身の力を込めて実体化させていった様が見て取れる。その様が美しい。『風立ちぬ』で描かれた創作の世界の、今作はいわば新たな実践だ。『風立ちぬ』で「創作の持ち時間は10年」とされたその時間を文字通り力を尽くして作り上げた映画。そのありように感嘆する。

 映画冒頭の作画が本当に素晴らしい。息を呑むほど。ジブリの制作の常として頭から順に描き進めていると思われ、原画も作画監督も気力体力十分の万全の体制で臨んでいる充実が伝わる。火事を知った眞人が屋内の急な階段を四つん這いになって駆け上り、急いで着替えをする、人間の動作の作画が見事だ。
 病院へ走る眞人を包む人だかりの描写も凄まじい。人物の描き方も動きもいつものジブリとまるで違う。これは業界の異才・大平晋也氏の仕事。大平氏は他の宮崎監督作品にも参加しているが、常なら作画修正が施されて、ここまで画面に個性を焼き付けることはなかった。推測になるが、今作の作画監督である本田雄氏の裁量によるものが大きいのではないか。このシーンを見るだけで今作の宮崎監督がどれだけ作画を本田氏に任せているか、その信頼が伺える。
 戦争が激化し、眞人は父の再婚相手の夏子が暮らす母方の実家へと疎開する。夏子は亡き母ヒサコの妹で、姉そっくりの美貌。人力で引く輪タクで乗り付けた夏子の描写のひとつひとつがまた凄まじい。和装の仕草、体重と重心の的確な移動の作画。ここまででもうおなかいっぱいだ。
 途中で遭遇する出征兵士の見送り風景。兵士のたすきに本作の助監督「片山一良」氏の名が書かれているのが目に留まる。この映画ではこの場面や物資の乏しさ、学童の勤労奉仕、軍需工場から運ばれた戦闘機の風防、父親が口にする戦況などの断片のみで、戦争の直接的な描写はない。そこに、零戦を作っていても戦闘描写はなかった『風立ちぬ』と同様の矜持を感じる。戦闘機の風防は『風立ちぬ』同様に「美しい」と形容され、一貫したミリタリー好きの戦争反対論者である宮崎駿監督の姿を見る。
 疎開先の、広大で和洋折衷な屋敷の佇まいの見事さ。こうした魅力的な設定を生み出し使いこなす宮崎監督の才能が本当に好きだ。憧れさえ抱かせる裕福でノスタルジックな昭和の暮らし。その描写を支える美術と作画の巧みさ。
 夏子に仕える七人の小柄な婆やたちは『崖の上のポニョ』の老婆たちも思わせるが、それ以上にこれはもうディズニーの『白雪姫』の「七人の小人」(後に出て来るガラスの棺も)。『ハウルの動く城』でやはりディズニーの『ファンタジア』の1カットを再現してもいたが、宮崎監督の心に強い印象が刻まれていることが伺われて嬉しい。終始ごにょごにょと固まって蠢いている婆やたちの描写もあっけに取られる。一人だけ眼鏡をかけていたり、可愛らしい婆やがいたりとディズニー版を意識したと思えるキャラ設計も楽しい。煙草を離さぬ爺やは一見してジブリの鈴木プロデューサーか。囲炉裏の傍の布団に臥せっている老人は今作の制作中に亡くなった盟友・高畑勲監督だろうか。

 物語は怪しいアオサギの飛来によって一変する。リアルなアオサギから鷺の頭を被ったサギ男への変貌。醜くも滑稽でもあるその姿。私は実は2018年春に本作制作中の宮崎監督をジブリに尋ねた際にこのサギ男の絵を見せていただいてあらかじめその姿を知っており、その際もどこからどうしたらこのような発想が出て来るのだろうと仰天したものだが、知ってはいても、アオサギが人間の歯を剥き出し、上下のくちばしの間から人間の目が覗き、正体を現わすまでのその過程に本当に驚いた。知っていたからこそ余計に驚いたと言える。映画では鑑賞後にこの声を菅田将暉が演じていると知って、その巧みさに更に驚いたのだが。
 トリックスターであるサギ男は本作の下敷きになったと思しき小説『失われたものたちの本』で主人公を異界へ引き込む「ねじくれ男」が元と思われるが、『やぶにらみの暴君』の“鳥”や『ニモ』のフリップのイメージがあり、鼻が大きい容貌には「七人の小人」のグランピーやジブリ美術館の短編『パン種とタマゴ姫』のバーバヤーガの面影もある。怪異に見えて憎めず、観る毎に好きになる不思議なキャラクターだ。

 母が自分の為に遺した本『君たちはどう生きるか』を読み涙する眞人。彼が読んでいたのは、とある後悔に苛まれていた主人公コペル君が母の思い出話を聞き、級友と新たな友情を結ぶくだり。画面にきちんとその頁が映る。実の母を喪い、新しい母と打ち解けず、疎開先の学校にも馴染めずに自分の頭を石で打つ自傷行為に及んだ眞人の胸にこの本は如何に響いたことだろう。そして亡き母が自分に寄せる思いの深さが染みたことだろう。
 眞人は理想的な少年像の多い宮崎作品の中で異色の存在だ。理想像でなく市井の普通の少年を描くことは『ラピュタ』で、渡された貨幣を投げ捨てることが出来ない少年としてパズーを描こうとした試みがあるが、眞人の、父譲りの特権階級の嫌らしさを持ち、自らの悪意を隠さず自傷も厭わない少年像は衝撃だった。
 サギ男に誘なわれ、母と義母、消えた二人の母を追って眞人は禁断の扉を抜け(胎内回帰あるいは産まれ直しのメタファー)、婆やの一人であるキリコと共にこの世ならぬ「下の世界」に吞み込まれていく。
 変貌するアオサギの誘い、魚たちの呼ぶ声、眞人の全身を覆っていくヒキガエルの大群、偽物の母がとろりと溶け崩れていく様…。宮崎駿が見せる闇の部分、ダークファンタジーを司る黒宮崎にぞくぞくする。久石譲の音楽も張り詰めて取り分け素晴らしい。
 「下の世界」はアリスの不思議の国か神話の黄泉の国か。既に脈絡は失せる。この、塔の設定は宮崎監督の十八番。眞人の大伯父(祖父母の兄)のいる最上階からの上下構造。勿論ルーツは『やぶにらみの暴君』だが、和風な外観に宮崎監督が挿絵を描いた乱歩の『幽霊塔』の表紙が脳裡に浮かび心を衝かれる。表紙に描かれた燃え立つような着物の美女も夏子を思わせる。創作は繋がっているのだ。
 眞人が落ちたのは石造りの墓の前。墓の門には「我ヲ學ブ者ハ死ス」の文字。この文は武諺「似我者生 像我者死」からとの考察がされている。「師の教えを守りながらも創造を加える者は成長し、ただ真似る者は消えていく」の意。自らとジブリの後進、或いはアニメ界映画界での立場と同時に、演出家として自らの師である高畑監督に対する己の覚悟も重ねられていると思う。極めて自己言及的な言葉だが、とすると墓の主は。これも一切説明はされない。
 今作はこのような宮崎監督の自己を投影した要素が多い。眞人をはじめ登場人物の男性たちには多かれ少なかれ自身が投影され、私小説的な側面がある。一方、ヒサコ(ヒミ)、夏子、キリコ等の主要女性たちには、面立ちから病に伏した経歴、きりっとした気性など監督の亡き母の面影が重ねられている。眞人の父親は軍需産業を営む金満の俗物だがそれは監督自身の見た父親像でもある(俗物ぶりに木村拓哉の声が適役)。鈴木プロデューサーを思わせる爺やも含め、映画全体が監督のごく身近な人々で構成されている。常々言われる、映画の題材は半径3メートル内にあるのだ。
 凶暴なペリカンの群に襲われた眞人は若き日のキリコと思しき勇ましい漁師に救われる。死の海と呼ばれる海面を、さながら『紅の豚』の天へ舞い立つ飛行機の群れの如くに船の群れが漂い、黒い影の人々が佇む。濃厚に立ち込める死の匂い。
 キリコに教えられるまま得体の知れぬ大魚を捌く眞人。ぷっくりと膨れた腹の切り口からみるみる丸く滲み出る魚の体液と溢れ出るはらわた。生と死のせめぎ合いがエロティックでさえある。魚のはらわた、眞人の傷口からぼってりと滴る血液、塔へと向かう泥地に残る足跡、顔をジャム塗れにしてパンにかぶりつく眞人、溶け崩れる偽の母、等々、どろどろしたものへの執着も今作では一段と濃厚で、何とも言えぬ感触に包まれる。
 眞人を鼓舞する頼りがいあるキリコは監督の母の投影であると共にジブリの女性スタッフたち、取り分け宮崎・高畑両監督が戦友・同志と呼んだ色指定の故・保田道世さん、長く作画の右腕だった篠原征子さんの追憶も込められているだろう。もしかしたら東映動画の闘士だった奥山玲子さんも。皆、故人なのが悲しい。
 このキリコのキャラは一風変わって見える。これまで大人の女性は不二子やジーナのような美人か湯婆婆やドーラのような老婆の二極+ごく普通のひとだったが、キリコは普通にしてカッコいい。魅力的なキャラだ。このキリコという名はもしや『失われたものたちの本』で主人公を助ける「木こり」のアナグラムでもあるか。
 スタッフ編成的に言うならばハーモニーの名手・高屋法子さんはいてくれて本当に良かった。彼女の技術あってこその場面が生きた。色彩設計には逝去された保田さんに代わって沼畑さんと高柳さん、二人の女性が立ったが、結果的に成功だったと思う。制作中に宮崎さんとお会いした際に苦心されていたアオサギの体色もよく表現され、殊に女性キャラの衣服の色選びに落ち着いたセンスの良さを感じた。

 白く丸く、現世に生まれ出る前の存在であるワラワラは愛らしい。死と生が混然となった世界。宮崎駿の好みがひとつひとつ確認されて楽しい。これが他の作家なら大衆受けのするものを出してあざといとなるところがそうでないのは、描こうと思って描くのでなく、どこか頭の奥深くから自然と生まれ出るのが伝わるから。幾つになっても稀有な才能だ。
 夜空へ飛び立つワラワラ。遺伝子の二重螺旋のような軌跡を描いて。夢の中のような不思議な空間。そこへ襲い掛かるペリカンの群を謎の少女ヒミが花火で撃退する。ペリカンと共に燃え落ちるワラワラ。理不尽な世界と深遠な死生観。圧巻のイマジネーション。
 庭で瀕死の老ペリカンと出会う眞人。「ここは呪われた海だ」と言い、「翼が折れた、もう飛べぬ」と告げる老ペリカン。制作時点での宮崎駿の実感が込められた言葉だろう。アニメーションは美しくも呪われた夢。心身の衰えを痛感する日もあろう。「どこからか連れて来られて外へは行けぬ」というペリカンたちはジブリのスタッフの投影でもあるか。息絶えた老ペリカンを葬る眞人。その墓は宮崎監督の長いアニメ人生の、多くの先立った仲間たちへの弔いであり、償いの思いも混じってあるに違いない。
 キリコに促され、サギ男と旅立つ眞人。不思議なバディ感。人のように進化し、この世界に蔓延する巨大なインコとの遭遇。アオサギ、ペリカン、インコ。画面に溢れる鳥の意匠はどこから来たものか。呪いを自覚し、生まれる前の魂(アニマ)を食らうペリカンが創作者の隠喩なら、この世界で独自の文化を築いて増殖するインコたちは創作を娯楽として享受する大衆か。一方でこれら鳥の大群の登場に、鳥の作画を得意とした故・二木真紀子さん(『ラピュタ』のハトのシーン等を担当)が生きていたらどんなに嬉々として仕事に向かったかとの気持ちを抑えることが出来ない。
 インコたちが築いた世界は面白い。食欲旺盛。集団でお気楽に過ごす様子はまるで『どうぶつ宝島』のブタ海賊だ。螺旋階段を追って来た眞人たちをインコ大王が階段ごと切り落とす場面も漫画映画味が強い。もしも故・大塚康生氏や友永和秀氏のような作画で遊べるタイプのアニメーターが参加していたなら愉しき漫画映画の再来にもなっただろうが、既に監督自身にそうした指向は薄らいでいるとも思う。

 この映画では随所にこうした宮崎駿の過去作の数々を思わせる描写が頻出する。セルフオマージュとも言えるそれらは宮崎駿の集大成的でもあり、発想の原石がごろごろとした鉱脈を見ているような気がして楽しい。
 この映画は本筋に加えて、監督と周辺の人々の似姿、東映長編からジブリまで過去に関わった作品のコラージュ、逃した映画の実践(夢現が混然として目覚める『ニモ』など)、自分ならこう描くという見本(『思い出のマーニー』の湿地など。余談だが、湿地の先の屋敷に住む少女の姿をした亡き人が主人公を救うという骨子は『マーニー』そのものだ)、『風立ちぬ』から続くアニメ制作の仮託、美術や神話や異文化からのインスパイア、等々が積層した複雑な造り。異世界のスケールと位置関係も示されず、夢の中のような混迷に拍車をかける。
 本筋には監督自身もかつて感銘を受けて題名を拝借した吉野源三郎の児童文学が組み入れられ、全体はジョン・コナリー『失われたものたちの本』からの、大戦下に母を喪った少年が「ねじくれ男」の導きでダークな異界に迷い込む物語を下敷きとした構造。『失われたものたちの本』には歪んだお伽話が何編も挿入されているが、監督の過去作のコラージュはこれを意図的に倣ったものか。
 これらが混然としているのだから一度観ただけでは理解出来なくて当然。私も三度目の鑑賞で本筋が確かに通っていることに気づいた。ホフマンの『クルミ割り人形』に対する宮崎駿の言に倣うなら、一度目はクリスマスツリーの煌びやかな飾りに目を取られ、再見して分け入るうちにツリーの中心に幹があることに気づいたという訳だ。それだけとんでもないスルメ映画とも言える。一度観て不可解だった方も再度チャレンジしてみると印象が変わるかもしれない。
 とはいえ私もまだインコ帝国以降が判然としない。要素が多くて鑑賞力が保たないのだ。ヒミの家、夏子の産屋などとても印象深く、眞人の成長も伝わるのだが。

 大伯父は眞人にこの世界の引継ぎを迫る。彼の築いた塔の中の世界はさながらジブリ。自らの衰えを悟り、悪意の無い人間に引継ぎを迫る姿は宮崎駿その人か。血統は創作の志でもあろう。本を読み過ぎて…とは高畑監督も重なる。大伯父が示す13個の穢れなき石はこれまでのジブリの宮崎監督作品と読み解く人もいるが、どうか。後継を望んで得られない境遇はそのものではあるが。
 眞人は自傷の痕を自分の悪意の印と示し、大伯父の求めを拒否する。悪意を自覚し共にあること。それはかつて漫画版の『ナウシカ』で、墓所の主に対し「命は闇の中でまたたく光だ」とし、清浄の地でなく汚濁の中で生きることを選び、「生きねば」と結んだくだりそのものではないか。『ナウシカ』の続編映画は世間で熱望されているけれど、その必要はない。ここにあるのだから。一貫してあるのだから。第一、宮崎駿以外の誰にもナウシカを描けはしない。
 乱入したインコ大王の手で世界の均衡は崩壊。軍人嫌悪が著しい。脱出を図る眞人たち。扉を 開ける/閉める 映画でもあった本作。自分を丸ごと受け止め、自分の扉から現実に向かえ、友と共に。そういうことだろう。「往きて還りし、産まれ直しの物語」も見事に完結する。
 別れ際にヒミは将来眞人を産むのを素敵と言い、やがては火事で命を落とすのを承知で自分の世界へと帰って行く。眞人にとって最高の自己肯定であり、監督自身の臆面も外聞もない究極の願望の吐露。多分、宮崎駿は長年背負っていた荷物を、母という重荷を自分の手で下ろしたのだ。(最初、母という呪縛をと書いて止めた。呪いであると共に作家にとっての推進力でもあったろうから)。
 ヒサコは眞人と同じく母を亡くした少女時代の失意から塔に呼び込まれ、ヒミとしてファンタジーの世界に籠っていたのだろう。母は生きているとアオサギの言ったことは本当だった。ヒミは未来の息子と出会うことで命の循環を受け入れたのだろう。母の遺した本が眞人の心を救い、成長した眞人の存在が若き母を救った。美しい円環構造。そして母の役割は妹の夏子へと受け継がれる。
 眞人が戻るのは戦争が激化する世界。映画の外の現実にも、映画の制作当初には思いもよらなかっただろうロシアとウクライナとの戦争が起きている。内戦も続いている。映画の内と外がリンクする。そのような状況でも「生きるに値する」と信じる世界を次の世代に託す宮崎監督の思いが伝わる。本来の自分を取り戻し、浄化され解放されて快活に笑う夏子。一緒に飛び出した大量のインコのフンに塗れながら汚濁の中で生きること。漫画版『ナウシカ』のラストそのものだ。
 「あばよ、友達」と飛び去るアオサギ。まんざらでもなさげに。アオサギが言ったように塔の世界の記憶はやがて消えていくだろう。でも、思い出せないだけで、あったことはなくならない。銭婆が千尋に言ったように。
 戦争が終わり、東京へ戻る一家。その後の眞人の生活は描かれず映画は終わる。この先は君たちの番とバトンを渡すかのように。宮崎監督が自分を曝け出した映画。自分はこう生きた、君たちはどう生きるか、と。
 ポスター1枚以外に何の宣伝活動もなく公開されたこの映画。既に様々な言説がされているが、自分が見たいものをそこに見る、鏡のような映画でもある。

 82歳の作とは思えぬ若々しさ。溢れるイマジネーション。長期間制作の付きものとして、後半の作画にやや精彩が欠いて見えるが、これもやむを得まい。人間は老いも若きも疲れるのだ。
 今作を宮崎駿ならぬ宮「﨑」駿にとっては監督第一作という見方がある。微笑んで受取りつつ、この先を待つ。長編映画はともかく、ジブリ美術館の短編ならば十分に可能性があると思う。もっともっと監督の生み出す世界と共にありたいと願う。

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