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保育と社会福祉を漫画で学ぶ 「進撃の巨人」と思春期課題 その1

「名作」と呼ばれる物語は、多義的な内容をもつことが多いものです。
多義的とは、様々な解釈ができるということ。
神話や伝承などは不思議なお話なのに、なぜか心に残りませんか? 
諌山創さんの「進撃の巨人」も様々な立場の読者が、それぞれの視点で解釈することができるのに、「正解」らしきものにたどり着くのが難しい名作のひとつです。
謎の多い暗示的な物語の構造が、世界的ヒットの理由のひとつなのでしょう。

筆者は「進撃の巨人」を思春期の課題がたくさん描かれた作品だと考えています。
一種の寓話のようなものとして読みました。
しかしこれも多義的な解釈のひとつにすぎません。
むしろ、独自の主張と言った方がよいかもしれません。
筆者なりの解釈から、思春期の課題を重ねた「進撃の巨人」を語ってみましょう。

「進撃の巨人」の主人公は少年エレン。
三重の城壁で守られた世界に住んでいる。
突然出現した「巨人」によって、人類は滅亡の淵に立たされ、壁の中に逃げ込んで100年が経った。
壁の外に広がる世界に憧れるエレンは、外に出られる調査兵団に憧れる。
ただ、かれらは壁外調査のたびに多数の死傷者を出し、壁内の住民から疎まれていた。
エレンが10歳になったとき、壁を超える大きさの巨人が現れる。
壁が破られ、巨人の群れが侵入することに。
人類は第二の壁まで撤退するが、エレンの母親は彼の目の前で巨人に喰い殺されてしまう。
エレンは幼馴染のミカサ、アルミンとともに調査兵団に入る。
5年後、また突如現れた巨人と戦うことになったエレンは、巨人に喰われてしまう。

その後、巨人と戦う調査兵団の前に、おかしな動きをする巨人が現れる。他の巨人に襲い掛かり、殺す巨人だった。
戦いの末に力尽きた「巨人を殺す巨人」のうなじから現れたのは、喰い殺されたはずのエレンだった。
エレンは不安定ながらも、自分の手を噛み切ることで巨人化する能力をコントロールできるようになり、調査兵団のリヴァイのもとで監視と警護を受けることになる。
(第1巻~第5巻より)

壁の中に閉じこもる人類、人類を喰う巨人、自傷による巨人化…。
こうした設定が思春期を生きる人の心象風景に重なっているのではないか、と筆者は考えます。
思春期には心身が爆発的に成長して性的衝動が高まりますが、同時に心は成長に追いつかず、子どものままでバランスを崩しやすく、大人の世界への憧れと忌避感が同時に現れます。
摂食障害が始まりやすいのもこの時期です。
成長に伴って体形が変化すること、自分の外見の理想と現実が一致しないことなどから、認知が歪みはじめ、食行動の異常が起こることは少なくありません。
巨人に喰われることへの恐怖や、主人公エレンが喰われることによって巨人化するという設定は、摂食障害や大人の世界への忌避感を表していないでしょうか。

人類を喰う巨人は無表情、あるいは同じ表情のままで人類に襲い掛かり、喰い殺すのです。
巨人は人類を喰っても消化できずに吐き出します。
巨人が存在する理由も、攻撃的な行動の意味も分かりません。
「この世界は残酷だ」というフレーズが、「進撃の巨人」の前半部分で繰り返されます。
巨人が象徴しているものは何でしょうか。
私たちの現実世界に置き換えれば、いじめや虐待のように、なぜなのか理解できないまま暴力を振るわれ、自由を奪われるような出来事を表しているのかもしれません。
しかしそんな世界に、私たち読者は、大人として適応していきます。

「大人になると皆、死んだような同じ表情になって、朝から晩まで楽しくもない仕事をする。そんな大人になんか、なりたくない」。
思春期に、そんな気持ちになった経験はありませんでしたか? 筆者にはありました。
思春期を引きずったまま、20代、30代、あるいは一生を過ごす人も決して少なくはありません。
嫌いな大人社会に囲まれている不快感、そんな大人に自分の心身が近づいていく不安、こうした思いは緊張をもたらします。
この不安感や緊張は「進撃の巨人」全体に漂っています。
思春期を経験した私たち読者の共通の記憶が、物語に引き込まれるしかけになっているように思われます。

思春期の心身の混乱を生きる人たちは、身体的な衝動が高まり、自分をどう扱っていいか分からない混乱状態になることが少なくありません。
そんな人たちにとって自傷行為は、「死なずに済む」ための有効な手段となることがあります。
自分自身や周りの大人への受け入れがたい気持ち、不安や怒りなどの暴走を、自分に向けて少しだけ吐き出すことが自傷行為なのだと思います。
全部を吐き出してしまうと感情が爆発してまわりのモノを壊したり、家族や友人を傷つけたりしてしまいます。
自分の命をかけた危険な行為に及ぶかもしれません。

「進撃の巨人」前半では、エレンは自傷によって巨人化し、その能力を人類のために使うことを試みます。
エレンははじめ、巨人化できる能力をコントロールできず、幼馴染のミカサを殺してしまいそうになります。
その様子を見た調査兵団はエレンに対して、「貴様の正体は何だ? 人か? 巨人か?」と追いつめます。
エレンは、自分でも自分の状況が分からず混乱しながら「人間です」と答えます。
エレンは疑いをかけられながらも、巨人化できる能力を人類のために使うことを約束します。
思春期を生きる人たちが、大人になっていく心身をコントロールし、周囲の世界に適応しようとする姿が描かれているように読むこともできそうです。

壁の秘密を知る血族の一員が、偽名を使って調査兵団に身を隠している。
無理をしてでも周りの期待に応えようとする良い子のクリスタ。
対照的に皮肉屋のユミルがいつもそばにいる。
巨人に追いつめられて塔に逃げ込んだ調査兵団のピンチを救ったのは、巨人化できる能力を持っていたユミルだった。
彼女はクリスタを守るために巨人化して戦うが、襲いかかる巨人が多すぎて捌ききれない。
自分一人なら巨人化して逃げられるはずなのに。
クリスタはユミルに「こんなところで死ぬな! 自分のために生きろよ!」と叫ぶ。

領主レイスの妾の子であったクリスタは、母を目の前で殺されていた。
母の最期の言葉は「お前さえ産まなければ…」だった。
クリスタは自分が生きている意味が分からなくなり、周りにあわせて良い子として過ごしてきたのだった。
(第9巻~第13巻より)

皮肉屋のユミルも良い子のクリスタも、実は「自分が生きている意味がわからない」共通点を持っています。
ユミルは実は物乞いの子で「ユミル」という名前を与えられて利用された過去を持ちます。
過酷な運命に翻弄されますが、周りの人たちが幸せになるならと耐えてきたのでした(第22巻)。
ユミルは命がけで戦う場面で「もし生まれ変わることができたら、今度は自分のためだけに生きたい」と呟きます(第10巻)。
ユミルもクリスタも(実はエレンも)、親や周りの大人たちの希望のままに生きることを選択したものの、「自分らしく生きていない」ことに苦しみ、自分に絶望します。

思春期を生きる人は、親や周りの大人から教えられてきたことに疑問を持ちはじめ、自分の目で確かめたくなります。
しかし世界には、自分だけでは分からないことがたくさん存在するのです。親や大人に疑いの目を向けると、今度はこれまでに得た知識や自分の経験まで疑わしくなっていきます。
自分が何なのかが分からなくなり、自分が生きている意味がつかめず、自暴自棄になってしまいます。

成熟を拒否したい気持ちは、ときに引きこもりにつながります。
部屋の中に閉じこもれば、安心できるように思えますが、部屋の外には不安をもたらす大人やかれらが生きる世界が相変わらず存在します。
引きこもる人は、外部の助けなしには生活ができない状態になります。
家族や他者に依存しながら、自分自身の独立を保とうとする試みは不安定です。
心身のバランスを崩すこともあります。
一旦、まゆのなかに閉じこもり、活動を止めて力を蓄え、徐々に外の世界との繋がりを取り戻していくプロセスは、思春期を生きる人たちによくある姿です。

壁の中に引きこもる人類という設定は、筆者には、思春期の不安や恐怖心から閉じこもり、幼少期に信じた大人の教えを守り続ける子どものように見えます。
「外の世界は危ないから、家の中だけで遊びなさい」と強く教えられ、親に抱え込まれた子どもです。
しかし壁があるということは、壁の外が存在します。
引きこもり続ける限り、外の世界は気がかりなものとなります。
自分の意思で生きることは、親の言いつけに背くこと。
見せかけの安全な領域から離れ、壁の外に一歩を踏み出すには勇気が必要です。

勇気を発揮できずに引きこもる子に対して、接触しようと試みる大人は、子どもの目から巨人のように見えないでしょうか。
ふいに表れて外の世界の存在を知らせる大人は、教師かもしれませんし、カウンセラーかもしれません。
引きこもる世界に風穴を開ける存在がいることで、引きこもりを脱することができる場合があります。
ですが、引きこもる子どもからは、その存在は恐ろしく見えるかもしれません。

クリスタは、父レイス卿から巨人化する薬を受け取り、自分に注射してエレンを喰うことを求められる。
エレンの父グリシャは、レイス家の巨人の力を奪ったうえで自身をエレンに喰わせ、その結果、エレンは巨人化する力を得たのだった。
自分の存在理由に絶望したエレンは、「オレはいらなかったんだ」と涙を流す。
クリスタも父の願いのままに行動することを迷い、薬を投げ捨ててしまう。クリスタはエレンに、「自分なんかいらない、なんて言って泣いている人がいたら…そんなことないよって伝えに行きたい」と言い、エレンを助けようとする。
二人はともに、自分の判断で生きることを選ぶかに見える。
(第15巻~第16巻より)

自分で進むべき道を考え、自分らしく生きることを選ぶことは簡単なことではありません。
大人は責任をもって自らの判断の結果を負うことを求められます。
ときには自分で負いきれない結果が訪れることもあり得ます。
しかし、「自分の判断」だと信じて選んだ道は、家族や身近な人の影響をも排除して、本当に自分ひとりで考え、選んだものと言えるのでしょうか。
こうした問いを含む「進撃の巨人」後半については、引き続き次回で考察しようと思います。
世界観や歴史観を問う展開が待っています。
クリスタの本当の名前はヒストリア。
ここにも暗示的なものが示されているようです。

紹介作品:
諌山創(2010-2021)『進撃の巨人1~34巻』講談社

※本エッセイで紹介した作品中のセリフなどは、読みやすくするために、意図を損なわない程度に改変している場合があります。

本エッセイの初出は「対人援助学マガジン」53号(2023)です。https://www.humanservices.jp/magazine/number53


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