Aoi 碧

つくる人

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最近の記事

7人目の迷子、なもなき

 7人目の孤児である「なもなき」は左手であることを悟った。  なもなきは迷子の子だった。ある日、ふと現れたあの子は小さく震えており、それにアオが寄り添ったイメージを覚えている。しばらくして、アオがその子を導き育てるような気がしたのだった。  一度なもなきに絵を描かせてみたが、あまりしっくりこなかった。なもなきが描いているというよりかは、まだアオイの意志でなもなきに描かせているという感じがあった。しかし、その描かせている間に、右手の小指の感覚がいつもと違っていた。右手の小指の

    • 着任後の教育研究に対する抱負

       私が人生のうちで成し遂げたいことは,生きていくための知識と技術について学び,実践し,その学びを他者に伝えることです。そのために,人々がどのようにして自然と共生してきたのか,今後どのようにして生活していくのかを人々の文化や歴史の観点も踏まえて研究し続けたいと考えています。そして,私の貴学への応募理由は,「観光と環境学」という,まさに人間界と自然界の共生を考えなければならない領域で,私の本望である「将来の社会を担う人材の育成」という目標が達成できると考えたからです。  私は大学

      • 内なる5人目登場、草の根を奏でる

        盛り上げ隊長ノギが身体の中に入店してきた話。これはギャグ。フィクションではないが、ギャグ話です。 今日は朝6時半に目が覚めて、7時過ぎまでベッドの中でマゴマゴしていた。頭はぼーっとしていたが、お風呂に浸かりたいと身体が言うので、起きてお風呂にお湯をためた。 昨日は自分の中に3人の人格アオ・アオイ・ハマダがいることに気づき、その子たちが苦手とする事務の問題を解決するのにジェイミーという新たな人格を雇うことにしたのだった。 そしてお風呂に浸かりながら、その4人全員で今日のス

        • アオとアオイとハマダ、そして新たな雇われ人

          今日もまた朝5時半に起きてお風呂に入った。 湯船に浸かりながら、ふとわかったことがある。 私の中には3人の人格がグラデーションとなって存在していることに。 私は昔、特に高校生の時、とても面倒くさがり屋だった。 何をするにも自信がなく、それを隠すために「面倒くさい」という言葉で何もしてこなかった。「面倒くさい」という言葉は自身の行動を制御することができ、勇気がいらず、とても便利だった。その裏には失敗への恐怖があり、失敗することは恥ずかしいこと、死に値することだと無意識のうちに

        7人目の迷子、なもなき

          「龍蛇神のお導き」(出雲の旅レポート②)

          前回のレポートはひとつ前の投稿へ。 <4月3日> 旭日酒造の酒米を作っている農家Mさんのところで友人のYさんと音楽家のBさんとともに1泊させてもらい、朝に下山した。この日は雨が降っていた。出雲は和歌山と違って、山の中でも木々が邪魔することなく空が開けていた。 車を走らせていると、両側に畑が広がる場所に出た。目の前には林が見え、その林を取り巻くように雲が広がっていた。その雲の様子を見て、Yさんが「雲の形を見て龍みたいって言ったりするけど、大抵は全然龍じゃないなって思う。け

          「龍蛇神のお導き」(出雲の旅レポート②)

          「発酵という共同体の光」(出雲の旅レポート①)

          4月1日〜5日までの5日間、島根・出雲の「旭日酒造」へ蔵仕事体験に行った。その酒造の在り方を見て、自分の中から出てきた言葉は「星をつくる船」だった。今回は、その不思議なニュアンスを得るに至った流れをレポートしていく。 <4月1日> きっかけは、旭日酒造で蔵仕事に入っていた友人のYさんが私の醤油づくりレポートを読んで「碧さん、麹に呼ばれてますよ!」と誘ってくれたことだった。そんな誘い文句は聞いたことがなく「呼ばれてるなら仕方がない」と思って行くことにした。 この日は博士論

          「発酵という共同体の光」(出雲の旅レポート①)

          風について、窓について

          昨日から風について考えていた。一昨日の夜から早朝にかけて、風が非常に強かったから。 風は、それを受けるモノがいなければ風の認識を持たない。常に対象物がいる。対象物が「風が強い」と感じるだけ。風自体はその強さを知らない。 風はしゃべらない。それを受けたモノがその風の強さを語るだけ。風の強さを語った瞬間に、風はもうそこにはいないのだ。 眠れぬ夜、風吹きすさぶ音を聴きながらそんなことを考えていた。そして、早朝5時、キングクリムゾンの『I talk to the wind(風に

          風について、窓について

          聞こえない世界

          先週火曜日から、右耳が正常に聞こえない。 何かが詰まっている、あるいは膜が張られているような感覚。 目を閉じると、右側にポッカリとした穴が。 世界の一部が切り取られたみたいに。 空虚が広がっている。なんて。 ------ 今日は知り合いの写真家・小谷玄哉さんの個展『ジャカルタ路地散歩』へ。 写真を撮る人は世界の見え方が違っているようだ。 静と動を捉える、一筋一筋がやわらかな。やさしいフォーカス。 ジャカルタの日常を切り取る非日常。 小谷さんが切り取ったその瞬間には

          聞こえない世界

          パフォーマンスからみえたこと

          7/7 七夕 ナニワ・ギター・エクスプレスの一員としてギャラリーカフェ・キリンでパフォーマンスを行った。満員御礼。来てくださった皆様、キリンさん、お身内の方々、ありがとうございました。 やっている音楽について、いつも不安定な気がしていた。 「どんな音楽やってるの?」って聞かれても 「む」と考えあぐねてしまう。 音楽だけじゃなくても、自分のコンセプトを見失うことは多分にあることだ。 ------ ロバート・フリップは名前、タイトル、コンセプトをとても重視している。

          パフォーマンスからみえたこと

          桜談義の妙:長保寺

          世界が眩しい。家を出た瞬間にそう思った。 それは日光のせいだったけれど。 最近は言わずもがな春を感じることが多い。 ------ 4月8日はお釈迦さまの誕生日。花祭り。ゼミ。教授からのお誘いで桜を観に行った。 和歌山県海南市下津にあるお寺、長保寺。 国宝の建築物を囲むピンクのお花。 前の前の住職の趣味で、寺院の四季を彩る花々を植えられたそうな。 花祭りが桜の満開時に重なるのは数年以来だという。桜の淡さを感じながら、教授が桜談義をしてくれた。 ------ 去年

          桜談義の妙:長保寺

          ドイツからの帰国:コースのメモ

          ドイツ、ハノーファーでの18日間のコースが終了した。Berlin Guitar Ensembleのパフォーマンス&レコーディング・プロジェクト。9月中に文章にして、脳内整理を。 ーーーーーー コース期間は9/7〜9/23まで。エルナン・ヌニェスをディレクターとし、教会で8回、クラブで1回パフォーマンスを行った。 コースの参加者はドイツ、オランダ、イギリス、アメリカ、カナダ、ロシア、アルゼンチン、そして日本出身者で構成された。総勢13人うち1人がサウンドマン。 ーーーー

          ドイツからの帰国:コースのメモ

          ススキからも鼓舞激励:ドイツへ向けて

          まさに気候変動の賜物といった天候が続く中,いそいそと9月ドイツ・ハノーファー行きの準備を進めている。 そう,Guitar Circle関連のコースへ参加するためだ。コースへの参加はこれで3回目となる。ニュージャージ,コルドバ,そしてハノーファー。(実際のところ,ロバート・フリップ主宰のGuitar Craft/Guitar Circleは2015年10月のコースでコンプリートされたので,今回のコースは直属のGCコース扱いにはならないが) 今までのコースは(実に運良く)他の

          ススキからも鼓舞激励:ドイツへ向けて

          ナンだかな日

          風強いなか、いろいろな準備に追われている今日この頃。 明日の発表資料作りに精を出していたが、思い通りにいかない。自分の計画力のなさにほとほとあきれるばかり。大量生産の末に生み出されたキレ味の悪いナイフのような表現しかできないことが何とも情けない。 そんな日々の重さをいだくなか、癒しとなるのは異国の地。 今日も今日とてインドカレー屋へ行く。 ------ よく通っていたうどん屋が知らぬ間に看板を下ろしており、そのショックから衝動的に入ったお店。そこで食べた日替わりカレー

          ナンだかな日

          自分の顔

          このところ,春を感じることも多くなってきたけれど,今日は雨がひどく降っていた。そんななか,私は飛脚となり,学会誌への投稿論文を先方へ届けてきた。 半月前,卒論すらまだ完成していなかったにも関わらず, 今日締め切りの論文について,教授から「出さんのか」という言葉が。 たくさんあるデータをまだ分析できておらず, 卒論も書き終わっていなかったため,判断を先送りにしていたが, 悪癖というか,そのときの勢いで「出します」といってしまった。 専門知識や語彙力の不足のもと,連日の徹夜

          自分の顔

          枠組みのない知的好奇心をつなぐ媒体「博物館」

          自ら進んで博物館や美術館へ訪れるようになったのは高校生になってからだ。 そこでみられた資料や作品は,学芸員や作家だけでなく様々な領域の人が関わった証として存在していた。 展覧会自体がその博物館の「表現」であり,その空間がいわば博物館のつくり上げた「作品」なのかもしれないと無知ながらに思い,そういった空間がこの上なく好きだった。 ------ ミュージアムの語源はMusaという知的好奇心の神で,ミュージアムはそういった神が居られる場所,美神の館のことである。 知的好奇

          枠組みのない知的好奇心をつなぐ媒体「博物館」

          近代以前に憧れる近代的シコウ性を持った現代人

          導入として,先月,我が大学に来校された劇作家・平田オリザの著書から。 平田オリザ『演劇入門』より(一部抜粋)  テーマがあり、テーマを伝えたいという意志があり、それを世界や人間に投影し、観客がそのテーマを受けとるというのが、近代芸術の基本構造である。  なぜこれが近代に特徴的なことなのかは、近代以前の、まだ宗教儀式と芸術のあいだに明瞭な区別がなかった時代と、近代以降を比べてみれば明瞭である。近代以前の共同体のなかには常に「五穀豊穣」「家内安全」といったテーマがあった。しかし

          近代以前に憧れる近代的シコウ性を持った現代人